2026/02/03

五代十国時代(1)

五代十国時代(907 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に、黄河流域を中心とした華北・中原を統治した5つの王朝(五代)と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。

 

北宋が完全に中国を統一した979年が、五代十国時代の終わりとされている場合もある。朱全忠が哀帝より禅譲を受け後梁を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥(節度使)達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。

 

五代という言葉は北宋の欧陽脩による歴史書『五代史記』に由来し、唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝を指す。これらの王朝はそれぞれ、前の王朝を滅ぼして(禅譲を受けて)新たに成立し、中原の唯一の支配者となった。

 

一方、この同じ時期に、中原の周辺や中国南部では大小様々な地方政権が興亡していた。それらのうち、特に前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚・南漢・北漢を指して十国という。ただし、十国全てが同時期に存在したわけではない。

 

960年に五代最後の王朝、後周を滅ぼして成立した北宋は、その後残っていた十国の国々も平定し、979年に北漢を滅ぼして中国を統一した。これによって五代十国時代は完全に終わりを遂げた。

 

歴史

五代十国時代が始まる年代としては、唐が完全に滅亡した907年が取られている。しかし実際には、全国王朝としての唐は875年から884年にかけて起きた黄巣の乱によって滅んでおり、その後は長安を中心とした関中地域を支配する一地方政権としての唐と、朱全忠や李克用などの節度使勢力が並存する騒乱状態だということができる。そこで、この概略では黄巣の乱の時点から説明する。

 

唐の完全滅亡まで

唐の中央政府は、755年から763年にかけて起きた安史の乱により、中央政府の統制が弱まった。それに乗じた各地の節度使勢力は自立色を強め、自分達の任地を自らの裁量で治めるようになり、遠方の節度使の中には中央に対して納税をしないものもいた。これらに対して歴代の皇帝達は抑制策を考え、部分的には成功した。しかし節度使勢力を抑え込むために利用した宦官勢力が今度は力を持ち、政治に容喙して皇帝の廃立すら決定するようになった。こうなると腐敗した中央政府には節度使勢力を抑える力が衰え、再び節度使達は頭をもたげてきた。

 

このような状態の中で、黄巣の乱が勃発した。政府軍は堕落し切っており、決して強くない黄巣軍に対して苦戦し、中には黄巣軍を撃滅してしまえば自らの立場が危うくなることを恐れて、手心を加えた者があったともいわれている。

 

黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗は蜀へ逃亡した。黄巣軍は長安で暴政を敷いて、長安市民の失望を買った。しかし、それでも唐政府だけでは長安を回復する実力は無く、ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、この2人の奮戦により長安が回復される。

 

しかし、これにより皇帝は、その名目を利用されるだけの存在に成り果てた。この状況は、周の東遷以降(春秋時代)や後漢末期の献帝などを考えると近いかと思われる。

 

この時期に中央を争っていたのが、開封を中心に山東・河南を支配していた朱全忠と、晋陽を中心に山西を支配した李克用である。このほかの有力者に、河北を支配した劉仁恭や陝西の一部を支配した李茂貞などがいる。

 

その他の地域でも自立する者は多く、後の十国の元となっている。

 

李克用の軍は、真っ黒な衣服で統一したことから通称「鴉軍」と呼ばれ、戦闘は非常に強かったが粗暴な振る舞いが多く、朱全忠には政略で一歩も二歩も置いていかれてしまった。唐朝廷を掌握した朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年には遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に「梁」である。「後」の字は、後世の歴史家が区別するために付けた。以下、全て同じ)を建て、ここに唐は完全に滅亡した。

 

五代

後梁(907-923年)

朱全忠が皇帝となると、これに従うことを良しとしない各地の勢力は、自らも皇帝を名乗った。一方、後梁と対立することを望まない華南の諸国の中には、後梁に対して臣下としての礼を取る国もあった。

 

