1516年版のエラスムス校訂の新約聖書テキスト
『校訂版 新約聖書』の出版では、ギリシア語テキストの出版の重要性および革新性が強調されることが多い。
すなわち
「人文主義者エラスムスの手によって、西欧で初めて学術的に校訂されたギリシア語新約聖書が世に出た」
というような言い方である。
このような表現は、古典研究者であったエラスムスが当時のカトリック教会言語、学術言語であるラテン語を軽視し、新約聖書のオリジナル言語であるギリシア語を重視して、その出版に力を注いだというような印象を与える。
だが、実際のエラスムスはこの聖書の出版においては、むしろ優れたラテン語新約聖書を世に出そうとラテン語版の校訂に力点を置いていた。実際、エラスムスの出版したギリシア語テキストは正文批判のレベルからすれば稚拙なものであった。
その理由は、エラスムスが手にいれたギリシア語新約聖書が、フィレンツェ公会議(バーゼル公会議)に参加した東ローマ帝国の聖職者によって西欧にもたらされたもの(ビザンチン写本)であり、テキストとしてはせいぜい12世紀にさかのぼるのがやっとのものであった(ヴルガータと呼ばれた当時のラテン語定本は、古代のギリシア語版から翻訳されており、その痕跡を随所に残していた)。
さらに、エラスムスは『ヨハネの黙示録』の完全なギリシア語版を入手できなかったため、その一部を手元のラテン語版を見て自分でギリシア語に翻訳した。つまりエラスムスにとって『校訂版 新約聖書』に添付したギリシア語テキストの重要性は、その程度のものだったのである。これに反して、彼はラテン語テキストの校訂および新約聖書の注釈書の執筆には相当に力を入れている。
エラスムスの思いと裏腹に、自信を持ってまとめたラテン語テキストより稚拙なギリシア語テキストのほうが広く受け入れられ、1521年にルターがドイツ語訳聖書を著したときに、1519年の第二版を底本として用いたこともよく知られている。
このころのエラスムスが学者として高い評価を受けていたことは、1516年にブルゴーニュ公シャルル(後のカール5世)の名誉参議官に任命されていることからもうかがえる。
また、当時のスペインの摂政ヒメネス・デ・シスネロスは、自ら進めていた多言語対訳聖書(『王の聖書』、Complutensian Polyglot)の校訂のアドバイザーとしてエラスムスを招聘している。
若き貴公子シャルルのために、エラスムスは『キリスト者君主の教育(英語版)』(Institutio
pricipis Christiani) を著している。以後もアントウェルペン、バーゼル、ルーヴェンなどをまわりながら研究・執筆活動を続けた。
ルターとエラスムス
1517年に若き聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』は、本人の予想も超えるほどの大きな反響を呼び起こした。エラスムスは当初、ルターが自分を尊敬し、自分の著作に影響されていたことを知り、その「聖書中心主義」思想に好意的な態度をとっていた。
この頃、ルターはエラスムスからの励ましを受けて感激している。エラスムスは、ルターが不当に断罪されることがないよう手を尽くしながらも、教会の分裂を引き起こさないようルターに自重を求めた。
しかし、ルター自身の活発な活動により、事態は過激化・複雑化し、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。この状態はエラスムスの想定を超えたものであり、ルターとエラスムスの思想の違いが明らかになっていった。エラスムスは、あくまでキリスト者の一致が最優先事項と考えており、教会の分裂を望んでいなかった。結果的にルターの支持派・反対派双方から疎まれることになる。
ヘンリー8世のアイデアとトマス・モアの書簡に触発され、エラスムスはカトリック教会内で古代から議論が続けられてきた自由意志の問題についての著作『自由意志論』(De lebero Arbitrio, 1524年)を執筆した。自由意志の問題はルター思想の骨子であったため、ルターはこれを看過できず、対抗する形で『奴隷意志論』(De servo Arbitrio) を発表。エラスムスはさらにそれに対する『反論』(Hyperaspistes,
1526年)を著しているが、結局これを最後にエラスムスは泥沼化したルター問題から手を引いた[要出典]。
晩年とその評価
キリスト者の一致と平和を重んじたエラスムスには、キリスト教徒が分裂していくことは容認できなかった。しかし、プロテスタント運動の進展の中で反ルターと目されたエラスムスへの批判も高まり、エラスムスは1521年にルーヴェン・カトリック大学を去り、バーゼルへ移った。
のちにバーゼルで宗教改革が進展すると、それに耐えられずフライブルクへ移った。1535年になって再びバーゼルに戻ったが、翌年1536年7月12日に同地で死去した。
死去に先立ってエラスムスは自らの遺産を市にゆだね、その利子を貧しい人々のために用いることを願った[要出典]。
『痴愚神礼賛』は、エラスムスの意図を離れて反カトリック教会的書物として各国で利用されたため、のちにカトリック教会の禁書目録に加えられることになった[要出典]。
「キリストの哲学」(Philosophia Christi) という言葉にあらわされるエラスムスの思想は、知識重視と衒学趣味に走っていた当時の神学に警鐘を鳴らし、聖書を本来の姿に近づけ、聖書を学んでキリストを知ることを最大の目標とするものであった。ここには、エラスムスが受けた「デヴォツィオ・モデルナ」の教育の影響を見て取ることができる。
低地諸国で栄え、共同生活兄弟団などの活動に結実していたこの思想運動は、信心書の傑作『キリストにならう』(トマス・ア・ケンピス著)によってよくあらわされているが、まさに「キリストにならう」ことをエラスムスも目指していたのである。
また、当時の聖職者と信徒の間の格差が広がりすぎていた現実についても、エラスムスは聖職者と信徒が共に聖書に親しむことで解決できると考えていた。
日本とのかかわり
1600年、今の大分県臼杵市に漂着したオランダ船リーフデ号の旧名はエラスムス号であった。同船は、徳川家康の外交顧問として有名なウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子、現在の東京都中央区八重洲の地名は彼にちなむ)が乗っていたことで有名である。
同船の船尾には、エラスムスの木像が付けられていた。細かな経緯は不明だが、船の旧名と関係していると類推されている。
なおこの像は、栃木県佐野市の龍江院という寺が所蔵し、貨狄尊者(かてきそんじゃ)(「貨狄像」「貨狄観音」とも)の名でまつられていた(東京都台東区上野公園の東京国立博物館に寄託中)。
なお、地元の人達の間では、このエラスムスの像が小豆婆の像だと信じられていたという逸話がある。