2026/03/10

五代十国時代(5)

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十国

十国とは以下の国家を指す。

 

    (902-937)

    前蜀(907-925)

    荊南(907-963)

    呉越(907-978)

    (907-951)

    (909-945)

    南漢(909-971)

    後蜀(934-965)

    南唐(937-975)

    北漢(951-979)

 

また、十国以外の国として李茂貞の岐(901-924)と、劉守光の燕(895?911-913)がある。

 

群盗の出身の楊行密が、現在の南京周辺を支配した政権。黒雲都と呼ばれる軍勢を率いたことによって台頭したが、頼り過ぎたが故に黒雲都の指令官である徐温と張顥が実権を握るようになる。

楊行密が死んだ後の君主は完全に傀儡であり、徐温と張顥との権力争いは徐温の勝利に終わる。が、その徐温も禅譲直前に病死、その養子である徐知誥に禅譲することによって4代で滅んだ。

 

南唐

禅譲によって南唐を建国した徐知誥は、楊行密に拾われた正体不明の孤児で、才能を見込まれたが楊行密の子たちとは折り合いが悪かったため、徐温の養子になる。ここで才能を発揮し、徐温の実子たちを差し置いて後継者へと成り上がり、ついには国王にまでなった。皇帝即位後は唐の宗族と自称して李昪と改名、国名も唐にちなんだものとした。

 

国を運営するうえで最重要物資である塩の生産地を抑えていたため、十国の中では最強といわれていたが、李昪は外征よりも内政に力を尽くした。その姿勢はまさしく名君といってもよかったが、外征をしなかったことが結果的に最悪な展開を迎えてしまう。

 

2代目の李景は外征を推し進め、内乱に乗じて楚と閩を滅ぼすがその後の処理がまずく、得た領土を手放すことになってしまう。その上、文人気質で実務に疎い傾向にあったため、後周の世宗に敗北、大幅な領土の割譲など、後周の属国になることを余儀なくされてしまう。

 

3代目の李煜は国を保つことに保身するが、結局は後周の後継である宋に攻め込まれて滅ぼされることとなった。

 

前蜀

群盗出身で黄巣の乱で名を上げた王健が、蜀に割拠した政権。

戦乱の世ではあったが、天然の要害である地理条件と塩や鉄などの重要資源が産出することから経済発展に尽くし、別天地ともいえる平和な空間を造り上げた。文人たちが避難してきたことによって文化が花開いたが、その反面、秘密警察を作って国民を監視するなど暗い面もあった。

だが、その後を継いだ2代目が無能であり、蜀の天然資源に目をつけた後唐によってあっさり滅ぼされた。

 

後蜀

前蜀滅亡後の蜀の統治を任された孟知祥が、混乱に乗じて独立。

前蜀譲りの経済力で文化が花開いたが、天下の険があることをいいことに外よりも内に向いてしまい、奢侈に走るのも前蜀と同じであった。そして、宋にあっけなく滅ぼされてしまう。

 

群盗の王審知が、福建に中心に割拠した政権。

初代の王審知は名君であったが、後継者に恵まれず、内紛の果てに南唐に攻め込まれて滅亡。

閩時代の遺物が、今でも意外に残されている。

 

呉越

群盗の銭鏐(せんりゅう)が杭州を中心とした地域を支配した政権。

内政に務め、長江、東シナ海、南シナ海の結節点という立地を生かしての貿易国家として栄えた。その一方で、細々としたものに税をかけていたと言われている。

 

周辺諸国と比較して後継者には恵まれていたため内紛が少なかったこと、強国に臣従して金で安全を買うことによって、五代十国としては長期に渡って存続したが、宋が南唐を滅ぼして直接国境を接するようになると不利を悟り、自ら領土を献上する形で滅んだ。国としては一番まともな終り方であり、呉越公室は優遇されたという。

 

時代は流れて現代、子孫の一人が中国においてはロケット博士になり、もう一人の子孫はアメリカに渡ってノーベル賞を受賞をしているのだから、地下の銭鏐もさぞかしびっくりしているだろう。

 

