陽明学左派
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朱子とその弟子たちは、いわゆる偽学の禁という政治的な問題を起こしたが、社会的な問題は起こさなかった。対して陽明学派は、主に政治問題ではなく社会問題を引き起こした。
陽明学は王陽明の死後、今日のことばでいえば左派と右派とに分裂し、左派(その中核はいわゆる泰州学派)はいわゆる陽明学の横流、心学の横流と呼ばれる現象をひきおこした。すなわち、陽明学派のあるものは社会的通念、権威に挑戦し、既成道徳をふみにじるにいたり、積極的には道徳的混迷、社会不安を、消極的には社会的頽廃をひきおこした、というのである。左派は理論的・実践的にラディカリストであった。
ラジカルという意味は、おおよそ士大夫存在において士大夫、読書人としてふさわしいあり方、伝統的に形成せられているらしさ、いわゆる矩矱というものと、聖人をめざす理論・実践というものとの二つの極を考えることができるが、その場合、聖人という理想に対してあくまで忠実であろうとして、いわゆる矩矱を無視し、のりこえるに至る、それをいうのである。ふるい矩矱、名教は、単に習慣的なもの、外化したもの、仮、偽善、としてうちすてられ、攻撃せられるであろう。
それに対して右派は、正統的な士大夫派、名教護持派である。左派の活動が活発になるにつれて、右派は自覚的・無自覚的にますます朱子学寄りになり、たとえば王陽明が蛇足にすぎないとした敬が積極的に主張せられるようになったりした。
明末清初の陽明学
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明朝の政治や思想に多大な影響を与えた陽明学であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では考証学に学問の主役の座を奪われるに至るが全くの絶学とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明学は「聖学(=朱子学)と異同非ず」と康熙帝が言うように必ずしも異学視されていたわけではなかった。
ただ、すでに陽明学単体で学ばれるというよりも、「朱王一致」(朱子と王陽明の一致)といわれ、朱子学を補完するものとして扱われたに過ぎない。雍正帝以降、朱子学の正学化確立、乾隆・嘉慶の考証学全盛期(いわゆる乾嘉の学)到来によってさらにその傾向を強め、陽明学は衰微した。再び脚光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。
清中期の陽明学者に李穆堂がいる。
清末の陽明学
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陽明学の沈滞状況は、1840年のアヘン戦争以降、徐々に変化する。まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど、陽明学は復活の兆しを見せるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為自身も、吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。
下の日本の項目で述べるように、陽明学は日本に伝来して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を残した。特に明治維新の思想的原動力として、大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』や、その類似雑誌がいくつも創刊された。
日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも、俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が中国に伝わったのも、この頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されている。
中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」(代表作『新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』の影響が見られる。
こうした梁の傾向は、戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神、国民道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものであった。
こうした国民国家精神に陽明学を注入する梁啓超の考えは、当時の明治思潮によるものが大きい。当時の日本では、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理や武士道精神が退廃にさらされていると考えられ、それらを陽明学で再生しようとする風潮があった。これが明治期における陽明学熱の背景である。
こうした風潮に梁啓超らは感化され、明治日本において陽明学の再発見、再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえる。