2007/10/28

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番(第1楽章)

 


 1781年、モーツァルトは生まれ故郷ザルツブルクを追い出され、ウィーンでフリーの音楽家として生活することになった。彼にとってここでの生活の糧は、裕福な貴族や社交界を対象にしたコンサートであった。

 

 彼はピアノの名手ということもあり、18年の間に21曲のピアノ協奏曲を書き上げた。特に、この曲が作曲された1784年から1786年までは、音楽家として作曲・演奏ともに円熟味が増し、またそれらを発表する良い機会も得て順風満帆の時期となった。

 

 モーツァルトは、短調のピアノ協奏曲を2曲(もう1曲は第24番 ハ短調)作曲している。

 華やかさが求められた当時の協奏曲とはうってかわって、それまでの彼の協奏曲には見られない、激しいパッションの表出的な性格を帯びている。暗く不安げな旋律、劇的な展開、厳しさと激しさの入り混じった感情など、とても強い表現性を持った作品といえる。

 

 次の日に初演を迎えていた前日、まだパート譜の写譜が間に合ってはいなかった。

 土壇場で完成した曲にもかかわらず、ちょうど演奏会当日にウィーンに訪れた父レオポルト・モーツァルトは

 

 「この協奏曲は堂々としていて、オーケストラも立派に演奏してのけた」

 

 と、モーツァルトの姉ナンネルに報告している。

 この曲を境として、モーツァルトらしさが出てきた作品が多くなったと言われている。

 この作品は、モーツァルトの死後も演奏された数少ない協奏曲の1つである。

 

 第1楽章の365小節目と第3楽章の345小節目にはカデンツァの指定がある。作曲者自身によるカデンツァは残されていないが、若きベートーヴェンやブラームスはこの曲に心酔し、自作のカデンツァを作曲している。とりわけベートーヴェンによるカデンツァは有名で、演奏会や録音で最もよく演奏されている。演奏者自身が作曲したカデンツァを弾くこともある。

 

 シャルル=ヴァランタン・アルカンは全楽章をピアノ独奏用に編曲しており、第1楽章のカデンツァでは本曲と交響曲第41番第1楽章のモティーフが、第3楽章のカデンツァでは本曲の第12楽章のモティーフが展開される。

 

 モーツァルトの弟子のヨハン・ネポムク・フンメルは、カデンツァを作曲すると共に、ピアノ・フルート・ヴァイオリン・チェロ用の編曲を残しており、白神典子らが録音している。

 また、スターリンが最も好んだ曲でもある。

2007/10/26

日本シリーズ開幕

  プロ野球のクライマックス・シリーズ(以下、CS)が終わり、いよいよ日本シリーズが始まる。

 

毎年、好試合が続くパリーグのCSは、今年も第一、第二ステージともに最終戦まで縺れ込み、どっちが勝ってもおかしくない接戦の末、最終的にはシーズンの順位通りの結果となった末に、日本ハムが昨年に続いてシリーズに勝ち上がった。

 

対照的にまったく盛り上がらなかったのが、今年からCS制度が導入されたセリーグで、こちらは第一ステージ(阪神に2連勝)、第二ステージ(Gに3連勝)ともに一方的な展開で、中日が呆気なく勝ち上がってしまった。

 

導入当初から、一貫してこの制度に反対を貫いているワタクシが、もっとも畏れていた事態が現実になったのだ。半年のシーズン144試合で優勝を勝ち取ったGは、この3連敗によってセリーグ優勝を否定されたも同然だ。

 

元々、上位三チームであるし、そもそも一応は「プロ」なのだから、どのチームも実力的にそんなに差があるわけでなく、その時の調子やコンディションによっては3連勝、3連敗は往々にしてあるのは、シーズンを見ていても明らかである。これで日本シリーズの出場権を決めるのでは、やはり

 

「何のためのシーズン144試合か?」

 

と思えてしまう。某解説者が言っていたように、今年の場合はGに長いブランクがあったのに加え、初めてCSを経験するGと昨年はシリーズで煮え湯を飲まされた中日という、短期決戦の経験値の差が大きかったと思う。もっとも、今年のGに限っては優勝とは名ばかりで、中日にも阪神にもコテンパンにやられ続けてきていたのだから、この両チームに対する実力はこんなものだろうと、個人的にはある程度予測はしていたのだったが。

 

とにもかくにも、これで日本シリーズは、昨年と同じ「中日vs日本ハム」という顔合わせとなった。似たような両チームであり、また昨年も同じ日本シリーズを戦い今年もまたCSを勝ち上がってきた両チームだから、いずれにしろGのようなハンディはないだろう。チーム力としては、どちらもこれといった爆発力はないものの、勝ち方を非常によく知っている強かなチームだが、ワタクシの見る限りは総合力では日本ハムの方がやや上回っているように感じる。

