2026/06/11

蓮如(1)

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「如」と「辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。

 

親鸞の嫡流とはいえ、蓮如が生まれた時の本願寺は青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

 

生涯

誕生から得度まで

年齢は、数え年。日付は、『御文』(『御文章』)などの文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示とする(生歿年月日を除く)。

 

応永22225日(1415413[3])、京都東山の生誕当時に天台宗青蓮院の末寺であった大谷本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院〈そうたいいん〉付近)で、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の大阪府和泉市)の被差別部落出身だったともいう。童名を幸亭、あるいは布袋と称した。

 

応永27年(1420年)、蓮如6歳の時、生母は本願寺を退去し、存如が海老名氏の娘・如円尼を正室として迎える。生母のその後の行方は分かっていない。蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田・本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、佛光寺へ参拝したほどであった。

 

永享3年(1431年)17歳の時、中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度し、実名を兼郷の一字を受け兼壽、仮名を兼郷の官途名である中納言と称し、法名は蓮如と名乗った。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和・興福寺大乗院の門跡経覚について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年)512日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲り、4年後の永享121014日(14401117日)に死去した。

 

本願寺継承

嘉吉2年(1442年)に第1子(長男)順如が誕生する。文安4年(1447年)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449年)父と北国で布教する。康正元年(1455年)1123日、最初の夫人、[[如了尼が死去する。長禄元年(1457年)617日、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟蓮照(応玄)を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、蓮照と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。

 

この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落しており、青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。

 

大谷本願寺破却

長禄2年(1458年)810日、第8子(5男)実如誕生(寛正5年(1464年)とも)。寛正6年(1465年)18日、延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、110日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。321日、再度これを破却。蓮如は祖像の親鸞御影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。さらに蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれたことに抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も敏腕な順如は蓮如を助けて行動する。

 

応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ね、三河に本宗寺を建立する。応仁3年(1469年)、延暦寺と敵対している園城寺の庇護を受け、園城寺子院の万徳院住持で叔父の長命阿闍梨の斡旋もあり、別所近松寺の敷地の一部を譲り受けて大津南別所に顕証寺(後の本願寺近松別院)となる堂を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年)125日、第二夫人蓮祐尼が死去する。

 

吉崎時代

文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。727日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。

 

文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。この文明6年一揆は、本願寺系の門末を主力とし、攻戦的な面を帯びる初めての一向一揆であった。

 

加賀国額田荘(石川県加賀市・小松市)の人びとは、世俗の戦いでなくあくまで「仏法ノ当敵」に対する「聖戦」と認識して一揆に加わっている。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まることを政親が危惧して軋轢を生じた。さらに蓮如の配下だった下間蓮崇が、蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して、全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。

2026/06/06

一休宗純(5)

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住吉大社での一休

住吉大社に一休が長期滞在したのには、一休自身の南朝びいきがあったと思わせる。それに、住吉大社は明治の廃仏毀釈まで神仏融合で、神官(宮司)の津守氏は「住吉寺」の住職もかねており、「大徳寺」の住持にもなっていたとの説もある。

 

これらのことをふまえて、一休が住吉を訪れたときの話。

 

そのとき、一人の老僧も参籠していた。その老僧が一休に歌を詠むかと尋ねた。

そこで、一休は

「来てみればここも火宅の宿ならめ 何住よしと人のいふらん」(「住み良い」というから、私はわざわざ来てみたのですが、どうやらここも火宅(危険な場所/煩悩の苦界)のようだ。どうして人々は住吉(住よし/澄よし)などというのでしょうか)

と皮肉をこめて詠んだ。

 

それを聴いた老僧はうち笑いながら

「来てみればこちらも火宅の宿なれと 心ととめて住めばすみよし」(おっしゃる通りに、ここも火宅の宿にはちがいないのですが、あなたが自分の心をしかとお持ちながら住むのならば、きっと住みよくなり、その気持ちも澄みわたり安心を得るはずです)と返した。

 

この返歌に感じ入った一休は、これぞ住吉神の託宣と思い定め、この住吉に庵を結んだという。

 

森女との出会い

一休77歳〔文明2年(147011月〕のとき、住吉大社内にあった神宮寺の薬師堂で琵琶を弾く盲目の美女、森女に出会い心を引かれた。そして半年後に住吉を訪れたとき、森女に再会する。この頃には、一休は森女が南朝方の高貴な人の娘であることを知っていたのではないかという説もある。一方、森女も一休の素性を伝え聞き慕っていたともいわれている。