朱全忠の宿敵である李克用は908年に死去し、後を継いだ李存勗は後梁に対して苛烈な攻撃を仕掛けてきた。後梁の方でも朱全忠の失政・堕落が重なり、次々と領土を奪われる。更に朱全忠は後継者を選ぶに際して失敗し、内紛を招いた。それを横目で見ながら李存勗は913年、燕王を名乗っていた劉仁恭を滅ぼして、その故地を併合。自信を付けた李存勗は、923年には唐皇帝(荘宗)を名乗って唐(後唐)を建国し、更に後梁の首都を攻め落とし、後梁を滅ぼした。

 

後唐(923-936年)

李克用らの李姓は、黄巣の乱での功績により唐朝廷から国姓を授けられたものである。これを所以として荘宗は自らを唐の後継者と称して、後唐を建てたのである。後梁を滅ぼした後、岐王を名乗っていた李茂貞や四川を支配していた前蜀を相次いで滅ぼし、領土を拡大した。しかし、荘宗は内向きには唐の遺光を惜しむかのように洛陽へ遷都し、朱全忠が廃止した軍隊に宦官の監察を付ける制度を復活させ、武将達の不満を買った。この不満が、926年の武将達による李嗣源(後の明宗)の擁立となって現れる。李嗣源の軍が洛陽に迫ると、禁軍(近衛兵)により荘宗は殺された。

 

即位した明宗は宦官の排除・節約などを図り、全国の土地の検地を行って不公平の是正に努め、新たな財務機関として「三司使」を創設した。また、自分のような有力軍人達による帝位の奪取を繰り返させないように、直属の軍である侍衛親軍(じえいしんぐん)を創設し、禁軍の強化を図った。この三司使は、後の宋にも受け継がれている。明宗は、五代の中では後周の世宗に次ぐ名君と称えられる。

2026/02/02

日蓮(6)

朝廷への諫暁

弘安4年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇は、その申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。

 

この年、日蓮の庵室が老朽化して手狭になったため、10間四面の規模を持つ大坊が建設された。その建設は地頭・波木井実長の一族が中心となり、富木常忍ら他の門下の協力のもとに行われた

 

入滅

日蓮は、建治3年(1277年)の暮れに胃腸系の病を発し、医師でもある四条金吾の治療を受けていたが、一時的には回復しても病状は次第に進行していった。弘安4年(1281年)5月には日蓮自身、自己の死が迫っていることを自覚するまでになった。同年12月には、門下への書簡の執筆も困難になっている。

 

日蓮の病状は弘安5年(1282年)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。そこで門下が協議し、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになった。その温泉は「波木井殿御報」に「ひたちのゆ」とあるので常陸国の温泉と考えられる。それがどこの温泉か諸説あるが、今日では波木井実長の次男・実氏の領地にあった加倉井の湯(茨城県水戸市加倉井町)と推定されている。

 

日蓮は、98日、波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延を出発した。富士山の北麓を回り、箱根を経て18日に武蔵国荏原郡にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となった。日蓮は到着の翌日、日興に口述筆記させて波木井実長宛ての書簡を記した。その中で日蓮は、実長に対して謝意を表するとともに、自身の墓を身延に設けるよう要請している。

 

日蓮が池上邸に滞在していることを知って、鎌倉の四条金吾、大学三郎、富士の南条時光、下総の富木常忍、大田乗明など主要な門下が参集してきた。925日、門下を前に日蓮は「立正安国論」の講義を行った。これが日蓮の最後の説法となった。108日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子(六老僧)と定めた。

 

なお日興門流では、日蓮の入滅前に日興に対して付嘱がなされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張するが、他門流はそれを認めていない。日興門流(富士門流)では、日蓮を釈迦仏よりも根源的な本仏と位置づけ、『富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事』『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事』(日興遺誡置文)、『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は(中略)本門寺に懸け奉るべし』(日興跡条々事)等、広宣流布および本門寺建立を目的としている。

 

日蓮は、弘安5年(1282年)1013日、多くの門下に見守られて池上兄弟の館で入滅した。入滅に先立って日蓮は、自身が所持してきた釈迦仏の立像と注妙法蓮華経を墓所の傍らに置くことと、本弟子6人が墓所の香華当番に当たるべきことを遺言している。

 