 

ここ数年のCSを見ている限り、全体的にパリーグの方が実力的に上なのではないか、というのがワタクシの一貫した見方であり、特にここ一番に畳み掛けるような日本ハムの集中力は、中日には真似が出来ないだろう。中日としては、日本ハムには昨年のこの舞台で殆ど手も足も出ないような感じでやられているだけに、どれだけ執念を見せて食い下がれるかが注目される。

 

2002年にGが日本一になったのを最後に、2003年以降は4年連続でパリーグがチャンピオンの座に輝いているだけに、今年こそは中日に頑張ってもらいセリーグに覇権を取り戻して欲しいところだが、果たして日本ハム、そしてパリーグの厚い牙城を破る事が出来るか?

2007/10/21

ドリーブ バレエ音楽『シルヴィア』

 


クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ(Clément Philibert Léo Delibes, 1836221 - 189116日)は、バレエ音楽や歌劇で知られるフランス・ロマン派の作曲家である。

 「フランス・バレエ音楽の父」と呼ばれる。迫力や壮大などといった言葉とは無縁の、優美で繊細な舞台音楽を残した。

 

 1836年、フランスの現在のサルト県に位置するサン・ジェルマン・デュ・ヴァル(Saint-Germain-du-Val)に生まれる。

 父は郵便配達人で、母親は才能のあるアマチュア音楽家、祖父はオペラ歌手であった。

 父が1871年に死亡してからは、母親と叔父の手によって育てられた。

 

 1871年、35歳の折、彼はLéontine Estelle Denainと結婚した。

兄弟であるMichel Delibesはスペインに移住したが、スペインの作家ミゲル・デリーベスの祖父である。

 

 パリ国立高等音楽・舞踊学校(パリ音楽院)でアドルフ・アダンに師事し、作曲を学ぶ。

 1853年には、聖ピエール・ド・シャイヨ教会オルガン奏者を務め、1891年にパリで没する。

 

 バレエ音楽が、まだ「二流作曲家の仕事」と見做されていた時代に、踊りのBGMとしての音楽からストーリー性を重視した「バレエ音楽」を確立した。

 「コッペリア」と同じくバレエ音楽だけでなく、バレエから独立した音楽として「組曲」という形でも、今なお根強い人気を誇っているのが、その証である。

 

 ドリーブのバトンは(直接的にはないにしろ)ロシアに渡り、チャイコフスキーへと受け渡される。

 「シルヴィア」が作曲されたこの年、チャイコフスキー「白鳥の湖」を書き上げている。

 

 より劇と密接につながり一貫した筋と力をもつこのバレエ音楽、早すぎた作品として最初は大不評だったこの作品も後にはバレエ音楽最高の傑作となり、その後も彼の影響下でストラヴィンスキー、プロコフィエフといった作曲家が傑作バレエを次々と発表していく。

 

 ロシア・バレエの代表的作曲家であるチャイコフスキーは『シルヴィア』を絶賛し、知人タネーエフに

 「もし私がもっと早くこの作品を知っていたら、私は『白鳥の湖』を作曲しなかっただろう」

 と語った。

横浜(2)

1923年(大正12年)の関東大震災では大きな被害を受け、以後この区域に住む外国人居留民は激減したが、異国情緒あふれる景観から現在でも人気の観光地で、次のような観光スポットがある。

 

施設等

ü  外国人墓地

観光

ü  港の見える丘公園(公園内に神奈川近代文学館、大佛次郎記念館などがある

ü  横浜外国人墓地

ü  山手資料館

ü  岩崎博物館

ü  横浜ブリキのおもちゃ博物館

ü  山手イタリア山庭園

ü  山手公園

ü  元町公園、エリスマン邸(元町一丁目)

ü  ベーリック・ホール

 

その他

ü  カトリック山手教会

ü  山手聖公会

ü  山手キリスト教会

ü  横浜インターナショナルスクール

ü  フェリス女学院大学、フェリス女学院中学校・高等学校

ü  横浜山手女子中学校・高等学校

ü  横浜雙葉中学校・高等学校

ü  横浜女学院中学校・高等学校

ü  横浜共立学園中学校・高等学校

ü  サンモール・インターナショナル・スクール

 

横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち、単に外人墓地とも)は、神奈川県横浜市中区にある外国人専用の墓地。19世紀から20世紀半ばにかけての40余国、4400人余りの外国人が葬られている。1854年(嘉永7年)、24歳の水兵ロバート・ウィリアムが戦艦ミシシッピのマスト上から誤って転落死したため、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというアメリカ合衆国の意向を受け設置されたことに由来する。