木工出身の群盗、馬殷が長沙周辺に割拠した政権。

経済国家であり、茶の販売が主な収入源だったため5代の国家には臣従、皇帝とは名乗らなかった。

馬殷は子沢山であったが、その息子たちが凡庸であったことから内紛が勃発、南唐に攻め込まれて滅亡する。

ちなみに馬王堆は馬殷の墓だという伝承があってつけられた名称であったが、実際に葬られていたのは全くの別人、そして馬殷よりも遙か古代の人だった。

 

荊南

丁稚出身で、後梁の朱全忠に才能を認められた高季興が荊州以下、3州の統治を任され、その後、独立した勢力。実は国家ではなく自治領という存在であり、員数合わせのために五代十国に組み込まれたのではないかという説もある。

 

十国中、もっとも小さい国家ではあったが大陸の中心という立地条件を生かし、五代の国のみならず後唐や呉越といった国まで臣従、勢力の緩衝地帯と認識させることよって独立を保った。だが、宋の侵攻が始まると交通の要所という点から真っ先に攻撃目標とされ、宋に国軍を通過させろと脅されて認めると、そのまま占領されて滅んだ。荊南の滅亡により、十国が連携して宋を攻撃することが不可能になったので重要な意味を持つ。

ちなみに、万事休すとはこの国発祥の故事成語である。

 

南漢

劉隠が広東を中心に割拠した政権。ちなみに劉隠はアラブ系だったのではないかという説がある。

その頃の広東は中央から遠く離れていたので平和であり、南海貿易で栄えていたので国力も豊かであった。ただし、ベトナムの呉朝との戦いに敗れて独立を許し、これを契機に中華王朝のベトナム支配が終わったというのは重要な事件である。

 

特徴としては、宦官大好き政権であったこと。宦官でないと役人として登用されない有様だったので、人口100万人に対し宦官の人口が7000人、末期には20000人に増加したといわれている。まともな状況ではなかったので、宋が侵攻するとあっさりと滅亡した。

 

北漢

後漢皇帝、劉知遠の弟である劉崇が甥の隠帝が殺された後、太原を中心として独立した政権。

誕生の経緯から後周、宋に敵対的ではあったが国力では叶わなかったため遼に臣従した。

遼の支援を受けて後周と対決するが敗北、内紛もあって4代で滅亡。北漢の滅亡により、中国統一は完了した。

2026/03/08

日蓮(10)

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出自

鎌倉仏教と呼ばれる鎌倉時代に誕生した日本大乗仏教諸宗派の開祖の一人である。

 

現在の千葉県にあたる安房国の海岸地域に住む漁師の家の出。幼少期の名は善日麿(ぜんにちまろ)。当時の漁業民の中では中級にあたる「釣人権頭(つりびとごんのかみ)」の家系である。(この事から、後述の出家前の生活についても「平民の中では裕福な家」とする説も有る)

 

しかし、彼自身は自身の出自を「旃陀羅(せんだら)」であると語っている。

 

元はインドの言葉で、チャンダーラという被差別階級を漢訳した語である。非アーリア系の狩猟文化を持ったインド先住民であるが、東征してきたアーリア人に敗れカースト下層に置かれた人々である。

 

「ヴェーダの宗教」から見れば殺生として破戒にあたる屠畜などに従事していたと見られ、実家が漁業という魚を死なせる要素を持つ職業であることを恥じて、日蓮はこの語を使ったともされる。

 

貴族出身の道元や親鸞と比べれば平民であり、生活は豊かではなかったようである。

 

経歴

十二歳の時に天台宗の寺「清澄寺」に預けられ、薬王麿(やくおうまろ)と名を改めた。そこで仏教を学び十六歳で出家して僧侶となる。当時は仏僧として是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と呼ばれた。それから十二年後に比叡山の門を叩くことになるが、それまでの彼の事跡は当時無名の一僧侶だったこともあり、さほど明らかではない。

 

比叡山延暦寺の天台宗は『法華経』を至上とする中国天台宗の思想を中心に、日本において念仏や禅、密教、律など仏教の様々な修行法を集大成した宗派である。

 

ただし鎌倉で浄土教について学んだりと、各地で経験・研鑽を積んでいたことは確かである。

 

この下積みの十二年間と比叡山入山後で彼は仏教諸宗派について学んだが、後にそれらを完全否定する事になる。清澄寺で念仏をしても、他の場所で様々な法門を学んでも救いの実感を得られなかった事が背景にある。

 

32歳の時、彼は「南無妙法蓮華経(私は法華経に帰依する)」を旨とし、これを題目として唱える法門を立ち上げる。

 

後に日蓮宗(身延久遠寺系)と日蓮正宗(富士大石寺系)などに分かれることになる「法華宗」の誕生である。この時から、彼は「日蓮」と名乗るようになる。幼名と出家名を合わせたような名前である。

 

しかし彼自身の意識としては新しい宗派を興したというよりも、天台宗の根本聖典でもある『法華経』への回帰、それを説いたとされた釈迦如来の本心を明らかにしたいというものであった。

 

現在では、法華経も含め大乗経典は釈迦からかなり後の時代の成立とみられているが、当時はすべて釈迦の直説とされていた。あまりにも膨大な経典を整理したのが中国天台宗の智顗で、彼は『法華経』を最高の経典と判定し、この学派を伝教大師最澄がこの思想を日本に伝え、興したのが比叡山延暦寺である。

 

ところが末法到来と言われた11世紀以降、延暦寺で学んだ法然(と弟子の親鸞)は浄土思想に傾倒、道元や栄西は禅に傾倒し、天台宗自体も密教に傾倒、法華信仰が時代遅れになっていた。智顗・最澄の後継者を自認する日蓮にとって、これは許し難いものであった。

 

「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」という他宗派否定の言葉(『与建長寺道隆書』『諫暁八幡抄』にみられる)は有名だが、実は古巣である当時の天台宗も否定している。

 

彼は中国の天台智顗や日本の最澄は尊敬しているが、「法華経以外の不純物」が持ち込まれて以降の天台宗は邪宗扱いなのである。

 

その性格は、よくマルティン・ルターと比較される。しかし思想的には、カトリック側の対抗宗教改革に近いところもある。

 

日蓮は四月二十八日、朝日差す中、清澄寺にて開教の決意をする。その日は出家にも立ち会った師匠・道善坊が弟子である彼のために、始めての法座(僧としての説法の場)を用意した日でもあった。

 

念仏信徒も集まるその場で、日蓮は

「謗法である念仏を捨てて、正法である法華経の信仰に立ち返れ」

と説き、最初の波乱を巻き起こすのである。

 

天台宗の説法の場に念仏信徒が来ている事からもわかるように、当時の諸宗派は自宗こそ最高の教えとしつつも他宗派に一定の配慮はしていたわけだが、日蓮はその全てに対し喧嘩を売った。

 

歯に衣着せぬ遠慮無い否定と非難によって全方位から敵意を買った日蓮は迫害を受け、命すら狙われる事になる。

 

本人はというと「法華経に信徒が迫害されると書いてるのが実現した」と、さらに気合を入れるのだった。

 

彼は唱題を説きつつ、題目曼荼羅という「南無妙法蓮華経」の周囲に神仏の名を配した幾何学的な曼荼羅を作成し、信者たちに分け与えた。その内のいくつかは現存している。

2026/03/06

五代十国時代(4)

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五代十国とは、10世紀(907960)の中国の時代区分である。

 

概要

具体的には朱全忠による唐の滅亡(907年)から、趙匡胤(ちょうきょういん)の即位(960年)までの時代である。

この約50年の間に、華北では5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が覇権を競い、一方で華中、華南では10の地方政権が独立して成立していた。

 

後梁

907年、唐を倒して後梁をたてた朱全忠は開封に都を定め初代皇帝となり、ここに五代十国時代が始まる。しかし建国時の後梁の領土は唐の1/4にすぎず、各地には晋王の李克用、前蜀の王建など天下を狙う武将達が存在した。その多くは、唐の辺境の将軍である節度使出身であった。また同じ頃、耶律阿保機(やりつあぼき)が率いる遊牧民族の契丹は北アジアや中央アジアに勢力を広げており、万里の長城を超えて中国国内への進出を狙っていた。

 

907年、李克用は長男の李存勗(りそんきょく)と共に後梁へ侵攻を開始。李克用は片目が不自由であったため「独眼竜」と呼ばれ、また彼の軍隊は全員黒い衣装を着ていたので鵶軍(あぐん、カラス軍団の意)と呼ばれ、その強さを恐れられていた。しかし、朱全忠に比べ政略や謀略という面で劣っていた李克用は朱全忠に遅れを取り、朱全忠打倒を果たす前に死去し、李存勗がその跡を継ぎ晋王を名乗った。