日蓮の思想の背景

日蓮は、鎌倉時代の仏教の総合大学であった天台宗比叡山延暦寺で学び、日蓮自身は天台宗の僧としての自覚のもと、伝教大師最澄を崇敬し、法華経を信奉していた。『立正安国論』では「天台宗の僧侶日蓮が記した(天台沙門日蓮勘之)」と記している。

 

比叡山延暦寺で最澄が定めた天台宗の伝統的な修行を行い、21才から32才までの12年もの間、比叡山で修学し、「阿闍梨(あじゃり)号」が授けられている。

 

日蓮は、時代が既に末法に入っていることを確認し、天台教学から一切経の中で法華経が最勝の経典であるのに、諸宗が法華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、天台宗も「師子身中の虫」によって変質していることを批判、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。

 

日蓮は四箇格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)に表されるよう禅宗や真言宗、真言律宗、また真言宗の教えを取り入れて密教化していた当時の天台宗も批判するが、特に批判対象としたのは浄土宗である。

 

日蓮が生まれた承久4年(1222年)より10年前の建暦2年(1212年)に、同じ天台宗から出た日本浄土宗の宗祖である法然が亡くなっているが、法然は法華経至上主義である天台教学を学びながらも法華経より「浄土三部経」を上位に置き、『選択本願念仏集』を記し、末法においては、凡夫が悟りに至ることは不可能で、厳しい修行も無効であり阿弥陀仏に来世での救いを求める念仏だけが相応の教えであると説いた(聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべき、法華経をも捨て、南無阿弥陀仏=念仏を選択するしかないという思想)。

 

法然自身も批判される事を承知していたが、『選択本願念仏集』が開版されると、延暦寺、興福寺などからも多くの批判に晒され(承元の法難)、明恵の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』や定照の『弾選択』といった批判書も出た。

 

日蓮もこの法然の浄土教を邪教として激しい批判を行い、邪教が武家、庶民にまで広まってしまったために数々の災いが日本に生じており、いずれは内乱(自界叛逆難)と他国侵略(他国侵逼難)により日本が滅びると考えた。

 

日蓮は阿弥陀仏にすがり、来世で極楽浄土への往生を求めるのではなく、現世(娑婆)で娑婆国土全体を仏国土に開いていく事こそ正しい教えとし、阿弥陀仏ではなく阿弥陀仏の教主である本仏釈尊と諸天善神を信仰すべきで、題目(南無妙法蓮華経)を唱えるべきであるとの思想を展開した。

 

実際に立正安国論で示した内乱が起こり、元寇の危機が現実のものとして迫ると、日蓮は自身の考えに確信を得て

「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」

等の過激な発言を行うに至ったが、幕府側は元寇という国難に対応するため、全国の自社へ敵国降伏の祈祷を命じ、九州の防備強化を行うなど一致団結した対応が迫られる中で、武士や庶民に広がっていた臨済宗、浄土宗、真言宗、律宗を徹底的に批判し、国内での宗教対立を扇動する日蓮教団を危険視し、日蓮の進言を受け入れる事はなく、反対に良観らに日蓮が御成敗式目第12条の悪口の咎で訴えられると、最高刑となる佐渡流罪の刑に処した。 実際には、幕府は佐渡流罪の前に日蓮を龍の口で処刑しようとしたが、真夜中に現れた発光体による奇瑞により、刑の執行ができなかった。

 

3年間の佐渡流罪の刑を経て、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免された。鎌倉に戻った際、幕府より帰依の申し出を受けるが『他宗への帰依を止めることが自身の教えである』とこれを一蹴し、山梨県の身延山に活動拠点を移した。

 

弘安5年(1282年)1013日に入滅。日蓮入滅時は、弟子及び信徒の数は数百人程度[要出典]で、東国の数カ国に散在するに過ぎない小規模な地方教団に過ぎなかったが、六老僧、中老僧、九老僧に代表される弟子達が全国で布教活動を行った。

2026/01/30

菅原道真(9)

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死後と神格化

菅原道真が大宰府で没した直後から、都では天変地異が相次ぎ、災害、関係者の非業の死などが重なった。まず追放した張本人の藤原時平が若くして急死し、その後も皇族や貴族が相次いで急死する。当時は、政争に敗れて非業の死を遂げた人物が「御霊」=怨霊となって祟りをなすという「御霊信仰」が浸透していたため、道真が怨霊となって祟りを成したと恐れた朝廷は、道真の罪を許して右大臣に戻し、正二位を贈った。

