2026/02/11

スノーボード2個目の「金」(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(3))

大会6日目

スピードスケート女子1000mで高木美帆が「銅」。

オリンピック3大会連続出場というだけでも凄いが、過去2大会で「金2、銀4、銅1」と7つものメダルを持ち帰っている。今回獲得したメダルで通算8個目となったが、一人でこんなにたくさんのメダルを獲った選手もなかなかいないのではないか?

だが、本人はあくまで金メダルを狙っていたのか「銅」には不満気なのだった。

 

それにしても、高木と一緒に滑って金メダルを獲得したオランダのレールダム選手との体格差を見ると、もはや「同じ人類」とは思えない。ウィキで調べてみると高木選手も決して小柄とも華奢でもない(164㎝、58㎏)のだが、なにしろ相手のデカさ(182㎝、体重不明?w)たるや・・・(略)。こんな怪物どもを相手にしての実績をと考えると、いっそうその凄みが伝わろうというものだ。

 

ジャンプ(スキー)男子個人NHで二階堂蓮が「銅」。前回(2022北京)「金」の小林陵侑は8位。

 

スノーボード女子ビッグエアでは村瀬心椛が「金」。前回(2022北京)「銅」に続き、21歳の若さで2大会連続の五輪メダリストだけでも立派だが、早くも頂点を極めることに。ゴーグルを外すと、まだまだあどけない顔の選手たちが次々に登場してくるような競技である。

 

日本選手が獲得したメダルは「金2、銀2、銅3」と依然好調だ。

2026/02/10

フィギュアスケート名物「疑惑採点」(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(2))

大会5日目

スノーボード男女パラレル大回転で「優勝候補」とも目された三木つばきにくわえ、2大会連続金の絶対女王・レデツカらが準々決勝で敗退の波乱。

 

スノーボード女子ビッグエアでは、日本勢4人全員が決勝進出。村瀬心椛は全体2位。

 

フィギュアスケート団体(男女&ペアFS)は、ペアフリーの木原龍一・三浦璃来組、女子フリーの坂本花織が1位。男子フリーの佐藤駿が2位で、日本は2大会連続の銀メダルを獲得。

 

「毎度恒例」のフィギュアスケート「採点疑惑」がまたまた飛び出した。

 

ネット上だけでなく、海外からも

「男子フリーの佐藤選手の2位はおかしい、アメリカ選手に勝っていた」

「金メダルを盗まれた」

といった声が澎湃と上がっていたらしい。

 

競技は観てなかったが、フィギュアスケート観戦歴ン十年のワタクシからすれば、この競技の「採点疑惑」はもはやお約束事だから、今更驚きはない。そもそも「フィギュアスケート団体」という種目自体がよくわからず、おおかたどこかの国に優勝させるために無理やり作られた種目だろうと睨んでいるのだが

2026/02/09

スノボ男子ビッグエア金&銀の快挙!(ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(1))

スキージャンプ女子個人ノーマルヒル丸山希選手の「銅」を皮切りに、スノーボード男子ビッグエアでは、木村葵来選手が「金」、木俣椋真選手が「銀」の快挙。

 

「スノボ男子の金メダルは日本人初」と聞いて「あれ、前にも何人か獲ってなかったっけ?」と勘違いしていた原因は、どうもスノボとスケボーがごっちゃになっていたらしい。

 

ワタクシのようなド素人の目には、どっちも曲芸のようにしか見えないが、スノボの方は雪が背景になっている分、見た目に幻想的である。

 

ところでスケボーは「ボー」と伸ばすのに、なぜスノボは「スノボー」とは言わないのかと、どうでもよいくだらないことはさておき、スケボーに続いてスノボまでもがすっかり「お家芸」と言えそうなくらい日本選手の目覚ましい活躍ぶりである。

 

ともあれ、この日の日本勢は金・銀・銅各1という、なかなか珍しい日となった。

2026/02/08

五代十国時代(2)

後晋(936-946年)

しかし明宗は、在位わずか7年で病死する(933年)。

三男の李従厚がその後を継ぐが、すぐに明宗の義子(養子)である李従珂によって簒奪された。更に李従珂は権力の安定を狙って、明宗の女婿であり実力者である石敬瑭を排除しようとする。石敬瑭はこれに対抗しようとするが、独力では対抗し得ないと見切った石敬瑭は、北の契丹に対して援助を求め、その見返りとして燕雲十六州の割譲を約束した。これに応えて契丹の太宗耶律徳光は、大軍を南下させて後唐を攻め、これを滅亡させた。

 

936年、皇帝に即位して後晋を建てた石敬瑭(高祖)は契丹に対して臣従し、後晋はほとんど契丹の衛星国家となった。中央の状況を見た地方勢力は離反して南の呉に寝返ったり、反乱を起こす者が続出した。その鎮圧に追われて、高祖は942年に病死する。後を甥の石重貴が継いだが、彼の即位は契丹に対する強硬派によって行われたものであり、強硬外交により契丹の怒りを買った。

 

946年、契丹(翌年に国号を遼とした)の太宗は再び親征の大軍を南下させ、後晋の首都の開封を攻略。石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。遼はそのまま中国を支配下としようとしたが、蛮族と見下していた契丹族に支配されることを嫌った開封の住民は抵抗した。また遼の本土では中国支配に対する反対意見が強く、困難を悟った太宗は北へ引き返し、途上で病死した。

 

後漢(947-950年)

それを傍観していた石敬瑭の元側近の劉知遠は、自らの任地である晋陽で947年に皇帝に即位して後漢を建て、軍を南下させて同年に開封を占領した。しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐がその後を継ぐ。幼帝を担いだ側近達は有力者の排除を図り、次々と軍人達を誅殺していった。

 

反乱の鎮圧に出ていて、これを免れた枢密使の郭威は、自らも粛清を逃れることは不可能と感じて兵を挙げ開封を攻め落とし、自らの誅殺を企んだ側近達を一掃した。その後、一時は劉承祐のいとこにあたる劉贇を擁立しようとしたが考えを改めて劉贇を殺し、951年に自ら即位し(太祖)後周を建てた。それから間もなく、劉贇の父の劉崇は晋陽の地で自立し、北漢を建国した。

 

後周(951-960年)

即位した太祖郭威は内政に意を尽くし、刑罰の緩和・自作農の養成・税制の不公平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。この蓄積を元に統一の大望を燃やしたのが、954年に即位した柴栄(世宗)である。世宗は五代の中で随一の名君とされる。

 

世宗(柴栄)がまず行ったことは、自立性の強い軍人達を抑えることである。その軍人達を抑える目的で作っていた侍衛親軍が強大化しすぎていたために、一旦これを分割して殿前軍を創設し、これを強化して節度使も禁軍司令官も皇帝に対抗できないようにした。その兵力を元に南唐・後蜀・北漢・遼などを攻め、領土の一部を奪い取った。中でも南唐から奪った土地は塩の産地として極めて重要な地域であり、この地を抑えたことで南唐の生殺与奪権を掌握したと言ってもよい。

 

また軍事費を捻出するために、廃仏運動を行った。中国では「三武一宗の法難」といわれる廃仏運動が行われており、「一宗」が世宗のことである。当時は税金逃れのために非課税の僧侶になるものも多く、これらから徴税することで大きな収入が見込めた。また当時は貨幣を鋳るための銅が不足していたが、仏像などを鋳潰して再利用し、「周元通宝」という銅銭を鋳造した。統一への道を突き進んでいた世宗(柴栄)だったが、959年に遠征から帰る途上で病死する。

 

十国

十国の中で最も強大なのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者の楊行密は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧、906年には、唐朝から「呉王」に任命された。呉の軍は戦争が強く、一時は北の後梁と互角に争い合う程の勢力を誇った。しかし呉の国内では楊行密の死後、配下の徐温の力が大きくなり、最終的に徐温の養子の徐知誥によって国を簒奪された(937年)。徐知誥は簒奪後に名前を変えて李昪と名乗り、唐の後継者を自称して国号を「唐」と改めた。この国は、後世の歴史家からは南唐と呼ばれる。

 

同時期に南の浙江では、呉越が勢力を張った。建国者の銭鏐(せんりゅう)は塩徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。北に強大な呉・南唐と対峙していたので、常に北の五代諸国に対して臣従することで、呉・南唐に対抗していた。

 

呉越の南の福建では、威武軍節度使の王審知がこの地を制圧して閩を建てていた。王審知は内政に努め、福建の生産力を飛躍的に向上させた。しかし王審知の死後は国内で内紛が起こり、そこに付け込んだ南唐によって945年に滅ぼされる。

 

西に目を向けると湖北には荊南(南平)、湖南には楚、広東には南漢が割拠していた。荊南は十国の中でも最小の国で、周辺諸国全てに対して臣従して交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国で、建国者の馬殷の在世時には経済的に大いに奮ったが、死後の内紛に付け込まれ、951年に南唐によって滅ぼされた。南漢の統治者の劉隠はアラブ系といわれており、その宮廷では戦乱の五代十国では珍しく文官の力が強かった。しかし、後期にはその政治も堕落し、宦官政治へと変質した。

 

四川は揚州と並んで豊かな土地であり、「天府」と称されていた。ここに割拠したのが前蜀・後蜀の両蜀政権である。前蜀の建国者の王建は元は塩徒だったが、四川に入ってここを制圧し、当地の豊かな物産を元に文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は925年、後唐によって滅ぼされる。その後、この地の統治を任された武将の孟知祥が自立して、934年に後蜀を建てた。後蜀は前蜀と同じく文化振興に力を入れ、特に唐末期からの詞を集めた『花間集』の編纂は、この時代の文化を伝える上で大きく貢献した。

 

中原の五代王朝は旧唐王朝の版図の6割を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて契丹などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安定な勢力の均衡が保たれていた。だが、五代最後の後周が荊南・南唐領の侵食を始めると、その均衡は一気に崩壊することになる。

2026/02/07

日蓮(7)

