2026/06/19

ワールドカップ2026北米大会(1)

ワールドカップ史上初の3か国開催(アメリカ、カナダ、メキシコ)となる今大会は、参加国が前回までの32から48と大幅に増加し、6/117/19と1か月以上にもわたる長丁場である。

 

予選とも位置付けられるグループステージは、4か国が12グループに分けられ、上位2チームと各グループ3位のうち、成績上位8チームがノックアウトステージ(以前の「決勝トーナメント」とに相当)に進出となる。

 

出場48か国のうち、2/3に該当する32か国がノックアウトステージに進めるというのは「大安売り」の感は否めないが、まあ金儲け至上主義のFIFAだから仕方ないか。

 

ともあれ開幕の6/12から6/18までの1週間にわたり、グループステージの第1節が行われた。

 

今大会の優勝候補に挙げられるチームでは、ドイツ、フランス、アルゼンチン、イングランドは格下相手に順当に勝利した一方、ブラジル、スペイン、ポルトガルは引き分け。ここまでは格下相手の取りこぼしはなく、前にも記した通りグループ3位でもノックアウトステージ進出確率は2/3だから、まだまだ余裕綽綽といったところだ。

 

「目標は優勝」と大風呂敷を広げる日本は、グループ最大の強敵と目されたオランダ相手に2-2で引き分け。2度のリードを許しながら、なんとか引き分けに持ち込んだのは及第点と言える。

 

繰り返すが、いつもの大会に比べて出場国が多い水増しの分、通常なら出場できないような弱小国がたくさん出てきている今大会だけに、グループステージにおける波瀾の可能性は少ないとみるべきだろう。

2026/06/16

蓮如(2)

本願寺再興

    文明7年(1475年)821日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口(後の光善寺)に居を定めた。

    文明10年(1478年)129日、山科に坊舎の造営を開始。817日、第三夫人如勝尼が死去。

    文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が、佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。

    文明14年(1482年)には、真宗出雲路派毫摂寺第8世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が、門徒を引き連れて合流してきた。

    文明15年(1483年)822日、山科本願寺が落成する。同年、長男順如が死去。

 

本願寺の発展

    文明18年(1486年)、紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎(了賢寺)ができる。同年、第四夫人宗如尼が死去。

    長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年69日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城において包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息を送って一揆を諌めた。

    延徳元年(1489年)、75歳。寺務を5男の実如に譲り、実如が本願寺第9世となる。

    明応2年(1493年)、真宗木辺派錦織寺の第7代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40か所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。

    明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に大坂御坊を建立し、居所とした(後の大坂本願寺(石山本願寺))。

    明応8年(1499年)220日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。320日、下間蓮崇を許す。325日(1499514[3])、山科本願寺において85歳で没した。

 

妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。

 

布教

蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた『御文』(『御文章』)を中心に行われた。後に蓮如の孫、円如がこれを収集して五帖80通(『五帖御文』)にまとめた。これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。

 

また、これまで本願寺は毎日の勤行に善導著作の『往生礼讃』を用い、1日を6つに分けてそれぞれの時間帯に読経を行う六時礼讃を行っていた。しかし、蓮如は吉崎滞在中に越前で三門徒が親鸞著作の『三帖和讃』を頻繁に唱えていた事から、これを取り入れると同時に勤行のやり方を全面的に改正し、朝・夕に親鸞著作の『正信念仏偈』(『正信偈』)と『三帖和讃』を唱える方式に制定、一般の門徒に広く受け入れられるようにした。こうして文明5年(1473年)3月、吉崎にて『正信念仏偈』・『三帖和讃』の開版、印刷が行われ、さらなる布教に邁進していった。

 

また、門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」の本尊に「十字名号」(文明期以降は、「六字名号」や「阿弥陀如来絵像」)を与えた。

 

その他の著作に『正信偈大意』『正信偈証註釈』、信仰生活の規範を示した「改悔文」(「領解文」)などがある。

 

また蓮如の死後、弟子達が蓮如の言行録を写し継いだ書物として『蓮如上人御一代記聞書』(『蓮如上人御一代聞書』)全316箇条が残されている。

 

成仏させた大蛇の骨

大阪府八尾市の顕証寺に「蓮如上人ご救済の大蛇骨」と呼ばれる頭骨が伝わっている。伝承では、蓮如の夢に女性が現れ「龍女に変えられて苦しんでいる」と訴えた。蓮如はこれを供養したところ、海にその死体が上がったとされ、その龍(大蛇)の骨を大切に祀った。

 

2018年(平成30年)、大阪大学総合学術博物館の伊藤謙特任講師らが、この顕証寺に伝わる骨を調査したところ、完新世期(約1万年前から現在)シャチの頭骨で、頭骨の全長は1.6メートル、推定される全長は7メートルである。しかも普通のシャチの頭骨ではなく、化石化した可能性が高いものであることが判明した。この骨は石山本願寺創設後の(1496年)頃、真宗大谷派難波別院(現・大阪府大阪市中央区久太郎町)付近で発掘されたものとも伝わり、同地では地下鉄工事の際にクジラ類の化石が大量に発見されている。

2026/06/11

蓮如(1)

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「如」と「辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。

 

親鸞の嫡流とはいえ、蓮如が生まれた時の本願寺は青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

 

生涯

誕生から得度まで

年齢は、数え年。日付は、『御文』(『御文章』)などの文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示とする(生歿年月日を除く)。

 

応永22225日(1415413[3])、京都東山の生誕当時に天台宗青蓮院の末寺であった大谷本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院〈そうたいいん〉付近)で、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の大阪府和泉市)の被差別部落出身だったともいう。童名を幸亭、あるいは布袋と称した。

 

応永27年(1420年)、蓮如6歳の時、生母は本願寺を退去し、存如が海老名氏の娘・如円尼を正室として迎える。生母のその後の行方は分かっていない。蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田・本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。

 

永享3年(1431年)17歳の時、中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度し、実名を兼郷の一字を受け兼壽、仮名を兼郷の官途名である中納言と称し、法名は蓮如と名乗った。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和・興福寺大乗院の門跡経覚について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年)512日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲り、4年後の永享121014日(14401117日)に死去した。

 

本願寺継承

嘉吉2年(1442年)に第1子(長男)順如が誕生する。文安4年(1447年)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449年)父と北国で布教する。康正元年(1455年)1123日、最初の夫人、[[如了尼が死去する。長禄元年(1457年)617日、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟蓮照(応玄)を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、蓮照と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。

 

この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落しており、青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。

 

大谷本願寺破却

長禄2年(1458年)810日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。寛正6年(1465年)18日、延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、110日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。321日、再度これを破却。蓮如は祖像の親鸞御影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。さらに蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれたことに抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も敏腕な順如は蓮如を助けて行動する。

 

応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ね、三河に本宗寺を建立する。応仁3年(1469年)、延暦寺と敵対している園城寺の庇護を受け、園城寺子院の万徳院住持で叔父の長命阿闍梨の斡旋もあり、別所近松寺の敷地の一部を譲り受けて大津南別所に顕証寺(後の本願寺近松別院)となる堂を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年)125日、第二夫人蓮祐尼が死去する。

 

吉崎時代

文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。727日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。

 

文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。この文明6年一揆は、本願寺系の門末を主力とし、攻戦的な面を帯びる初めての一向一揆であった。

 

加賀国額田荘(石川県加賀市・小松市)の人びとは、世俗の戦いでなくあくまで「仏法ノ当敵」に対する「聖戦」と認識して一揆に加わっている。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まることを政親が危惧して軋轢を生じた。さらに蓮如の配下だった下間蓮崇が、蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して、全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。

2026/06/06

一休宗純(5)

https://www.osaka21.or.jp/index.html

住吉大社での一休

住吉大社に一休が長期滞在したのには、一休自身の南朝びいきがあったと思わせる。それに、住吉大社は明治の廃仏毀釈まで神仏融合で、神官(宮司)の津守氏は「住吉寺」の住職もかねており、「大徳寺」の住持にもなっていたとの説もある。

 

これらのことをふまえて、一休が住吉を訪れたときの話。

 

