2026/10/28

トマス・モア(1)

トマス・モア(英語: Thomas More, 1478年2月7日 - 1535年7月6日)は、イングランドの法律家、思想家、人文主義者。

政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。

大法官までのぼりつめたが、ヘンリー8世により反逆罪で処刑された。没後400年の1935年にカトリック教会と聖公会で聖人となる。

 

生涯

ロンドンの法律家の家に生まれた。

聖アントニー校で学んだ後、カンタベリー大司教・大法官のジョン・モートンの家で従僕として教育を受け、1492年からオックスフォード大学で2年間ラテン語を学んだが中退し、1494年にニュー法学院へ入学、1496年からは、政界への近道であり人文主義教育の中心でもあったリンカーン法曹院で学び、1501年に法廷弁護士の資格を得る。

 

1504年、下院議員選出。

1510年にイタリアの人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を、1516年には『ユートピア』を上梓するなど、著述活動も盛んになる。

1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。ヘンリー8世の信任は厚く、地位は次第に進み、1521年にはナイトの爵位を授けられ、1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。

 

離婚問題を巡ってヘンリー8世がローマ教皇クレメンス7世と反目し、ヘンリー8世はモアに助言を求めた。3年間で6名の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒であるモアは、王に対し離婚を正当化するいかなる根拠も無いことを告げた。

一方、カトリックによる支配からの離脱を求める王の主張は力を増し、1532年5月15日にはカンタベリーの宗教会議でヘンリー8世を「唯一最高の首長」とすることを承認した。

モアは翌日に大法官を辞職した。

 

やがて、ヘンリー8世によるモアへの復讐が始まった。

ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法(国王をイングランド国教会の首長とする)に、カトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、反逆罪とされて同年4月17日にロンドン塔に幽閉され、翌1535年7月6日に斬首刑に処された。

この処刑は「法の名のもとに行われた、イギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われている。

遺体の首はロンドン橋に晒された。

 

列聖

1935年にカトリック教会の殉教者として、モアと同じ1535年の6月22日に処刑されたジョン・フィッシャーとともに死後400年で列聖されており、記念日は6月22日である。

政治家と弁護士の守護聖人となっている。

 

思想

フィチーノの著作に影響を受けた人文主義者であり、神学者ジョン・コレットとは友人であった。また1499年以降、デジデリウス・エラスムスとも親交があった。

エラスムスの『痴愚神礼讃』は1509年、モア宅で執筆された。

モアはマルティン・ルターの福音主義を否定し、カトリック教会による平和主義と社会正義を求めた。

 

ユートピア

エラスムス『痴愚神礼讃』やアメリゴ・ヴェスプッチの旅行記『新世界』に触発され、1515年から1516年にラテン語で『ユートピア』を執筆した(1516年刊行)。

ユートピア(Utopia)はモアの造語で、「どこにも無い場所」に「善き場所」という意味が加味された言葉で、古くは「理想郷」あるいは「無何有郷(むかうのさと)」などとも訳されている。

ヒュトロダエウスなる人物の見聞を聞くという設定で、第1巻でイングランドの現状を批判し、第2巻で赤道の南にあるというユートピア国の制度・習慣を描いている。

 

ヴェスプッチが、カナリア諸島からアメリカ大陸までを旅行した記録『新世界』を深い関心を持って読んだモアは、自然に従って生き、私有財産を持たない共同社会が実在しうる事を確信した。

自然法と自然状態が善である証明として書かれたその主著は、ユートピアという架空の国を舞台に、自由、平等で戦争のない共産主義的な理想社会を描いたものである。

 

また、イングランドでは地主や長老がフランドルとの羊毛取引のために農場を囲い込んで羊を飼い、村落共同体を破壊し、農民たちを放逐する現状を深く慨嘆し

「羊はおとなしい動物だが、(イングランドでは)人間を食べつくしてしまう」(『ユートピア』第1巻)という意味の言葉を残している。

後年カール・マルクス『資本論』で、モアを引用し本源的蓄積について論じているが、かなり誇張された表現だという指摘もある。

2026/10/21

ロッテルダムのエラスムス(2)