 

そんな中、体調を崩した朱全忠は自分の跡を養子である朱友文に継がせようとしたが、これに怒った実子の朱友珪が912年に父である朱全忠と朱友文を殺害してしまった。しかし朱友珪自身も、翌年に弟の朱友貞に謀反を起こされ死亡。こうして朱友貞が皇帝となった。

 

この隙をついて晋の李存勗は、知恵袋の馮道(ふうどう)の勧めで契丹との和平を結んだ後に後梁へ攻め込んだ。李存勗は後梁の基地を次々と攻め落とし後梁の首都、開封に迫っていった。李存勗は916年に黄河の岸に達し、923年には魏州で皇帝として即位して新しい国を建てた。これが後唐である。その年の秋には、荘宗(李存勗)は大軍を率いて黄河を渡り開封へと進撃した。末帝(朱友貞)は、これに対抗できず自殺。後梁はわずか2代、17年で滅んでしまった。

 

後唐

しかしその後、都を洛陽に移した荘宗は唐の朝廷に習って宦官を復活させ側近政治を行ったため批判が強まった。また、荘宗は贅沢な暮らしを好んだため馮道は引退してしまった。

 

その後、華北で反乱が起き、荘宗は義兄である李嗣源(りしげん)に鎮圧を命じるも、これを不服に思った李嗣源は926年に荘宗に反旗を翻し、軍を率いて洛陽を落としてしまった。こうして李嗣源は、後唐の皇帝の座についた。

 

明宗(李嗣源)は引退していた馮道を召還し、そのアドバイスに従って宦官を遠ざけ、財政の立て直しをはかった。また、皇帝直属の軍隊をつくり、皇帝の権力を強めることにつとめた。明宗の時代は大きな戦いもなく、それなりに平和であったが933年に明宗が病気で倒れると、次の皇帝の座を巡って再び激しい権力闘争が始まった。3代皇帝の閔帝(李従厚)は即位後はずか半年で殺され、934年に末帝(李従珂)が4代目皇帝になった。

 

その後、河東節度使の石敬瑭(せきけいとう)が反乱を起こしたので末帝はこれを兵糧攻めするも、石敬瑭と結んだ契丹の攻撃を受け936年に後唐は滅び、石敬瑭は太原(晋陽)で帝位につき国号を晋とした。これが後晋である。

 

後晋・後漢

後晋は援軍を送ってくれた契丹に臣下の礼をとり、毎年30万匹の絹布と、燕雲十六州を契丹の耶律徳光に送った。燕雲十六州は万里の長城の南、河北省・山西省の北部の地域で、現在の北京や大同を含む広大な地域であった。この地域は地政学的に重要な地域で、この地域を巡って北方民族と中華は、後々に長いこと争うことになる。

 

一方その頃、朝鮮半島では918年には開城(けそん)を本拠地とする王建が高麗を建国し、935年には朝鮮半島を統一した。

 

937年、石敬瑭は都を洛陽から開封に移した。942年に石敬瑭が亡くなると、甥の石重貴(せきじゅうき)が跡を継いだが、石重貴は契丹への貢ぎ物を拒否したため、946年、契丹の皇帝、耶律徳光は開封に軍隊を送り、出帝(石重貴)を捕虜にした。ここに後晋は212年で滅んだ。このとき契丹は打草穀騎と呼ばれる略奪部隊を作り、河北地域を荒し回った。また契丹は翌年の947年に国号を遼と改めた。しかし打草穀騎は後晋の農民の激しい抵抗にあり、遼軍は北方に追いやられた。

 

後晋にかわって後漢を建てた劉知遠は、突厥出身のトルコ系の武人の家柄であったが、皇帝となってわずか1年で病死してしまう。18歳の隠帝が跡を継ぐも、2年後側近の兵に殺された。後漢の治世はわずか3年。五代の中で最も短命な王朝であった。

 

後周

951年、後漢の有力武将であった郭威は、部下に推され後周をたて皇帝となった。これが後周の太祖である。郭威は内政に力を注ぎ、国力の充実をはかるも954年に死去した。郭威の一族は、後漢の隠帝に殺されていたため、養子の柴栄(さいえい)が二代目皇帝として即位した。