 

このほか森女に関しては、住吉大社は古来芸能が盛んで「住吉の森」といわれたことから、住吉大社に仕える巫女、あるいは神官(津守氏)の娘ではなかったかとの見方がある。

 

いずれにせよ、一休にとって森女はかけがえのない人となり、住吉の一隅で愛の巣を営む。その年の差は約40歳だったというから驚く。

 

住吉で大徳寺の再建を図る

ところが、一休81歳のとき、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となった。南朝の後醍醐天皇の後援を受けていた大徳寺は、南北朝の乱の終焉後は都では浮いた存在となっていた。なぜ、一休に大徳寺復興の大役が回ってきたのかの疑問が浮かぶが、それは一休が後小松天皇の落胤であり、母は南朝の公家の娘であったということから、お鉢が回ってきたのではないだろうかともいわれる。

 

しかし、住職になったが大徳寺に入寺したのはたった1日だけで、座の温まる間もなく大坂に向けて旅立ったという。

 

住吉大社の小出英詞権禰宜は

「応仁の乱で焼失した大徳寺ですが、一休さんは大徳寺のお寺の大切なものを持って、この住吉に大徳寺ごと疎開してきていたのです」

と驚くべき言葉を発された。

 

大徳寺が、一休と一緒に住吉大社に避難して来ていたなどとは、想像もしていなかった。

 

このことについて、一休の研究者矢内一磨氏は『フォーラム堺学』の「堺と一休派」で、「住吉大社と大徳寺には深い関係があるが、応仁文明の乱で大徳寺が焼けてしまったため、住吉大社の境内に大徳寺を一時避難させた。一時避難とは住吉大社にお堂を建てて、大徳寺歴代の人々の木像や肖像を祀るということで、大徳寺が一時、住吉に仮住まいしたかたちである」と述べている。

 

ことの理由はいずれにせよ、宮司津守氏の援助のもと、一休は住吉大社の一隅に「牀(床)菜(しょうさい)庵」を建て、ここを拠点に大徳寺復興の活動を開始することになる。その目的は堺の有力な商人、なかでも豪商尾和宗臨との接触であった。

 

宗臨は一休のパトロンのような存在で、俗名を四郎左衛門という。明との貿易で巨万の富を蓄えていた。どういうわけか一休にベタ惚れし、彼の一声で堺の豪商をはじめ一般の庶民まで大徳寺再建に進んで喜捨をした。

 

では宗臨は、なぜ一休に惚れたのか。恐らく、宗臨には南海の波濤を越えた異国との交易で得た貴重な体験があり、異国で通じたのは氏でも素性でもなく、大海の大波に立ち向かう度胸と真摯な人間性のみだと悟っていたのであろう。だからこそ、一見、破天荒に見える一休が一貫してとった行動と思想に、相通じるものを感じたのかもしれない。宗臨は終生、いや、死後も大徳寺のために財を提供すようにと言い残している。

 

一休と宗臨の努力の甲斐あって、文明10年(1478)に大徳寺法堂が再建された。一休が亡くなった年には正門と偏門が落成、すべてが完成するのにはあと10年を要している。

 

難解で粋狂、諧謔、眇め、皮肉、破廉恥、好色をこねて固めたような『狂雲集』から一休の人物像を想像すると、前述のそうそうたる文化人に慕われた説明がつかない。堺の豪商尾和宗臨をはじめ、それこそ海千山千の猛者たちが一休を慕ったのには、凡人の達し得ない境地を知り得た人たちでこそ理解できる世界感があったのだろう。

 

そんな一休が住吉を去る時の逸話を、小出権禰宜は

「捉えどころのない破天荒な方でしたが、とにかく人を引き付ける力が強く、住吉大社のトップの宮司さん(津守国昭)さえ一休さんの弟子になろうとしたのです。朝廷から任命された神主が出家することは禁止されていたのにですよ。文明10年(1478)、一休さんが住吉を離れ京都へ帰って行くときに、村人がみんな泣いてすがったといいます。宮司から村人まで惚れぬいた魅力のある人、それが一休さんです」

と語る。

 

 

今も保管されている牀菜庵の遺物の数々

一休の住吉での仮住まいの一つは、江戸時代後期の『住吉名勝図会』に見える牀菜庵(しょうさいあん)あった。『一休和尚年譜』には、文明8年(1476)、住吉大社東の野菜畑に茅葺屋根の同庵を建てた。そして翌9年の夏、庵の南側竹林に納涼のための小さなあずまや「多香軒(たこうけん)」が造られたことが記されている。