 

基本的に内部は非公開であるが、3月から12月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されている。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設している。

 

山手公園(やまてこうえん)は、横浜市中区の公園。日本初の洋風庭園であり、日本におけるテニス発祥の地としても知られる。

 

1866年(慶応2年)、当時の幕府と外国公使団との間で、公園の整備などを盛り込んだ「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が交わされた。公園の設置は具体化されずに終わったが、1869年(明治2年)に居留民代表から再度要望が出され、日本政府は約書で約束した土地の代替として山手妙光寺付近の土地約6,000坪を貸与した。

 

居留民により整備がなされ、1870年(明治3年)64日に山手公園が開園した。1878年(明治11年)、レディズ ローン テニス アンド クロッケークラブ(現・横浜インターナショナルテニスクラブ)により日本初のテニスコートが建設され、100年後の1978年(昭和53年)にはこれを記念した碑が設けられた。1998年にはテニス発祥記念館が建てられ、かつてのテニス道具などが展示されている。200431日には文化財保護法による日本国の名勝に、2007年には元町公園、港の見える丘公園、山手イタリア山庭園とともに、日本の歴史公園100選に指定された。

 

港の見える丘公園は、神奈川県横浜市中区山手町114にある公園。 オフコース(小田和正)の『秋の気配』の歌詞に出てくる“港が見下ろせるこだかい公園”とは、この公園のこと。またB'zの『TIME』でも“港が見渡せる丘”として歌われている。

 

山下公園と並んで横浜市の観光地の公園の一つで、横浜港を見渡せる高台にある。ただし、見える物はあくまで本当の意味の「港」であり、横浜ベイブリッジを除くと、横浜の代表的な観光地であるみなとみらい21や関内といった地区を見下ろすことはできない。そのため、初めて来た人には予想していた綺麗な風景とは違うということで残念に思う人も多いが、夜景においては横浜では屈指の美しさを誇る。日本三大夜景と呼ばれる函館・神戸・長崎の山より標高はずっと低く、見渡せる景色の範囲は限られてしまうが、その分港を間近で見ることができる。

 

また、公園自体のおしゃれな造りには定評があり、こちらを目当てに来る人も多い。山手地区に近く、雰囲気も山手と似ているので、家族連れや若者のカップルなどの憩いの場としての性格が強い。

 

江戸時代末期、横浜が開港した際に、イギリスとフランスの軍隊が当地に駐留した。その後、太平洋戦争後もアメリカ軍など進駐軍が、この地を接収した。接収が解除になってから、横浜市が公園用地として手に入れ整備し、1962年の10月に風致公園として開園、一般者が立ち入ることが出来るようになった。

 

なお以前は高台から横浜港湾の岸壁を望むことができたが、近年は横浜ベイブリッジ建設に伴う道路の整備が行われたため、視界に首都高速道路の高架が必ず入ることから「高速道路の見える丘」と揶揄されることもある。ただし、これにより道路用の照明が数多く設置されたため、夜景は展望しやすくなった。平日は人通りも少ないが、週末にはカップルで賑わう。

2007/10/20

ドリーブ バレエ音楽『コッペリア』


 

 1870年、パリのオペラ座でバレエ「コッペリア」が初演された。

 

 人形作りの老人コッペリウスと、彼が作った自動人形のコッペリア、そして人形とは知らずコッペリアに思いを寄せる青年フランツと、フランツの目を自分に向けさせたいヒロインのスワニルダが繰り広げる騒動を描いた、楽しい名作バレエである。

 

 今日では有名なこのバレエが上演されるまでには、紆余曲折があった。

 

 元来、フランスはバレエ大国で、近代バレエの原典と言われるアダンの「ジゼル」も1841年にオペラ座で初演されている。

 

 しかし1860年代のフランス・バレエ界は、低調を極めていた。

 

 そこでオペラ座の経営者は、バレエ界に活を入れようと意気込み、1867年に新進作曲家レオ・ドリーブ(18361891)に、新作バレエ「コッペリア」の作曲を依頼する。

 

 曲は1867年秋には完成したが、オペラ座は稽古と上演準備に3年もかけ、そのため当初予定していた主役のバレリーナとの契約が切れてしまった。

 

 そこでスワニルダ役には、わずか15歳のイタリア出身の天才少女バレリーナ、ジュゼッピーナ・ボツァッキが抜擢される。

 

 こうして、オペラ座の総力を結集したバレエ「コッペリア」は、ようやく初演の運びとなった。

 