そのとき、一人の老僧も参籠していた。その老僧が一休に歌を詠むかと尋ねた。

そこで、一休は

「来てみればここも火宅の宿ならめ 何住よしと人のいふらん」(「住み良い」というから、私はわざわざ来てみたのですが、どうやらここも火宅(危険な場所/煩悩の苦界)のようだ。どうして人々は住吉(住よし/澄よし)などというのでしょうか)

と皮肉をこめて詠んだ。

 

それを聴いた老僧はうち笑いながら

「来てみればこちらも火宅の宿なれと 心ととめて住めばすみよし」(おっしゃる通りに、ここも火宅の宿にはちがいないのですが、あなたが自分の心をしかとお持ちながら住むのならば、きっと住みよくなり、その気持ちも澄みわたり安心を得るはずです)と返した。

 

この返歌に感じ入った一休は、これぞ住吉神の託宣と思い定め、この住吉に庵を結んだという。

 

森女との出会い

一休77歳〔文明2年(147011月〕のとき、住吉大社内にあった神宮寺の薬師堂で琵琶を弾く盲目の美女、森女に出会い心を引かれた。そして半年後に住吉を訪れたとき、森女に再会する。この頃には、一休は森女が南朝方の高貴な人の娘であることを知っていたのではないかという説もある。一方、森女も一休の素性を伝え聞き慕っていたともいわれている。

 

このほか森女に関しては、住吉大社は古来芸能が盛んで「住吉の森」といわれたことから、住吉大社に仕える巫女、あるいは神官(津守氏)の娘ではなかったかとの見方がある。

 

いずれにせよ、一休にとって森女はかけがえのない人となり、住吉の一隅で愛の巣を営む。その年の差は約40歳だったというから驚く。

 

住吉で大徳寺の再建を図る

ところが、一休81歳のとき、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となった。南朝の後醍醐天皇の後援を受けていた大徳寺は、南北朝の乱の終焉後は都では浮いた存在となっていた。なぜ、一休に大徳寺復興の大役が回ってきたのかの疑問が浮かぶが、それは一休が後小松天皇の落胤であり、母は南朝の公家の娘であったということから、お鉢が回ってきたのではないだろうかともいわれる。

 

しかし、住職になったが大徳寺に入寺したのはたった1日だけで、座の温まる間もなく大坂に向けて旅立ったという。

 

住吉大社の小出英詞権禰宜は

「応仁の乱で焼失した大徳寺ですが、一休さんは大徳寺のお寺の大切なものを持って、この住吉に大徳寺ごと疎開してきていたのです」

と驚くべき言葉を発された。

 

大徳寺が、一休と一緒に住吉大社に避難して来ていたなどとは、想像もしていなかった。

 

このことについて、一休の研究者矢内一磨氏は『フォーラム堺学』の「堺と一休派」で、「住吉大社と大徳寺には深い関係があるが、応仁文明の乱で大徳寺が焼けてしまったため、住吉大社の境内に大徳寺を一時避難させた。一時避難とは住吉大社にお堂を建てて、大徳寺歴代の人々の木像や肖像を祀るということで、大徳寺が一時、住吉に仮住まいしたかたちである」と述べている。

 

ことの理由はいずれにせよ、宮司津守氏の援助のもと、一休は住吉大社の一隅に「牀(床)菜(しょうさい)庵」を建て、ここを拠点に大徳寺復興の活動を開始することになる。その目的は堺の有力な商人、なかでも豪商尾和宗臨との接触であった。

 

宗臨は一休のパトロンのような存在で、俗名を四郎左衛門という。明との貿易で巨万の富を蓄えていた。どういうわけか一休にベタ惚れし、彼の一声で堺の豪商をはじめ一般の庶民まで大徳寺再建に進んで喜捨をした。

 

では宗臨は、なぜ一休に惚れたのか。恐らく、宗臨には南海の波濤を越えた異国との交易で得た貴重な体験があり、異国で通じたのは氏でも素性でもなく、大海の大波に立ち向かう度胸と真摯な人間性のみだと悟っていたのであろう。だからこそ、一見、破天荒に見える一休が一貫してとった行動と思想に、相通じるものを感じたのかもしれない。宗臨は終生、いや、死後も大徳寺のために財を提供すようにと言い残している。

 

一休と宗臨の努力の甲斐あって、文明10年(1478)に大徳寺法堂が再建された。一休が亡くなった年には正門と偏門が落成、すべてが完成するのにはあと10年を要している。

 

難解で粋狂、諧謔、眇め、皮肉、破廉恥、好色をこねて固めたような『狂雲集』から一休の人物像を想像すると、前述のそうそうたる文化人に慕われた説明がつかない。堺の豪商尾和宗臨をはじめ、それこそ海千山千の猛者たちが一休を慕ったのには、凡人の達し得ない境地を知り得た人たちでこそ理解できる世界感があったのだろう。

 

そんな一休が住吉を去る時の逸話を、小出権禰宜は

「捉えどころのない破天荒な方でしたが、とにかく人を引き付ける力が強く、住吉大社のトップの宮司さん(津守国昭)さえ一休さんの弟子になろうとしたのです。朝廷から任命された神主が出家することは禁止されていたのにですよ。文明10年(1478)、一休さんが住吉を離れ京都へ帰って行くときに、村人がみんな泣いてすがったといいます。宮司から村人まで惚れぬいた魅力のある人、それが一休さんです」

と語る。

 

 

今も保管されている牀菜庵の遺物の数々

一休の住吉での仮住まいの一つは、江戸時代後期の『住吉名勝図会』に見える牀菜庵(しょうさいあん)あった。『一休和尚年譜』には、文明8年(1476)、住吉大社東の野菜畑に茅葺屋根の同庵を建てた。そして翌9年の夏、庵の南側竹林に納涼のための小さなあずまや「多香軒(たこうけん)」が造られたことが記されている。

 

上住吉西公園には「一休禅師牀菜庵跡」と、庵がこの辺りにあったことを示す石標が立っている。ところが、実際の庵の跡は少し離れた所にあった、との地元の情報を得る。

 

庵の跡は、18世紀末には荒廃していたらしく昭和の初期まで廃墟が竹藪となって残っていたが、現在は住宅が立ち並び様変わりしている。その旧地は、現在の大阪市住吉区上住吉2丁目9の一帯にあたる。

 

関わりのあった、近くに住む松井誠志郎氏を訪ねた。松井氏の祖先は、代々朝廷の管理下にあった住吉大社の式年遷宮のときの最高位の宮大工だった。「番匠家」と呼ばれる名字帯刀を許された4家のうちの一つ。現在も名の残っているのは松井家(17代)だけという。

 

松井氏の曾祖父(14代)は牀菜庵を含む一帯を所有していて、辺りの開発に着手。松井氏は、14代のその時の様子を聞き伝えとしながらも話してくれた。

「牀菜庵のあった所は、いまは工場のような建物が建っていて面影はありません。曾祖父が門や井戸が残っていた竹藪を切り開いて分譲したあとで一休さんの遺跡だったことを知り、取り壊したことを大変残念がっていたそうです」。

 

しかし、幸いにも竹藪の中にあった蹲(つくば)い(手水鉢)や石塔、井筒が自宅に移され、いまは庭の景色となり17代が大切に守っている。

2026/06/01

契丹(5)

https://timeway.vivian.jp/index.html

契丹

 現在の中国東北部にはいろいろな少数民族がいるのですが、遼河という川の流域で半農半牧の生活を送っていた契丹族という部族がいた。かれらは、唐の支配がゆるむにしたがって、政治的に自立する。916年、契丹諸部族は統一し、遼(りょう)という国名で国を建てました。

 

 建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)という人。耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名です。へんてこな名前でしょ。でも耶律阿保機という名前を見るたびに、私は坂上田村麻呂とか、木下藤吉郞とかの日本の名前も中国から見たら同じようにへんてこなんだろうな、と思います。

 

 遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げました。そして、しばしば中国北辺に侵入します。

 

 五代十国時代には、中国の燕雲十六州という土地を獲得しています。

 

 燕雲十六州というのは、現在の北京を中心とする地域です。燕とか雲とかいうのは州の名前です。十六の州があったので、まとめて燕雲十六州というのです。ここを遼が獲得した事情を簡単に説明しておきます。