 

上住吉西公園には「一休禅師牀菜庵跡」と、庵がこの辺りにあったことを示す石標が立っている。ところが、実際の庵の跡は少し離れた所にあった、との地元の情報を得る。

 

庵の跡は、18世紀末には荒廃していたらしく昭和の初期まで廃墟が竹藪となって残っていたが、現在は住宅が立ち並び様変わりしている。その旧地は、現在の大阪市住吉区上住吉2丁目9の一帯にあたる。

 

関わりのあった、近くに住む松井誠志郎氏を訪ねた。松井氏の祖先は、代々朝廷の管理下にあった住吉大社の式年遷宮のときの最高位の宮大工だった。「番匠家」と呼ばれる名字帯刀を許された4家のうちの一つ。現在も名の残っているのは松井家(17代)だけという。

 

松井氏の曾祖父(14代)は牀菜庵を含む一帯を所有していて、辺りの開発に着手。松井氏は、14代のその時の様子を聞き伝えとしながらも話してくれた。

「牀菜庵のあった所は、いまは工場のような建物が建っていて面影はありません。曾祖父が門や井戸が残っていた竹藪を切り開いて分譲したあとで一休さんの遺跡だったことを知り、取り壊したことを大変残念がっていたそうです」。

 

しかし、幸いにも竹藪の中にあった蹲(つくば)い(手水鉢)や石塔、井筒が自宅に移され、いまは庭の景色となり17代が大切に守っている。

2026/06/01

契丹(5)

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契丹

 現在の中国東北部にはいろいろな少数民族がいるのですが、遼河という川の流域で半農半牧の生活を送っていた契丹族という部族がいた。かれらは、唐の支配がゆるむにしたがって、政治的に自立する。916年、契丹諸部族は統一し、遼(りょう)という国名で国を建てました。

 

 建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)という人。耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名です。へんてこな名前でしょ。でも耶律阿保機という名前を見るたびに、私は坂上田村麻呂とか、木下藤吉郞とかの日本の名前も中国から見たら同じようにへんてこなんだろうな、と思います。

 

 遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げました。そして、しばしば中国北辺に侵入します。

 

 五代十国時代には、中国の燕雲十六州という土地を獲得しています。

 

 燕雲十六州というのは、現在の北京を中心とする地域です。燕とか雲とかいうのは州の名前です。十六の州があったので、まとめて燕雲十六州というのです。ここを遼が獲得した事情を簡単に説明しておきます。

 

 五代の二番目に後唐という王朝がありました。これを倒したのが後晋ですが、後晋の建国者が石敬瑭(せきけいとう)。かれは後唐の節度使だったのですが、反乱をおこして後唐を滅ぼした。

 この時、石敬瑭は軍事力が足りなかったので、遼に援助を求めたんです。遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州です。

 

 結局、石敬瑭は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲った。燕雲十六州は万里の長城の内側です。つまり、中国の伝統的な領土で、住んでいるのも漢民族の農耕民です。

 これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下あります。

 

 北方の民族が中国を支配することは五胡十六国時代以来あったのですが、それまでの北方民族はすべて、中国の文化に同化していきました。北魏が好い例で、孝文帝が漢化政策を実施したことは覚えていますね。

 

 五代の後唐の支配者も突厥系、つまりトルコ人が中国文化に同化した人たちですし、後晋の石敬瑭もやはりトルコ系ですが、かれら自身がそのことを意識して行動している節はありません。完全に中国化しているように見える。

 

 ところが、遼の契丹族はそうではなかった。中国文化に同化することを極力避けようとします。民族の独自性を保とうとする。

 

 そのためには、燕雲十六州の統治は慎重におこなう必要があった。下手をすると中国文化に感化されてしまって、いつの間にか同化してしまうということがありえますからね。そこで、遼は「二重統治体制」という方法を採用した。燕雲十六州の支配制度を北方の自分たちの本拠地とは完全に切り離して、両者が混じり合わないようにしたのです。

 

 遊牧民の世界には北面官という役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治します。

 漢民族などの農耕民族には南面官という役所を置いて、州県制によって支配しました。

 

 このように民族文化の独自性を守る姿勢は文字制定という形でもあらわれる。

 契丹族は漢字を使うのを避けて、わざわざ民族独自の文字を作った。これが、契丹文字です。字形を見てもらったらわかりますが、漢字の影響を強く受けている。

 日本でも同じ時期に「かな」が発明されます。

 

 唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えましたが、唐の衰退後は周辺諸民族は民族意識に目覚めていったと言えそうです。

 

 話を元に戻しましょう。

 燕雲十六州は、中国から見れば本来は自分たちの土地です。宋は中国の統一をしたのち、燕雲十六州を取り返そうと、しばしは遼軍と対決しますが勝てない。

 1004年には遼は宋の都開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結びました。

 

 この和平条約を「澶淵の盟」という。

 

 この条約で、宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈ること、宋を兄、遼を弟とすること、両国国境は現状維持、と決められました。

 

 宋が兄で遼が弟なのだから、名目的には宋の方が偉いという形ですが、お兄さんの宋は弟の遼に毎年莫大なお小遣いをあげなければならないし、国境現状維持ということは燕雲十六州を宋はあきらめる、ということですから、実質的に遼の勝利です。

 

 これ以後、宋と遼は基本的には平和が保たれました。

2026/05/30

一休宗純(4)

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多くの文人や商人に慕われた破戒僧

生まれは応永元年(明徳5年・1394)、幼名は千菊丸。後小松天皇の落胤と伝えられるが、一休は生涯、自分の出生については何も語らず自慢もしていない。

 

6歳で出家、17歳のとき、貧困の中でも本物の禅を説いた謙翁宗為(けんおうそうい)に弟子入りし、宗純と名乗った。

 

20歳の時、一休は謙翁から

「自分の得たものはすべてお前に注ぎ尽くした、しかし自分は師の無因宗因(むいんそういん)から印可状を与えられていないので、お前に印可状を与えることはできない」

といわれた。その謙翁は一休が21歳のとき亡くなり、一休は悲しみのあまり瀬田川に入水自殺をしようとする。しかし、身辺を案じる母からの使いに思いを止められる。

 

22歳になって師を亡くした傷心からようやく立ち直り、近江堅田の華叟宗曇(かそうそうどん)を新たな師と仰ぐ。

 

27歳、琵琶湖畔で座禅していたとき、暁に鴉(からす)の一声を聞いて天地が一体となる感覚を得、悟りを開く。華叟は一休が35歳のとき病没するが、その後も一休はあらゆる階層の人々に仏教の教えを説くために、一か所にとどまらず、一蓑一笠(いっさいいちりゅう)の姿で近畿一円を説法して回った。

 

74歳、応仁・文明の乱がおこり、都は荒れはてる。一休は難を避け、現在の京都府京田辺市薪里ノ内にある酬恩庵(しゅうおんあん)を本拠地とし、大和、和泉の各地を巡る。

 

77歳、住吉大社で盲目の美女「森女(しんじょ)」に出会う。

 

78歳、住吉にて森女と再会し同棲をはじめる。禅僧は清僧というイメージを根底から崩した型破りで、しかも人間味のある人物だったようだ。

 

81歳のとき、後土御門天皇から大徳寺(京都)の住持に任ぜられ、やむをえず就任するが、入寺したその日のうちに退去した。文明13年(1481)、マラリアにかかり亡くなる。臨終のことばは「死にとうない」であった。享年88歳。

 

フィールドノート

トンチの一休さん

「あわてない、あわてない。一休み、一休み」のセリフが心地よいリズムと共に耳の底に残っているあのテレビアニメ。この名セリフは

「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

という一休自身が残した言葉から来ているという。人の一生は有漏路(煩悩の世)から無漏路(悟り)に向かうのだから、慌てるなということなのか。死は必ずやってくる、慌てなくともいつかは死ぬ。その前に、一休みせよということか。

 

さて、一休がまだ小坊主だったころ、和尚さんのお供をしてある屋敷に招かれた。ところが、屋敷の前の堀川に橋があり、橋の手前に「このはしわたるな」と書いた立札があった。和尚さんは、橋を渡ることができずに困っていると、一休さんは平気な顔で橋をスタスタと渡ってお屋敷に入って行ったという。はて!、どうして橋を渡ることができたか。一休さん曰く「はし(端)を渡ってはいけないのなら、『真ん中』を渡ればいい」。トンチの一休さんの有名な話の一つである。

 

このように、「一休さん」といえば、トンチで大人を負かす小賢しい小坊主のイメージが定着しているが、実際には詩文に長じ、書画も巧みで、一方酒を呑み、遊里に出入りし、女性を愛した。が、はて、さて、取材を通してみえてくる一休さんはどのような人だったのか。

 