 皇帝ナポレオン3世を含む観客は、ボツァッキの素晴らしい踊りとドリーブの優美な音楽に魅了され、初演は大成功。

 

 ところがこの成功は、フランスとドイツの戦争という思わぬ出来事で中断されてしまう。

 

 オペラ座は8月31日に閉鎖され、皇帝ナポレオン3世は捕虜となって降伏してしまった。

 

 同じ日、振付師サン・レオンが心臓発作で死に、パリ包囲最中の1123日には天然痘の流行と栄養失調が蔓延し、哀れ主演の少女バレリーナ、ボツァッキの若い命まで奪ってしまった。

 

 それは、彼女の16歳の誕生日のことだった。

 

 戦争が終わった時、「コッペリア」再演の話が出またものの、振付師と主演バレリーナを失ったため皆は途方に暮れた。

 

 しかし、関係者の執念が18711016日に再演を実現させ、観客の熱狂的な喝采を誘ったのである。

 

 フランスでは、その後バレエの衰退に歯止めをかけることは出来なかったが、ドリーブの「コッペリア」が示したロマンティック・バレエ音楽の理念は、ロシアのチャイコフスキーへと受け継がれ発展していった。

横浜(1)

関内は、神奈川県横浜市中区にある大岡川、首都高速横羽線、中村川と海に囲まれた地区を示す通称で、国土交通省の都市景観100選に選定されている。

 

日米修好通商条約(安政の五カ国条約)によって1859(安政)年に横浜に設置された開港場の区域を「関内」と呼んだことに由来し、住所表示上の正式な地名として関内という地名はない。但し、国道16号のキロポストや方向標識には、関内と表示されている。

 

馬車道、中華街、山下公園など古くからの観光地が多く、隣接するみなとみらい地区と並び、多くの観光客で賑っている。また、神奈川県庁舎、横浜市役所、神奈川県警など官公庁や企業が集まる、横浜の中心地である。横浜港が開港して以来、西洋文化を一気に取り込み、アイスクリーム、ビール、ガス燈など、横浜市の発祥とするものが多くあり、昭和初期の近代洋風建築が残されている。

 

地域内にある駅はJR根岸線関内駅・石川町駅、横浜市営地下鉄ブルーライン(13号線)関内駅、横浜高速鉄道みなとみらい線馬車道駅・日本大通り駅・元町・中華街駅である。

 

2004年のみなとみらい線の開通により横浜駅周辺、みなとみらい地区との交通アクセスが一層容易になり、街の再活性化が進んでいる。一方、社会・経済情勢の変動に伴い、古い事務所・店舗ビルを取り壊してマンションを建設・分譲する動きが目立ち、都市計画上の課題となったため、横浜都心機能誘導地区建築条例が制定され、関内駅周辺はマンション建設が規制されている。なお、横浜駅周辺も同様。

 

かつて関内周辺は海であった。現在の大岡川と中村川に囲まれた一帯は入江であり、久良岐郡横浜村は、この入り江の先に突き出た宗閑(洲乾・洲干)嶋と呼ばれた砂州上に形成された寒村であった。江戸時代に、この入り江は吉田新田として埋め立てられ現在のような陸地となり、更に海側の現在の関内地区に相当する場所には、横浜新田や太田屋新田が埋め立てにより造成された。そのため、これらの地区の道路は碁盤の目状に整備されており、町名も古来からの物ではなく、埋め立てに関わった人物に因むもののほか、埋め立てた当時の謡曲や百人一首から取られた綺麗な町名、縁起のいい町名(瑞祥地名)が多く付けられている。

 

江戸幕府はアメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」(神奈川の横にある浜、横に伸びた浜)を神奈川の一部と称し、この地を開港した。それは幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためである。

 

神奈川宿から横浜村へ道が作られ(横浜道)、間にある大岡川の分流「吉田川」に「吉田橋」を架け、その橋に関門という関所の様なものを置いた。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだ。現在の地域名は、このことに由来する。神奈川運上所(今の県庁のある場所)の西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。

 

1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けない様にし、全ての橋に関門を設けた。当時、武士と外国人との接触を避けるため、武士は関内には入れなかった。吉田橋から旧居留地に至る道が、今の「馬車道 (横浜市)」である。

 

現在、吉田川が流れていた所は首都高や大通り公園に、橋は道路と一体になってしまい、石碑でそこに川が流れ、橋が架かっていたことが解るのみである。 吉田橋は鉄の橋として1869年に架けかえられた。設計はリチャード・ヘンリー・ブラントンというイギリス人技師。

 