 

 五代の二番目に後唐という王朝がありました。これを倒したのが後晋ですが、後晋の建国者が石敬瑭(せきけいとう)。かれは後唐の節度使だったのですが、反乱をおこして後唐を滅ぼした。

 この時、石敬瑭は軍事力が足りなかったので、遼に援助を求めたんです。遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州です。

 

 結局、石敬瑭は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲った。燕雲十六州は万里の長城の内側です。つまり、中国の伝統的な領土で、住んでいるのも漢民族の農耕民です。

 これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下あります。

 

 北方の民族が中国を支配することは五胡十六国時代以来あったのですが、それまでの北方民族はすべて、中国の文化に同化していきました。北魏が好い例で、孝文帝が漢化政策を実施したことは覚えていますね。

 

 五代の後唐の支配者も突厥系、つまりトルコ人が中国文化に同化した人たちですし、後晋の石敬瑭もやはりトルコ系ですが、かれら自身がそのことを意識して行動している節はありません。完全に中国化しているように見える。

 

 ところが、遼の契丹族はそうではなかった。中国文化に同化することを極力避けようとします。民族の独自性を保とうとする。

 

 そのためには、燕雲十六州の統治は慎重におこなう必要があった。下手をすると中国文化に感化されてしまって、いつの間にか同化してしまうということがありえますからね。そこで、遼は「二重統治体制」という方法を採用した。燕雲十六州の支配制度を北方の自分たちの本拠地とは完全に切り離して、両者が混じり合わないようにしたのです。

 

 遊牧民の世界には北面官という役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治します。

 漢民族などの農耕民族には南面官という役所を置いて、州県制によって支配しました。

 

 このように民族文化の独自性を守る姿勢は文字制定という形でもあらわれる。

 契丹族は漢字を使うのを避けて、わざわざ民族独自の文字を作った。これが、契丹文字です。字形を見てもらったらわかりますが、漢字の影響を強く受けている。

 日本でも同じ時期に「かな」が発明されます。

 

 唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えましたが、唐の衰退後は周辺諸民族は民族意識に目覚めていったと言えそうです。

 

 話を元に戻しましょう。

 燕雲十六州は、中国から見れば本来は自分たちの土地です。宋は中国の統一をしたのち、燕雲十六州を取り返そうと、しばしは遼軍と対決しますが勝てない。

 1004年には遼は宋の都開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結びました。

 

 この和平条約を「澶淵の盟」という。

 

 この条約で、宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈ること、宋を兄、遼を弟とすること、両国国境は現状維持、と決められました。

 

 宋が兄で遼が弟なのだから、名目的には宋の方が偉いという形ですが、お兄さんの宋は弟の遼に毎年莫大なお小遣いをあげなければならないし、国境現状維持ということは燕雲十六州を宋はあきらめる、ということですから、実質的に遼の勝利です。

 

 これ以後、宋と遼は基本的には平和が保たれました。

2026/05/30

一休宗純(4)

https://www.osaka21.or.jp/index.html

多くの文人や商人に慕われた破戒僧

生まれは応永元年(明徳5年・1394)、幼名は千菊丸。後小松天皇の落胤と伝えられるが、一休は生涯、自分の出生については何も語らず自慢もしていない。

 

6歳で出家、17歳のとき、貧困の中でも本物の禅を説いた謙翁宗為(けんおうそうい)に弟子入りし、宗純と名乗った。

 

20歳の時、一休は謙翁から

「自分の得たものはすべてお前に注ぎ尽くした、しかし自分は師の無因宗因(むいんそういん)から印可状を与えられていないので、お前に印可状を与えることはできない」

といわれた。その謙翁は一休が21歳のとき亡くなり、一休は悲しみのあまり瀬田川に入水自殺をしようとする。しかし、身辺を案じる母からの使いに思いを止められる。

 

22歳になって師を亡くした傷心からようやく立ち直り、近江堅田の華叟宗曇(かそうそうどん)を新たな師と仰ぐ。

 

27歳、琵琶湖畔で座禅していたとき、暁に鴉(からす)の一声を聞いて天地が一体となる感覚を得、悟りを開く。華叟は一休が35歳のとき病没するが、その後も一休はあらゆる階層の人々に仏教の教えを説くために、一か所にとどまらず、一蓑一笠(いっさいいちりゅう)の姿で近畿一円を説法して回った。

 

74歳、応仁・文明の乱がおこり、都は荒れはてる。一休は難を避け、現在の京都府京田辺市薪里ノ内にある酬恩庵(しゅうおんあん)を本拠地とし、大和、和泉の各地を巡る。

 

77歳、住吉大社で盲目の美女「森女(しんじょ)」に出会う。

 

78歳、住吉にて森女と再会し同棲をはじめる。禅僧は清僧というイメージを根底から崩した型破りで、しかも人間味のある人物だったようだ。

 

81歳のとき、後土御門天皇から大徳寺(京都)の住持に任ぜられ、やむをえず就任するが、入寺したその日のうちに退去した。文明13年(1481)、マラリアにかかり亡くなる。臨終のことばは「死にとうない」であった。享年88歳。

 

フィールドノート

トンチの一休さん

「あわてない、あわてない。一休み、一休み」のセリフが心地よいリズムと共に耳の底に残っているあのテレビアニメ。この名セリフは

「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

という一休自身が残した言葉から来ているという。人の一生は有漏路(煩悩の世)から無漏路(悟り)に向かうのだから、慌てるなということなのか。死は必ずやってくる、慌てなくともいつかは死ぬ。その前に、一休みせよということか。

 

さて、一休がまだ小坊主だったころ、和尚さんのお供をしてある屋敷に招かれた。ところが、屋敷の前の堀川に橋があり、橋の手前に「このはしわたるな」と書いた立札があった。和尚さんは、橋を渡ることができずに困っていると、一休さんは平気な顔で橋をスタスタと渡ってお屋敷に入って行ったという。はて!、どうして橋を渡ることができたか。一休さん曰く「はし(端)を渡ってはいけないのなら、『真ん中』を渡ればいい」。トンチの一休さんの有名な話の一つである。

 

このように、「一休さん」といえば、トンチで大人を負かす小賢しい小坊主のイメージが定着しているが、実際には詩文に長じ、書画も巧みで、一方酒を呑み、遊里に出入りし、女性を愛した。が、はて、さて、取材を通してみえてくる一休さんはどのような人だったのか。

 

秘密の隠れ家「尸陀寺(しだじ)」跡

嘉吉2年(1442)、一休49歳。初めて譲羽(ゆずりは)山の出灰(いずりは)(現在の高槻市)に入り、民家を借りて住む。後に尸陀寺を創立。寺跡は高槻市出灰の譲羽山の麓にある。ここで一休は、「入山したときは、夜ともなれば、身の毛もよだつ思いのするところであった」と書き残している。深山幽谷ともいえる出灰での生活は窮乏を極めたと思われるが、水上勉の『一休』によれば、ここはかつて宮中の所領で、山の民は宮中護衛をつとめ、御所の白壁にこの地で産出した石灰岩を使用したとある。一休も、このことを承知していたようだ。だからこそ、このような山奥に庵を結んだのだろう。里人も一休が後小松天皇の子であることを承知していて快く受け入れ、なにくれとなく身の回りの世話をしていたのではないか、とも記している。

 

54歳〔文安4年(1447)〕のとき、大徳寺の僧が獄に繋がれるという事件があり、一門の者は深刻に悩んだ。一休も心労がつのり、再び尸陀寺にこもって餓死しようとした。このことが後花園天皇の耳に入り、勅書をもって

「和尚が餓死するなら、仏王と王法ともに滅することになる。この私を見捨てて国を見放すのか」

と制止。一休は、その勅命に従って帰京した。後花園天皇の即位は、後小松天皇が一休のアドバイスを得て決まったといういきさつがあるだけに、天皇も一休の動静を気にかけていたと思われる。

 

戦火を嫌い都を離れ酬恩庵へ移る

一休の後世に残る活動は、その晩年に集中している。当時は50歳にもなると隠居している頃だが、一休の人生は一波乱も二波乱も回り舞台のように激しく変転する。50歳で譲羽山を出てから77歳までは動乱の中を歩む。

