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十国
十国とは以下の国家を指す。
呉(902年-937年)
前蜀(907年-925年)
荊南(907年-963年)
呉越(907年-978年)
楚(907年-951年)
閩(909年-945年)
南漢(909年-971年)
後蜀(934年-965年)
南唐(937年-975年)
北漢(951年-979年)
また、十国以外の国として李茂貞の岐(901年-924年)と、劉守光の燕(895?911年-913年)がある。
呉
群盗の出身の楊行密が、現在の南京周辺を支配した政権。黒雲都と呼ばれる軍勢を率いたことによって台頭したが、頼り過ぎたが故に黒雲都の指令官である徐温と張顥が実権を握るようになる。
楊行密が死んだ後の君主は完全に傀儡であり、徐温と張顥との権力争いは徐温の勝利に終わる。が、その徐温も禅譲直前に病死、その養子である徐知誥に禅譲することによって4代で滅んだ。
南唐
禅譲によって南唐を建国した徐知誥は、楊行密に拾われた正体不明の孤児で、才能を見込まれたが楊行密の子たちとは折り合いが悪かったため、徐温の養子になる。ここで才能を発揮し、徐温の実子たちを差し置いて後継者へと成り上がり、ついには国王にまでなった。皇帝即位後は唐の宗族と自称して李昪と改名、国名も唐にちなんだものとした。
国を運営するうえで最重要物資である塩の生産地を抑えていたため、十国の中では最強といわれていたが、李昪は外征よりも内政に力を尽くした。その姿勢はまさしく名君といってもよかったが、外征をしなかったことが結果的に最悪な展開を迎えてしまう。
2代目の李景は外征を推し進め、内乱に乗じて楚と閩を滅ぼすがその後の処理がまずく、得た領土を手放すことになってしまう。その上、文人気質で実務に疎い傾向にあったため、後周の世宗に敗北、大幅な領土の割譲など、後周の属国になることを余儀なくされてしまう。
3代目の李煜は国を保つことに保身するが、結局は後周の後継である宋に攻め込まれて滅ぼされることとなった。
前蜀
群盗出身で黄巣の乱で名を上げた王健が、蜀に割拠した政権。
戦乱の世ではあったが、天然の要害である地理条件と塩や鉄などの重要資源が産出することから経済発展に尽くし、別天地ともいえる平和な空間を造り上げた。文人たちが避難してきたことによって文化が花開いたが、その反面、秘密警察を作って国民を監視するなど暗い面もあった。
だが、その後を継いだ2代目が無能であり、蜀の天然資源に目をつけた後唐によってあっさり滅ぼされた。
後蜀
前蜀滅亡後の蜀の統治を任された孟知祥が、混乱に乗じて独立。
前蜀譲りの経済力で文化が花開いたが、天下の険があることをいいことに外よりも内に向いてしまい、奢侈に走るのも前蜀と同じであった。そして、宋にあっけなく滅ぼされてしまう。
閩
群盗の王審知が、福建に中心に割拠した政権。
初代の王審知は名君であったが、後継者に恵まれず、内紛の果てに南唐に攻め込まれて滅亡。
閩時代の遺物が、今でも意外に残されている。
呉越
群盗の銭鏐(せんりゅう)が杭州を中心とした地域を支配した政権。
内政に務め、長江、東シナ海、南シナ海の結節点という立地を生かしての貿易国家として栄えた。その一方で、細々としたものに税をかけていたと言われている。
周辺諸国と比較して後継者には恵まれていたため内紛が少なかったこと、強国に臣従して金で安全を買うことによって、五代十国としては長期に渡って存続したが、宋が南唐を滅ぼして直接国境を接するようになると不利を悟り、自ら領土を献上する形で滅んだ。国としては一番まともな終り方であり、呉越公室は優遇されたという。
時代は流れて現代、子孫の一人が中国においてはロケット博士になり、もう一人の子孫はアメリカに渡ってノーベル賞を受賞をしているのだから、地下の銭鏐もさぞかしびっくりしているだろう。
楚
木工出身の群盗、馬殷が長沙周辺に割拠した政権。
経済国家であり、茶の販売が主な収入源だったため5代の国家には臣従、皇帝とは名乗らなかった。
馬殷は子沢山であったが、その息子たちが凡庸であったことから内紛が勃発、南唐に攻め込まれて滅亡する。
ちなみに馬王堆は馬殷の墓だという伝承があってつけられた名称であったが、実際に葬られていたのは全くの別人、そして馬殷よりも遙か古代の人だった。
荊南
丁稚出身で、後梁の朱全忠に才能を認められた高季興が荊州以下、3州の統治を任され、その後、独立した勢力。実は国家ではなく自治領という存在であり、員数合わせのために五代十国に組み込まれたのではないかという説もある。
十国中、もっとも小さい国家ではあったが大陸の中心という立地条件を生かし、五代の国のみならず後唐や呉越といった国まで臣従、勢力の緩衝地帯と認識させることよって独立を保った。だが、宋の侵攻が始まると交通の要所という点から真っ先に攻撃目標とされ、宋に国軍を通過させろと脅されて認めると、そのまま占領されて滅んだ。荊南の滅亡により、十国が連携して宋を攻撃することが不可能になったので重要な意味を持つ。
ちなみに、万事休すとはこの国発祥の故事成語である。
南漢
劉隠が広東を中心に割拠した政権。ちなみに劉隠はアラブ系だったのではないかという説がある。
その頃の広東は中央から遠く離れていたので平和であり、南海貿易で栄えていたので国力も豊かであった。ただし、ベトナムの呉朝との戦いに敗れて独立を許し、これを契機に中華王朝のベトナム支配が終わったというのは重要な事件である。
特徴としては、宦官大好き政権であったこと。宦官でないと役人として登用されない有様だったので、人口100万人に対し宦官の人口が7000人、末期には20000人に増加したといわれている。まともな状況ではなかったので、宋が侵攻するとあっさりと滅亡した。
北漢
後漢皇帝、劉知遠の弟である劉崇が甥の隠帝が殺された後、太原を中心として独立した政権。
誕生の経緯から後周、宋に敵対的ではあったが国力では叶わなかったため遼に臣従した。
遼の支援を受けて後周と対決するが敗北、内紛もあって4代で滅亡。北漢の滅亡により、中国統一は完了した。