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当時の神聖ローマ皇帝はハインリヒ4世(位1056~1106)。
グレゴリウス7世とやりあうことになるんですが、ドイツ国内でハインリヒ4世の立場は非常に微妙だった。実は、ドイツは古いゲルマン部族集団が比較的崩れずに残っていて、その流れをひく大諸侯たちの勢力が大きかった。皇帝の地位は、はじめから大諸侯の中の第一人者という面が強かったのです。何かあったら皇帝の足をすくって、混乱に乗じて自分が皇帝になりたいとか領地をぶんどってやりたいとか、野心をもっている諸侯がかなりいた。かれらは、皇帝に反抗するきっかけを待っていた。
そこに起こったのが叙任権闘争です。
グレゴリウス7世は武力はありませんが、神に仕える身です。敵を追いつめる独特の手段があった。それが破門です。キリスト教にとって、教会や聖職者の役目はそもそも何かというと、信者が死んだあと天国にいけるように、神さまに「とりなす」ことです。ローマ教会の「とりなし」がなければ天国にいけない。破門にするということは「とりなしてやらない。お前のためには祈ってやらない。」ということだね。
グレゴリウス7世は、この武器を使った。ハインリヒ4世を破門にしたのです。ハインリヒ4世が、どれだけ真剣に天国や地獄や教会の「とりなし」を信じていたかはわかりませんが、本当に信じていれば、この破門は滅茶苦茶恐ろしいはずです。なにしろ地獄行きが確定するのですから。
信仰上の恐怖だけでなく、この破門はドイツ国内の有力諸侯たちに反抗の口実をあたえることになってしまった。諸侯たちは
「ローマ教皇から破門されたような人物を皇帝にはできない。一年以内に破門が解かれなければ、あんたには皇帝をやめてもらうで。」
と言いだした。
ハインリヒ4世、これには困ってしまった。何とか破門を解いてもらわなければならなくなった。
聖職者叙任権どころか、自分の来世と皇帝の地位が危なくなってしまったハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の所に詫びを入れにいきました。ドイツからアルプスを越えて、イタリア側のアルプス山麓のカノッサ城に出向いた。教皇はローマではなく、カノッサ城にこもっていたのです。1077年のことです。冬のアルプスを家族を連れて越えたというから、かなり難儀な旅だったでしょう。
カノッサ城までやって来たハインリヒ4世ですが、教皇は面会もしてくれなければ城内に入れてもくれない。破門を解いて欲しければ誠意を見せろと言われてしまう。ハインリヒ4世、誠意なんて見せようがありませんからね。結局門の外で、裸足に粗末な衣装を身につけただけの姿で、三日三晩泣きながら詫びつづけたといいます。しかも雪の降る中で。
この事件のことを「カノッサの屈辱」といいます。
結局、その甲斐があって破門は解かれることになりました。
危機を脱したハインリヒ4世は、こののち逆にグレゴリウス7世を追いつめて廃位して「カノッサの屈辱」の復讐をするのですが、皇帝ともあろうものが、教皇の前で立ちんぼうで泣きながら詫びたという事実は消えない。
この事件をきっかけにして、西ヨーロッパでローマ教皇の権威が高まっていきました。
叙任権闘争に関しては、この後も皇帝と教皇のあいだの争いはつづくのですが、1122年のヴォルムス協約で両者の妥協が成立しました。
さて、教皇の権威が高まっていく過程で有名な教皇が二人。
ひとりがウルバヌス2世(位1088~99)。この人は1095年、クレルモンの公会議で十字軍を提唱したので有名。長期に渡る大遠征の火付け役になった人です。
もうひとりが、インノケンティウス3世(位1198~1216)。教皇の権威が絶頂になった時代の人です。政治的にも有能で、破門という武器を最大限利用しながらイギリスやフランスの政治に介入しました。かれの言葉として伝えらえているのが「教皇は太陽、皇帝は月」というせりふ。教皇権の絶頂ぶりがうかがえるね。
最後に修道院の話に戻りますが、教会組織を改革していったクリュニュー修道会も、時代とともにその役割を終えていく。
13世紀には、それまでになかった托鉢修道会というものが現れます。その代表が、フランチェスコ修道会とドミニコ修道会。この修道会は修道院をもたない。修道士は何の財産も持たずに托鉢しながら、野宿して暮らす。徹底的な禁欲生活を送るのです。
フランチェスコ修道会の設立者、聖フランチェスコは、こんなことを言っている。自分たちが雨に濡れ飢えと寒さで震えながら、どこかの町の教会堂にたどり着き、一晩の宿と食事をもらおうとして扉をたたく。そうしたら教会堂の門番が出てきて、ゆすりたかりの悪党と間違えられて、骨が折れるほど棍棒で殴りつけられる。
「その時私達が受難のキリストの苦悩を思い、それを喜んで耐えることができたら、そこにこそ完全な喜びがあるのだ」
だって。
聖フランチェスコは、もともとはなに不自由のない裕福な商人の家に育った。青年時代は、さんざん悪さもしたらしい。それが、信仰の道に目覚めて徹底的に禁欲的な生活に入るんです。諸国を托鉢遍歴しながら、民衆に罪を悔い改めよを説いた。私なんかは、何となく一遍上人と重なる人です。
ともかく、以前のクリュニュー修道会のように托鉢修道会も民衆の信頼をあつめ、キリスト教組織を活性化する役割を果たしました。