 

応仁・文明の乱で京の町は戦火で焼き払らわれ、大徳寺も多くの堂宇を失う。都は荒れに荒れ、人々は塗炭の苦しみを味わう。一休(1467年・74歳)も難を逃れ、都から南にある薪村の酬恩庵に逃げ込んだ。

 

そこは「薪の一休寺」ともよばれ、晩年をここで過ごし、ここで亡くなった。薪の名は、平安時代、石清水八幡宮に庭燎(にわび)(篝火)のための薪を供給する場であったことから付いた。

 

村人は一休が来たことを大喜びし、諸国から一休を慕う人が薪村にきた。都は皇族、貴族、幕府の混乱で人々の生活は困窮を極めるが、そんな中で新しい文化が起っていた。茶の湯である。一休を慕って、連歌師の飯尾宗祇、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)、俳諧の山崎宗鑑、茶の湯の村田珠光、観世の音阿弥、金春の禅竹、絵の曾我蛇足、兵部墨渓が集まり、薪村はあたかも「文化サロン」の体をなした。音阿弥も禅竹も一休を慕って、しばしば薪の酬恩庵をたずねている。酬恩庵の門前に「金春の芝」といわれる場所があるが、禅竹が一休ひとりのために能を演じたといわれる場所である。

 

文明元年(1469)になると、薪村にも兵火が及ぶようになったので難を避け、大和・和泉の諸地を巡った後、住吉に足を向けた。

2026/05/25

契丹(4)

https://dic.pixiv.net/

概要

建国

契丹は、モンゴル高原に居住していた遊牧民族。モンゴル系とされる民族で、自らはキタイと名乗っていたようで、契丹とはその漢字音写である。出自については諸説あるが、鮮卑もしくはその源流である東胡から派生した民族。4世紀の北魏から契丹の名は史書に出るが、大きな勢力となったのは唐代で、東の渤海と競いながらモンゴル高原に支配領域を広めていった。

 

契丹族は8つの部族に分かれていたが、907年に『遼河』の上流域にいた迭剌(てつら)部族の耶律阿保機(太祖)が勢力を蓄えて8部族を統一し、916年に天皇帝と称し年号を神冊と改めて大契丹王朝を築いたことから始まる。タタール、ウイグル等の四方の民族を攻め、ついには926年渤海を滅ぼした。次代の耶律徳光(太宗)が936年に五代の後晋から燕雲十六州の領土割譲を受け、続いて946年に後晋を滅ぼして華北に領土を広げ、中国風に遼と国号を改めた(ただし、以後も何度か改名したりしている〈後述〉)

 

澶淵の盟

太宗の華北統治は反乱が続いて挫折し、遼には内紛が続いて、その間に華北では宋王朝が成立して五代の混乱を収めた。

 

6代聖宗は宋の北征を破った上で、1004年に宋へ大規模な遠征軍を送って、遼を弟・宋を兄とする形式で和議(澶淵の盟)を結ぶ。遼は講和条件として毎年多額の銀と絹を受け取り、さらに絹や茶、香薬の交易をおこなって国力を付けた。聖宗、興宗、道宗の3100年間に渡り、平和が続いて遼は全盛期となった。

 

契丹人らの遊牧民族は部族制を取って北枢密院に支配させ、農耕民族の漢族は郡県制を用いて南枢密院に支配させる。独自の文字として契丹文字が作られ、工芸では遼三彩という陶器が今に伝わる。遼朝の歴史的な特徴は、遊牧民族としての文化を維持しながら燕雲の中国人をも支配したという二重構造にあり、後に金や元などの征服王朝のモデルとなった。

 

滅亡へ

しかし、遼の属国として苛斂誅求を受けていた女真は1115年に金朝を建国、遼に対して謀反を起こしたことから運命が暗転する。遼は大敗し、宋と金に挟撃された遼は1125年に滅亡した。1122年には燕京(北京)で北遼、1213年に耶律留哥が吉林で東遼を起こすなど、耶律氏の政権が各地に勃興したが昔日の勢いはなく、内部闘争や簒奪で短命に終わった。

 

西遼

遼の滅亡に際して、金の包囲から脱出した王族の耶律大石が、1132年にトルキスタンにてカラ=ハン朝を滅ぼし、西遼を建国した。都はベラサグン。さらに1141年にはセルジューク朝を破り、サマルカンドやブハラなどのオアシス都市に領土を広げた。しかし1209年にホラズムに敗れ、1211年にモンゴル軍が迫る混乱の中で滅亡した。この時代に東アジアの王朝がイスラム化した中央アジアを支配したことは注目できるが、大きな文化的影響を与えるには短命に過ぎたようだ。しかしセルジューク朝を破った戦勝は西欧にまで伝わり、イスラムを打ち破る伝説の王「プレスター・ジョン」伝説の一部を成すことになったともいう。

 

歴代皇帝

(契丹)

    太祖(907-926):耶律阿保機。初代皇帝で契丹の族長。

    述律皇后(926-927):阿保機の正室で権勢をふるった。

    太宗(927-947)

    世宗(947-951)

    穆宗(951-969)

    景宗(969-982)

    聖宗(982-1031)

    興宗(1031-1055)

    道宗(1055-1101)

    紹宗(1101-1125) :天祚帝。金朝に降参した。

 

北遼

    宣宗:(1122):耶律淳。金朝に敗れ、北方に逃れて対抗した。

    秦王:(1122-1123)

    順文帝:(1123)

    英宗:(1123)

 

西遼(カラ=キタイ)

    徳宗:(1132-1143):耶律大石。トルキスタンに亡命政権を築いた。

    感天蕭太后:(1143-1150):大石の后で幼い息子仁宗の代わりに政務をとった。

    仁宗:(1150-1163)

    承天太后:(1163-1177):甥の末主の代わりに政務をとった。

    末主:(1177-1211): 耶律直魯古。モンゴルからの亡命者クチュルクに滅ぼされた。

    屈出律:(1211-1218):クチュルクと言い、モンゴル系で末主の娘婿。行為簒奪を起こしたがチンギス・ハーンの部下に殺され、崩御した。


(契丹)出身のその他人物

    耶律阿海:金の家臣時代にチンギス・ハーンに出会って意気投合、寝返って金や西域の征伐に貢献した。

    耶律楚材:金朝の文官。モンゴルの捕虜になった際に「君の敵をワシが討ったのだぞ」とチンギスに言われた時、「金は主君なので恨んではいません」と言い返し、お気に入りになる。その後も占い師や軍師としてモンゴルの幹部になった。陳舜臣の小説『耶律楚材』ではモンゴルの軍師的扱いだが、本来はそこまで地位が高くない。

    耶律休哥:北方謙三の『楊家将』に登場する人物。

    耶律輝:『水滸伝』の悪役で架空の皇帝。有利な状況下で宋を攻めるが、梁山泊が朝廷に加担したので形勢逆転。奪った領土の返還と朝貢(史実とは逆)を約束し、これまでの悪事を許してもらうことになった。

 

国号について

前述の通り、契丹は遼に改めたが、以降も「遼」と「契丹」の国号はどちらも使っていた。度々、改名したり戻したりを繰り返していた。

2026/05/24

一休宗純(3)

https://dic.pixiv.net/

概要

京都の生まれ。

 

後小松天皇の落胤で、母が南朝の関係者であったため「天皇の命を狙っている」と讒訴され、一休を妊娠中に宮中から追放されたと伝えられる。

 

実際、同時期の記録複数に散見されるほか、一休自身も出自を暗示するような漢詩や和歌を作っており、後花園天皇の即位に際して助言を行ったという説もある。

 

ちなみに「一休」は道号で「宗純」は戒名である。

 

この項目では、彼を「一休」で表記して解説する。

 

幼名は「千菊丸」と伝承されており、6歳で安国寺の童子となり戒名を「周建」と名付けられ、禅(臨済宗)の修行に励んだ。臨済宗は室町幕府と関係が深く、旧南朝関係者が出家する際には監視を兼ねて臨済宗の寺院に入れられる事が多かったため、この事も一休が落胤である傍証になると考えられている。

