2018/08/31
ペリクレス時代
ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)
ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、神武天皇の皇后である。
神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神系と国津神系に分かれた系譜が、また1つに統合されることになった。
『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。
『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)としている。
皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは皇后の出身氏族が製鉄と深い関係がある出雲(安来市圏域、安来市、横田町、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成『古事記参究』素行会(1986年)など)。
両親
古事記
『古事記』では、三輪大物主神(スサノオの子孫、大国主の和魂とされる)と勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘である。
勢夜陀多良比売が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子がヒメタタライスズヒメである。ホトを突かれてびっくりして生まれた子であるということでホトタタライスキヒメと名づけ、後に「ホト」を嫌ってヒメタタライスケヨリヒメに名を変えた。
日本書紀第6の一書・先代旧事本紀
『日本書紀』第6の一書では「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫
或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」とあり、事代主神が八尋鰐と化し三嶋溝樴姫あるいは玉櫛姫のもとに通い、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれたという記述がある。なお『先代旧事本紀』巻4地祇本紀にも「都味齒八重事代主神 化八尋熊鰐 通三島溝杭女 活玉依姬 生一男一女(中略)妹 踏韛五十鈴姬命 此命 橿原原朝立為皇后 誕生二兒 即 神渟名耳天皇 綏靖 次產 八井耳命是也」と同様記述がある。
子供
神武天皇との子は、上から順に、日子八井命、神八井耳命、綏靖天皇である。
手研耳の反逆
神武天皇の死後、神武天皇の子である手研耳命(タギシミミ)と結婚するも、タギシミミの反逆において子供たちに夫の謀意について知らせて反逆を防いだ。
2018/08/29
釈迦(釈迦の思想2)
2018/08/24
神武天皇
二月二十日。
天皇の命によって、もろもろの将兵から精鋭を選びました。
このとき層富縣(ソホノアガタ=生駒市)の波哆丘岬(ハタノオカサキ=奈良市赤膚町)には、新城戸畔者(ニイキノトベ)という人物がいました。丘岬は塢介佐棄(オカサキ)と読みます。
また和珥坂下(ワニノサカモト)には、居勢祝(コセノハフリ)という人物がいました。坂下は瑳伽梅苔(サカモト)と読みます。
臍見(ホソミ=天理市?)の長柄丘岬(ナガラオカサキ=奈良県御所市長柄神社?)に猪祝(イノハフリ)という人物がいました。この三カ所の土蜘蛛は武力に頼んで、天皇に従いませんでした。天皇は兵の一部を派遣して、全員を誅殺しました。
また、高尾張邑(タカオハリノムラ)にも土蜘蛛が居ました。
その人と成りはこうでした。
身長は低く、手足は長い。
侏儒(サキヒト=小人=バカ)と似ていました。
皇軍は葛(カズラ=ツタ植物)を編んで、それを使って襲って殺しました。それで、その村を葛城(カズラキ)と名付けました。
磐余(イワレ)の土地の古い名前は片居(カタイ)といいます。片居は伽哆韋(カタイ)と読みます。
または片立(カタタチ)といいます。片立は伽哆哆知(カタタチ)と読みます。
皇軍はそうして敵を破り、大軍が集まって満たされました。それで磐余(イワレ)と改名しました。
注「満ちる」が古代日本語では「満(イ)はる」だったから
ある人は言いました。
「天皇は昔、嚴瓮(イツヘ=皿)に粮(オモノ=食べ物)を乗せて、神に捧げ物をして、軍を出して西の敵を征伐しました。
このときに磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が、この土地に屯聚(イワ=集まって、満ちて)み居ました。屯聚居は怡波瀰萎(イワミイ)と読みます。
天皇と大きな戦いをしました。
ついに皇軍に敗れて滅んでしまいました。
それで磐余邑(イワレノムラ)と言うようになった」
また皇師(ミイクサ)が立誥(タチタケビ=大声を出すこと)した場所を「猛田(タケダ)」といいます。城を造った所を「城田」といいます。
また敵たちが戦い死んで伏せた屍(カバネ=屍体)が臂(タダムキ=「ひじ」のこと)を枕にしていた所を頰枕田(ツラマキダ)といいます。
天皇は前の年の秋九月をもって、天香山(アマノカグヤマ)の埴土(ハニツチ=粘土質の土)を取って、八十平瓮(ヤソノヒラカ)を作り、自ら齋戒(モノイミ=血や死の穢れや女性に触れずに清らかな生活をすること)をして、諸々の神を祀りました。それで区宇(アメノシタ)を静めました(=安定させました)。そこで土を取った場所を埴安(ハニヤス)といいます。
三月七日。
天皇は言いました。
「わたしが東征に出発して、6年になります。天津神の霊威によって凶徒(アタ=敵)は殺されました。周辺の国はまだ静まっていませんし、敵の残党はまだ勢いのあるものがあるが、中洲之地(ナカスノクニ=大和の国)は騒がしくない。皇都(ミヤコ)を広く広く取り、大きな宮殿を造ることにしよう。
国はまだ出来たばかりで若く、民は素直で、穴の中に住んで、古い習俗が変わらず残っている。聖人のやり方でしっかりと行えば、結果はおのずと付いてくる。民の利益になることならば、聖人のやることを阻むものは無いだろう。
そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」
この月に有司(ツカサ=役人)に命じて、帝宅(ミヤコ=天皇の家=都)を作り始めました。
2018/08/20
第一次シケリア戦争
出典Wikipedia