2026/03/30

ファーティマ朝(2)

アズハル・モスク

エジプトの征服にあたり、ファーティマ朝はイフシード朝以来の支配層の財産を保証し、強圧的なイスマーイール派の押し付けを避けて、多数派であるスンナ派との融和をはかった。このため、ファーティマ朝は内部にこれまで以上のスンナ派勢力を抱えることになったが、978年にはムイッズの建設したアズハル・モスクにイスマーイール派の最高教育機関となるアズハル学院が開講され、カイロでイスマーイール派の教理を学んだ教宣員たちはファーティマ朝の版図に留まらず、イスラム世界の各地に散らばってイスマーイール派を布教した。現在、シリア、イラン、パキスタン、インド西部で信仰されているイスマーイール派は、こうしたファーティマ朝の積極的な布教により広がったものである。

 

しかし、10世紀末のシリアで土着のスンナ派勢力による反ファーティマ朝の動きが広がり、ファーティマ朝支配から独立した。一方、王朝発祥の地チュニジアでは、ファーティマ朝からマグリブ(西アラブ)・トリポリタニア(現リビア)方面の統治を委ねられていたズィール朝が事実上の独立を果たし、エジプト以西の領土が失われていた。さらに、第6代カリフのハーキムが1021年に謎の失踪を遂げて以降は実力のないカリフが続き、行政官庁の最高実力者である宰相(ワズィール)が実権を掌握した。

 

同じ11世紀にはシリア地方にセルジューク朝、ついで第1回十字軍が到来し、エルサレムをはじめとするシリア地方のほとんどがファーティマ朝の支配下から失われた。ヒジャーズの宗主権もセルジューク朝に奪われ、12世紀にはファーティマ朝はもはやほとんどエジプトのみを支配するに過ぎなくなった。

 

ファーティマ朝の滅亡

12世紀の後半に入ると、幼弱な者がカリフの地位に就くようになり、宰相の地位をめぐる軍人たちの争いが一切の抑えを失って、政治はますます混乱した。さらにファーティマ朝の衰退に乗じ、シリア地方で激しく争うイスラム勢力のザンギー朝と、エルサレム王国などの十字軍国家がエジプトへの侵攻、介入をはかるようになっていった。

 

1163年、ファーティマ朝の有力者同士の宰相位を巡る争いに際し、一方の要請を受けたザンギー朝のヌールッディーンは、部下のクルド人の将軍シールクーフをエジプトに派遣した。1164年、シールクーフはカイロに入ったが、エルサレム王アモーリー1世の介入によりシリアへと撤退を余儀なくされた。シールクーフとエルサレム王国は、その後もエジプトへの介入を繰り返し、1169年、最終的にシールクーフがエルサレム王国軍を追ってカイロに入城した。

 

1168年、カリフの援軍要請によりシールクーフはエジプトへ入り、カリフはスンナ派である彼を宰相に任じたが、シールクーフはそのわずか2ヵ月後の同年323日に急死し、かわって甥サラーフッディーンが宰相に就任した。サラーフッディーンは一切実権をもたないカリフになりかわってエジプトの政治を取り仕切り、外来のシリア軍に対して反乱を起こしたファーティマ朝の黒人奴隷兵軍団を撃破し、カリフ宮廷で勢力を振るっていた黒人宦官を殺害して政権を固めた。さらに、自身の親族やマムルークにイクターを授与してザンギー朝式の国制を導入し、イスマーイール派の法官(カーディー)を追放してスンナ派の法官にすげ替えるなど、体制の切り替えを進めた。

 

1171年、宮廷に篭りきりだった最後のカリフが20歳の若さで病死するのに前後して、サラーフッディーンはエジプトがアッバース朝カリフの宗主権を承認する宣言を行い、ファーティマ朝は終焉を迎えた。

 

ファーティマ朝の消滅にともない、かわってサラーフッディーンによるスンナ派王朝、アイユーブ朝がエジプトを支配し、やがてシリアへと勢力を広げてゆく。

 

国制

ファーティマ朝のきわだった特性は、カリフを絶対君主とするきわめて中央集権的な国家体制をもったことである。これは、預言者ムハンマドの従弟にして娘婿であったアリー以来、その子孫がイマームとして父から子に受け継がれる政治的・宗教的な指導力を引き継ぐとするシーア派の原理に裏打ちされていた。ファーティマ朝のカリフは、すなわちシーア派の一派であるイスマーイール派のイマームであるとされ、クルアーン(コーラン)などに示された神の意志の真なる意味を解釈する能力を認められる。この点で、原則としては政治的な指導者に過ぎなかったスンナ派のカリフと比べると、神権的な力に裏付けられた権力を正当化することができた。