 

謙翁宗為への入門(戒名を「宗純」としたのはこの時)と、謙翁との死別(一休はこの時、絶望のあまり琵琶湖に身を投げるという自殺未遂を起こして、母が遣わした者に止められている)を経て、江州堅田・祥瑞庵の華叟宗曇和尚を訪ねて教えを乞うたが断られた。

 

一休は葦の茂る川辺の小舟で座禅を組み、夜を明かす。

 

やがて弟子入りを認められた一休は、或る晩、カラスが鳴くのを聞いて大悟したという。

 

師の華叟宗曇は「こんなことで、本当に悟りを開いたのか?」と試しに聞いたのに対し、「悟っていないのなら、悟っていないでいい」と答え、華叟宗曇はその答えに満足し、一休の悟りを認めたと伝えられている。

 

と、こうして一人前の禅僧となった一休だが、当時の臨済宗寺院は先に述べたように室町幕府との関係が強かったため、権力争いや師匠の系統間の抗争も激しかった。一休と縁の深い大徳寺は、妙心寺などと並ぶ「林下」として幕府の庇護も統制も受けなかったが、禅宗の寺院は他の宗派とは違い、師匠の系統を問わずに住職となる事ができる事もあり、系統ごとに派閥ができて争いを繰り広げていた。

 

このような禅宗の俗化に反発し、堺など各地を行脚して武士・町人と自由に交際、禅の普及に努めた。厳格な修行を行い、自身が貰った印可(修行の証明書)すら焼き捨ててしまうほどであった一休は、木刀を腰に差して歩き回り「今の禅僧は、こんな木刀みたいな連中ばかりだ」と非難したり、大徳寺を継いだ兄弟子を激しく罵ったり、「浄土宗に改宗した」と言い出したりと、時勢に対して強い非難を加えている。

 

このような様々な奇行を通して禅のありかたを主張していた一休は、天皇、皇族から民衆までに広く受け入れられた。

 

晩年、81歳で大徳寺の住持となり、大徳寺に住む事はなかったが再興に力を尽くした。この頃には森女という愛人がいて、その女性は盲目ながらも美人であった。一休とは40歳以上も歳が離れていたが、一休はこの女性を愛し、遷化するまで同棲を続けたという。

 

88歳で遷化する際も「死にとうない」と言葉を残したという。

 

酬恩庵(京都府京田辺市)に墓所があるが「後小松天皇皇子 宗純王墓」と記されており、皇族の陵墓として宮内庁が管理している。

 

幼時の奇才を伝える「一休頓智咄」も有名。実際に幼時にそのような事があったかはともかく、成人後の数々の奇行はよく知られている(ただし禅僧の奇行はありふれており、その中ではまだ大人しい方と言えるかもしれない)。

 

偈頌(禅宗の詩)集に『狂雲集』がある。

 

また、同時期に活躍した本願寺の蓮如とは、大変に仲が良かった。

ある春の一日、一休が蓮如を訪ねると、おり悪しく不在だった。一休は勝手に上がりこみ、待っている間、本堂に入って手ごろの仏像を一つ持ち出し、これを枕にして昼寝してしまった。やがて蓮如が帰って来て、「こらこら、私の商売道具に何をする」と言い、二人で腹をかかえて大笑いしたという。

 

一休は遷化する時、蓮如に頼んで、浄土念仏による引導を渡してもらいたいと遺言したとも伝わっている。

2026/05/21

契丹(3)

文化・習俗

婚姻

元来の契丹人は厳格な氏族外婚制を行い、同氏族内(耶律姓-世里氏族・遙輦氏族・大賀氏族ほか、蕭姓-抜里氏族・乙失革氏族・述律氏族ほか)の婚姻は行われなかったが、遼建国以前の契丹は大部分が両姓で占められたため両姓による通婚制とも言え、胞族外婚制と呼ばれる。

 

経済

史書では契丹は靺鞨と同じ風俗とされ、狩猟・略奪を好み、また、貂やその他の毛皮や名馬を交易したと記す。

 

5世紀後半の記録では人口十数万・雑畜数十万頭、6世紀末の記録にも同じく人口十数万・雑畜数十万頭という記述が見られるが、出土物から6世紀後半以降の農業民と手工業民の分化が認められる。また新唐書には、7世紀末に起きた契丹の大規模な略奪が書かれており、8世紀中葉から遼建国前後までは奴隷制の時代と考えられている。

 

契丹人にとって漁業は重要で、遼代に至っても漁業は大きな役割を占めていたとされる。

 

言語

史書によれば、契丹、室韋、庫莫奚、豆莫婁は同じ言語であると記されている。

12世紀、中国宋代の『夷堅志』(1198年頃)は

「契丹の小児ははじめ漢文を読むのに、まず俗語でその文句を顚倒して習っている。たとえば漢文で『鳥宿池中樹。僧敲月下門』という詩の句を読むとき、『月明裏和尚門下打。水底裏樹上老鴉坐』とするのである」と伝えており、契丹語の構成法はアルタイ系のSOV型であると推測することができる。

 

19世紀、契丹語史料の研究が進むと、ドイツのユリウス・ハインリヒ・クラプロートは満州語に似ているとし(1823年)、ショットもツングース系に属すと推定した(1880年)。これに対し、日本の白鳥庫吉は中国史書から契丹語を抽出し、これを当時の北アジア諸民族の言語と比較した結果、ある単語はモンゴル語、またある単語はツングース語で解きえるとし、契丹語はモンゴル語とツングース語の混成であると推論、現代でいえばソロン人かダフール人かのどちらかに該当するとした。

 

さらにソロン人とダフール人の使用する数詞と、中国の史書の中から抽出した契丹語の数詞「一、五、百」の三語を対照させて、それがダフール語に最も近似しているとした(1912年)。またロシアのニコラス・ポッペの研究によって、ダフール語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言であることが明らかにされた(1934年)。よって、契丹語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言に最も近い言語と考えてよい。

 

文字

契丹は中国文化や回鶻文化の影響を受け、契丹語を表記するための契丹文字を創出した。漢字をもとにした契丹大字と、ウイグル文字をもとにした契丹小字の2種類が存在する。920年(神冊5年)に遼の耶律阿保機が公布し、1191年(明昌2年)に金が契丹文字使用禁止令を出すまで使用された。

 

葬儀

史書では、子や孫が死ねばその親は泣いて悲しむが、父母が亡くなった際、泣き悲しむ者は「不壮者」とされ軽蔑される。遺体は馬車に乗せて山中に入り、樹の上に3年間置いて白骨化させた後、その遺骨を火葬する。墓はつくらず、これは室韋や豆莫婁と似ている、と記す。墳墓群も発見されており、多くは火葬された遺骨や遺灰が武具や陶器などと共に土坑へ埋葬されているが、高麗や扶余の影響を受け竪穴や石棺に埋葬されている場合もある。

 

宗教

遼代に仏教・道教・儒教が流入する以前は、上記の木吐山と魂を司る黒山に神が宿るとして、木吐山神・黒山神・天・地・日を祀り信仰していた。

 

政治体制

契丹には君長がおり、契丹を構成する8部族の部族長を束ねる。議会を開き独断をしない。代々大賀氏が君長を務めていたが、大賀氏が衰退したため協議の末に耶律氏が君長に選ばれる。など、アテナイやローマ等の古代社会に見られる軍事民主主義が布かれていた。

 

各部族長は基本的に「大人(たいじん)」と称すが、突厥に臣従していたころは「俟斤(イルキン)」と称し、唐に臣従していたころは「刺史(しし)」となった。

 

各言語での「契丹」

英語で中国の旧名であるCathay、ロシア語で中国を意味するКитай(Kitay)、モンゴル語で中国あるいは漢民族を示すХятад(Hyatad)などは契丹に由来する。

 

1113世紀におけるモンゴル高原のモンゴル人にとって、「中国」とは漢民族の宋ではなく契丹の遼であった。そのため、モンゴル語では「中国」のことを「契丹」で呼ぶようになった。

 