近代化が進むにつれ関門の存在意義が薄れ、やがて廃止となったが、長年の慣習と名残りで、今もこの辺りを「関内」と呼んでいる。また、今の伊勢佐木町辺りは関門の外、「関外」と呼ばれた。現在関内と名が付いているものは、JR・横浜市営地下鉄の関内駅、関内ホール(横浜市市民文化会館)のみである。(民間施設は除く)

 

キングの塔(神奈川県庁本庁舎)・クイーンの塔(横浜税関)・ジャックの塔(横浜市開港記念会館)は、地元では「横浜三塔」と呼ばれ、横浜港のシンボルとして長年市民に親しまれている。

 

横浜を代表する商店街の1つである元町の南側の高台で、高級住宅街、観光地として有名で都市景観100選に選定されている。狭義には中区山手町をいうが、その周辺の高台(本牧地区の北西側、山手駅付近まで)を含めることもある。

 

山手町は横浜の開港後、外国人居留地とされた区域で、英語で"Yamate Bluff"または"The Bluff"(切り立った岬という意味)と呼ばれる。「山手」という呼称は、先に設置された関内の居留地に対して、南の高台上に設けられたことによる。後に、この「山手」に対して関内の居留地は「山下」と呼ばれるようになった。

 

開港により関内に外国人居留地が設けられたが、そこが低湿で狭隘であることから住宅地としてより条件の良い堀川の南側の高台が注目された。1861年(文久元年)、幕府は高台の一部の約6,000坪を各国領事館用地としてイギリス等に貸与し、さらにイギリスは高台の東端に当たる堀川河口南側の区域(現フランス山)を海軍用地として借入した。1863年(文久3年)、幕府は、このイギリス借入地へのイギリス・フランス両国軍の駐留を承認し、両国軍の駐留は1875年(明治8年)まで継続した。

 

山手の高台は1867年(慶応3年)に居留地とされ、外国人居留民の住宅やキリスト教系の学校などが建てられた。元は久良岐郡北方村に属していたが、1878年(明治11年)の郡区町村編制法実施の際には、関内居留地(山下)とともに横浜区及び周辺各村のいずれにも属さない区域とされた。1884年(明治17年)に横浜区に編入され、以下の26か町が設けられた。

 

谷戸坂町、山手本町通、富士見町、内台坂、西坂町、地蔵坂、小坂町、大丸坂、撞木町、環町、公園坂、西野坂、汐汲坂、高田坂、三ノ輪坂、稲荷町、南坂、貝殻坂、宮脇坂、陣屋町、諏訪町通、弓町、畑町、矢ノ根町、泉町、林町

 

1899年(明治32年)、条約改正により外国人居留地が廃止されると、全域が山手町として横浜市の町の1つとなった。

2007/10/19

定期健診(2007年版)

 今年も8月に、市の定期健診に行ってきた。

自費で大枚約5万を払いドックを受診したのは2年前だから、去年に続いて市の基本健診で済ませる事に。去年までは特に問題なしという事だったが、色々とストレスもあるから、やや不安な気持ちでの受診だった。酒好きのワタクシは2年前のドックの前日にも、こっそりとチビ缶を呑んで行ったくらいだが、今年は何とか我慢して、3回目にして初めて呑まずに受診。

その前は10年くらい健診などは受けてこなかったから、酒断ちしたのも何年ぶりか記憶にないくらいである。が、結果は去年同様、全項目が「」ランク(所見なし)で、ほぼ基準値を網羅していたのは意外だった。と言うよりも、どれも去年の数値と殆ど変わってないのである。

次いで眼科健診。去年同様、散薬を使っての精密検査は拒絶して、簡単な基本健診で済ませる予定だったが、何故か医師が「詳しい検査をやりましょうよ」  と乗り気だったため、押し切られてやるハメに。

今度は眼科だから関係ないだろうと、前日はいつも通りビールを5本ほど飲んでいたせいか、散薬がなかなか効かずに三度も射されてしまった。ドックの精密検査になると、胃の中を空っぽにするために3日くらい絶食が必要らしいが、こんなことをしていたら却って体を壊してしまうのではないか? やはり、食べたい時に好きなものを食べるのが一番だという気がする。

眼科健診も同じで、散薬で瞳孔を開いた状態で目の前でフラッシュを焚かれたり、赤い光を見つめさせられたりするのは、検査というよりも拷問に近い。 仕事だけでなく、自宅でもPCのヘビーユーザーのワタクシは、寝てる時間と通勤時間以外は殆どPCをやっているから、目に関してはかなりの不安があったが、取り敢えず今回の検査では「所見なし」の結果でホッと一息。