1516年版のエラスムス校訂の新約聖書テキスト

『校訂版 新約聖書』の出版では、ギリシア語テキストの出版の重要性および革新性が強調されることが多い。

 

すなわち

「人文主義者エラスムスの手によって、西欧で初めて学術的に校訂されたギリシア語新約聖書が世に出た」

というような言い方である。

 

このような表現は、古典研究者であったエラスムスが当時のカトリック教会言語、学術言語であるラテン語を軽視し、新約聖書のオリジナル言語であるギリシア語を重視して、その出版に力を注いだというような印象を与える。

 

だが、実際のエラスムスはこの聖書の出版においては、むしろ優れたラテン語新約聖書を世に出そうとラテン語版の校訂に力点を置いていた。実際、エラスムスの出版したギリシア語テキストは正文批判のレベルからすれば稚拙なものであった。

その理由は、エラスムスが手にいれたギリシア語新約聖書が、フィレンツェ公会議(バーゼル公会議)に参加した東ローマ帝国の聖職者によって西欧にもたらされたもの(ビザンチン写本)であり、テキストとしてはせいぜい12世紀にさかのぼるのがやっとのものであった(ヴルガータと呼ばれた当時のラテン語定本は、古代のギリシア語版から翻訳されており、その痕跡を随所に残していた)。

 

さらに、エラスムスは『ヨハネの黙示録』の完全なギリシア語版を入手できなかったため、その一部を手元のラテン語版を見て自分でギリシア語に翻訳した。つまりエラスムスにとって『校訂版 新約聖書』に添付したギリシア語テキストの重要性は、その程度のものだったのである。これに反して、彼はラテン語テキストの校訂および新約聖書の注釈書の執筆には相当に力を入れている。

 

エラスムスの思いと裏腹に、自信を持ってまとめたラテン語テキストより稚拙なギリシア語テキストのほうが広く受け入れられ、1521年にルターがドイツ語訳聖書を著したときに、1519年の第二版を底本として用いたこともよく知られている。

 

このころのエラスムスが学者として高い評価を受けていたことは、1516年にブルゴーニュ公シャルル(後のカール5世)の名誉参議官に任命されていることからもうかがえる。

また、当時のスペインの摂政ヒメネス・デ・シスネロスは、自ら進めていた多言語対訳聖書(『王の聖書』、Complutensian Polyglot)の校訂のアドバイザーとしてエラスムスを招聘している。

 

若き貴公子シャルルのために、エラスムスは『キリスト者君主の教育(英語版)』(Institutio pricipis Christiani) を著している。以後もアントウェルペン、バーゼル、ルーヴェンなどをまわりながら研究・執筆活動を続けた。

 

ルターとエラスムス

1517年に若き聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』は、本人の予想も超えるほどの大きな反響を呼び起こした。エラスムスは当初、ルターが自分を尊敬し、自分の著作に影響されていたことを知り、その「聖書中心主義」思想に好意的な態度をとっていた。

この頃、ルターはエラスムスからの励ましを受けて感激している。エラスムスは、ルターが不当に断罪されることがないよう手を尽くしながらも、教会の分裂を引き起こさないようルターに自重を求めた。

 

しかし、ルター自身の活発な活動により、事態は過激化・複雑化し、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。この状態はエラスムスの想定を超えたものであり、ルターとエラスムスの思想の違いが明らかになっていった。エラスムスは、あくまでキリスト者の一致が最優先事項と考えており、教会の分裂を望んでいなかった。結果的にルターの支持派・反対派双方から疎まれることになる。

 

