2019/04/02

徐福(2)

福岡県八女市山内(童男山古墳)には、徐福が渡航後に立ち寄り体が温まるよう村人が枯れ木や落ち葉を燃やして助けたとの言い伝えが残り、徐福を弔う伝統行事「童男山ふすべ」が残っている。

 

佐賀県佐賀市の伝承では、同市の金立山に徐福が発見したとされる「フロフキ」という植物が自生する。フロフキはカンアオイ(寒葵)の方言名で、地元では俗に「不老不死」が訛ってフロフキになった等ともいい、金立地区ではその昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。

 

京都府伊根町の伝承では、徐福は同町に辿り着いたとしている。町内にある新井崎神社付近は、菖蒲や黒節のよもぎなどの薬草が自生しており、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。高い文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で麻疹が流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福を新井崎神社に祀ったところ救われたと伝えられる。現在も同社には徐福が祀られており、所蔵する古文書『新大明神口碑記』にも彼の事が記されている。しかし、新大明神口碑記は、江戸時代の末期か近代に作られたものと評価されていて、正統の歴史学者たちは認めていない。

 

長野県佐久市の伝承では、徐福は蓼科山に住んでいた時に双子を儲けたとされ、彼らが遊んだ場所を「双子池」や「双子山」と名付けたという。

 

愛知県名古屋市の伝承では、紀元前210年(皇紀451年) - 秦の始皇帝が不老不死の薬を探し、日本にあるという情報から方士の徐福という者に手に入れるようにと命じた。寧波より、80隻の船に6000人でやってきた。その時に松巨島にも立ち寄ったとある。

 

他にも鹿児島県出水市・いちき串木野市、宮崎県延岡市、広島県廿日市市、愛知県一宮市・豊川市、東京都八丈町、秋田県男鹿市、青森県中泊町などに伝承が存在する。

 

中国における伝承

亶州は徐福が住み着いて、その子孫が暮らしているという伝承がある。住民は会稽郡東冶県に、時々は交易に来ていたという。夷州は台湾説・沖縄説・日本説があり、亶州は海南島説・ルソン島説・沖縄説・種子島説・日本説・済州島説がある。しかし、徐福が出てくる文献は、すべて淮南衡山列伝を基づいていて、淮南衡山列伝にも徐福はどこにたどり着いたのか書かれていない。亶州に秦の徐福が住み着いたという説や、夷州と亶州を海外国とする説など全部歴史的な根拠はなく、淮南衡山列伝からの創作にすぎない。

 

伝承から創作が行われて、後代に作られた釈義楚の義楚六帖には、徐福が富士山に漂着したことが記され、顕徳五年(958年)に弘順大師が「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し」と伝えたという。

 

北宋の政治家・詩人である欧陽脩は淮南衡山列伝を基づいて、徐福が日本に渡来したと推測し『日本刀歌』を創作した。

 

『日本刀歌』には

「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧(日本人の祖である徐福は秦を欺き、薬を採取して連れて行った若者たちと、その地に長らく留まった。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)」

という内容で、日本を説明する部分が存在する。

 

朝鮮における伝承

朝鮮王朝の申叔舟が創作した『海東諸国紀』には、孝霊天皇の御代に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。この記述は、史記において徐福の記事がある始皇帝28年の翌年に、記紀に書かれる孝霊天皇即位72年を機械的に当てはめて説話を集めたものである。

 

孝霊天皇七十二年,泰始皇遣徐福入海求仙,福遂至紀伊州居焉。崇神天皇十七年,是時熊野権現神始現,徐福死而為神,國人至今祭之。

『海東諸國記 日本國紀』

 

研究・調査・交流

1982年、中国において『中華人民共和国地名辞典』編纂の際の調査中、江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮にある徐阜という村が清の乾隆帝の時代以前に「徐福村」と呼ばれており、徐福にまつわる伝承や遺跡があることが判明した。ただし、1980年代になるまでは、現地の旧家では「明代になって、先祖がこの地に移住した」との伝承がなされていたことと、徐福の実在性自体が疑わしいことから、日本からの観光客を狙った村おこしではないかとの指摘がなされている。実際に徐阜村には日本人観光客が多く訪れ、名物「徐福茶」も好評だという。

 

また徐福が出航したとされる候補地の一つ、慈渓市では2000330日に「徐福記念館」が開館したことを契機に、日本の徐福研究者や縁者との交流が始まり、翌2001年秋には慈渓市竜山鎮文宛南路に「徐福小学」が開校した(なお、同校の揮毫は徐福の末裔と主張する日本徐福会名誉会長で、内閣総理大臣も務めた羽田孜が行った)。

 

200810月、佐賀市に於いて佐賀・徐福国際シンポジウムが開催された。日本・中国・台湾・韓国から研究者が多数参加し、発表を行なった。吉野ヶ里遺跡との関連についても講演が行なわれた。

 

超古代史論

イスラエルの失われた10支族

近代の中国には、徐福の末裔が天皇であるとか徐福が秦氏の先祖であるという話が創作されていて、[要出典]「徐福」と「秦氏」は本当は「古代イスライム」から「秦」に渡って来た「イスラエルの失われた10支族」の一族とされている説も作られるようになった。[要出典]

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