2026/04/04

ファーティマ朝(3)

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 809年にハールーン・アッラシードが亡くなると、地方の統制がきかなくなり、エジプトやイランのアミール(地方の行政官)が独立し始めた。そして10世紀になると、イスラム世界には3人のカリフが並立するようになった。

 

    スペイン(後ウマイヤ朝):アッバース朝に追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世はスペインに渡り、756年に後ウマイヤ朝を建国した。王はカリフを名乗った。

 

    チュニジア(アグラブ朝):アッバース朝の将軍イブラーヒーム・イブン・アグラブがアグラブ朝をおこした。アグラブ朝はシチリア島へ侵攻した。ファーティマ朝に倒される。

 

    エジプト(ファーティマ朝):ファーティマ朝は、チュニジアにおこったシーア派の王朝で、909年にアグラブ朝を倒し、エジプトに進出した。この王朝はカリフを名乗った。1169年サラディンによって滅ぼされる。

 

    イラン(サーマン朝):874年、ブハラ(ウズベキスタン)にスンニ派のサーマン朝ができる。955年にアフガニスタンのガズナで自立したガズナ朝に滅ぼされる。         

 

    イラン(ブワイフ朝):シーア派がブワイフ朝(9321055)を建国。946年にバグダードを占領し、カリフから大アミールの称号を受ける。セルジューク朝に滅ぼされる。

 

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エジプトも、やがてアッバース朝から自立します。エジプトにできたイスラム王朝は三つ覚えればよい。ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝です。

 

1,ファーティマ朝(909~1171)首都カイロ

 ファーティマというのは、ムハンマドの娘の名前です。建国者がファーティマと第四代正統カリフ、アリーの血筋を引いていると自称しているので、こう呼ばれています。

 だからシーア派の王朝です。アッバース朝はスンナ派ですから、対抗上都合がいい。スンナ派のカリフなどは認めませんから、ファーティマ朝の君主はカリフという称号を名乗りました。

 

イスラムは一つという理念があったので、それまでもアッバース朝に対立する政権ができてもアミール(将軍)くらいの称号で満足していた。アッバース朝のカリフがいるのに、カリフを名乗るのはタブーだったんですが、それを平気で破ってしまった。

 日本でいえば、天皇家が二つできた南北朝のようなものです。

 

 しかし、一度タブーが破られてしまったらそのあとはあまり抵抗がないもので、ファーティマ朝の君主がカリフを称したすぐあとに、イベリア半島にあった後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世がカリフを自称しました。

 

 この時点で、イスラム世界に、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが出現したことになります。

2026/04/03

トマス・アクィナス(1)

トマス・アクィナス(羅: Thomas Aquinas1225年頃 - 127437日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。

 

カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino) とも表記される。

 

生涯

1225年ごろ、トマスは南イタリアの貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国アクイーノ近郊のロッカセッカ城であると考えられている。伯父のシニバルドはモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていた。修道院にはいって高位聖職者となることは、貴族の子息たちにはありがちなキャリアであった。

 

こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を送り込みトマスを誘惑させたが、トマスはそれを追い払った。

 

ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。

 

トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。

 

1252年にドミニコ会から教授候補としての推薦を受けてパリに赴き、規定に則り講師として数年講義を行うことで学位(教授認可)を取得しようとしたが、当時パリ大学の教授会は托鉢修道会に対して敵対的であり、学位取得は長引いた。講師として教鞭を執りながら取得を待ったトマスは、1256年は学位を取得してパリ大学神学部教授となり、1257年には正式に教授会に迎え入れられた。1259年には、ヴァランシエンヌでおこなわれたドミニコ会総会に代表として出席した。

 

1259年にパリ大学を辞任したのちイタリアに戻り、1261年頃にはオルヴィエートのドミニコ会修道院で教鞭を執りつつ、教皇ウルバヌス4世の願いによって聖書註解や神学研究を行った。1265年にはドミニコ会の命により、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で神学大学を設立した。

 

1269年再びパリ大学神学部教授になり、シゲルスを中心とするラテンアヴェロエス派や、ジョン・ペッカムを中心とするアウグスティヌス派と論争を繰り広げる。同時代の人々の記録によるとトマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めると、その論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。

 

1272年のフィレンツェの教会会議において、トマスは、ローマ管区内の任意の場所に神学大学を設立するように求められ、温暖な故郷ナポリを選び、著作に専念して思想を集大成に努めるようになった。

 