ヘンリー8世のアイデアとトマス・モアの書簡に触発され、エラスムスはカトリック教会内で古代から議論が続けられてきた自由意志の問題についての著作『自由意志論』(De lebero Arbitrio, 1524年)を執筆した。自由意志の問題はルター思想の骨子であったため、ルターはこれを看過できず、対抗する形で『奴隷意志論』(De servo Arbitrio) を発表。エラスムスはさらにそれに対する『反論』(Hyperaspistes, 1526年)を著しているが、結局これを最後にエラスムスは泥沼化したルター問題から手を引いた[要出典]。

 

晩年とその評価

キリスト者の一致と平和を重んじたエラスムスには、キリスト教徒が分裂していくことは容認できなかった。しかし、プロテスタント運動の進展の中で反ルターと目されたエラスムスへの批判も高まり、エラスムスは1521年にルーヴェン・カトリック大学を去り、バーゼルへ移った。

のちにバーゼルで宗教改革が進展すると、それに耐えられずフライブルクへ移った。1535年になって再びバーゼルに戻ったが、翌年1536年7月12日に同地で死去した。

死去に先立ってエラスムスは自らの遺産を市にゆだね、その利子を貧しい人々のために用いることを願った[要出典]。

 

『痴愚神礼賛』は、エラスムスの意図を離れて反カトリック教会的書物として各国で利用されたため、のちにカトリック教会の禁書目録に加えられることになった[要出典]。

 

「キリストの哲学」(Philosophia Christi) という言葉にあらわされるエラスムスの思想は、知識重視と衒学趣味に走っていた当時の神学に警鐘を鳴らし、聖書を本来の姿に近づけ、聖書を学んでキリストを知ることを最大の目標とするものであった。ここには、エラスムスが受けた「デヴォツィオ・モデルナ」の教育の影響を見て取ることができる。

低地諸国で栄え、共同生活兄弟団などの活動に結実していたこの思想運動は、信心書の傑作『キリストにならう』(トマス・ア・ケンピス著)によってよくあらわされているが、まさに「キリストにならう」ことをエラスムスも目指していたのである。

また、当時の聖職者と信徒の間の格差が広がりすぎていた現実についても、エラスムスは聖職者と信徒が共に聖書に親しむことで解決できると考えていた。

 

日本とのかかわり

1600年、今の大分県臼杵市に漂着したオランダ船リーフデ号の旧名はエラスムス号であった。同船は、徳川家康の外交顧問として有名なウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子、現在の東京都中央区八重洲の地名は彼にちなむ)が乗っていたことで有名である。

 

同船の船尾には、エラスムスの木像が付けられていた。細かな経緯は不明だが、船の旧名と関係していると類推されている。

なおこの像は、栃木県佐野市の龍江院という寺が所蔵し、貨狄尊者(かてきそんじゃ)(「貨狄像」「貨狄観音」とも)の名でまつられていた(東京都台東区上野公園の東京国立博物館に寄託中)。

なお、地元の人達の間では、このエラスムスの像が小豆婆の像だと信じられていたという逸話がある。

2026/10/08

ロッテルダムのエラスムス(1)

デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1469年(1466年?)10月27日 - 1536年7月12日)は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。ギリシャ語新約聖書「公認本文」の著者。

 

ラテン語名には出身地をつける当時の慣習から「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれる。なお、名前の「エラスムス」は洗礼名で、カトリック教会の聖人であるフォルミアのエラスムス (Erasmus of Formiae) からとられているが、「デジデリウス」は1496年から自分自身で使い始めた名前である。

 

主な著作に『痴愚神礼賛』、『エンキリディオン』(キリスト教戦士の手引き)、『平和の訴え(wikidata)』などがあり、著作の中では一貫して「キリスト者の一致と平和」をテーマとした。

また、エラスムスの『校訂版 新約聖書』(新約聖書のラテン語・ギリシア語対訳)は広く読まれ、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。エラスムスの思想は、宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。

『ユートピア』を著したトマス・モアとの親交や自由意志に関するルターとの論争でも知られる。

 