 

しかし異変は止まらず、ついに延長8年(930年)、天皇が政務を執る宮殿である清涼殿に落雷が起こり、稲妻が柱を直撃、隣の紫宸殿にも電撃が走った(清涼殿落雷事件)。大納言・藤原清貫をはじめとして清涼殿だけで2名死亡、紫宸殿でも5名が死亡する大惨事となった。当時の天皇・醍醐天皇は被害を免れたものの、このすさまじい光景(文献によれば、藤原清貫は衣類に火がついた上に胸を裂かれて即死、近くにいたとされる平希世も顔面を焼かれて虫の息と、まさに地獄絵図であった)に衝撃の余り体調を崩され、3ヶ月後に崩御した。

 

余談だが、この時道真の領地であった桑原町(現在の京都市中京区、丸太町通の京都地裁前の一部区間に相当)は落雷の被害を免れたとの言い伝えもあり、雷除けに唱えられる「くわばらくわばら」という呪文は、これに由来するという説もある。

 

この事件と、死亡した藤原清貫が左遷後の道真の監視役であったことなどから、ただでさえ怨霊の仕業だとして震えていた朝廷や人々の恐怖は頂点に達した。このため、人々により雷神=天神に結びつけられ、「天神様」として神格化の上祀られることとなった。また朝廷でも事件から約60年後に正一位と左大臣とし、さらに太政大臣と次々に贈位して、道真の魂を鎮めることに必死となった。

 

これには、時平が早世して子孫が振るわなかった事と、道真と同じく宇多天皇寄りであったうえに、妻の源順子(宇多天皇の養女)が道真の姪であった可能性もある藤原忠平(時平の弟)の子孫が繁栄した事もあるとされる。

 

さらに『将門記』には、道真が八幡神に取り次いで平将門を新皇にさせたという。それほどまでに「道真=怨霊」のイメージは強かった。もっとも、大宰府にいた本人は左遷されたことや醍醐天皇・時平に対して、恨み辛みを述べてはいなかったという。

 

その後、御霊信仰が次第に衰退するにつれて、道真の本来の性格の方が重視されて学問の神として信仰されるようになり、現在に至っている。

 

祟りが恐れられた菅原道真の霊をやすめるため、都の北野の地に社殿が造営されたのであるが、後世それが発展し現在の「北野天満宮」となっているのである。その他各地の天満宮、天神社に祭られている。

 

神号は天満大自在天神、日本太政威徳天、火雷天神など。

 

また「学問の神」としてのみならず、古来道真は天子(天皇)に対する忠義の心によって、多くの人々に慕われているのである。

 

道真が赴任した讃岐すなわち現在の香川県には、道真が善政の一環として行った雨乞いの儀式を元とした滝宮の念仏踊りが今も残り、現地には「滝宮天満宮」が建てられた。道真の訃報に接した讃岐の民は、その死を悼み魂を送り天地の神となってもらうため、泣きながらこの念仏踊りを踊り狂ったと伝わる。この踊りは(他地域の地踊りと合同ではあるが)2023年にユネスコの無形文化遺産に選定登録された。

 

また、文の菅原道真、武の坂上田村麻呂として、文武のシンボル的存在としても名を知られる。

 

文芸作品

詩歌・文章に秀でていただけに、和歌・漢詩・漢文ともに極めて多い。著書に自分の作品をまとめた『菅家文草』『菅家後集』がある。

 

また学者であるため史書のまとめや編纂にも関わり、史書のテキストをそのまま引用して分類した『類聚国史』を編纂している。この中には、かなり散佚してしまった『日本後紀』の文章も数多く引用されており、同書の復元に大きな力を貸している。また日本で編纂された6冊の史書・六国史の最後を飾る『日本三代実録』も編纂したが、完成が左遷直後だったため名前が外されてしまった。

 

一般的には、百人一首の24番に

 

此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に

 

が選ばれているのがよく知られている。

 