思想

日蓮の主要教義は、三大秘法と五義(五綱)である。ここでは、その概要を述べる。

 

三大秘法

三大秘法とは本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三つをいい、仏教全般の基本である戒定慧の三学を日蓮の仏教に当てはめたものとされる。「法華取要抄」「報恩抄」「三大秘法抄」などにおいて説かれる。「本門の」との言葉が冠されるのは、日蓮が弘めた法が従来の仏教を超越していることを示す趣旨である。ただし三大秘法の解釈については、各宗派において大きな相違がある。

 

「三大秘法抄」は、古来より真偽未決の遺文である。「三大秘法」という言葉は「三大秘法抄」を除いて使用例はなく、唯一「曽谷入道殿許御書」で「一大秘法」という用例が見いだされる。

 

本門の本尊

本門の本尊とは、日蓮の仏教における信仰と礼拝の対象をいう。

 

本門の本尊について日蓮宗では、その実体は「久遠実成本師釈迦牟尼仏」、すなわち法華経寿量品文上に説かれる五百塵点劫成道の釈迦仏であるとし、具体的な本尊の形態としては文字曼荼羅、一尊四士(釈迦仏像の左右に上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩像を安置する形態)、二尊四士(釈迦如来・多宝如来像の左右に四菩薩像を安置する形態)のいずれでもよいとする。

 

それに対して、日蓮正宗など日興門流の多くは仏像を本尊とすることを認めず、本門の本尊とは文字曼荼羅のみであり、文字曼荼羅は日蓮と一体不二であるとする(曼荼羅を法本尊、日蓮を人本尊とする)。その背景には、日蓮宗が法華経に説かれた釈迦仏を本仏(教主)とするのに対し(釈迦本仏論)、日蓮正宗は釈迦仏を正法・像法時代の仏ととらえ、日蓮を末法の本仏とする(日蓮本仏論)など、本仏観の相違がある。

 

本門の題目

本門の題目は南無妙法蓮華経であり、また本門の本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱えることをいう。

 

南無妙法蓮華経の言葉は、日蓮以前にも存在した。その場合、南無妙法蓮華経は妙法蓮華経という経典に帰依する(南無する)ことを意味する言葉だが、日蓮は妙法蓮華経は法華経の名ではなく、妙法蓮華経の法体であり、心(意)とした。また日蓮は、妙法蓮華経二十八品を「広」、方便品・寿量品を「略」、南無妙法蓮華経を「要」と位置づけた。すなわち日蓮において、南無妙法蓮華経はたんに妙法蓮華経という経典に南無するという意味の言葉ではなく、末法の衆生を成仏させる根源の法(妙法)そのものを意味する。

 

本門の戒壇

戒壇とは、従来の仏教においては僧侶の授戒の儀式を行う場所を意味したが、日蓮の仏教の戒壇は本門の本尊を安置して南無妙法蓮華経の題目を行ずる場所をいう。日蓮は、真蹟が確認できる「法華行者値難事」「法華取要抄」「報恩抄」で「本門の戒壇」と名目だけ書き記し、それが指す内容については言及していない。また「三大秘法抄」では「本門の戒壇」ではなく「寿量品の戒壇」と記されている。

 

なお「三大秘法抄」には、妙法が広まった時には最勝の地に戒壇を建立すべきであるとの教示がある。この戒壇は、教団が目標とすべき理想を示したものとされる。

 

五義(五綱)

教・機・時・国・教法流布の先後の五義は五綱ともいい、日蓮独自の教判である。教判とは教相判釈の略で、諸経の勝劣を比較検討し、自らの宗旨建立の正当性を示すものをいう。「教機時国抄」「顕謗法抄」「南条兵衛七郎殿御書」などに説かれている。

 

五義は、「顕謗法抄」で「行者、仏法を弘むる用心」といわれるように、仏法弘通のために留意すべき判断基準でもある。一般の教判が主に教理についての判定であるのに対し、日蓮が立てた五義(五綱)は教理だけでなく、衆生が教えを受け入れる能力(機根)、時代の特質(時)、その国の国情(国)、それまでに広まっている教え(教法流布の先後)を総合的に判断する基準であるところに特徴がある。

 

一切の宗教の中で、どのような教えが人々を幸福へと導く適切な教えであるかを判定すること。日蓮は「五重の相対」(開目抄)、「五重三段」(観心本尊抄)などを通して、南無妙法蓮華経こそが末法に弘めるべき教であるとする。

 

教えを受け止める衆生の宗教的能力(機根)を判断すること。日蓮は末法の衆生は釈尊在世の結縁を持たず、南無妙法蓮華経のみによって成仏できる機根の衆生であるとした。

 

この時とは仏法上の時であり、今日は従来の仏教では衆生を救済できない第五の五百歳、すなわち末法であると知ることをいう。

 

その国の国情を知って、仏法を流布することをいう。日蓮は、日本国は法華経に有縁の国であるとした。

 

教法流布の先後

先に広まった教えを知って、後に弘める教えを判断すること。日蓮は、後に弘める教えは先に広まっている教えよりも深い教えでなければならないとした。