宗教改革の時代を生きたエラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されることが多いが、実際にはローマ教皇庁を含めカトリック教会内に知己が多く、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜して、プロテスタント側に身を投じることはなかった。

 

エラスムスは1536年にバーゼルで逝去し、もともとカトリック教会のバーゼル司教座聖堂だった教会に埋葬された。

 

エラスムスは、1529年の『幼児教育論』で、子供といえども一個の人間であり、かかる存在として扱うべしと説き(手間、暇、時間、金など)、中世以来続いてきた鞭による非人間的で、容赦のない教育を非難した(体罰は行うべきで無い)。

それは、自由人にふさわしい教育方法とは言えず、人間を奴隷化するものだとした。人類の歴史上最初の、最もはっきりとした子供の人権宣言である。

 

エラスムスのコレクションは、2023年に世界の記憶に登録された。

 

生涯と思想

生い立ちから青年期まで

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1469年(1466年とか1467年とする説もある)、エラスムスは父ロゲル・ゲラルド (Roger Gerard) と母マルガレータの私生児としてロッテルダムで生まれた。

父は高名な司祭、母は医師の娘だった。

 

エラスムスには、ピーテルという名の兄がいた。

1483年、この年に流行した疾病で両親を亡くした。エラスムスと兄は後見人により共同生活兄弟団付属の寄宿学校に入れられ、「デヴォツィオ・モデルナ」(Devotio Moderna:新しき信心)の教育を受けた。

 

1487年、親族の意思に従ってデルフトに近いステインに所在していたエマオ修道院に入り、聖アウグスチノ律修参事会員となった。このころからラテン語の古典を読み漁り、イタリアに行きたいという望みをもつようになった。キケロ、クィンテリアヌス、アウグスティヌス、ヒエロニムスなどの研究に没頭する。

古典教養の重要性を説く『反蛮族論』の執筆を始める。

 

エラスムスは律修参事会の司祭として生きていくことが本意ではなく、同会を離れる機会を狙っていた。彼は1492年に司祭に叙階された後、1493年または1494年頃に卓抜したラテン語能力を認められてカンブレー (Cambray) の司教秘書に抜擢されたため、修道院を離れることができた。

1495年には、カンブレー司教の許しを得、神学博士号の取得を目指してパリ大学へ入学し、モンテーギュ学寮に入った(モンテーギュ学寮では、後にジャン・カルヴァンやイグナティウス・ロヨラも学んでいる)。

1496年から自らを「デジデリウス」と名乗るようになり、『古典名句集』(Collectanea Adagiorum) を書き始める。

 

人文主義者としての名声

貧しかったエラスムスは、パリへ出てラテン語の個人教授を始めた。これが縁となって1499年にイングランドへ渡り、同地の上流社会に多くの知己を得た。人文主義者ジョン・コレット (John Colet)、終生の友となった政治家トマス・モア、若きヘンリー王子(後のヘンリー8世)などと交わった。

 

ジョン・コレットは当時オックスフォード大学で教鞭をとっており、エラスムスは彼の聖書研究の方法論(当時の主流であったスコラ学的アプローチでなく、サン・ヴィクトル学派の流れを汲んでいた)に影響されている。ジョン・コレットはエラスムスのギリシア語の知識不足を指摘し、さらに研鑽を積むよう促す。

エラスムスは聖書研究に着手し、キリスト教的著作を発表するようになる。

1500年に『古典名句集』、1504年には一般信徒向けの信心書である『エンキリディオン』 が出版されると、エラスムスの名声は高まっていった。

 

さらに同年、ルーヴェンでロレンツォ・ヴァッラの手による『新約聖書註解』の写本を見出したことは、彼の人生の方向を決める出来事となった。

 

1506年には、少年時代から憧れたイタリア行きを果たし、訪れたトリノ大学で神学博士号を授与された。その後イギリスに向かうためアルプスを越えたが、その道中で『痴愚神礼賛』の構想を得たという。これは古典をモチーフにしながら、エラスムスの風刺とユーモアの精神が遺憾なく発揮された作品となった。

