口語訳:若倭根子日子大毘毘命は、春日の伊邪河の宮に住んで、天下を治めた。この天皇が丹波の大縣主、由碁理の娘、竹野比賣を妻として生んだ子が比古由牟須美命である。<一柱>
また庶母(父の妃)の伊賀迦色許賣命を娶って生んだ子が御眞木入日子印惠命、次に御眞津比賣命である。<二柱>
また丸邇臣の祖、日子國意祁都命の妹、意祁都比賣命を娶って生んだ子が日子坐王。<一柱>
また葛城の垂見宿禰の娘、鸇比賣を娶って生んだ子が建豊波豆羅和氣王。<一柱>
この天皇の御子は、全部で五柱いた。<男四人、女一人>
この天皇、後の漢風諡号は開化天皇という。
天皇の直接の御子だけでなく、その子孫まで、姓を与えない限り、みな「御子」と言ったので、【子孫はみな「子」と言うのがいにしえの習慣だ。】それにも「王」の字を用いた。【上代には、一世・二世などと区別せず、みな「みこ」と称し、「王」の字を書いた。ところが書紀の書きぶりでは、一般に一世の子には「皇子」と書き、二世から後に「王」と書いている。だがしばしば古い書き方のまま、一世にも「王」と書いている場合もある。上述した通りである。皇子と王とは、字は違うが、口に出す場合はいずれも「みこ」であった。ところが「親王」という言い方ができてからは、親王を「みこ」といい、親王でないのを「王」と書いて、それを「おおきみ」と言うようになった。
「親王」という名は漢国の隋唐の制度を真似たのである。この名は天武紀四年のところに初めて見えるが、実際には、その時初めて行われたようでもない。ただその時代に始まったことではあるらしい。この語はできたとしても、それを名の下に付けて「~親王」と呼ぶことは、天武代にはまだなかったようで、舎人皇子や新田部皇子なども、書紀にはみな「皇子」とある。続日本紀に至ってみな「~親王」と書いてある。親王を「みこ」と呼ぶようになったので、それと分けて諸王を「~のおおきみ」と呼ぶのが決まりになったが、「おおきみ」というのは天皇を初め、親王や諸王まで、誰にも言う名であって、本来は天皇を呼ぶ名だった。諸王に限ってそう呼ぶのは当たらないことである。またこの記や書紀など、すべて古い書物で「~王」とある「王」の字をみな「きみ」と読むのも間違っている。古い書物では「王」はすべて「みこ」だ。それを「みこ」と読まないのは、後世の親王・諸王の例ばかり見て、いにしえを知らないからだ。
○繼嗣令に「およそ天皇の兄弟・皇子はすべて親王とする。それ以外はみな諸王という。親王から五世は、『王』と名乗っていても、皇親に入れない」とあり、選叙令に「およそ蔭位(父の官位によって、子が生まれながらに持つ官位)については、皇親の場合、親王の子は従四位下、諸王の子は従五位で、その五世の王もまた従五位下、子は一階下げる。庶子はさらに一階下げる」とある。
続日本紀六、霊亀元年九月の詔に、「皇親の二世は五位に准じ、三世以下は六位に准ずる」とある。これは蔭位を与える以前の、本来の位を言う。「准」の字で理解せよ。同紀三に、慶雲三年二月、七條を定めたとあり、その七に「令によると、五世の王は『王』と名乗っても良いが、皇親には含まれない。今、五世の王は、『王』の名があっても、すでに皇籍は絶たれている。そのためついに諸臣の中に入ってしまっている。親の恩を顧みると、皇籍を絶ったということは心痛に耐えない。これ以降、五世の孫も皇親のうちに入れよ。その後継ぎになる者も『王』を名乗ってよろしい。他は令の通りにせよ」とある。】
口語訳:このうち御眞木入日子印惠命は、後に天下を治めた。その兄、比古由牟須美王の子は、大筒木垂根王、次に讚岐垂根王。<二人である。>
この二王には、娘が五人いた。
口語訳:次に日子坐王が山代の荏名津比賣、またの名は苅幡戸辨を妻として生んだ子は、大俣王、次に小俣王、次に志夫美宿禰王、<三人>である。また春日建國勝戸賣の娘、沙本の大闇見戸賣を妃として生んだ子が沙本毘古王、次に袁邪本王、次に沙本毘賣命、またの名は佐波遲比賣である。<この沙本毘賣命は、後に伊久米天皇(垂仁天皇)の皇后となった。>
次に室毘古王、<合わせて四人>である。また近淡海の御上の祝が奉斎する天の御影神の娘、息長水依比賣を娶って生んだ子が、丹波比古多多須美知能宇斯王、次に水穗の眞若王、次に神大根王、またの名は八瓜入日子王、次に水穗の五百依比賣、次に御井津比賣、<五人>である。またその母の妹(叔母)、袁祁都比賣命を娶って生んだ子が山代の大筒木眞若王、次に比古意須王、次に伊理泥王、<三人>である。日子坐王の子は、全部で十一人いた。
口語訳:日子坐王の長男、大俣王の子は、曙立王、次に菟上王。<二柱である。>
この曙立王は、<伊勢之品遲部君、伊勢之佐那造の祖である。>
菟上王は、<比賣陀君の祖である。>
次に、小俣王は、<當麻勾君の祖である。>
次に志夫美宿禰王は、<佐佐君の祖である。>
次に沙本毘古王は、<日下部連、甲斐國造の祖である。>
次に袁邪本王は、<葛野之別、近淡海蚊野之別の祖である。>
次に室毘古王は、<若狹之耳別の祖である。>
その美知能宇志王が丹波の河上之摩須郎女を妻として生んだ子は、比婆須比賣命、次に眞砥野比賣命、次に弟比賣命、次に朝廷別王の<四柱であった。>
この朝廷別王は、<三川之穗別の祖である。>
この美知能宇斯王の弟、水穗眞若王は<近淡海之安直の祖である。>
次に神大根王は、<三野國造、本巣國造、長幡部連の祖である。>
次に山代之大筒木眞若王、同母妹、伊理泥王の娘、母泥能阿治佐波毘賣を妻として生んだ子は、迦邇米雷王である。この王が丹波の遠津臣の娘、高材比賣を妻として生んだ子は、息長宿禰王である。この王が葛城の高額比賣を妻として生んだ子は、息長帶比賣命、次に虚空津比賣命、次に息長日子王である。<三柱。この王は、吉備の品遲君、針間の阿宗君の祖である。>
また息長宿禰王が河俣稻依毘賣を妻として生んだ子は、大多牟坂王である。<これは多遲摩國造の祖である。>
口語訳:上記の建豊波豆羅和氣王は、<道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古らの先祖である。>
天皇御年陸拾參歳。御陵在2伊邪河之坂上1也。
訓読:このスメラミコト、ミとしムソヂマリミツ。みはかはイザカワのサカのエにあり。
口語訳:天皇は崩じたとき六十三歳だった。御陵は伊邪河の坂の付近にある。
御年六十三歳。書紀には「六十年夏四月丙辰朔丙子、天皇が崩じた。一にいわく、時に年百十五」とある。【父の天皇の「二十二年春正月、皇太子を立てた。年十六」とあるのによると、百十一歳になる。】ある書物には百十一歳とある。【これは上記の立太子の年から計算したのだろう。】
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