2019/04/01

徐福(1)

徐福(じょふく、拼音: Xú Fú、生没年不詳)は、秦の方士。斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。本来の表記は徐巿(じょふつ)。日本に渡来したという伝説がある。

 

概要

『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。

 

東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった。魏晋南北朝時代の487年、瀛州は行政区分として制定されている。

 

同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ援助を得たものの、その後始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており

「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師」

として描かれている。

 

又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。

司馬遷「淮南衡山列伝」『史記』 巻百十八。

 

出航地

出航地については、紀元前219年の第1回出航は河北省秦皇島市、第2回の紀元前210年の出航では浙江省寧波市慈渓市が有力とされる。しかし、すべては淮南衡山列伝を基づいた推測である。淮南衡山列伝は、秦の始皇帝を騙した詐欺師の話で昔の中国人によく知られている伝説であった。昔の中国人は徐福がどこに逃げたか全く知らなかったが、台湾か日本に辿り着いたのではないかと推測した。そして、徐福が日本にたどり着いたという話が創作されるようになった。

 

伝承

徐福に関する伝説は、中国から日本や朝鮮半島に伝わって散在し、内容は地域によって様々であるが、いずれもほとんどが後代に作られた「淮南衡山列伝」の記述に基づいたものである。昔の中国人も、徐福がどこに逃げたかはっきりしていなかったが、徐福が日本に逃げ出したと推測を記録しており、これが日本に伝わって多くの伝承が創作された。しかし、学者たちは徐福の到来は根拠がなく、虚構であって徐福は実際には日本に渡来していないという。この虚構の伝承は中国と日本に拡散し、徐福が天皇の先祖で大和政権を建設したとか徐福が秦氏の先祖であるという虚構の伝承が作られるようになった。

 

日本における伝承

徐福が日本に渡来したのではないかという中国の伝説は日本にも伝わり、多くの伝承がある。徐福が当国に辿り着いた地として熊野(現在の三重県熊野市波田須町)周辺との伝承が残っている。昔の熊野のあたりが『秦住』と書いた、徐福の住舊地を土人に伝えされている。波田須駅付近には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。 また、同地からは秦代の貨幣である秦半両が出土しており、伝説と関連するのではとも言われている。近隣の和歌山県新宮市には、徐福の墓とされるものが伝わっており、徐福公園が造られている。

 

熊野が蓬莱に擬せられて、熊野三山が三神山に擬ぜられた俗説である。

 

むかし異朝秦始皇帝、長生不老の仙薬を求め給ふこと、宋無忌といふもの奏すらく、扶桑の東に三ッの仙山あり。この山に仙人夥住みて、不老不死の薬を煉るといへり。方士徐福と呼ばるもの、徃に彼の仙山へ到りし事ありと申す。時に日本孝霊天皇の御宇、徐福は辛うじて彼処までは来たれども、終に不死の薬をとり得ざれば、ふかく後難を怕れて、唐山に帰らず。その身はやがて熊野に留まり、徐福熊野にて身まかりしと聞こえければ……。

『椿説弓張月 巻之一』

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