モンゴル帝国の拡大に伴い、モンゴル人が中央アジアや西アジアに移住した結果として、同時代のアラビア語・ペルシア語文献には、契丹や広く北中国全域を指す場合「ハター(ウ)」ないし「ヒター(ウ)」 الخطاء al-Khaā'/al-Khiā' と呼ぶようになった。特に中央アジア・イランで編纂されたペルシア語の地理書・年代記などでは、(ソグド語の時代から)中国全般を指す「チーン(支那)」چين Chīn ないし「チーニスターン(震旦)」 چينستان Chīnisān という呼称が存在し、13世紀半ばまでは北中国を指す別の呼称として「タムガーヂュ(拓跋)」 طمغاج amghāj などの語も使われていた。

 

モンゴル帝国時代以降は「ハターイ(ー)」ないし「ヒターイ(ー)」ختاى Khatāī/Khittāī という表記が一般化し、これ以降、北中国方面を指す言葉として「ヒターイー(ハターイー)」が定着していったようである。

 

モンゴル帝国時代の中期モンゴル語では、単数形のキタン Qitan よりも複数形のキタド(キタト 乞塔惕) Qitad/Kitat で呼ぶ場合がより一般的に見られ、金朝についていう時も「キタド」という呼称が使われる。たとえば「金朝皇帝」という場合、『元朝秘史』では「キタドの民の金朝皇帝」(乞塔惕 亦舌児格訥 阿勒壇 罕 Kitat-irgen-ü Altan Qan)という表現があり、『集史』のペルシア語文でも、「ヒターイーの帝王であるアルタン・ハン」( پادشاه ختاى التان خان pādshāh-i Khitāī Altān khān)と同様の表現がされている。

 

東欧においては、チンギス・ハンの孫であり、かつ長男ジョチの後継者であるバトゥが東欧を征服(モンゴルのルーシ侵攻)し、ジョチ・ウルスを成立させた。そして、現在のロシアを中心とした地域にモンゴル人が支配者として移住したことにより、東スラヴ語はモンゴル語の影響を受けた。その結果として、ロシア語では「中国」をКитайと呼ぶようになった。

 

マルコ・ポーロなど、モンゴル帝国へ訪れたヨーロッパ人が北中国や中国全般を指すのに用いた Chatay, Catay, Katay は、モンゴル語が元朝の公用語であったことに由来する。

 

東方見聞録の述べるところでは、日本語でカタイという言葉はCathayという英語になった契丹を語源とするCataiのことで、東方見聞録の頃に西洋人が考えた中国北部を言う。これに対し中国南部はマンジ (Manji) と呼ばれる。

2026/05/20

一休宗純(2)

https://dic.nicovideo.jp/?from=header

一休宗純とは、室町時代の臨済宗の僧侶、大徳寺の元住職である。

 

概要

とんち話などで書籍やアニメで知られるが、これらは江戸時代の作り話である。

しかし、実際の一休は風狂の精神の下で、奇行をしつつ室町時代中期の政治や形骸化した仏教を風刺していた。

その中で様々なエピソードを生んでいた。

 

こうした形式にとらわれない行動と人間らしい生き方が庶民の評判を呼び、とんち話を生み出すきっかけになったともいえる。

しかし大徳寺派の高僧でもあったため、貴族や武家との交友もあり、寺の復興、再建も行っている。

 

一方でいくつもの詩集を出し、また書家(能筆)としていくつもの墨蹟が珍重されていた。

 

生涯

1394年京都生まれ。母は藤原氏の一族で、一説には後小松天皇の落胤だと言われる。幼名は千菊丸。

 

6歳の時に安国寺に入り受戒、周建という戒名をいただく。このときに漢詩の才能が開花し、いくつもの作品が評判を呼んだ。

 

1410年に安国寺を出て、西金寺の謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改める。しかし1414年に謙翁が亡くなってしまう。悲しみのあまり入水自殺を試みるが失敗に終わる。

 

1415年、大徳寺の出身で近江国堅田の祥瑞庵に住む華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、道号として一休の名をいただく。

 

1420年に大悟し、華叟は一休に印可状(悟りに達したことを証明する卒業証書のようなもの)を与えようとするが、一休は辞退し寺に入らず風狂の生活を長らく送ることとなる。印可状は華叟の弟子が持っていたが、持ち込んだ際に一休は火にくべてしまった。

 

1456年には、戦災で衰退していた(現在の京都府京田辺市にある)妙勝寺を復興し、酬恩庵(一休寺)と改め、ここを住まいとした。

 

1474年、後土御門天皇の勅命により、大徳寺の住持(住職)に任ぜられた。しかし寺に住むのは断り、酬恩庵から通っていた。大徳寺は応仁の乱で荒れ果てていたが、一休の努力によって復興していった。

 

1481年に病に倒れ、酬恩庵で亡くなる。享年88。死の間際に「死にとうない」と言ったとされる。

 

人物像

風狂の生活に入ると、見た目には髪やひげを剃らずに伸ばしたまま、袈裟もぼろぼろだった。また、当時の戒律で禁じられている肉食、飲酒、性行為(女性だけでなく男性も)も行っていた。実際、実の子もいたと言われている。

 

朱の鞘に木刀を差して歩いていた。

「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、体面を飾ることしかできない当時の世相を批判した。

正月には杖の頭に頭蓋骨をつけ、「ご用心、ご用心」と練り歩いた。

 

詩集においては、当時の足利義政や日野富子による悪政を風刺、糾弾する内容も含まれていた。

 

酬恩庵や大徳寺においては、一休の手で「一休寺納豆」「大徳寺納豆」が伝えられている。

これは現在の納豆とは異なり、大豆に麹と塩をまぶして発酵させ、乾燥の後熟成させたものである。中華料理に使われる豆豉(トウチ)と製法は同じで、これが日本に伝わったものといえる。

2026/05/12

契丹(2)

遙輦氏の時代

この頃に、大賀氏と八部は先述の戦乱と内紛で衰微逃散し、八部の大帥であった遙輦氏の李懐秀(遙輦組里)が涅里によって立てられ阻午可汗となる。

 

745年、唐に降り、李懐秀は松漠都督に任じられ、崇順王に封じられる。また、静楽公主の降嫁を受ける。同年、奚ともに反乱を起こし、静楽公主を殺したが、唐の節度使であった安禄山によって敗れる。唐によって、楷落が恭仁王に封じられる。

 

750年、安禄山によって契丹・奚の酋長が多く毒殺される。

 

751年、契丹が反乱を起こそうとしているとして、安禄山によって攻められたが、これを大破する。

 

753年、再び、唐に降伏する。

 

756年、安史の乱の勃発後、安禄山が不在となっていた范陽を奚とともに攻撃する。なお、安禄山配下には、多数の契丹人が入っていたと伝えられる。

 

この後、安史の乱の混乱と後に河北に節度使が割拠することにより、文献によって記述が大きく異なり判然としないが、遙輦氏が3部の耶律氏・2部の審密氏(後の蕭氏)を含めた一族の10部とも12部とも20部とも記される諸部が、契丹を統治したとされる。また、河北の節度使が兵備を厳しくしたため契丹の侵攻は少なく、毎年もしくは隔年に使者が長安に入り、唐の皇帝に面会した。その一方で、契丹はウイグルに付随していたと伝えられる。842年、ウイグルが破れたため、酋の屈戍(耶瀾可汗)が唐に内附し、印を与えられる。

 

咸通年間に、唐に使者を入朝させた契丹王・習爾(巴剌可汗)の時に部族はようやく強くなり、習爾の死後、一族の欽徳(痕徳菫可汗)が後を継いだ。唐末、光啓年間に奚や室韋を侵略して服属させ、劉仁恭を何度も攻めた。欽徳の晩年に政治が衰え、その死後、迭剌部の耶律阿保機(やりつ あぼき)が契丹王となった。

 

10世紀に耶律阿保機が登場し八部を纏め、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て国号を遼とし、契丹国皇帝となった。契丹は勢力を拡大して、北の女真や西の西夏・ウイグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海や西の烏古を滅ぼした。二代目耶律徳光の頃、後唐では内紛が起こり、石敬瑭(せき けいとう)に正統なる者として晋皇帝の称号を与え、援助をし燕雲十六州の割譲を成立させる。こうして後唐は滅び、後晋が建国となる。

 