1274年の初頭、教皇は第2リヨン公会議への出席を要請した。トマスは健康状態が優れなかったがこれを快諾し、ナポリからリヨンへ向かった。しかし道中で健康状態を害し、ドミニコ会修道院で最期を迎えたいと願ったが、かなわずソンニーノに近いフォッサノヴァ(現在はプリヴェルノ市の一部)のシトー会修道院で世を去った。127437日のことであった。

 

シトー会士たちは遺体をドミニコ会側に渡すまいと、棺を修道院内に隠す、頭を切り離す、骨だけにするために遺体を煮込むなどの暴挙をあえて行ったともいわれているが、教皇の命令により1369年になってようやく遺骨がドミニコ会に引き渡された。トマスの遺骨の納められた墓は、フランス・トゥールーズのジャコバン教会に存在する。

 

トマスは会う人すべてに強い印象を与えている。彼はパウロやアウグスティヌスと並び立つ人物といわれ、Doctor Angelicus(神の使いのような博士)と呼ばれた。1319年にトマスの列聖調査が始められ、1323718日、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世によって列聖が宣言され、聖人にあげられている。

 

1545年のトリエント公会議。議場に設けられた祭壇の上には二つの本だけが置かれていた。一つは聖書、そしてもう一つはトマス・アクィナスの『神学大全』であった。

2026/03/30

ファーティマ朝(2)

アズハル・モスク

エジプトの征服にあたり、ファーティマ朝はイフシード朝以来の支配層の財産を保証し、強圧的なイスマーイール派の押し付けを避けて、多数派であるスンナ派との融和をはかった。このため、ファーティマ朝は内部にこれまで以上のスンナ派勢力を抱えることになったが、978年にはムイッズの建設したアズハル・モスクにイスマーイール派の最高教育機関となるアズハル学院が開講され、カイロでイスマーイール派の教理を学んだ教宣員たちはファーティマ朝の版図に留まらず、イスラム世界の各地に散らばってイスマーイール派を布教した。現在、シリア、イラン、パキスタン、インド西部で信仰されているイスマーイール派は、こうしたファーティマ朝の積極的な布教により広がったものである。

 

しかし、10世紀末のシリアで土着のスンナ派勢力による反ファーティマ朝の動きが広がり、ファーティマ朝支配から独立した。一方、王朝発祥の地チュニジアでは、ファーティマ朝からマグリブ(西アラブ)・トリポリタニア(現リビア)方面の統治を委ねられていたズィール朝が事実上の独立を果たし、エジプト以西の領土が失われていた。さらに、第6代カリフのハーキムが1021年に謎の失踪を遂げて以降は実力のないカリフが続き、行政官庁の最高実力者である宰相(ワズィール)が実権を掌握した。

 

同じ11世紀にはシリア地方にセルジューク朝、ついで第1回十字軍が到来し、エルサレムをはじめとするシリア地方のほとんどがファーティマ朝の支配下から失われた。ヒジャーズの宗主権もセルジューク朝に奪われ、12世紀にはファーティマ朝はもはやほとんどエジプトのみを支配するに過ぎなくなった。

 

ファーティマ朝の滅亡

12世紀の後半に入ると、幼弱な者がカリフの地位に就くようになり、宰相の地位をめぐる軍人たちの争いが一切の抑えを失って、政治はますます混乱した。さらにファーティマ朝の衰退に乗じ、シリア地方で激しく争うイスラム勢力のザンギー朝と、エルサレム王国などの十字軍国家がエジプトへの侵攻、介入をはかるようになっていった。

 

1163年、ファーティマ朝の有力者同士の宰相位を巡る争いに際し、一方の要請を受けたザンギー朝のヌールッディーンは、部下のクルド人の将軍シールクーフをエジプトに派遣した。1164年、シールクーフはカイロに入ったが、エルサレム王アモーリー1世の介入によりシリアへと撤退を余儀なくされた。シールクーフとエルサレム王国は、その後もエジプトへの介入を繰り返し、1169年、最終的にシールクーフがエルサレム王国軍を追ってカイロに入城した。

 