 

世宗(柴栄)は馮道をまた重用したのだが、馮道にとってこれは5つ目の王朝であった。後唐、後晋、遼、後漢、後周と五朝十一皇帝に仕えた馮道を、人は不倒翁と呼んだ。また、この頃には後に宋の初代皇帝となる趙匡胤も台頭し始めていた。

 

華北が北で5つの王朝を交代させている間、華中や華南では10の地方政権が存在していた。華北をおおよそ統一した後周は、中国統一のためにそのうちの一つ、後蜀を攻めることを決定する。955年、世宗の柴栄は自ら後蜀を攻撃し、4つの州を奪い取った。こうして西方の脅威を取り除いた後周は、937年に南唐への侵攻を開始した。南唐は徐知誥(じょちこう)により建国された国家で、金陵に都を置き十国の中で最も豊かな経済力と高い文化を誇っていた。

 

南唐の抵抗にあいつつも958年、後周は南唐の長江以北の1460県を奪取した。進退窮まった李昪(徐知誥)のあとを継いでいた李璟は、後周へ服属することを決めた。

 

南唐を屈服させた後周の次の敵は、遼と遼を後ろ盾にしていた北漢であった。959年、世宗は趙匡胤とともに、燕雲十六州を奪い返すために軍隊を派遣した。後周軍は各地で遼軍をやぶり、瀛州と莫州を取り返すも世宗が倒れたことにより汴州(開封)へ退却。跡をついだのは、わずか7歳の柴宗訓(さいそうくん)であった。960年に趙匡胤は再び遼や北漢と戦うために北進するが、その途中、趙普と趙匡義の推戴を受けて皇帝となった。五代十国という時代はここで一区切りにされるが、この後も趙匡胤の中国統一の戦いは続いて行く。

2026/03/05

日蓮(9)

逸話

佐渡流罪2年目の文永9年(1272年)、日蓮の配所が塚原三昧堂から一谷に移されてまもなく、鎌倉の女性信徒が幼子の乙御前を連れて、はるばる佐渡の日蓮を訪ねてきた。日蓮はその女性を「日本第一の法華経の行者の女人」と称賛し、「日妙聖人」と日号・聖人号まで授与している。その上で、日蓮は乙御前母子の帰りの旅費が十分でないことを心配し、日蓮の世話をしている一谷入道から、後で法華経十巻を書写して与える約束をして、その代償に母子の旅費を用立ててもらった。一谷入道は地頭などに遠慮して念仏の信仰を捨てることができなかったが、入道の妻は日蓮の門下となった。建治元年(1275年)、日蓮は自ら書写した法華経十巻を入道の妻にわたしている。

 

建治2年(1276年)3月、最古参の門下の一人で下総方面の中心的信徒だった富木常忍が、身延の日蓮のもとに母親の遺骨を納めに来た。しかし常忍は下総に帰る時、常に所持している経典を置き忘れてしまった。日蓮は、すぐに常忍が忘れた持経を弟子にもたせて、常忍のもとに届けさせた。日蓮は、引っ越しの際に妻を旧宅に置き忘れた人がいた等の中国の故事を引いた後、常忍に対して「日本第一の好く忘るるの仁(ひと)か」とユーモアを含めて教示した。その上で、下総から身延までの困難な道のりを母の遺骨を運んできた常忍の行動に触れ、母を思う常忍の心情を深く汲み取っている。

 

建治3年(1277年)6月、四条金吾は、極楽寺良観らの讒言を真に受けた主君・江馬氏から、法華経の信心を続けるならば所領を没収し、江馬家から追放する旨の命令を受けた。金吾から、決して法華経の信心を捨てることはないとの誓いの言葉を聞いた日蓮は、金吾が主君に提出する陳状(答弁書)を金吾に代わって自ら執筆し(「頼基陳状」)、併せて主君の代理の奉行人に対して、金吾が言うべき言葉まで具体的に教示している。

 

それは次のような言葉だった。

「自分から江馬家を出て、所領を差し上げることはいたしません。しかし主君が私の所領を没収するのであれば、それは法華経への布施となりますから、むしろ幸いであると思います。私の領地は主君からいただいたものではなく、主君の病気を法華経の薬によって助けてあげた褒美としていただいた所領ですから、それを取り上げるならば主君の病気もまた戻ってくるでしょう。その時になって、『四条金吾、助けてくれ』などと言ってこられたとしても、そのような要請には一切応じられません」。

