2025/12/16

菅原道真(1)

菅原 道真(すがわら の みちざね、承和12625日〈84581日〉- 延喜3225日〈903326日〉)は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

 

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後は怨霊となって清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられた。しかし、後に天満天神として信仰の対象となり、今日に至るまで学問の神様として親しまれている。

 

小倉百人一首では、菅家。

 

生涯

道真は是善とその夫人・伴氏の3男として生まれ、幼名が「阿呼」(あこ)とされる。幼少期について信用できる史料はほとんどない。兄二人の記録はなく、道真も兄弟はいないとしていることから夭折したものと考えられてきたが、詩中に一人子の表現があり一人子説が支持されている。

 

道真は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだ。『菅家御伝記』によれば、道真の師は文章生田口達音であったとされる。貞観4年(862年)、18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には、文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)、官吏登用試験『対策』の方略策に「中上」の成績で合格し、位階を進め正六位上となった。

 

玄蕃助・少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。当時の朝廷の第一人者藤原基経も道真の文才を評価した一人であり、父・菅原是善を差し置いて、度々代筆を道真に依頼している。元慶元年(877年)、式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)の父・是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。

 

仁和2年(886年)、讃岐守(讃岐国司)を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向することとなった。道真は、この任が「左遷である」と言われていることが残念であると述べており、度々悲しみの意を表している。送別の宴で、道真は摂政藤原基経から詩をともに唱和するよう求められたが、落涙・嗚咽して一言しか発せなかったという。

 

仁和3年末には一時帰京し、翌仁和4年(888年)正月には任地に戻った。この年の4月、阿衡事件が発生し、基経が職務を妨害する事態となった。道真は10月頃再び入京し、基経に事件の発端となった橘広相を罰しないように意見書(奉昭宣公書)を寄せて諌めたとされる。この書が出されたとされる11月には、すでに橘広相は赦免されており、基経の態度に影響を与えるものではなかったが、儒者による橘広相への非難を緩和する効果があった可能性も指摘されている。

 

宇多天皇の近臣

寛平2年(890年)、任地より帰京した。道真は本来ならば任地で行う引き継ぎを行わず京都に戻っている。この年、阿衡事件の後も厚い信任を受けていた橘広相が病没し、宇多天皇は代わる側近として道真を抜擢した。寛平3年(891年)229日、道真は蔵人頭に補任された。蔵人頭は天皇近臣中の近臣ともいえる職であり、紀伝道の家系で蔵人頭となったのは、道真以前は橘広相のみであった。道真は蔵人頭を辞任したいと願い出ているが、許されなかった。

 

さらに39日には式部少輔、411日に左中弁を兼務。翌寛平4年(892年)従四位下に叙せられ、125日には左京大夫となっている。寛平5年(893年)216日には、参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し、222日には左大弁を兼務した。42日には敦仁親王が皇太子となったが、宇多天皇が相談した相手は道真一人であったという。立太子に伴い、道真は春宮亮を兼ねている。

 

寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真は唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出している。ただし、この建議は結局検討されず、道真は遣唐大使の職にありつづけた。しかし内外の情勢により、遣使が行われることはなかった。延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。

 

寛平7年(895年)、参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任。また寛平8年(896年)、長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平10年(898年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とし、宇多との結びつきがより強化されることとなった。

 

右大臣

宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する右大臣の源能有ら大官が相次いで没し、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官の長となる体制となる。7月に入ると宇多天皇は敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。

 

醍醐天皇の治世でも宇多上皇の御幸や宴席に従うなど、宇多の側近としての立場も保ち続けた。

 

昌泰2年(899年)、右大臣に昇進して時平と道真が左右大臣として肩を並べた。道真は家が儒家であり家格が低いことと、出世につけて中傷が増えたため辞退したいと上申していたが、悉く却下された。逆に、宇多上皇から道真のみに政務を委任したい旨の打診を受けるが、道真はこれを拒絶している。翌昌泰3年(900年)には右近衛大将の辞意を示したが、これも却下された。

 

一方で、文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭す文章を送っている。821日には祖父以来の文章・詩をまとめた家集を醍醐天皇に献上し、「尽く金」と激賞された。

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