その後、しばらくの間は中国文化を取り入れようとする派と、契丹の独自風習を守ろうとする派とに分かれて内部抗争が起き、南に介入する余裕が無くなった。その間に南では北宋が成立する。内部抗争は六代目聖宗期に一段落し、再び宋と抗争するようになった。

 

1004年、南下した遼と北宋は盟約(澶淵(せんえん)の盟)を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。経済力を付けた遼は、東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。

 

しかし宋からの財貨により、働かなくても贅沢が出来るようになった遼の上層部は次第に堕落し、武力の低下を招いた。また内部抗争も激しさを増し、その間に東の満州で女真族が台頭し、1125年に宋の誘いを受けた女真族の金により遼は滅ぼされた。

 

この時に皇族の耶律大石(やりつ たいせき)は部族の一部を引き連れて、中央アジアに遠征し、西ウイグル王国・カラ・ハン朝を征服、契丹語でグル・ハーン、中国語では天祐皇帝と称号を改め西遼を建てた。

 

1126年、現在のキルギス共和国の首都付近にクズ・オルドという都を定める。トルコ人にはカラ・キタイと呼ばれた。これは黒い契丹の意味である。耶律大石は更にセルジューク朝の軍を撃破して中央アジアに基盤を固め、故地奪還を目指して東征の軍を送るが、途上で病死した。

 

耶律大石死後の西遼は中央アジアで勢力を保持したが、チンギス・ハーンによってモンゴル高原から追われて、匿ったクチュルクによって簒奪され、西遼は滅びた。

 

遼の滅亡後

一方で遼が滅びた時に残った人々は金の中で諸色人に入れられて、厳しい収奪を受けた上に対南宋戦争では兵士として狩り出され、これに反発した契丹族は度々反乱を起こした。特に金の海陵王の時の反乱は、海陵王が殺される大きな要因となった。

 

金滅亡後は、チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国の下で漢人に組み入れられた。元来、遊牧民でモンゴル周辺部に居住していた彼らは、ほとんどがモンゴル人と普通に会話でき、大半は中国語や漢文にも長けていた。その為、漢人とモンゴル人の橋渡しを行うことが多く、この中にモンゴル帝国に仕えた耶律楚材がいる。

2026/05/11

一休宗純(1)

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。愛称は、一休さん(いっきゅうさん)。

 

生涯

出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤と伝えられている。母親の出自は不詳だが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存する。

 

また、一休は地蔵院の近くで生まれた後、6歳で出家するまで母(伊予局という)とともに地蔵院で過ごしたと伝えられている。

 

幼名は千菊丸と伝承され、長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などとも号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号。

 

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となった。

 

応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしており、謙翁の死から一週間、石山観音に籠もるも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まったという。

 

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。

「洞山三頓の棒」という公案に対し

「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

と答えたことから、華叟より一休の道号を授かる。

「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。

 

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、権威を否定する一休は辞退した。その毅然とした振る舞いを見た華叟は、口では「ばか者」と言いながらも、笑って送り出したと伝わる。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。

 

文明21470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会う。

 

文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持を任せられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。

 

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。臨終の際の言葉は「死にとうない」であったと伝わる。墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈楊塔」と呼ばれるが、宮内庁が管理している陵墓であるため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできないが、廟所の建物は外部からでも見える。参拝は門の前で行う。

 

逸話・作品

伝・墨渓筆『一休宗純像』(重要文化財、奈良国立博物館所蔵)。1447年(文安4年)、一休が54歳の頃の作で、曲彔に座す一休は傍らに「朱鞘の大太刀」を立てる。上部は一休の自賛。

以下のような逸話が伝わっている。

 

印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。

男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。

 

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。

 

親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。

 

正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。「人はいずれ死ぬから正月とはいえ浮かれ過ぎるな」という無常を訴えたとも、ドクロの眼孔を差して「目出たい(めでたい)」の洒落であったとも伝わる。

 

こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも窺える。

 

このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。

 

一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された(なお、珠光の師という説は、現在の研究ではやや疑わしいとされる)。

 

著書(偽書を含む)に、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『一休骸骨』などがある。

 

東山文化を代表する人物でもある。また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。

 

名言

門松は冥途の旅の一里塚馬駕籠もなく泊まりやもなし / 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

 

釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな

 

秋風一夜百千年 - 秋風のなか、あなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ。

 

女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む

 

世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って、後は死ぬるを待つばかりなり

 

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

 

えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり - 本願寺で行われた開祖親鸞の二百回遠忌に、他宗の僧侶としてはただ一人参拝し、山門の扉に貼り付けて帰った紙に書かれていた。

 

分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月こそ見れ

2026/05/07

契丹(1)

契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qìdān、英:Khitan)は、現在のモンゴル、中国東北部、極東ロシアに相当する地域に4世紀頃から居住していた北東アジアの歴史上の民族である。遊牧民であったとされている。

 

契丹人は、モンゴル祖族の鮮卑を経由した子孫であり、側モンゴル語であり現在は消滅している契丹語を話した。契丹人は、シベリア、モンゴル、中国北部の広大な地域を支配した遼王朝(9161125)を建国し、その指導者となった。遼朝の契丹族は、契丹小字と契丹大字の2種類の独立した文字を使っていた。

 

1125年、金の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が耶律大石の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ(西遼王朝)を建国した。このほか、中国の北遼、東遼、後遼、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。現在、中国東北部の少数民族として認められているダウール族は、契丹人の遺伝的子孫である。

 

中国の歴史的名称である「キタイ」は、契丹という言葉に由来している。

 

歴史

契丹の起源と黎明期

『遼史』に記される伝承によれば、土河(老哈河)の東にある馬孟山(馬鞍山)から白馬に乗った神人が、潢河(西拉木倫河)西岸の平地松林から青い牛の牛車に乗った天女と、両河の合流地点にある木吐山で出会い結婚して8人の子を儲け、契丹古八部の祖先になったとされ、中国の歴史教科書にも紹介されている。また、永州木吐山に始祖・奇首可汗の祖廟があり、可敦(皇后)と先の八子の像が在るとする。

 

契丹の起源は、拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、庫莫奚もしくは室韋と同系になると考えられている。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。『魏書』、『北史』、『隋書』によると、宇文部であった奚(庫莫奚)ともつながりがあり、ともに4世紀半ばに前燕の慕容皝に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、388年に北魏に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。

 

5世紀に至って人口が増え、北魏の北方を侵すようになった。5世紀半ばから、北魏に朝貢し、交市を行うようになった。479年、柔然と組んだ高句麗の侵略を怖れ、北魏に来降し、白狼水(今の大凌河)の東岸一帯に移り住んだ。この時の人口は、1万余人であったと伝えられる。6世紀に入っても、北魏への朝貢は絶えなかった。

 

553年には、北斉の国境を侵して文宣帝に敗北し、部族の大部分が捕らえられて、諸州に分置される。残った部族もまた、突厥に攻められ、高句麗を頼っていった。

 

この時代の契丹は、悉万丹・阿大何(大賀)・具伏弗・郁羽陵・日連(遙輦)・匹黎爾・吐六干・羽真侯の古八部から構成され、常には連盟していなかったとされる。

 

大賀氏の時代

6世紀末〜8世紀には、西は老哈河から東は遼河・南は朝陽までの地域に住み、北斉に従属していた9つの州に居住する大賀氏八部(構成部族)が連盟を結び、紇使部から出た大賀氏を君長に戴いていた。戦争を行う時は八部が合議して行い、独断で行うことはできない合議体制であった。狩猟は部別に行われたが、戦争は合同で行ったと伝えられる。

 

7世紀後半の東夷諸国と唐の羈縻(きび)支配。

当初は突厥に臣事し、八部の族長は俟斤(イルキン)の官に任じられる。584年から585年にかけて、隋に来降する。

 

586年、部族同士の争いが行われ、隋の文帝(楊堅)は使者を使わしてこれを責める。そのため、契丹は隋に罪を謝した。この後、高句麗に従属していた曲拠部-玄州、突厥に従属していた内稽部-威州の合わせて10部族が隋へ帰順する。隋は突厥との友好のため、彼らを故地に帰そうとしたが、これを拒否し北に移って遊牧する。突厥は沙鉢略可汗の時に人を遣わして統治したが、契丹はこれを殺して逃れ、611年に改めて隋に朝貢する。