 

国家機関は、アッバース朝と同様、イスラム時代の初期からイスラム王朝によって行われてきたものを踏襲し、ディーワーンと呼ばれる行政官庁によって徴税を行い、軍人に俸給(アター)を分配した。行政官庁の長が宰相(ワズィール)で、エジプト時代に地位を高め、次第にカリフに代わる実質上の最高権力者となっていった。エジプト時代の初期には、カリフ専制体制を背景に、宰相には宮廷との個人的なつながりによって登用された有能なユダヤ教やキリスト教からの改宗者が就任したが、11世紀後半以降は軍人出身の有力者が就任するようになる。

 

軍人は王朝の創建当初は、その成立事情を反映してベルベル人の軍団、将軍が力をもったが、後には黒人、ギリシャ人、スラヴ人、トルコ人などからなる傭兵あるいは奴隷身分の出身者(マムルークなど)により編制された。軍人たちはそれぞれの出自、身分別に編成された軍団に分かれ、有力者同士の宰相位を巡る争いによって相互に対立したことは、ファーティマ朝の混乱の大きな要因となった。

2026/03/29

時宗

時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。

 

時衆と時宗

他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。

 

時衆とは、善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。一遍が布教していた同じ時期に、全く別個に一向俊聖も同じような思想を持って布教を行っていた。

 

思想

浄土教では、阿弥陀仏への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。

 

時宗(時衆)の語源は

「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」

とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには、念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。

 

一遍は聖達より浄土宗西山義を学び、父である河野通広(如仏)は西山上人・証空に師事している。日本浄土教各宗派の中での位置付けは、法然の高弟である証空や聖達を大成者とする西山派を「浄土宗の子」とするならば、証空・聖達の門弟であった一遍の時宗は「浄土宗の孫」という立場になる。

 

歴史

中世

一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅した。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿(他阿弥陀仏)である。他阿は、バラバラであった時衆を統制するために、信徒に対して僧である善知識を「仏の御使い」として絶対服従させる知識帰命の説を取り入れ、「時衆制誡」「道場制文」などを定め、『時衆過去帳』を作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。それ以後、一遍と他阿の後継となる教団の指導者は、他阿と同じ他阿弥陀仏を称して遊行上人と呼ばれ、諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行った。

 

藤沢市清浄光寺本堂

三代目遊行上人智得が没すると、真光の当麻道場無量光寺と呑海の藤沢道場清浄光院(のちの清浄光寺)に教団は分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。室町時代中頃に猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名を持つ者が見られ、同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは様々な困難を伴った。教団が発展する中で、順調な遊行を行うために権力への接近が始まり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。

 

近世

江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が一遍の流派を中心とする「時宗」という単一の宗派に統合され、一向の流派などもその中の12の流派に位置付けられた(「時宗十二派」)。主流は藤沢道場清浄光寺および七条道場金光寺を本寺とする「遊行派」であった。一時期より衰退したとはいえ、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰退したのは、明治の廃仏毀釈であると思われる。

 

近代

1871年(明治4年)、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、時宗の金城湯池といわれた薩摩藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。1940年(昭和15年)、一遍上人に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争中は時宗報国会を組織し、満洲の奉天に遊行寺別院を設けるなど政府に協力した。1943年(昭和18年)、一向派が離脱し浄土宗に帰属した。

 

法式

戒名は法名と呼び、男は「阿弥陀仏」号、女は「一房」号ないし「仏房」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号を用いる。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は男は「阿弥」号、女は「弌房」号である。

 

宗紋

折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。

 

一遍が出た伊予河野氏は代々大三島の大山祇神社を信奉し、これを奉祀する一族であるため、元来一族の家紋は大山祇神社の神紋である「折敷に揺れ三文字」であった。しかし河野通信が源頼朝挙兵に呼応し、その軍功を讃えられて頼朝・北条時政に次ぐ三番目の席次を充てられた際に置かれた折敷に「三」と書かれていた事から、以後家紋の三文字を「揺れ三文字」から一般的な「三文字」に替えたという。一遍は河野通信の孫となるので、宗紋は通信以来の「折敷に三文字」としている。

 