 

奉行人に対し、このように憎々し気に言い切って、席を蹴って帰ってきなさいと日蓮は四条金吾に教示した。実際に、主君はまもなく鎌倉で流行していた病にかかり、金吾の治療を受けなければならない事態になってしまった。金吾の助けを得て病を癒すことができた主君は、金吾に対する態度を改め、弘安元年(1278年)には金吾に新たな領地を与えている。

 

身延の日蓮のもとには多くの門下が訪れたが、下部温泉の湯治のついでに訪問したという者には真剣な信心が認められないとして面会せず、全て追い返した。老齢の内房(うつぶさ)の尼御前が訪ねてきた時も、尼御前が氏神に参詣したついでに来たと言ったので、日蓮は仏が主で神は従であるとの道理を尼に分からせるためにあえて面会しなかった。

 

早い時期に日蓮の弟子となった三位房は、その後、比叡山延暦寺に遊学した学僧だったが、遊学先から日蓮に宛てた手紙で、貴族に招かれて説法したことを面目をほどこしたなどと書いてきたので、日蓮はその態度について「日蓮を卑しんで書いたのか」と厳しく戒めた。さらに三位房の言葉遣いもさぞかし京都なまりになっただろうとして、それでは田舎法師でも京法師でもない中途半端な存在になってしまうから、言葉はあくまでも田舎言葉でなければならないと訓戒している。

 

文永の役の翌年、建治元年(1275年)4月、杜世忠ら蒙古の使者が日本にやってきたが、幕府は使者の言葉に耳を貸さず、同年9月、竜の口の刑場で斬首した。日蓮はその事実を知って、罪もない使者が処刑されたのは「不便(ふびん)」であるとし、彼らに深い同情を寄せた。さらに平頼綱や北条時宗らが日蓮を用いていたならば、決して使者を斬首させることはなかっただろうと述べている。

 

文永11年(1274年)5月、鎌倉を去って身延に入った日蓮は、その途中、富士の賀島にある日興の叔母が嫁いだ高橋六郎入道宅を訪問したいと思ったが、富士方面には日蓮を敵視する北条時頼・北条重時の未亡人やその関係者が多くいたので、高橋入道宅の訪問は入道に対するの迫害を招く恐れがあると判断し、あえて立ち寄らなかった。弟子たちにも入道宅の周辺に行かないよう注意している。日蓮は信徒を迫害にさらしてはかわいそうだとして、そのような事態を極力回避しようとした。

2026/03/02

五代十国時代(3)

北漢

劉崇によって建てられた北漢は中原を支配することができなかったため、五代ではなく十国のひとつに数えられる。太原を首都とし、現在の山西省北部を支配した。北漢は国力が少なかったために、後周に対抗するために遼の援助を求め、事実上は遼の衛星国家となった。遼の兵力によって後周に対して有位を保ったこともあるが、それは一時的なものにとどまった。後周の後を継いで北宋が成立すると、北宋の圧力によって国内は混乱し、979年にはついに北宋に屈して北漢は滅びた。

 

宋(北宋)の成立と中国再統一

後周で世宗(柴栄)の死後、次の皇帝になったのは、わずか7歳の柴宗訓である。この状況を見た北漢は、遼の後押しを受けて後周に対して侵攻してきた。これを討伐に出たのが、世宗一の側近であった殿前都点検(禁軍司令)の趙匡胤(太祖)である。

 

幼帝を戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で趙匡胤を強引に擁立した(陳橋の変)。首都の開封に入った趙匡胤は柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建てた(960年)。五代では禅譲はいくつも起きたが、これまでの禅譲では譲った皇帝は、後になって逆襲されることを恐れて殺されるのが当たり前であった。しかし柴宗訓は無事に生涯を全うし、柴宗訓の子孫は南宋の滅亡まで手厚く保護されている。

 

宋の太祖(趙匡胤)は、それまでの軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。科挙の整備・地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化・節度使職の無力化などを行い、内部を固めた太祖は世宗の路線を引き継いで統一への道を歩み始める。

 

まず、963年に中国大陸の中央部の要地である湖北の荊南を併合した。このことで十国は東と西に分離され、団結して宋に対抗することが難しくなった。次いで965年に四川の後蜀を併合し、当地の豊かな物産を強奪して戦費を補充し、971年には広東を支配する南漢を滅ぼした。そして975年、華南における最大勢力の南唐を滅ぼした。

 

これで残るのは北の北漢と南の呉越だけとなったが、太祖は唐突に病死した。これには弟であり、第2代皇帝太宗となる趙光義による毒殺も疑われている(千載不決の議)。

 

太宗は太祖の方針を受け継いで統一を進め、978年に呉越を併呑し、979年に北漢を滅ぼして遂に統一を完成した。

 

ここに五代十国時代は終わり、これは唐の滅亡から72年後のことである。

 

後世から見た研究と評価

五代十国時代に関しては、北宋成立直後に薛居正らが正史である『五代史』を編纂したが、後に欧陽脩が春秋の筆法の影響を強く受けた『五代史記』を著した。これが欧陽脩の没後に、国子監に納められて認められて大いに広まったことから、金では1207年に『五代史記』のみを正式な正史として扱うこととした。『五代史』は、南宋では引き続き正史であったものの、実際にはほとんど顧みられなくなり、遂には散逸してしまうほどであった。

 

清の時代に『五代史記』は正史に加えられて『新五代史』と改められ、散逸後に『永楽大典』など様々な文献を元に復元された『五代史』は『旧五代史』と呼ばれるようになった。

 

欧陽脩は、この時代を唐の衰退によって天下は分離し、戦争や飢饉が人々を苦しめ、秩序が乱れた時代であると解した。すなわち、政治の失敗による秩序の崩壊(「乱」)と天下が分裂した状態(「離」)が表裏一体となって展開された「乱離」の時代であったというのである。この考えは司馬光の『資治通鑑』によって継承され、後世の歴史観へとつながった。

 

明の遺臣である王夫之は、五代の王朝をたまたま唐の京邑(洛陽・長安)を支配した勢力に過ぎない(『読通鑑論』)とし、王朝として認めること自体を否定しているが、基本的には宋代の歴史観に沿っている。

 

欧陽脩や司馬光らによる宋代の歴史観は、天下に複数の国家が存在することを認めず、その時代そのものを秩序のない時代として否定的に捉える一方で、統一された天下のみが正しい世界であり、それを実現した宋王朝を評価するという、「中国」における天下の概念に強く影響されている。

 

例えば、「十国」という地方政権の数え方も、北宋成立直後に成立した『旧五代史』では確認できず(現行の『旧五代史』は完本ではないが、少なくとも「十国世家」のような世家は立てておらず、岐などを「十国」以外の群雄とともに「世襲列伝」・「僭偽列伝」に分散して所収していることから、「十国」という規定がなかったと推測される)、欧陽脩より少し前の人物である路振が編纂した諸国に関する歴史書も、北楚(荊南)を除いた『九国志』だった。荊南を加えた「十国」の初出もやはり『五代史記』であり、その後朝廷に献上された『九国志』も北楚の分が追記されている。

 

南平王・荊南節度使の高季興およびその子孫は世襲を行い、宋の軍事力によって統一され、統一後は他の諸国の王と同様の待遇を得ているものの、実態としては中央政府も刺史任命権も持たない五代の節度使でしかなかった。だが、こうした曖昧な存在を無秩序の象徴として嫌った欧陽脩は、北楚(荊南)を数え上げて「十国」にしたといわれている。こうした一連の歴史観は、日本におけるこの時代への見方にも少なからぬ影響を与えている。

 

唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(唐宋変革)。

 

五代十国時代は、こうした変革の中の過渡期と位置づけられて、こうした観点から研究が行われることが多い。

 

小島毅や與那覇潤は、五代十国時代が北宋によって統一されず中国が分裂したままだったとしたら、ヨーロッパと同様に複数の国家が誕生していたかもしれず、北宋以降の専制皇帝のような中国全土を統一する世俗権力がつくられずに、分裂した中国各地の王権や軍閥がミニ国家をつくって、やがてヨーロッパのヴェストファーレン体制に近い国際関係が生まれた可能性があり、そこが東西の歴史の最大の分岐点だったのではないかと指摘している。