 

618年、隋末唐初の戦乱の際に、中国を侵略し、619年には平州を攻める。621年、契丹別部の酋帥である孫敖曹が唐に使いを遣わし、附く。623年、唐の李淵に使者を送り、貢納を行う。628年には、君長の摩会が部族を率いて、唐に来降する。突厥の頡利可汗は引き渡しを求めたが、唐の李世民はこれを拒絶した。

 

645年、唐の高句麗攻撃に参加し、その帰路に君長である大賀氏の窟哥が左武衛将軍に任じられる。648年には唐に内属し、松漠都督および使持節10州諸軍事に任じられ、国姓の李氏をもらう。この頃には、突厥から来降した松漠部-昌州・沃州の両州と、紇使部から別れた乙失革部-帯州を加え12部となり、勝兵4万余を擁して羈縻政策の管理下へ置かれた。

 

窟哥の死後、松漠都督の阿卜固が奚と結んで反乱を起こすが、660年、唐の行軍総管である阿史徳枢賓に敗れて鎮圧された。窟哥の孫である李尽忠が松漠都督となる。

 

6965月、武則天の統治下のもと、営州都督・趙文翽の横暴略奪に不満が高じて、李尽忠と孫敖曹の孫・孫万栄が趙文翽を殺害し営州を奪うと、10日の内に数万の兵が蜂起、再度反乱を起こした。契丹軍は兵を率いて河北一帯を寇掠し、828日には西硤石谷・黄獐谷で唐軍を大破するが、その後平州の攻略に失敗、1022日に李尽忠は病死した。

 

6973月、孫万栄は再び唐軍と東硤石谷で交戦し壊滅させる。5月に入り、唐は20万の兵を組織。6月下旬に契丹軍は趙州を攻略するが、数日後に唐軍が奚を率いて孫万栄の新築した城を落城させると、将兵の心が離れ契丹軍は潰散、630日に孫万栄は部下の手で謀殺された。これにより、契丹は突厥の傘下に入ることとなった。700年、李楷固ら、かつての孫万栄から唐に降伏した将によって、契丹は敗北する。

 

714年(715年?)、契丹首領の李失活(李尽忠の従父弟)が部族を率いて、玄宗期の唐に降伏する。李失活は改めて松漠都督となり、松漠郡王に任じられる。李失活は長安に出向き、717年、宗室外の女子である永楽公主の降嫁を受ける。

 

718年、李失活が死去し、その従父弟の娑固が後を継いだ。娑固は大臣であり、驍勇で衆心を得ていた可突干と不仲となり、可突干に攻められ営州まで逃亡する。唐の営州都督は、娑固と奚王・李大輔および唐軍の精鋭500名に可突干を攻撃させるが、娑固・李大輔は殺され唐軍の将は捕らえられる。営州都督は西に逃亡した。可突干は娑固の従父弟にあたる鬱干を立て、唐に罪を乞うたので鬱干が松漠都督に任じられた。

 

722年、鬱干は長安に出向き、降嫁を乞うたので松漠郡王に封じられ、燕郡公主が降嫁する。可突干も来朝し、左羽林将軍に任じられる。723年、鬱干が死去し弟の吐干が後を継ぎ、燕郡公主を妻とする。吐干は可突干と反目し、725年、燕郡公主とともに唐に来奔し、契丹にもどらなかった。そのため、可突干は李尽忠の弟である邵固を主とした。冬に、玄宗の泰山への封禅の際に、邵固は行在所に出向き、広化郡王に封じられ、東華公主が降嫁させられる。可突干は唐に冷遇され、不平を抱いていたと伝えられる。

 

730年、可突干は邵固を殺し、奚とともに突厥に降る。可突干は屈列(洼可汗?)を主とする。732年、唐の信安王・李禕率いる唐軍に敗れ、多くのものが捕らえられて、可突干は逃亡し、奚も唐に降伏する。733年、唐を侵略する。可突干は突厥と連合し、唐軍を大破する。唐の討伐軍に張守珪が任じられ、可突干は偽って降伏し突厥に就こうとするが、張守珪の離反策により、可突干を兵を分掌していた松漠府衙官・李過折が夜襲を行い、可突干と屈列を殺した。

 

735年、李過折は唐により北平郡王に封じられ、松漠都督となる。同年、可突干の余党であった涅里(泥里とも表記される。「遼史」によると耶律阿保機の始祖にあたる)が、李過折を殺し、その子・剌干は唐に逃げていった。737年、張守珪によって、再度破られる。

2026/05/06

世阿弥(世阿彌)

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18/貞治2年(1363年)? - 嘉吉388日(144391日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は、観世流として現代に受け継がれている。

 

幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名〈戒名〉は阿弥陀仏〈阿彌陀佛〉号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。

 

生涯

世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した。

 

1374年または1375年、観阿弥が新熊野神社で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では、将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して、世阿弥は観世太夫を継ぐ。

 

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

 

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

 

義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

 

1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。公的記録に佐渡への流罪の記録は見つからず、流罪の原因は不明で、世阿弥自身は『金島書』で無実の罪としている。娘婿の金春禅竹が世阿弥の妻の面倒をみるとともに、佐渡にものを送り届け生活にさほど不便でなかったらしい。

 

同地で亡くなったという説が有力であるが、後に赦免されて帰洛したともいわれ、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したとの能帳も残るとされ、大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば、嘉吉3年(1443年)に没したことになっている。

 

業績

世阿弥の作品とされるものには、『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されている。また、『風姿花伝』などの芸論も史料価値だけではなく、文学的価値も高いとされている。

 

芸道論

著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。

 

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」

として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。

 

世阿弥が述べた「離見の見」とは、演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもつことである。

 

後世の評価

著書『十六部集』が1883年に発見され、能の大成者として高い評価を受けるようになったが、現在の観世家が音阿弥につながる流れとなったこともあって、一般のみならず能楽師の間でもほとんど忘れられていた。

 

2000年(平成12年)に朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏、岸田秀、ドナルド・キーン、堺屋太一、杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、世阿弥は徳川家康・織田信長に次いで得票数で3位を獲得した。

2026/04/30

遼(契丹)(1)

遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。

 

中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。

 

名称

建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、便宜上まとめて遼とする。

 

歴史

11世紀のアジア

現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。

 

太祖耶律阿保機は、西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

 

さらに2代耶律徳光は、五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて、多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

 

宋の太宗は、燕雲十六州の奪還をもくろんで北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。

 

6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り「澶淵の盟」を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

 

その後は、宋から入る収入により経済力をつけたことで国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

 

女真は次第に強大になり、1115年には自らの金王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗した。

 

この遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた(遼の滅亡)。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や、13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。

 

政治

遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。

 

北面官の機関には、北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。

 

南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし、南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。

 

この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋の体制に一本化しようとする派と、契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。

 

遼の兵制は北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。

 

地方行政

遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市として「府」が設けられた(複都制)。

 

    上京臨潢府(現在の内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗南波羅城)…キタイ人の本拠

    東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)…渤海人の中心地

    中京大定府(現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県)…奚人の中心地

    西京大同府(現在の大同市)…沙陀チュルク人の中心地

    南京析津府(燕京:現在の北京市)

 

首都は、上京臨潢府で、内モンゴル自治区バイリン左旗(赤峰市北方の大興安嶺山脈の麓)の南に置かれた。遼の五京制は、女真(ジュシェン)国家の金朝にも引き継がれた。

 

日本との関係

中国()と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある。

 

また日本側の『中右記』によれば、寛治6年(1092年)913日の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で、検非違使から取り調べを受けている。

 

続いて、嘉保2年(1094年)525日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された。

 

なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として、遼の太祖を挙げている。

 

『将門記』によれば、939年の承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣・藤原忠平の四男の藤原師氏に当てた奏状には

 

「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」

 

との一文がある。

 

高麗との関係

993年、契丹は鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するために、はじめて高麗に侵攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)を行うことを告げた。

 

その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。

 

高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼の聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道郭山郡)を攻陥した。