 

1514年イギリスを離れてスイスのバーゼルに到着したエラスムスは、書店店主ヨハン・フローベン (Johan Froben) と知り合う。フローベンとエラスムスは意気投合し、以後のエラスムスの著作はフローベンの書店から出版されることになる。

1516年に出版された『校訂版 新約聖書』(Novum Instrumentum) と、9巻からなる『ヒエロニムス著作集』は学識者の間で高く評価され、人文主義者としてのエラスムスの評価を決定付けることになった。

2026/09/28

陽明学(6)

日本の陽明学

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日本に伝わった朱子学は、その普遍的な秩序への志向により、体制を形作る治世者に好まれた。一方、王陽明の意図に反して、陽明学には反体制的な理論が生まれたため、反体制の側が好む場合もあり、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。

 

心即理(鏡面のような心)が本来前提であるにもかかわらず、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある。山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている。

 

江戸期の代表的な陽明学者は、中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。その他、淵岡山、中川謙叔、三輪執斎らがいる。

 

幕末期の陽明学信奉者

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幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。

高名な偉人では吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らが影響を受け、大塩平八郎の乱に代表されるように革命運動に身を挺した者も多い。

 

一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、陽明学の持つ危険性を承知した上で、弟子には先に朱子学を学ばせ、有望な弟子にのみ陽明学を教えた。

 

山田方谷と佐久間象山は、佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。

 

佐藤一斎は朱子学を奉ずる昌平黌の儒官であり、公然と陽明学の理を主張し得なかったが、著書の『大学一家私言』は陽明学の視点で書かれたものであり、また幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には、陽明学の思想が散見される。また、一斎が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白であるとされる。

そのため「陽朱陰王」のそしりを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。

 

近代日本の陽明学

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日本における陽明学の全盛期を、明治維新以降とする説もある。即ち、三宅雪嶺が1893年に刊行した著書『王陽明』を嚆矢とする幕末陽明学の再興運動が、欧化政策の反動として高揚した国粋主義や武士道の見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけて頂点を迎えたという見方である。

 

この時期の主な人物として、上記の三宅雪嶺や井上哲次郎のほか、高瀬武次郎、徳富蘇峰、吉本譲、東敬治、石崎東国らがいる。当時の陽明学は、日本国民の精神修養の一環として、死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる部分が大きかった。

 

また、この頃の日本における陽明学の再評価が、梁啓超に代表される清人留学生の目に留まり、中国での陽明学再興に大きな影響を及ぼした。

 

各界の信奉者

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財界

    岩崎弥太郎 - 三菱財閥の創設者

    渋沢栄一 - 実業家、「日本資本主義の父」

 

その他

    広瀬武夫 - 海軍軍人

    東郷平八郎 - 海軍軍人

    奥宮健之 - 自由民権運動家

    幸徳秋水 - 明治期の社会主義者、奥宮健之の父・慥慥斉に師事

    富岡鉄斎 - 文人画家、儒学者

    三島中州 - 漢学者、二松學舍創立者

    三島由紀夫 - 作家。晩年に傾倒]。ただし、三島は王陽明の『伝習録』を直接読んでいる形跡はなく「日本陽明学」の系譜からの影響を受けた。三島は井上哲次郎の『王陽明の哲学の心髄骨子』を読んでいる。三島の評論には『革命哲学としての陽明学』がある。

    安岡正篤 - 陽明学の像を「帝王学」とし、本来は「心学」である陽明学の像を変えたという意味で功罪があるとされる。安岡が東大卒業時に出版した『王陽明研究』は、日本や中国の識者に大きな影響を与えた。安岡の著書は『東洋宰相学』『日本精神の研究』など多岐に亘り、安岡が必ずしも陽明学者としてのみ位置づけられるものではない。

 

朝鮮の陽明学

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朝鮮半島には、16世紀初めに齎された。その初期に陽明学を奉じた者としては、南彦経と李瑶がいる。