1168年、カリフの援軍要請によりシールクーフはエジプトへ入り、カリフはスンナ派である彼を宰相に任じたが、シールクーフはそのわずか2ヵ月後の同年323日に急死し、かわって甥サラーフッディーンが宰相に就任した。サラーフッディーンは一切実権をもたないカリフになりかわってエジプトの政治を取り仕切り、外来のシリア軍に対して反乱を起こしたファーティマ朝の黒人奴隷兵軍団を撃破し、カリフ宮廷で勢力を振るっていた黒人宦官を殺害して政権を固めた。さらに、自身の親族やマムルークにイクターを授与してザンギー朝式の国制を導入し、イスマーイール派の法官(カーディー)を追放してスンナ派の法官にすげ替えるなど、体制の切り替えを進めた。

 

1171年、宮廷に篭りきりだった最後のカリフが20歳の若さで病死するのに前後して、サラーフッディーンはエジプトがアッバース朝カリフの宗主権を承認する宣言を行い、ファーティマ朝は終焉を迎えた。

 

ファーティマ朝の消滅にともない、かわってサラーフッディーンによるスンナ派王朝、アイユーブ朝がエジプトを支配し、やがてシリアへと勢力を広げてゆく。

 

国制

ファーティマ朝のきわだった特性は、カリフを絶対君主とするきわめて中央集権的な国家体制をもったことである。これは、預言者ムハンマドの従弟にして娘婿であったアリー以来、その子孫がイマームとして父から子に受け継がれる政治的・宗教的な指導力を引き継ぐとするシーア派の原理に裏打ちされていた。ファーティマ朝のカリフは、すなわちシーア派の一派であるイスマーイール派のイマームであるとされ、クルアーン(コーラン)などに示された神の意志の真なる意味を解釈する能力を認められる。この点で、原則としては政治的な指導者に過ぎなかったスンナ派のカリフと比べると、神権的な力に裏付けられた権力を正当化することができた。

 

国家機関は、アッバース朝と同様、イスラム時代の初期からイスラム王朝によって行われてきたものを踏襲し、ディーワーンと呼ばれる行政官庁によって徴税を行い、軍人に俸給(アター)を分配した。行政官庁の長が宰相(ワズィール)で、エジプト時代に地位を高め、次第にカリフに代わる実質上の最高権力者となっていった。エジプト時代の初期には、カリフ専制体制を背景に、宰相には宮廷との個人的なつながりによって登用された有能なユダヤ教やキリスト教からの改宗者が就任したが、11世紀後半以降は軍人出身の有力者が就任するようになる。

 

軍人は王朝の創建当初は、その成立事情を反映してベルベル人の軍団、将軍が力をもったが、後には黒人、ギリシャ人、スラヴ人、トルコ人などからなる傭兵あるいは奴隷身分の出身者(マムルークなど)により編制された。軍人たちはそれぞれの出自、身分別に編成された軍団に分かれ、有力者同士の宰相位を巡る争いによって相互に対立したことは、ファーティマ朝の混乱の大きな要因となった。

2026/03/29

時宗

時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。

 

時衆と時宗

他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。

 

時衆とは、善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。一遍が布教していた同じ時期に、全く別個に一向俊聖も同じような思想を持って布教を行っていた。

 

思想

浄土教では、阿弥陀仏への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。

 

時宗(時衆)の語源は

「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」

とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには、念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。

 

一遍は聖達より浄土宗西山義を学び、父である河野通広(如仏)は西山上人・証空に師事している。日本浄土教各宗派の中での位置付けは、法然の高弟である証空や聖達を大成者とする西山派を「浄土宗の子」とするならば、証空・聖達の門弟であった一遍の時宗は「浄土宗の孫」という立場になる。

 

歴史

中世

一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿(他阿弥陀仏)である。他阿は、バラバラであった時衆を統制するために、信徒に対して僧である善知識を「仏の御使い」として絶対服従させる知識帰命の説を取り入れ、「時衆制誡」「道場制文」などを定め、『時衆過去帳』を作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。それ以後、一遍と他阿の後継となる教団の指導者は、他阿と同じ他阿弥陀仏を称して遊行上人と呼ばれ、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。

 

藤沢市清浄光寺本堂

三代目遊行上人智得が没すると、真光の当麻道場無量光寺と呑海の藤沢道場清浄光院(のちの清浄光寺)に教団は分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは様々な困難を伴った。教団が発展する中で、順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。

 

近世

江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が一遍の流派を中心とする「時宗」という単一の宗派に統合され、一向の流派などもその中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。

 

近代

1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、時宗の金城湯池といわれた薩摩藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争中は時宗報国会を組織し、満洲の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。

 

法式

戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。

 

宗紋

折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。

 