皮肉な事に、雲ひとつ無く晴れ渡ったピーカンの日だったが、秋祭りで賑わう吉祥寺の雑踏の中、無謀にも見えない目を細めつつ自転車で帰った。
※最近、JRの車両内の広告が、吊り広告と言わず貼り広告と言わず「ピンクリボン一色」になっている事がよくある。確かに、乳がんの怖さや猛威に関して理解できないわけでは決してないが、このように他の雑誌などの広告を総て排除して、ヒステリックなまでに同じ広告一色に染まった車内に居ると、まるで共産主義国家に迷い込んでしまったのか、と錯覚してしまう。

2007/10/17

ワースト・ファミリー

  スポーツも格闘技も好きなワタクシは、言うまでもなく他の格闘技と同様にボクシングも好きであり、一流のスポーツ選手や格闘技者同様、プロボクサー(特に世界チャンピオンクラスなら、尚更)にも尊敬の念を抱いている。

 

そんなワタクシだけに、普段はTVは観なくて世事には疎いとはいえ、バカメダ三兄弟(というか一家?)が、マスコミに持て囃されているのは、とうの昔から知ってはいた。が、そんなワタクシが、これまで敢えて彼らに関するテーマを一度も採り上げてこなかった理由は、言うまでもなく『10ちゃんねる』の品位を貶めたくなかったがためである。

 

これまでマスコミに騒がれていた、バカメダ一家の試合は一度として観た事がなかったし、これまでに伝え聞く限りでもプロボクサーとは思えぬゴロツキのような言動に加え、無駄にショーアップされただけの胡散臭い試合のオンパレードには、早くからインチキ臭い匂いを嗅ぎ取っていた。スポーツオタクのワタクシを甘く見てもらっては困る

 

インチキには、一切興味のないこのワタクシとはいえ、今回に限ってはいよいよサギ師どもの化けの皮が剥がれる公算が大と感じたから、初めてこの一家の試合を観てやる事にした。

 

そもそも世界ランク14位程度の選手が、何故世界タイトルに挑戦出来るかは、疑問を通り越して不可解というしかないが、結果はマコトに絵に描いたように、全くの予想通りに終わってしまった。世情を騒がせている、最終ラウンドのプロレス紛いの反則云々以前に、ボクサーとしてまったく未熟なのはオハナシにもならず、ピリッとしなかったチャンピオンにさえ、今回に関しては

 

「相手があまりにも、ド素人過ぎたせいか」

 

と同情してしまった始末である。

 

こんな実力で、恥じる事も無く「浪花の弁慶」などと名乗っているのは、畏れ多くも生き恥を晒し続けている、稀代のアホの証明というしかない。この試合でセコンドに着いて、反則を煽っていたといわれている兄のコウキには、実質的な処分が何一つ課されなかったのはなんとも不可解だったが、そもそも「首魁」とも言うべき出来損ないヤクザ者崩れの親玉こそを、ボクシング協会は永久追放にすべきではないのか?

 

さすれば、そろそろ成人しようかと言うに、未だに父離れ・子離れできないゴロツキ一家の瓦解は一瀉千里であろうし、それこそはボクシングという歴史と伝統ある競技を迷走から救う、唯一の途なのである。

 

掌を返したように、一転して「バカメダ・バッシング」に狂奔を始めたマスゴミだから、もう充分に元は取ったのだろうし、追放したところでこの期に及んでは、もう誰も思い残す事はないと思うが。

2007/10/13

マーラー 交響曲第3番(第6楽章)


標題の変遷

交響曲第3番において、マーラーが最終的に標題をすべて外してしまった理由としては、当時、標題音楽が「低級なもの」とされる風潮があり、この交響曲も同様に受け取られることを恐れたからだとされている。マーラーは、交響曲第1番や第2番でも標題を部分的に、ときには全体的に用いたことがあるが、この場合、標題に基づいて作曲したというより、聴衆の曲への理解を助ける意図が大きかったと見られる。しかし、第3番では、標題の構想と作曲は平行してすすんでおり、聴衆の理解を助ける意図も含まれていたにせよ、曲の内容がこれらの標題と密接に関わっていることを示している。

 

この曲がマーラーの「田園交響曲」だとする見解については、マーラーは189611月に、友人の音楽評論家リヒャルト・パトカに宛てて、次のように書いている。

「私にはいつも奇妙なことと思われるのだが、多くの人たちは自然について語るとき、ただ花とか小鳥とか松林の風景だけを思い浮かべている。ディオニュソスの神とか偉大な牧神のことを誰も知らない。そこなのだ。標題がある。つまり、どのように私が音楽をつくるかの範例だ。どこでも、そしていつでも、それはただ自然の声なのだ。」

 

全体の標題

マーラーは当初、交響曲全体に「幸福な生活-夏の夜の夢」という標題を与え、その後「悦ばしき知識」、「悦ばしき知識(楽しい学問)-夏の朝の夢」、「夏の真昼の夢」などと変遷している。このなかの「悦ばしき知識」とは、ニーチェの著作にならった標題である。

 

マーラーの手紙による解題

マーラーが友人レールに宛てた手紙では

「これ(交響曲第3番)はおそらく、これまで僕が作曲したもののうち、最も成熟した、最も独創的なものだ」

とし

「この交響曲は、世界がいまだかつて耳にしたことのないようなものだ。そこでは自然界全体が一つの声を得て、人が夢の中で予感することしかできないほどの奥深い秘密を物語るのだ」

と述べている。

 

また、18967月にアンナ・フォン・ミルデンブルクに宛てた手紙でも、交響曲第3番の第6楽章について触れ

「私はだいたいのところ、この楽章を『愛が私に語ること』と名づけることができると思います。これは、神がただ愛としてのみ把握されうるものなのだという意味からです」。

「このようにして、私の作品は階段的な上昇で発展していく、あらゆる段階を含む音楽的な詩となっているのです。それは生命のない自然ではじまり、神の愛まで高められていきます」

と述べている。

2007/10/12

マーラー 交響曲第3番(第5楽章)


初演と楽譜

全曲が完成した189611月、ベルリンにおいて、アルトゥール・ニキシュが第2楽章を指揮した。

18973月、フェリックス・ワインガルトナーが第2楽章、第3楽章、第6楽章を指揮した。

 

全曲初演は190269日、ドイツのクレーフェルトで開かれた全ドイツ音楽連盟の音楽祭において、マーラー自身の指揮による。この初演は、リヒャルト・シュトラウスの力添えによるものだという。全曲初演は好評を博し、マーラーは初演の年のうちに、この成功作を4都市で演奏してまわり、翌1903年、アムステルダムでのデビューでも指揮した。

 

初演の前年、190111月にマーラーは交響曲第4番を初演していた。また、同年12月にアルマ・マーラーと婚約、190239日に結婚していた。

 

楽曲構成

6楽章からなるが、経過で述べたようにマーラーは第1楽章を第一部、第2楽章以下を第二部としていた。第1楽章は最後に書かれており、後の楽章、とくに第4楽章、第6楽章とは音楽の素材に直接の関連がある。

 

歌詞(第4楽章・第5楽章)

5楽章

Es sungen drei Engel“

(aus Des Knaben Wunderhorn)

FRAUEN- UND KNABENCHOR, ALTSOLO:

 

(Bimm bamm!)

 

Es sungen drei Engel einen süßen Gesang,

Mit Freuden es selig in dem Himmel klang;

Sie jauchzten fröhlich auch dabei,

Daß Petrus sei von Sünden frei.

 

Und als der Herr Jesus zu Tische saß,

Mit seinen zwölf Jüngern das Abendmahl aß.

Da sprach der Herr Jesus; „Was stehst du denn hier?

Wenn ich dich anseh', so weinest du mir!“

 

Und sollt' ich nicht weinen, du gütiger Gott?

Ich hab' übertreten die zehn Gebot;

Ich gehe und weine ja bitterlich,

Ach komm und erbarme dich über mich!“

 

Hast du denn übertreten die zehn Gebot,

So fall auf die Knie und bete zu Gott,

Liebe nur Gott in alle Zeit,

So wirst du erlangen die himmlische Freud'!“

 

Die himmlische Freud' ist eine selige Stadt;

Die himmlische Freud', die kein Ende mehr hat.

Die himmlische Freude war Petro Bereit't

Durch Jesum und allen zur Seligkeit.

 

3人の天使は歌う」

(「少年の魔法の角笛」より)

女性・少年合唱、 アルトソロ

 

(ビム・バム!)

 

3人の天使が美しい歌をうたい、

その声は幸福に満ちて天上に響き渡り、

天使たちは愉しげに歓喜して、叫んだ。

「ペテロの罪は晴れました!」と。

 

主イエスは食卓にお着きになり、

12人の弟子たちと共に晩餐をおとりになったが、

主イエスは言われた「お前はどうしてここにいるのか?

私がお前を見つめていると、お前は私のために泣いている!」

 

「心広き神よ!私は泣いてはいけないのでしょうか?