伝説

『飛梅伝説』の主人公が菅原道真であり、梅の花は主である菅原道真に忠実な花であると伝えられている。

2026/01/28

日蓮(5)

「報恩抄」

建治2年(1276年)6月、日蓮は自身の剃髪の師である道善房が死去したとの知らせに接し、道善房の恩に報ずるため、翌月「報恩抄」を完成させ、清澄寺時代の兄弟子である浄顕房・義浄房に宛てて同抄を送った。「報恩抄」の内容は

     報恩の倫理を示す

     真言密教の破折を軸に正像末の仏教史を概観する

     三大秘法の法理を示す

3点に要約される。

 

本抄の冒頭では

「夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほう(報)ず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや」

と報恩こそが倫理の根本であることを示し、末尾では

「日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」

として、日蓮が南無妙法蓮華経を弘通した功徳が故道善房に帰していくと述べられている。日蓮の実践が全て師・道善房への報恩・回向になっているとの趣旨である。

 

②の真言密教破折については、「撰時抄」では触れられなかった第5代天台座主・智証大師円珍に対する破折や、弘法大師空海の霊験の欺瞞性を暴露するなど「撰時抄」よりもさらに踏み込んだ内容が見られ、日蓮による密教破折の集大成ともいうべきものになっている。

 

本門の本尊・戒壇・題目という「三大秘法」の名目は、身延入山直後に書かれた「法華取要抄」で示されていたが、「報恩抄」は三大秘法の内容を初めて説示した著述として重要な意義を持つ(ただし、本門の戒壇については名目を挙げるにとどめられている。戒壇の意義が説かれるのは、弘安5年(1282年)の「三大秘法抄」まで待たねばならない)。

 

本門の本尊について「報恩抄」では

「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」

と説かれる。

この文の解釈は各宗派で異なる。たとえば日蓮宗では、この文の「本門の教主釈尊」を文上寿量品に説かれる久遠実成の釈迦仏とするのに対し、日蓮正宗では釈迦仏を正法・像法時代の教主とする立場から、この「本門の教主釈尊」を本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮自身であるとする。

 

本門の題目については

「三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」

と説かれる。

 

身延において日蓮は膨大な書簡や法門書を執筆し、多くの文字曼荼羅本尊を図顕して門下を教導した(現存する日蓮真筆の曼荼羅本尊は120余幅を数える)。時には百人を超える門下が参集して、妙法蓮華経の講義を受けている。日蓮の妙法蓮華経講義を、後に日興門流がまとめたのが「御義口伝」、日向門流がまとめたのが「御講聞書」とされている)。

 

熱原法難

日蓮の身延入山後、弟子の日興を中心に富士方面で活発な弘教が展開された結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院で住僧や近隣の農民らが改宗して、日蓮門下となる状況が生まれていた。その動きに対して、各寺院の住職らは反発して日蓮門下となった住僧らを追放するなど対抗したため、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じた。天台宗側は北条得宗家と結びついており、幕府権力を後ろ盾として日蓮門下に圧力を加えた。

 

抗争が頂点に達したのは、弘安2年(1279年)921日である。熱原龍泉寺の院主代・行智は、稲刈りに多数の農民信徒が集まっていた機会をとらえ、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えた。信徒は鎌倉に連行され、北条得宗家の家政をつかさどる内管領(ないかんれい)を兼務していた平頼綱の取り調べを受けた。

 

日蓮は、この事件を日蓮門下全体にわたる重大事件ととらえ、鎌倉の中心的信徒である四条金吾に書簡を送り、拘束されている農民信徒を励ましていくよう指示している。日蓮は、農民信徒が厳しい取り調べにも屈することなく信仰を貫いている事実を知り、自身の生涯の目的(「出世の本懐」)を遂げたと述べている。なお、行智側から農民信徒を告発する訴状が出されたので、日蓮はそれに対する陳状(答弁書)の文案を作成して法廷闘争に備えた。同申状で、日蓮は自身について「法主聖人」と述べている。

 