 

次いで許筠と張維が出て、陽明学を発展させた。許筠は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判し、また、朝鮮では最も早く人欲を肯定した思想家である。張維は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。

 

その後に張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭齊斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時、李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。

 

しかし、朝鮮の陽明学は一貫して少数派の地位を脱し得ず、本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退した。例えば、李滉(退渓)は『伝習録弁』で陽明学を厳格に批判した。

 

陽明学の朝鮮史における影響は日中に比して高いと言い難いが、実学や経世致用の思想には影響が認められる。

 

大韓帝国末期から日本統治時代には、朴殷植や鄭寅普が陽明学を論じた。

2026/09/20

陽明学(5)

陽明学左派

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朱子とその弟子たちは、いわゆる偽学の禁という政治的な問題を起こしたが、社会的な問題は起こさなかった。対して陽明学派は、主に政治問題ではなく社会問題を引き起こした。

 

陽明学は王陽明の死後、今日のことばでいえば左派と右派とに分裂し、左派(その中核はいわゆる泰州学派)はいわゆる陽明学の横流、心学の横流と呼ばれる現象をひきおこした。すなわち、陽明学派のあるものは社会的通念、権威に挑戦し、既成道徳をふみにじるにいたり、積極的には道徳的混迷、社会不安を、消極的には社会的頽廃をひきおこした、というのである。左派は理論的・実践的にラディカリストであった。

 

ラジカルという意味は、おおよそ士大夫存在において士大夫、読書人としてふさわしいあり方、伝統的に形成せられているらしさ、いわゆる矩矱というものと、聖人をめざす理論・実践というものとの二つの極を考えることができるが、その場合、聖人という理想に対してあくまで忠実であろうとして、いわゆる矩矱を無視し、のりこえるに至る、それをいうのである。ふるい矩矱、名教は、単に習慣的なもの、外化したもの、仮、偽善、としてうちすてられ、攻撃せられるであろう。

 

それに対して右派は、正統的な士大夫派、名教護持派である。左派の活動が活発になるにつれて、右派は自覚的・無自覚的にますます朱子学寄りになり、たとえば王陽明が蛇足にすぎないとした敬が積極的に主張せられるようになったりした。

 

明末清初の陽明学

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明朝の政治や思想に多大な影響を与えた陽明学であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では考証学に学問の主役の座を奪われるに至るが全くの絶学とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明学は「聖学(=朱子学)と異同非ず」と康熙帝が言うように必ずしも異学視されていたわけではなかった。

 

ただ、すでに陽明学単体で学ばれるというよりも、「朱王一致」(朱子と王陽明の一致)といわれ、朱子学を補完するものとして扱われたに過ぎない。雍正帝以降、朱子学の正学化確立、乾隆・嘉慶の考証学全盛期(いわゆる乾嘉の学)到来によってさらにその傾向を強め、陽明学は衰微した。再び脚光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。

 

清中期の陽明学者に李穆堂がいる。

 

清末の陽明学

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陽明学の沈滞状況は、1840年のアヘン戦争以降、徐々に変化する。まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど、陽明学は復活の兆しを見せるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為自身も、吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。

 

下の日本の項目で述べるように、陽明学は日本に伝来して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を残した。特に明治維新の思想的原動力として、大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』や、その類似雑誌がいくつも創刊された。

 

日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも、俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が中国に伝わったのも、この頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されている。

 

中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」(代表作『新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』の影響が見られる。

 

こうした梁の傾向は、戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神、国民道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものであった。

 

こうした国民国家精神に陽明学を注入する梁啓超の考えは、当時の明治思潮によるものが大きい。当時の日本では、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理や武士道精神が退廃にさらされていると考えられ、それらを陽明学で再生しようとする風潮があった。これが明治期における陽明学熱の背景である。

 

こうした風潮に梁啓超らは感化され、明治日本において陽明学の再発見、再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえる。