2026/04/23

オッカムのウィリアム(1)

オッカムのウィリアム(英: William of Ockham1285 - 1347年)は、フランシスコ会会士、後期スコラ学を代表する神学者、哲学者。通例オッカムとのみ言及されるが、これは下記のように姓ではなく出身地で呼んだものである。哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られている。

 

経歴

1285年、イングランドのオッカム村に生まれる。オックスフォード大学で学ぶ。30歳を過ぎても命題集講師の職にとどまっていた。と言うのは、ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立していたからである。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。普遍論争では急進的な唯名論の立場に立つ。

 

1323年、ジョン・ラットレルから異端だとして、当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられる。ローマ教皇・ヨハネス22世と対立、1324年、異端審問のためアヴィニョンの教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。このときマイスター・エックハルトも異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。

 

オッカムは、フランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地でペストによって没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。

 

信仰と理性

オッカムのウィリアムは

「信仰によってのみ、人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない、というのは神は何物にも縛られずに世界を創造することを選択して、人間の論理や合理性が物事から覆いを取るのに必要な法則に頼ることなく、その世界での救済の方法を打ち立てるからである」

と信じていた。

 

オッカムの神論は、個人的啓示と信仰のみに基づいていた(彼は信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していた)。科学のみが発見の方法であり、科学のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると彼は信じていた。

 

哲学的思索

Quaestiones in quattuor libros sententiarum

スコラ派において、オッカムは方法と内容の両面において改革を唱道したが、その狙いは簡易化にあった。オッカムは数人の先行する神学者の著作、特にヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの著作の多くを統合した。オッカムはスコトゥスから、神の全能性や恩寵といった概念、認識論や倫理学的意見を受け継いだ。しかし、予定説、受難、普遍の理解、「ex parte rei」(つまり、「物の側の」)の特性、節約の原理といった分野では、オッカムはスコトゥスに反する意見を持った。

 

唯名論

個物を超越した普遍、本質、形相といったものではなく個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したものであって、心に外在する存在ではないという立場を強く主張したために、唯名論の開拓者であるオッカムを近代的認識論の父とみなす者もいる。彼は形而上学的な普遍が実在することを否定して、存在論の縮小化を唱道した。

 

オッカムは唯名論よりも、むしろ概念論の唱道者とみなされることもある。というのは普遍は名前に過ぎない、つまり存在する実在物ではなく、むしろ言葉に過ぎないと唯名論者が考えるのに対して、概念論者は普遍は心的な概念である、つまり名前は概念の名前であると考えるからである。ここで概念は心の中にのみであるが、存在するものとみなされている。それゆえに、普遍概念は人間の外部に存在する実在物ではなく、それ自体を理解することによって生まれ、心の内で心がそれを帰するものを「前提」する内的表象としての対象を持つ。つまり、それはさしあたって自身が表す物の場所を持つのである。

 

それは心を反映する行為を表す術語である。このゆえに普遍は単なる言葉でもなければ、コンピエーニュのロスケリヌスが言うような「セルモー(:sermo)」やアベラールが言う文の中で使われる言葉でもなく、実在物に対応する心的な代替物であり、反映の過程を表す術語である。このため、オッカムは唯名論者とも概念論者とも区別されて「記号論者」と呼ばれてきた。

2026/04/19

ノルマンディー公国(3)

https://timeway.vivian.jp/index.html

封建制

 9世紀から約200年間続いたノルマン人の略奪や移動、フランク王国の分裂で西ヨーロッパは大混乱になった。

 

 西や東のフランク国王は、侵入するノルマン人を撃退するだけの力がないので、侵入をうけた各地の人々は自力で地域を防衛するしかなかったのです。そのため、地域防衛の中心となった地方の領主が諸侯として自立していった。カロリング朝断絶後フランス王位についたカペー家も、そうして力をつけてきた諸侯でした。

 

 武力を持った領主は、お互い同士でも戦います。基本的にヨーロッパ中世というのは無政府状態。王も皇帝も名ばかりだから、領地が欲しければ力ずくで奪ったって構わない。誰も文句を言えない。ノルマン人が、各地を占領して建国するのと同じです。領地の奪い合いで、常に戦争状態だと考えてください。

 

 各地の領主が領地争いを繰り広げるうちに、弱い領主は自分の領地を守るために強い領主の家臣になるという形で、領主のあいだで主従関係の系列ができてきます。君主になった大領主は、家臣になった小領主の領地を守ってやるかわりに、臣下になった小領主は君主に忠誠を誓って、戦争になったときは軍役奉仕をする。

 

 領主間の主従関係のピラミッドができあがって、その頂点にあるのが国王です。その下の領主が諸侯。自分に臣従する領主をもたない最低ランクの領主が騎士とよばれる。

 

 日本の戦国時代の大名や、その家臣の関係と似ていなくもない。ただ、大きな違いはヨーロッパの諸侯は、複数の君主に仕えてもいいのです。たとえば、諸侯Zが諸侯Aに臣従を誓っているけれど、それだけでは不安なら諸侯Bの家臣になっても構わない。AもBもZを裏切り者とは考えない。その辺はドライな契約関係です。

 

 こういう場合にAとBが戦争したら、両方に仕えているZはどうするか。Zが年間10日間軍役奉仕するという契約を結んでいるなら、まずはAの指揮下でBと10日間戦って、決着がついてもつかなくても、今度はBのもとへいってAと10日間戦います。そのあとは、戦争が終わっていなくても契約の軍役はすんだので、さっさと自分の領地に帰ってあとは関係なしです。そういう契約なので、AもBもそれ以上は期待しないし要求できない。契約以上の義理人情の忠誠心はありません。

 

 君主が臣下に対する保護も、契約の範囲でしかないのは同じです。こういうのを双務的契約関係という。

 

 諸侯のもとには農民たちも集まってくる。略奪から守ってもらうためだね。諸侯は農民を庇護するかわりに農民は諸侯に隷属するようになる。これが農奴のはじまりです。諸侯は農奴から年貢をとるだけでなく、かれらに対する裁判権など、いろいろな特権を農奴に対してもっていました。

 

 たとえば結婚税。結婚する農奴の新郎から領主が受け取っていた。なぜ、こんな税金があるかというと、もともと領主は初夜権というのをもっていて、農奴同士が結婚するとき新婚初夜の新婦を自分の館に連れ込んで、それから新郎に渡したんだ。新郎としては、こんなのはたまりません。初夜権をお金で買い取った。これが結婚税のはじまりといいます。死んだときには葬式税をとられたり、領主の館に労働奉仕をしにいったり、農奴は領主に経済的にも人格的にも隷属していたのです。

 というわけで、農奴は不自由身分で移動の自由も職業選択の自由もありませんでした。

 

 諸侯が持つ領地が荘園です。農奴たちは、ここで働いた。

 

 諸侯間の主従関係、諸侯と農奴と荘園の関係、これらをひっくるめて西欧中世の封建制度といいます。

 

教皇権の隆盛

 封建制度ができあがるのと同じように、ローマ教会の教会組織が整備されます。聖職位階制といって、ピラッミッド型に聖職者の上下関係が作られた。トップは、もちろんローマ教皇です。そのもとに大司教、司教、司祭という僧侶がいる。司祭が一般の信者と接触する村や町の神父さんです。

 

 このピラミッド型の教会組織とは別に修道院というのがある。これは教皇に直属している。

 修道院というのは、俗世間を捨てて禁欲生活を送る修道士たちの共同生活の場です。シリアやエジプトではじまったものですが、ヨーロッパで最初に作られたのがベネディクトゥス(480~543?)が建てたモンテ=カッシーノ修道院。ここでは、ただ禁欲生活するだけではなくて労働も重視した。「祈り、働け」というのがここのモットーで、このあとヨーロッパにできる修道院の伝統になる。

 

 修道士は、当時はインテリです。かれらが集まって共同生活しながら、自給自足で農作業する。自然に修道院は新しい農法の実験場にもなって、新しい農法がここから開発されて、農民の暮らしを向上させていきました。

 また、修道院は教皇を頂点とする聖職位階制からはずれた存在なので、官僚的になりがちな教会組織に新しい活力をあたえることもありました。

 

 10世紀から11世紀ころまでに教会の世俗化がすすみます。

 たとえば妻帯したり、荘園を所有したりと、聖職者や教会が俗世間の領主とかわらなくなってくる。

 

 これに対して、教会の改革運動をはじめたのがクリュニュー修道会です。これは、「服従・清貧・貞潔」という戒律を厳しく守る、まじめな修道会でした。ここが、教会組織の堕落を批判するのです。そして、やがてはクリュニュー修道会出身の僧侶がローマ教皇になるようなった。

 

 ローマ教皇グレゴリウス7世(位1073~85)がそうです。かれは、教会改革を始めた。

 まずは、聖職売買の禁止。聖職を貴族たちが金で売ったり買ったりすることが当時はあった。荘園をたくさんもっている教会の聖職にありつければ、いい暮らしができますからね。貴族の次男坊以下にとってはおいしい生活手段なのです。これを禁止した。

 

 さらに、聖職者の妻帯を禁止。

 そして、神聖ローマ皇帝による聖職者の任命権を否定した。ドイツ国内にも教会はたくさんあります。そして、ドイツ国内の教会の聖職者はドイツ皇帝、つまり神聖ローマ皇帝ですが、が任命するという慣習があった。

 これに対してグレゴリウス7世は、ドイツ国内の教会であろうともローマ教会傘下の教会であるならば、その任命権はローマ教皇にあるのだと主張したわけです。両者ともに譲らず、ここに皇帝対教皇の争いが始まる。

 これを、聖職叙任権闘争といいます。

2026/04/18

ドゥンス・スコトゥス

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus1266? - 1308118日)は、スコットランドの神学者、哲学者。トマス・アクィナス後のスコラ学の正統継承者。アリストテレスに通じ、その思想の徹底的な緻密さから精妙博士(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会士。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。ドゥンスのジョン(John of Duns)やドゥンス・ザ・スコット(Duns the Scot)とも呼ばれる。

 

生涯

スコットランド・ベリックシャー(現在のスコティッシュ・ボーダーズ)のドゥンス(Duns)で生まれ、オックスフォードとパリで哲学・神学を学んだ。1302年からパリ大学で教鞭を執った。最後はケルンで教え、そこで亡くなった。主著として『命題集註』が知られている。

 

1993年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世により列福された。

現在、出身地のドゥンスには銅像が建てられている。

 

思想

トマス・アクィナスと異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレスから一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義のルーツとなっていく。

 

個人の自由意志を尊重する学説を提唱したが、この自由意志こそが個人を個人として成立させる「このもの性」であると説いた。

 

存在の一義性や、個物の此の性の概念は、現代の哲学者ジル・ドゥルーズに大きな影響を与えた。

 

備考

英語で「のろま、劣等生」を意味する dunce という普通名詞は、スコトゥス学派に対して反対派が蔑称として Dunses と呼びかけたことに由来すると言われている。

 

伝承によれば、彼はまだ生きている状態で埋葬され、後に棺を掘り起こした際に、その内側には外に出ようとしてもがき引きちぎられた彼の血まみれの腕があった、とされる。

2026/04/15

ノルマンディー公国(2)

https://timeway.vivian.jp/index.html

ノルマン人の移動・封建制

ノルマン人の移動

 ゲルマン人の一派にノルマン人がいます。別名ヴァイキング。海賊の代名詞になっています。現在のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの沿岸部に住んでいた。

 

かれらはゲルマン人の大移動の時には移動しなかった。北の辺境地帯に住んでいたから、フン族もローマ帝国も関係なかったんだね。ところが、ゲルマン人の大移動が一段落した9世紀以降、かれらは船に乗って移動をはじめた。人口の増加が直接の原因らしい。

 

 はじめはブリテン島やヨーロッパの沿岸地帯を襲って略奪をしていた。河川をさかのぼって、内陸部深くまでも略奪します。とくに、教会や修道院が財産を蓄えていたので襲われたようです。

 

 はじめは季節的だった略奪が、やがて一年中おこなわれるようになっていく。各地の支配者たちは、ノルマン人の襲撃を撃退できないんだね。ノルマン人は各地を占領して、国を建てていきます。

 

 具体的に見ていこう。

 

 北フランスの海岸地帯には、911年ノルマンディー公国を建てた。建国者はロロといいます。「ろろ」だよ。「くちぐち」じゃないからね。

 

 フランス王は、ここに侵入したノルマン人たちを追い払うだけの実力がなかったので、かれらの占領を公式に認めて、そのかわり臣下にした。ノルマンディー公国という国名に注意してください。王国ではなくて公国なのです。国にもランクがあって、一番権威が高いのが帝国、帝国の下が王国。王国の下が公国。

 

フランス王国のなかにノルマンディー公国があって、ノルマンディー公国の君主の称号はノルマンディー公。ノルマンディー公は、フランス王の家来です。ただし、実際にはフランス王よりノルマンディー公の方が強い。ロロは「名」より「実」を取ったのだ。領地を正式に認めさせるという「実」です。

 

 ブリテン島やアイルランド島にもノルマン人は侵入した。

 ブリテン島の南部イングランドには、ノルマン人の一派であるデーン人が侵入します。デーン人は今のデンマークに住んでいた人たち。イングランドにはアングロ・サンクソン族が国をつくっていたのですが、11世紀にはデンマーク王クヌートが一時ここを占領してイングランド王になりました。クヌートは、イングランド、デンマーク、ノルウェーの王を兼ねて北海地方に大きな勢力をふるいますが、その死後この王国は崩壊して、イングランドではアングロ・サクソン族の王家が復活します。

 

 しかし1066年、イングランドは再びノルマン人に征服されます。征服したのがノルマンディー公ウィリアム。ノルマンディー公国を建てたロロの子孫です。ここからはじまるイギリスの王朝がノルマン朝。この征服をノルマン=コンクェストという。

 

 面白いのは、イングランドを征服したノルマンディー公はフランス王の家臣だということです。だから、これ以後、イギリス王は王としてはフランス王と対等ですが、ノルマンディー公としてはフランス王の家臣である、というややこしい関係になる。また、フランス国内のノルマンディー公国は、フランスの領土ではあるけれど、その領主はイギリス王でもある。要するにフランス国内にイギリス王の領土があるというわけですね。

 

 何とも複雑ですが、実は中世ヨーロッパではこういう関係は結構あった。ノルマンディー公のようなのが封建領主の典型ですが、こういう封建領主同士が複雑に主従関係を結んでいたのです。

 

 イスラム教徒が支配していたイタリア半島の南端と、シシリー島を征服したノルマン人グループもありました。かれらが、ここに建てたのがシチリア王国。

 

 バルト海からロシアの川をさかのぼって黒海からイスラム圏に通じる交易ルートがあって、ノルマン人はフランスからさらってきた奴隷を、このルートでイスラム教国に売っていたようです。

 9世紀にロシアにノヴォゴロド王国、キエフ公国という国ができるのですが、ノルマンの一派であるルス族が、これらの国の成立に関連があったという説もある。ロシアという国名は、ルス族がなまったというのです。

 

 原住地にとどまったノルマン人はデンマーク、ノルウェー、スウェーデンを成立させました。

2026/04/14

トマス・アクィナス(3)

哲学

トマスは、その哲学において、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を、存在者説明のために受け入れる。アリストテレスによれば、存在者には静態的に見れば「質料因」と「形相因」があり、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成した様態が「現実態」である。

 

「形相-質料」は、主に質量を持つ自然界の存在者に該当対象が限られるが、「現実態-可能態」は自然界を超越した、質量を持たないで形相のみの存在者にまで該当対象が及ぶ。すべての存在者は、可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべての存在者の究極の原因である「神」(不動の動者)は、質料をもたない純粋形相でもあった。

 

しかし、トマスにとっては神が万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼はアリストテレスの存在観念に修正を加え、「本質不可欠存在」(essentia不可欠のente)とした。本質論者のアヴィケンナによる影響があった。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であるが、「本質」はそれだけでは現実に存在できないため「可能態」である。一方、「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。そして神は自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。

 

人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって、知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られるのである。

 

法・政治論

トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と、神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした。

 

その詳細は以下のとおり。

 

永久法とは、この宇宙を支配する神の理念であり、そのうち理性的被造物たる人間が分有しているものが自然法である。そして自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが人定法であり、人間がより強く永久法に与れるように神から補助的に与えられたものが神定法である。すなわち、人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが神定法である。

 

ここで神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法(lex vetus)、後者は新法(lex nova)と呼ばれる。永久法は神のうちにある最高の理念であり、あらゆる法の源泉である。このような永久法の一部である自然法は、あらゆる人定法の源泉であり、その妥当性の基準となるとして、トマスは永久法・自然法・人定法の階層構造を認めたのである。

 

トマスは著作を自ら筆記せず、口述したものを弟子たちに書き取らせた。トマスは悪筆で有名で、初期の伝記作家によればトマスは複数の筆記者にそれぞれに異なった事柄を話し、あたかも「神からの真理の巨大な奔流が、彼のうちに流れこんでいるかのようだった」という。このような伝説的な逸話は別としても、近代の研究者も写本の研究から、トマスが覚書を手にして読み上げながら、自分が読み上げた文章を必要に応じて修正し、他の著作を引用するときはその書物を取り出して読んでいたのであろうと推測している。

 

その著作において、トマスはドゥンス・スコトゥスらと違い、読者にも自らの思想の軌跡を懇切丁寧に追体験させるような表現をせず、権威を持って教えるという形にしている。これは彼が啓示を受けて著作したというスタンスに立っているためであり、そのためトマスの著作は現代のわれわれの視点からは、やや物足りないという感を与えるものになっている。