※ただし中の「三」の字は文字様ではなく、直線的な三本の線となっている。

2026/03/26

ファーティマ朝(1)

ファーティマ朝(アラビア語: الخلافة الفاطمية Al-Khilafah al-Fāimīyah)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909 - 1171年)。

 

その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で、預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。

 

ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期には、イベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したので、イスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。 

 

歴史

建国

ファーティマ朝の淵源は、8世紀後半にイマーム派(シーア派の多数派)の第6代イマーム、ジャアファル・サーディクが亡くなった時、その長子イスマーイールのイマーム位継承を支持したグループが形成したイスマーイール派にある。イスマーイールの死後は、この派からはイマームがいなくなり教勢が衰えたが、9世紀後半になってイスマーイールの子ムハンマドは現世から姿を隠している隠れイマームであり、やがて救世主(マフディー)として再臨し、隠された真実を顕現するとする教理を主張するようになり、盛んに教宣活動を行った。

 

ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)は、イスマーイールの子孫を称するイスマーイール派教宣運動の指導者で、899年には[要出典]従来の教理を改めて自らがイマームにしてマフディーであると宣言、活動を先鋭化していた。ウバイドゥッラーの指示に従い、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリアから離れた北アフリカで活動していた教宣員のアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーとも呼ばれる)は、現地のベルベル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、909年にイフリーキヤを中心に北アフリカ中部を支配するアグラブ朝を滅ぼした。彼らはウバイドゥッラーをシリアから北アフリカに迎えカリフに推戴し、チュニジアの地でファーティマ朝が建国された。

 

ウバイドゥッラーは、王朝建設の功労者アブー=アブドゥッラーを粛清してカリフによる独裁権力を確立、チュニスの南に新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)を建設して、シーア派国家のファーティマ朝の支配を固めた。

 

ファーティマ朝の拡大

ウバイドゥッラーによる北アフリカへの進出は、そもそも西方で王朝の基盤を建設して東方バグダードにあるアッバース朝を滅ぼすための第一歩と位置付けられていたので、ファーティマ朝は王朝の初期から東方への進出をはかり、たびたびエジプトに遠征軍が派遣された。この一連の遠征軍派遣はアレクサンドリアを一旦は占領するものの、いずれもアッバース朝の軍により退けられ成功を収められなかった。このため、内政の強化とマグリブ方面への進出へと方針転換されたものの、モロッコでは後ウマイヤ朝の介入により、はかばかしい成果をあげられなかった。

 

一方で、北アフリカにおける勢力拡大も進められ、シチリア島まで勢力下におき、そこに海軍基地を設けた。また、チュニジアではスンナ派が住民の多数を占めたので、ファーティマ朝によるイスマーイール派至上主義に対する反感が強まり、軍事費の増大を賄うためにイスラーム法によらない増税が行なわれ、民心がますます離反した。アブー・アルカースィムの代に、ハワーリジュ派を中心とする組織的抵抗も起こったが、ファーティマ朝の勝利に終わって王朝の基盤は強化された。

 

エジプト支配

9696月、第4代カリフのムイッズは、エジプトを支配するイフシード朝の内部崩壊に乗じ、シチリア出身の将軍ジャウハル率いる遠征軍をアレクサンドリアに派遣した。ジャウハルは、ほとんど抵抗を受けることなくエジプトを支配下に収め、カリフのエジプト移転にあわせてエジプトの首府フスタートの北隣に新都カーヒラ(「勝利の都」)を建設した。カイロは、アラビア語のアル=カーヒラ (ar:القاهرة) が西欧の諸言語で訛った呼び名である。

 

エジプトにおけるファーティマ朝はイフシード朝の版図を踏襲し、エルサレムを含む南シリア地方まで支配を広げた。さらにマッカ(メッカ)を含むアラビア半島西部のヒジャーズ地方をも保護下においた。ムイッズと、その子アズィーズの治世が、ファーティマ朝の最盛期となった。

2026/03/25

一遍(2)

思想と評価

一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時衆である。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と説いた。

 

阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場であったが、「聖絵」によれば一遍は14の神社に参詣して結縁した。

 

一遍の神祇観は

「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」

との言に代表され、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れた。

 

浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるように(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算した。

 

「六十万人」とは一遍作の頌

「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」

の最初の文字を集めたものであり、一切衆生の名であり、まず60万人の衆生に賦算し、しかる後にさらなる60万人に賦算を繰り返すということであり、一遍製作の算を受け取り勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。大橋俊雄は、この算を一遍が極楽往生を保証する浄土行きの電車の切符と例えた。

