2024/07/06

イスラムの発展

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イスラムの発展

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正統カリフ時代

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 ムハンマドが死んでからの時代を、正統カリフ時代(632~661)といいます。

 

 ムハンマドが死んだ時点で、イスラムはアラビア半島を統一して大勢力になっていましたね。この大きな集団を誰が統率するかということが当然問題になる。まず、ムハンマドには、跡取りとなる男の子がいなかった。またムハンマドは「最後にして最大の預言者」ですから、かれ以上の宗教指導者は理論上現れることはない。結局、残された信者たちは、選挙で自分たちの中から指導者を選ぶことにしました。このようにして選ばれた信者の指導者を「カリフ」といいます。カリフは「預言者の代理人」という意味です。

           

 ムハンマド死後、選挙で選ばれたカリフのことを「正統カリフ」といいます。正しい手続きで選ばれたカリフということです。正統カリフは四人つづき、イスラム共同体を指導したこの時代を「正統カリフ時代」というわけです。

 

 最初の正統カリフがアブー=バクル、二代目がウマル、三代目がウスマーン、四代目最後の正統カリフがアリーです。最後のアリーだけは、しっかり覚えておいてください。

 

 さて、この正統カリフ時代は、アラブ人の大発展が始まります。それまで、部族対立でバラバラだったアラブ人が、イスラムによって一つにまとまる。これは非常に大きな政治的勢力になって、アラブ人のエネルギーがアラビア半島の外に向かって爆発する。

 

 アラビア半島の北、メソポタミア地方からシリア方面はどういう情勢だったかというと、長く東ローマ帝国とササン朝ペルシアが対立抗争して、両者とも疲弊していた。そこにイスラム=アラブ人がなだれ込んでくる。

 642年、ニハーヴァンドの戦いで、イスラムはササン朝ペルシアを破る。この後、ササン朝は急速に衰えて651年には滅亡して、その領土はイスラムの支配下に入ります。

 また、イスラム勢力は東ローマ帝国とも争い、シリア、エジプトを奪いました。

 

 この段階で、イスラム教徒はほとんどアラブ人ですから、イスラムの発展は、イコール、アラブ人の発展です。

 このようにして、イスラム教の支配地が急速に広がる。イスラム教徒たちは、征服地にミスルと呼ばれる軍事都市を建設します。新領土の拠点となるところにミスルを建設して、ここにアラブ人が移住します。

 

 アラビア半島から出てきたアラブ人の戦士たちは、各地のミスルに住んで周辺の住民を支配するわけですね。

 支配された被征服諸民族はジズヤと呼ばれる人頭税、ハラージュと呼ばれる土地税の支払いを義務づけられました。イスラム教徒は、非イスラム教徒に改宗を強制はしなかったようです。ジズヤとハラージュさえ払ってくれれば、それで満足です。

 

 集められた税金は、ミスルに移住したイスラム=アラブ人戦士たちに年金として支払われました。この年金をアターといいます。また、イスラム教徒は免税特権を持っていた。

 

 正統カリフ時代には、イスラム教徒=アラブ人は支配者階級であり、特権階級としてエジプトからシリア、イラク方面を支配したのだということですね。

 

 こうなってくると、カリフは単なる信者の指導者としてだけでなく、この広大な支配地の支配者として、強大な権力と富を手にすることができるようになってきます。正統カリフに選ばれた人たちは、みなムハンマドが布教を開始した頃からの古い信者で、質素で素朴な信仰生活をおくっていた人たちなのですが、それでも三代目のウスマーンは王侯のような贅沢な生活をした。指導者層の間にも、俗な欲望を持つ者もあらわれてくる。イスラム共同体=ウンマがだんだん変質して、共同体が理念だけになってくるのです。

 

 ウスマーンは、その贅沢ぶりに反感を持つ信者グループに暗殺され、次の第四代の正統カリフになったのがアリーです。

 アリーは、現在でもイスラム教徒の中では人気の高い人です。武人として剛胆、信仰も堅固、性格は実直。しかも、ムハンマドのいとこ、かつ、娘婿でもあった。ムハンマドの娘ファーティマと結婚していて、二人の間には息子もいます。この子供は、ムハンマドの孫にもあたるわけですね。血縁の点で、アリーは特別な人だったのです。

 

 が、実際の政治的能力はそれほどでもなかったようで、イスラムの中で生まれかけていた派閥対立をうまく調整することができなかった。

 シリア総督だったムアーウィヤが、アリーのカリフ位に反対したのです。

2024/07/04

玄奘(1)

玄奘(げんじょう、602 - 66437日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(ちんい)。諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵など。玄奘三蔵と呼ばれ、鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とされる。

 

629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って、645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著した。

 

生涯

仏教への帰依

陳褘は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い洛州緱氏県(現在の河南省洛陽市偃師区緱氏鎮)で陳慧(または陳恵)の四男として生まれた。母の宋氏は洛州長吏を務めた宋欽の娘である。字は玄奘で、戒名はこれを諱とした。生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある。

 

陳氏は、後漢の陳寔を祖にもつ陳留出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。特に曽祖父の陳欽(または陳山)は、北魏の時代に上党郡太守になっている。その後、祖父である陳康は北斉に仕え、緱氏へと移住した。

 

8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳褘は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳褘の神童ぶりが評判となった。

 

10歳で父を亡くした陳褘は、次兄の長捷(俗名は陳素)が出家して洛陽の浄土寺に住むようになったのをきっかけに、自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。ほどなくして度僧の募集があり、陳褘もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。これを知った隋の大理卿である鄭善果は、陳褘に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、陳褘は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた。これに感じ入った鄭善果は、「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、陳褘は度牒を得て出家した。こうして兄と浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ。

 

武徳元年(618年)、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄と長安の荘厳寺へと移った。しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった。かつて煬帝が洛陽に集めた名僧らは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。また益州各地に先人を尋ねて『涅槃経』、『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究を進め、歴史や老荘思想への見識を深めた。

 

武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた。ここまで行動を共にしていた長捷は、成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘は一人で旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ。

 

西域の旅

玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国し、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至った。

 

高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったため、当初は高昌国の国師として留めおこうとしたが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助し、通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせた。玄奘は西域の商人らに混じって、天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。