捕えられた20人の信徒が一人も妙法蓮華経の信仰を捨てなかったため、平頼綱は尋問を打ち切り、1015日、3名を斬首、余を禁獄処分とした。迫害はその後も続いたが、日蓮は龍泉寺の住僧だった門下を下総の富木常忍の館に避難させるなど、事態の収拾に努めている。

 

なお、日蓮正宗では「出世の本懐」について、熱原法難を受けて弘安21012日に図顕した本門戒壇の本尊(大石寺所蔵)を指すとするが、日蓮宗等の他の宗派ではこの解釈を認めておらず、板本尊自体も後世の作としている(同本尊は日蓮が孫弟子・日禅に授与した本尊を模刻して、後世に作成されたものとの説が出されている)。

 

弘安の役

蒙古(元)は、弘安2年(1279年)3月に南宋を滅ぼすと、旧南宋の兵士を動員して日本に対する再度の遠征を計画した。高麗から出発する元・高麗の東路軍4万人と、江南から出発する旧南宋の兵士10万人の江南軍に分け、合流して日本上陸を目指すという計画だった。弘安45月、東路軍が高麗の合浦(がっぽ)を出発、対馬・壱岐に上陸して住民を殺害した後、66日、江南軍との合流を待たず、東路軍だけで博多湾に到着し、上陸作戦を開始した。東路軍と江南軍は、7月初旬、平戸島付近でようやく合流したが、閏71日、大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。元・高麗軍は戦意を失い、高麗と江南に退却していった。

 

弘安の役に際し、戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は

「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」

と、教信の苦衷を汲み取りながら、後生の成仏は間違いないと励ましている。

 

弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する機会だったが、一方で承久の乱の再来とはならず真言僧の祈祷で勝利した。『富城入道殿御返事』では、予想外の事態に困惑している様子がうかがえる。日蓮は門下に対して、蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。

 

再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、台風がもたらした一時的な僥倖に浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた。日蓮系各派では元寇襲来的中は度々言及されるが、日本の敗北を予言していた点に言及されることはあまりない。そのため、元寇後の鎌倉幕府の滅亡に比定する解釈がされることがある。

 

文永六年の立正安国論奥書には、蒙古襲来について

「西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之を渡す。(中略)之に準じて之を思ふに未来もまた然るべきか。(中略)是偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応の致す所か」

とある。

2026/01/25

菅原道真(8)

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生涯

平安時代の貴族で学者・政治家。歌人としても名を残している。

 

承和12年(845年)625日、大和国奈良で生まれる。これは現在の奈良県奈良市菅原町と言われるが、他にも出生地については平安京、すなわち京都だけで3ヶ所も伝えられており、出雲国説(現在の島根県)や近江国説(現在の滋賀県)まであるため、本当のところはわかっていない状態である。

 

菅原道真は菅原是善の子で、祖父・清公から三代続いて学者となった家系であるが、道真は特に優秀で、幼少の頃から詩歌の才に恵まれた。当然のこととして学者を目指し、貞観6年(862年)に18歳で文章生となって以降、貞観9年には文章得業生となって学者の途を歩む出発点に立ち、異様な速度で文人としての頭角を現し始める。その速さに、貞観12年に官吏の登用試験に好成績で合格した際、規定なら三階位進めるべきところを、年齢と身分が不釣り合いになると2階位のみに留められたほどであった。以後の昇進も速く、元慶元年(877年)、33歳の時に文人のトップである文章博士に登りつめている。

 

仁和2年(886年)に讃岐守にも任じられ、4年間現地へ派遣されて善政を布いた。この人事異動を左遷と見る周囲の目があったのであるが、道真も地方官である国守は菅原家の家業ではないと断言し、不遇意識を嘆いた。文章博士として学問を以て天皇に仕えることこそが先祖代々の仕事であり、したがって道真にとって都を離れて地方に赴くことなど、ありうべからざることだったのである。なおこの間、仁和3年(887年)に参議・橘広相(宇多天皇の侍講)が起草した宇多天皇の詔勅の文言を発端とし、関白の藤原基経がストライキを起こす事件が起こった際、「これ以上、紛糾させても藤原氏の得にならない」との書状を基経に送り、宮中の人間が止められずにいたところをうまく調停するなどのできごともあった(阿衡事件)

 

寛平2年(890年)に讃岐から帰京すると、道真は政治改革を進めようとする宇多天皇の恩顧を得ることになる。それまで外戚(皇室の姻族)として権勢を振るって来た藤原氏に珍しく有力者がいないことを機と見て、違う氏族の道真を登用して藤原氏の力を弱めようとしたのである。

 

寛平3年には式部少輔に復しただけでなく、将来の公卿の地位が約束される蔵人頭となり、左中弁という要職も兼任し、栄達の途を歩み始めた。

 

寛平7年には中納言、寛平9年に権大納言・右大将と目覚ましい昇進ぶりであり、同年に宇多天皇が譲位し醍醐天皇が即位した以降も、宇多上皇からの後押しにより重用され、最終的に、7年で従五位上から正三位まで行くという猛烈な出世を遂げた。この間の事跡として、遣唐使の廃止がある。寛平6年(894年)に遣唐大使に任命された際、唐の衰退が著しい(13年後の延喜7年(907年)に滅亡)ことから中止を建言、その後唐が滅びたことで、結果的に遣唐使自体が廃止されることになったものである。

 

昌泰2年(899年)には、ついに異例の右大臣に昇進、朝廷のトップ近くまで登りつめた。しかし、このことによって藤原氏・源氏などの有力貴族の反発がどんどん強まったほか、下級貴族にも政策に不安を感じてそれに追随する者が多く、次第に政敵が増加。

 

貴族社会の身分秩序を乱す、学者出身者の異例な栄達は、家柄を誇る貴族たちには到底認められなかったのである。このような雰囲気の中で、道真は右大臣となっていた。

 

それを知った同じ学者でライバルの三善清行が、そろそろ政界を退いた方がよいと忠告をしたが、確執もあり無視されてしまう。

 

そして、ついに従二位に上った昌泰4年(901年)、左大臣・藤原時平により醍醐天皇を廃位して弟の斉世親王(道真の娘婿)を即位させようとしていると訴えられてしまう。これにより、道真を罪人として大宰府に大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷するという醍醐天皇の命が下された。処分を知った宇多上皇は、命令を撤回させようと醍醐天皇の御所を訪れたが、御所に入ることもかなわず、夕暮れにやむなく立ち去ったという。

 

この一連の事件には、「根拠がない讒言であった」という見解と、「宇多上皇からの政治干渉を嫌った醍醐天皇が、自分と親しい時平と組んで、宇多上皇に後押しされている道真を失脚させた」という見解がある。

 

この命からわずか6日後に道真は大宰府(福岡県太宰府市)へ向かう。道真には多くの子供があり、正確には分からないが標準的な系図によれば男11人、女3人の子供が挙げられているが、そのうち大宰府に連れて行くことが許されたのは幼い子供だけであった。京の家では妻と年長の娘たちが留守を守ったが、門前の木を売り、在地の一部を賃借しするなど、留守宅の生活もしだいに苦しくなっていった。

 

よく勘違いされているが、この大宰権帥自体は、兵権をも預かる平安末期まで実質的な大宰府のトップで、貴族の憧れの官職であった。しかし、道真の場合は「大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)」と呼ばれるもので、名前だけの高級官人左遷用ポストとして使われたものであった。このため大宰府の人員のうちにも数えられないばかりか、大宰府本庁にも入れてもらえず、ずっと南のぼろ屋で侘び暮らしを強いられていた。

「都府楼(大宰府本庁)はわずかに瓦が見えるばかり、観世音寺(大宰府に附属する寺)はただ鐘の音が聞こえるだけ」

と漢詩に詠んだのも、遠くに追いやられていたためである。道真は大宰府に流されると、幾度か天拝山に登って天を拝し、みずからの無実を訴えたと言われる。

 

2年をこの地で過ごした道真は、延喜3年(903年)225日、そのまま京に帰ることなく、失意のうちに配所で没した。享年59であった。墓地は現在の太宰府天満宮である。埋葬地を探して牛車に遺体を乗せて運んでいたところ、いきなりこの場所で動かなくなったため、道真の意思であるとして葬ったものと言われている。