一遍が出た伊予河野氏は代々大三島の大山祇神社を信奉し、これを奉祀する一族であるため、元来一族の家紋は大山祇神社の神紋である「折敷に揺れ三文字」であった。しかし河野通信が源頼朝挙兵に呼応し、その軍功を讃えられて頼朝・北条時政に次ぐ三番目の席次を充てられた際に置かれた折敷に「三」と書かれていた事から、以後家紋の三文字を「揺れ三文字」から一般的な「三文字」に替えたという。一遍は河野通信の孫となるので、宗紋は通信以来の「折敷に三文字」としている。

 

※ただし中の「三」の字は文字様ではなく、直線的な三本の線となっている。

2026/03/26

ファーティマ朝(1)

ファーティマ朝(アラビア語: الخلافة الفاطمية Al-Khilafah al-Fāimīyah)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909 - 1171年)。

 

その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で、預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。

 

ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期には、イベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したので、イスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。 

 

歴史

建国

ファーティマ朝の淵源は、8世紀後半にイマーム派(シーア派の多数派)の第6代イマーム、ジャアファル・サーディクが亡くなった時、その長子イスマーイールのイマーム位継承を支持したグループが形成したイスマーイール派にある。イスマーイールの死後は、この派からはイマームがいなくなり教勢が衰えたが、9世紀後半になってイスマーイールの子ムハンマドは現世から姿を隠している隠れイマームであり、やがて救世主(マフディー)として再臨し、隠された真実を顕現するとする教理を主張するようになり、盛んに教宣活動を行った。

 

ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)は、イスマーイールの子孫を称するイスマーイール派教宣運動の指導者で、899年には[要出典]従来の教理を改めて自らがイマームにしてマフディーであると宣言、活動を先鋭化していた。ウバイドゥッラーの指示に従い、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリアから離れた北アフリカで活動していた教宣員のアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーとも呼ばれる)は、現地のベルベル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、909年にイフリーキヤを中心に北アフリカ中部を支配するアグラブ朝を滅ぼした。彼らはウバイドゥッラーをシリアから北アフリカに迎えカリフに推戴し、チュニジアの地でファーティマ朝が建国された。

 

ウバイドゥッラーは、王朝建設の功労者アブー=アブドゥッラーを粛清してカリフによる独裁権力を確立、チュニスの南に新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)を建設して、シーア派国家のファーティマ朝の支配を固めた。

 

ファーティマ朝の拡大

ウバイドゥッラーによる北アフリカへの進出は、そもそも西方で王朝の基盤を建設して東方バグダードにあるアッバース朝を滅ぼすための第一歩と位置付けられていたので、ファーティマ朝は王朝の初期から東方への進出をはかり、たびたびエジプトに遠征軍が派遣された。この一連の遠征軍派遣はアレクサンドリアを一旦は占領するものの、いずれもアッバース朝の軍により退けられ成功を収められなかった。このため、内政の強化とマグリブ方面への進出へと方針転換されたものの、モロッコでは後ウマイヤ朝の介入により、はかばかしい成果をあげられなかった。

 

一方で、北アフリカにおける勢力拡大も進められ、シチリア島まで勢力下におき、そこに海軍基地を設けた。また、チュニジアではスンナ派が住民の多数を占めたので、ファーティマ朝によるイスマーイール派至上主義に対する反感が強まり、軍事費の増大を賄うためにイスラーム法によらない増税が行なわれ、民心がますます離反した。アブー・アルカースィムの代に、ハワーリジュ派を中心とする組織的抵抗も起こったが、ファーティマ朝の勝利に終わって王朝の基盤は強化された。

 

エジプト支配

9696月、第4代カリフのムイッズは、エジプトを支配するイフシード朝の内部崩壊に乗じ、シチリア出身の将軍ジャウハル率いる遠征軍をアレクサンドリアに派遣した。ジャウハルは、ほとんど抵抗を受けることなくエジプトを支配下に収め、カリフのエジプト移転にあわせてエジプトの首府フスタートの北隣に新都カーヒラ(「勝利の都」)を建設した。カイロは、アラビア語のアル=カーヒラ (ar:القاهرة) が西欧の諸言語で訛った呼び名である。

 

エジプトにおけるファーティマ朝はイフシード朝の版図を踏襲し、エルサレムを含む南シリア地方まで支配を広げた。さらにマッカ(メッカ)を含むアラビア半島西部のヒジャーズ地方をも保護下においた。ムイッズと、その子アズィーズの治世が、ファーティマ朝の最盛期となった。