私は十戒を踏みにじってしまったのです。

私は去り、激しく泣きたいのです、

どうか来て、私をお憐れみください!」

 

「お前が十戒を破ったというなら、

跪(ひざまず)いて神に祈りなさい、

いつも、ひたすら神を愛しなさい、

そうすればお前も天国の喜びを得よう!」

 

天国の喜びは幸福の街である。

天国の喜びは、終わることがない

天国の喜びがイエスを通して、

ペテロにも、すべての人にも幸福への道として与えられた。

2007/10/11

マーラー 交響曲第3番(第4楽章)

 


ウィーン進出へ

このような多忙さもあって、マーラーはウィーンへの進出を図るようになる。

1895年から翌1896年の7月、マーラーはバート・イシュルで避暑中のブラームスを訪れ、その知遇を得ようとした。当時のウィーンの楽壇を二分する音楽勢力としては、ワーグナー派に属するマーラーであったが、ブラームスからは道徳的立場からの支援をとりつけることに成功した。

 

この交響曲の第1楽章冒頭で、8本のホルン斉奏によって呈示される主題は、ブラームスの交響曲第1番の有名なフィナーレ主題や『大学祝典序曲』との関連が指摘されており、あるいはブラームスへの讃辞など、なんらかの意図が含まれていることも考えられるが、真相は不明である。

 

マーラーの前に立ちはだかったのは、ブラームスではなく、すでに故人となっていたワーグナーであった。ワーグナーが唱えた反ユダヤ主義が、ユダヤ人音楽家であるマーラーのウィーン進出の障害となったのである。マーラーは、ハンブルク歌劇場で親交のあったソプラノ歌手アンナ・フォン・ミルデンブルク(1872 - 1947)の説得もあり、1897223日にユダヤ教からローマ・カトリックへと改宗し、同年511日、念願のウィーン宮廷歌劇場の音楽監督の座に就く。

 

ニーチェの思想との関連

マーラーが第4楽章で歌詞として用いた『ツァラトゥストラはこう語った』は、フリードリヒ・ニーチェが1883年から1885年にわたって書いた著作で、4部からなり、続篇は構想だけで未完成となった。出版された『ツァラトゥストラ』は、当時の懐疑的な知識人の間に大きな影響をあたえた。

 

マーラーの交響曲第3番は、『ツァラトゥストラ』から歌詞を引用しているだけでなく、ニーチェの他の著作である『悦ばしき知識』を曲の全体的な標題として考えていること、第1楽章の標題として考えていた「ディオニュソスの行進」のディオニュソスについても、ニーチェの思想では重要な意味を持つことなど、交響曲全体がニーチェの思想と深い関連があると考えられる。

 

リヒャルト・シュトラウスとの比較

一方、同じく『ツァラトゥストラはこう語った』を、原作を元にしてリヒャルト・シュトラウスが同名の交響詩を作曲したのは1896年夏であり、マーラーの交響曲第3番の完成と同じ時期である。

 

リヒャルト・シュトラウスの交響詩では、冒頭、トランペットの動機につづく総奏のあと、ティンパニが4度音程を交互に叩く部分が非常に有名である。また、この交響詩はマーラーが交響曲第3番の第4楽章で用いた「酔歌」の部分に至り、12時の鐘が鳴らされると虚無的な沈黙となって消えていく。これに対して、マーラーも同様に「酔歌」を題材にしつつ、直接にはニーチェを引用していない終楽章の最終場面において、シュトラウス同様のティンパニの4度音程連打を用いて全曲を肯定的に終わらせていることは両者の違いとして際だっている。

 

歌詞(第4楽章・第5楽章)

4楽章

Zarathustras Mitternachtslied“

(aus Also sprach Zarathustra von Nietzsche)

ALTSOLO

 

O Mensch! Gib Acht!

Was spricht die tiefe Mitternacht?

Ich schlief, ich schlief –,

Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –

Die Welt ist tief,

Und tiefer als der Tag gedacht.

Tief ist ihr Weh –,

Lust – tiefer noch als Herzeleid:

Weh spricht: Vergeh!

Doch alle Lust will Ewigkeit –,

will tiefe, tiefe Ewigkeit!“

 

「ツァラトゥストゥラの真夜中の歌」

(ニーチェの『ツァラトゥストゥラはこう語った』より)

(アルトソロ)

 

おお、人間よ! 注意して聴け!

深い真夜中は何を語っているのか?

「私は眠っていた

深い夢から私は目覚めた

世界は深い

昼間が思っていたよりも深い。

世界の苦悩は深い

快楽それは心の苦悩よりもさらに深い

苦悩は言った。滅びよ!と

だが、すべての快楽は永遠を欲する

深い永遠を欲するのだ!」