 

寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導は一期ばかりぞ」との信条を貫き、入寂の13日前の正応2810日の朝に、所持していた書籍のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残した自著および所持書籍すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら自ら焼却し、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。

 

和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は、後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。

 

一遍の踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近い。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手(一遍の同行者は20から40人おり、ほぼ半数は尼僧だった)が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。その過激な狂乱状態は、保守的な人々からは反発を受けた。例えば六条有房の『野守鏡』では、法悦状態で服を脱ぎ罵詈雑言を叫ぶ踊念仏の見苦しさに対する強烈な批判が述べられている。

 

有名な法語、和歌

旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき(時宗宗歌となっている)

身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ

生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり

夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛。

世の人おもへらく、自力他力を分別してわが体をもたせて、われ他力にすがり往生すべしと、云々。この義しからず。自力他力は初門のことなり。自他の位を打ち捨てて唯一念仏になるを他力とはいふなり。

 

時宗教団の成立

門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や、2歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時宗を他阿が再編成したのが起源である。

 

ゆかりの文化財

その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝える。『遊行上人縁起絵』(宗俊撰述、別名:一遍上人絵詞伝、一遍上人縁起絵)は、他阿が描かせたものである。『一遍上人語録』は、江戸期に編纂された。当麻無量光寺(神奈川県相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある(宝厳寺も木造一遍上人立像(重要文化財)を所蔵していたが、2013810日の本堂火災で焼失)。

 

廟所は真光寺にあり、律宗の影響が指摘される巨大な五輪塔である。阪神・淡路大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された。無量光寺にもそれを分骨したと伝えられる墓塔があるが、信者により削り取られ、原形を留めない。

 

一遍の笈(おい)は3個が現存するとされ、群馬県安中市の聞名寺が所蔵する1つが群馬県指定重要文化財となっている。

 

また手許の経典の一部は、死の13日前に書写山の僧に預けた。一説には、それが近世に書写山側から遊行上人に託され、現在清浄光寺に眠るともいわれるが、真偽のほどは明らかとなっていない。

 

なお、長野県佐久市の「跡部の踊り念仏」は、一遍上人ゆかりの古い姿を伝えているとして、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また佐久市にある時宗の金台寺所蔵の「紙本著色一遍上人絵伝 巻二」と「紙本墨書他阿上人自筆仮名消息」は国の重要文化財。同寺の鎌倉時代の梵鐘は、一遍上人ゆかりの品とされ佐久市有形文化財。

 

諱について

一遍の諱は時氏と主に言われているが、時氏の兄・通秀や、通秀か時氏の系譜的位置で通尚とも言われている[要出典]

2026/03/23

五代十国時代(7)

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科挙

 宋代の科挙を簡単に見ておきます。

 科挙は誰でも受験することができます。年齢、出身地関係なし。女性はダメですけれどね。

 試験は三年に一回。

 三段階の試験があります。最初が郷試、これは地方試験。合格したら都で二次試験を受けることができる。これを会試という。

 会試を通った受験者が最後に受けるのが殿試。これは宋代からはじまった。皇帝自身による面接試験です。宮殿でおこなうから殿試だ。

 

 官僚になれば、一族みんなが潤うような財産と権力とが手に入る。一番で合格すれば、将来の大臣は約束されたようなもの。

 

 一旗揚げようという血気盛んな者達は、腕力にものをいわせるんではなくて机に向かって勉強するようになる。政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚になってしまったほうが話が早い。

 

 そういう意味でも、政府は積極的に科挙を宣伝します。これは科挙を受けるように勧める歌です。

 

 「金持ちになるに良田を買う要はない。

  本のなかから自然に千石の米がでてくる。

  安楽な住居に高殿をたてる要はない。

  本のなかから自然に黄金の家がとび出す。

  外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。

  本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。

  妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。

  本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。

  男児たるものひとかどの人物になりたくば、

  経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」

         宮崎市定「科挙」中公新書より

 

 窓口に向かってというのは、昔だから照明は暗い。日が暮れかけても窓からは光が射し込むから、暗くなっても勉強しろということですね。

 

 この歌は、太宗趙匤義がつくって意図的に流行させたといわれる。人民を取り込むのに必死だったわけです。太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもありました。

 

 子供に勉強させるだけの余裕のある家は、必死に受験勉強させます。少し利発な子供だったら親戚みんなでお金を出し合って、いい先生のところに入門させて科挙の準備をさせる。子供は一族の期待を一心に担って勉強するのだから、プレッシャーも大きい。現在の受験勉強とは比較にならないでしょうね。

 優秀な人だと十代で合格する場合もあるし、五十、六十になってもチャレンジしつづける人もいました。

 

 合格率はどれくらいかというと、これは17世紀はじめくらい明朝末期の数字ですが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万、それに対して殿試合格定員が300人程度です。すごい高倍率。

 

 どんな試験をするのか。

 論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、そして詩を書かせます。当然、すべて論述です。

 政策論は官僚に必要と思いますが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことでしょうか。 儒学の理解度をみるということは、その人の徳を測ることと同じなんです。詩を書かせるのは、文化人としての教養をみることです。

 つまり、科挙の試験というのは、官僚として実務に有能な者なら誰でもいいわけではなくて、貴族的な人間を試験でさがすという意味合いが強いように思われます。今の大学入試のような単なる能力テストではない。人格を測るようなところがある。

 だから、字がきれいなことも当然要求される。今みたいに鉛筆、消しゴムではない。墨をすって筆で書くんですよ。しかも、清書用紙を墨で汚したりしたらまず不合格だ。緊張します。

 

 しかも、試験は三日間ぶっ通しでおこなわれる。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生ひとりひとりに独房が割り当てられる。そこで缶詰状態で受験します。鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書くのです。

 なかには緊張にたえきれずに、発狂する受験者もいたようです。

 

 合格するためにカンニングをする者もでるんだ。ただ、論述試験だからカンニングペーパーはあまり役には立たない。論語とか詩経とか暗記しているのが大前提で、答案を書くときにそれらをいかに上手に引用して文章を格調あるものにするのかというところが勝負所です。

 だから、合格するために不正行為をするのに一番手っ取り早いのが、採点する担当者を買収することです。高い点数をつけてもらう。

 政府としてはそんなことが横行しては、科挙の権威が台無しになるので、懸命に不正防止策をする。

 まず、答案の受験生の名前を糊付けして隠してしまう。賄賂を受け取っている採点官が、だれの答案かわからないように。

 

 みなさん、高校受験の時、答案用紙に名前を書いたかどうか覚えていますか。書かなかったでしょ。受験番号だけだったね。教師のなかには受験生のことを知っている人もいる。ついつい、甘くなったりするかもしれない。そんなの困りますからね。名前を書いてはいけないことになっている。

 

 ついでに言うと、わたしたち教員が試験が終わったらすぐに採点をするんですが、採点するときには、受験番号も見えないようにくくってあるんですよ。当然ながら全教員が一室に集まって一斉に採点する。必ず複数で答案をみる。また、答案をその部屋から持ち出すことはできません。間違っても教師が不正しないように、ですね。

 

 高校入試ですらこうですから、国家の指導層を選ぶ科挙では、さらに不正対策がとられている。

 受験者の名前を隠すだけでは足りません。受験者の筆跡で誰かわかる場合がある。何しろ筆で答案書くんですから、個性がハッキリでがちです。筆跡をわからなくするために、受験者の提出した答案を別の役人たちが書き写すの。書き写して筆跡がわからなくなったものを採点官がみる。

 ここまでやると、不正はできないと思うでしょう。ところが、まだある。

 

 どんな手段があるかというと、受験者が採点官に事前に答案の特徴を教えておくのです。といっても、どんな問題がでるかわからないので、「私の答案は二枚目の五行目の三文字目に「仁」という字を書きます。」というふうに教える。

 これは、もう防ぎようがない。しかし、あらかじめ決めた場所に特定の文字をいれて、しかも筋の通った論文にしなければならないわけで、これをやるには相当の実力がいりますよね。

 

 そんなこんなの不正をたくらむ輩はいたかもしれませんが、科挙はおおむね公正におこなわれていきます。モンゴルが中国を支配した一時期をのぞいて、王朝が変わってもずっとつづけられ、20世紀1904年まで科挙はおこなわれたんです。

 

 宋の時代には、科挙官僚を出した家は「官戸」とよばれ特権を得ました。徭役を免除など簡単にいったら減税ですね。この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまうものです。そういう意味で、家系そのものが高貴とされる貴族とは全然違うものです。

 

 宋はこの科挙に象徴されるように、文治主義の政治体制をつくりあげていきました。