秘密の隠れ家「尸陀寺(しだじ)」跡

嘉吉2年(1442)、一休49歳。初めて譲羽(ゆずりは)山の出灰(いずりは)(現在の高槻市)に入り、民家を借りて住む。後に尸陀寺を創立。寺跡は高槻市出灰の譲羽山の麓にある。ここで一休は、「入山したときは、夜ともなれば、身の毛もよだつ思いのするところであった」と書き残している。深山幽谷ともいえる出灰での生活は窮乏を極めたと思われるが、水上勉の『一休』によれば、ここはかつて宮中の所領で、山の民は宮中護衛をつとめ、御所の白壁にこの地で産出した石灰岩を使用したとある。一休も、このことを承知していたようだ。だからこそ、このような山奥に庵を結んだのだろう。里人も一休が後小松天皇の子であることを承知していて快く受け入れ、なにくれとなく身の回りの世話をしていたのではないか、とも記している。

 

54歳〔文安4年(1447)〕のとき、大徳寺の僧が獄に繋がれるという事件があり、一門の者は深刻に悩んだ。一休も心労がつのり、再び尸陀寺にこもって餓死しようとした。このことが後花園天皇の耳に入り、勅書をもって

「和尚が餓死するなら、仏王と王法ともに滅することになる。この私を見捨てて国を見放すのか」

と制止。一休は、その勅命に従って帰京した。後花園天皇の即位は、後小松天皇が一休のアドバイスを得て決まったといういきさつがあるだけに、天皇も一休の動静を気にかけていたと思われる。

 

戦火を嫌い都を離れ酬恩庵へ移る

一休の後世に残る活動は、その晩年に集中している。当時は50歳にもなると隠居している頃だが、一休の人生は一波乱も二波乱も回り舞台のように激しく変転する。50歳で譲羽山を出てから77歳までは動乱の中を歩む。

 

応仁・文明の乱で京の町は戦火で焼き払らわれ、大徳寺も多くの堂宇を失う。都は荒れに荒れ、人々は塗炭の苦しみを味わう。一休(1467年・74歳)も難を逃れ、都から南にある薪村の酬恩庵に逃げ込んだ。

 

そこは「薪の一休寺」ともよばれ、晩年をここで過ごし、ここで亡くなった。薪の名は、平安時代、石清水八幡宮に庭燎(にわび)(篝火)のための薪を供給する場であったことから付いた。

 

村人は一休が来たことを大喜びし、諸国から一休を慕う人が薪村にきた。都は皇族、貴族、幕府の混乱で人々の生活は困窮を極めるが、そんな中で新しい文化が起っていた。茶の湯である。一休を慕って、連歌師の飯尾宗祇、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)、俳諧の山崎宗鑑、茶の湯の村田珠光、観世の音阿弥、金春の禅竹、絵の曾我蛇足、兵部墨渓が集まり、薪村はあたかも「文化サロン」の体をなした。音阿弥も禅竹も一休を慕って、しばしば薪の酬恩庵をたずねている。酬恩庵の門前に「金春の芝」といわれる場所があるが、禅竹が一休ひとりのために能を演じたといわれる場所である。

 

文明元年(1469)になると、薪村にも兵火が及ぶようになったので難を避け、大和・和泉の諸地を巡った後、住吉に足を向けた。

2026/05/25

契丹(4)

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概要

建国

契丹は、モンゴル高原に居住していた遊牧民族。モンゴル系とされる民族で、自らはキタイと名乗っていたようで、契丹とはその漢字音写である。出自については諸説あるが、鮮卑もしくはその源流である東胡から派生した民族。4世紀の北魏から契丹の名は史書に出るが、大きな勢力となったのは唐代で、東の渤海と競いながらモンゴル高原に支配領域を広めていった。

 

契丹族は8つの部族に分かれていたが、907年に『遼河』の上流域にいた迭剌(てつら)部族の耶律阿保機(太祖)が勢力を蓄えて8部族を統一し、916年に天皇帝と称し年号を神冊と改めて大契丹王朝を築いたことから始まる。タタール、ウイグル等の四方の民族を攻め、ついには926年渤海を滅ぼした。次代の耶律徳光(太宗)が936年に五代の後晋から燕雲十六州の領土割譲を受け、続いて946年に後晋を滅ぼして華北に領土を広げ、中国風に遼と国号を改めた(ただし、以後も何度か改名したりしている〈後述〉)

 

澶淵の盟

太宗の華北統治は反乱が続いて挫折し、遼には内紛が続いて、その間に華北では宋王朝が成立して五代の混乱を収めた。

 

6代聖宗は宋の北征を破った上で、1004年に宋へ大規模な遠征軍を送って、遼を弟・宋を兄とする形式で和議(澶淵の盟)を結ぶ。遼は講和条件として毎年多額の銀と絹を受け取り、さらに絹や茶、香薬の交易をおこなって国力を付けた。聖宗、興宗、道宗の3100年間に渡り、平和が続いて遼は全盛期となった。

 

契丹人らの遊牧民族は部族制を取って北枢密院に支配させ、農耕民族の漢族は郡県制を用いて南枢密院に支配させる。独自の文字として契丹文字が作られ、工芸では遼三彩という陶器が今に伝わる。遼朝の歴史的な特徴は、遊牧民族としての文化を維持しながら燕雲の中国人をも支配したという二重構造にあり、後に金や元などの征服王朝のモデルとなった。

 

滅亡へ

しかし、遼の属国として苛斂誅求を受けていた女真は1115年に金朝を建国、遼に対して謀反を起こしたことから運命が暗転する。遼は大敗し、宋と金に挟撃された遼は1125年に滅亡した。1122年には燕京(北京)で北遼、1213年に耶律留哥が吉林で東遼を起こすなど、耶律氏の政権が各地に勃興したが昔日の勢いはなく、内部闘争や簒奪で短命に終わった。

 

西遼

遼の滅亡に際して、金の包囲から脱出した王族の耶律大石が、1132年にトルキスタンにてカラ=ハン朝を滅ぼし、西遼を建国した。都はベラサグン。さらに1141年にはセルジューク朝を破り、サマルカンドやブハラなどのオアシス都市に領土を広げた。しかし1209年にホラズムに敗れ、1211年にモンゴル軍が迫る混乱の中で滅亡した。この時代に東アジアの王朝がイスラム化した中央アジアを支配したことは注目できるが、大きな文化的影響を与えるには短命に過ぎたようだ。しかしセルジューク朝を破った戦勝は西欧にまで伝わり、イスラムを打ち破る伝説の王「プレスター・ジョン」伝説の一部を成すことになったともいう。

 

歴代皇帝

(契丹)

    太祖(907-926):耶律阿保機。初代皇帝で契丹の族長。

    述律皇后(926-927):阿保機の正室で権勢をふるった。

    太宗(927-947)

    世宗(947-951)

    穆宗(951-969)

    景宗(969-982)

    聖宗(982-1031)

    興宗(1031-1055)

    道宗(1055-1101)

    紹宗(1101-1125) :天祚帝。金朝に降参した。

 

北遼

    宣宗:(1122):耶律淳。金朝に敗れ、北方に逃れて対抗した。

    秦王:(1122-1123)

    順文帝:(1123)

    英宗:(1123)

 

西遼(カラ=キタイ)

    徳宗:(1132-1143):耶律大石。トルキスタンに亡命政権を築いた。

    感天蕭太后:(1143-1150):大石の后で幼い息子仁宗の代わりに政務をとった。

    仁宗:(1150-1163)

    承天太后:(1163-1177):甥の末主の代わりに政務をとった。

    末主:(1177-1211): 耶律直魯古。モンゴルからの亡命者クチュルクに滅ぼされた。

    屈出律:(1211-1218):クチュルクと言い、モンゴル系で末主の娘婿。行為簒奪を起こしたがチンギス・ハーンの部下に殺され、崩御した。


(契丹)出身のその他人物

    耶律阿海:金の家臣時代にチンギス・ハーンに出会って意気投合、寝返って金や西域の征伐に貢献した。

    耶律楚材:金朝の文官。モンゴルの捕虜になった際に「君の敵をワシが討ったのだぞ」とチンギスに言われた時、「金は主君なので恨んではいません」と言い返し、お気に入りになる。その後も占い師や軍師としてモンゴルの幹部になった。陳舜臣の小説『耶律楚材』ではモンゴルの軍師的扱いだが、本来はそこまで地位が高くない。

    耶律休哥:北方謙三の『楊家将』に登場する人物。

    耶律輝:『水滸伝』の悪役で架空の皇帝。有利な状況下で宋を攻めるが、梁山泊が朝廷に加担したので形勢逆転。奪った領土の返還と朝貢(史実とは逆)を約束し、これまでの悪事を許してもらうことになった。

 

国号について

前述の通り、契丹は遼に改めたが、以降も「遼」と「契丹」の国号はどちらも使っていた。度々、改名したり戻したりを繰り返していた。