2026/09/16

陽明学(4)

陽明学の流行と展開

陽明学左派―心学の横流-

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王陽明の高弟としては、王畿(龍渓)、王艮(心斎)、徐愛(横山)、欧陽徳(南野)、銭徳洪(緒山)、鄒守益(東廓)、羅洪先(念庵)、聶豹(双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。王陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり、王龍渓ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。

 

陽明学左派の中心人物は王龍渓と王心斎であって、この両者を王学の二王と称する。王陽明は、心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」「良知」「物」には善悪を認めた。しかし王龍渓らは師の説は徹底を欠くとして、「意」「良知」「物」も「無善無悪」としたのである。

 

したがって、それらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「四無説(しむせつ)」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また彼らは、狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。

 

王龍渓

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王龍渓が上で師王陽明の良知説を革新したと述べたが、もう少し具体的にいうと、以下の二つの意味を良知に追加した。

 

まず王陽明にあって、良知はあくまで人の心にあるものであったが、弟子王龍渓はそれを「天則」(天のことわり)にまで拡大した点。次に「現成良知」を主張した点。「現成」とは、眼前にすでに出現しできていることであり、良知を発現させるために作為的もしくは意識的な修養は無用であって、良知はすでに既成の善悪を超え自律的に正しく判断するのだと主張した。王龍渓は、良知を非常に動的なものとして捉え直したといえる。

 

また理学が、その成立当初から禅宗の影響を強く受けていることは、宋代より言われ続けてきたことであるが、陽明学左派はとりわけ仏教の、そして老荘思想の影響が顕著である。この傾向は王陽明も持っていたが、特に王龍渓はこの傾向を強めたといわれる。その証拠として経書の解釈においても、積極的に仏教などの語彙を使用して説明しようとした点がよく指摘される。そして仏教も道教も真理の一面を有していたことを認め、三教一致を目指そうとした。この傾向は王心斎の一派にも見られ、それ故にもはや儒教ではなく禅宗の学だという批判を招くに至った。

 

王心斎と泰州学派

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王心斎も王龍渓と同じく「現成良知」を奉じていたが、思弁性よりも社会に向けた実践活動に特徴を有する。具体的には王心斎は、『孝経』と四書を重視したが、経書の注釈に拘らない自得の学問を説き、独特な「淮南格物」を主張したこと、古代を理想とする尚古思想をもっていたことがその思想的特徴といえるが、なによりも重要なのは、知識人層以外の階層に陽明学を広めることを己が責務としたことである。

 

王心斎らの一派は泰州学派といわれ、この派からは何心隠、羅如芳(近渓)、楊起元(復所)、李贄(卓吾)、周汝登(海門)、陶望齢を輩出した。彼らはその身の中で、万民を救うという士大夫的責任感と「知行合一」とを結合させ、以下に述べるような社会批判を繰り広げていくのである。この意識が非常に高揚して、「侠」あるいは「遊侠」という境地に達するものも現れた。

 

李卓吾

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李卓吾は、陽明学左派の掉尾を飾る人物である。彼にいたって、朱子学が唱えた読書による人欲の排除といった、理学の基本概念とは全く正反対の主張がなされた。まず李は良知説を改良し、「童心説」を唱えた。童心とは、経書など外的権威・道徳を学ぶ以前の純真な心を指し、読書学問によってかえって失われるとした。また「穿・衣・吃飯、即ち是れ人倫物理なり」とも述べ、食欲や衣服を身につけようとすることは人間の本来の自然だとし、人欲を全肯定した。

 

陽明学右派と東林党

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明末は魏忠賢ら宦官に与する閹党と、顧憲成らの東林党が党争を繰り返していた。閹党と東林党は、当時の政治や社会の現状を認めるか否かによって分かたれた集団であって、思想的な差異によるものではない。

 

そのため、宦官政治に批判的な人々は朱子学、陽明学を問わず東林党に集ったが、東林党に入った陽明学の人々は陽明学右派が中心であったため、陽明学左派の過激な思想や行動には批判的であった。ただ人欲を人間本来の自然とみる考えを全否定することはなく、それを認めつつ、人欲を制御する役目を「理」に与えることにより、現実的な政策や思想を構想しようとした。それは清代の考証学や、経世致用の学を生み出す端緒となる。

 

その代表的思想家は黄宗羲である。黄は陽明学右派劉宗周の弟子にあたり、『明夷待訪録』や『明儒学案』を著している。前者は政治・経済・軍事といった諸方面から国家のあり方を論じたもので、特に皇帝専制政治批判は舌鋒鋭く、清末に至り再評価された。そのため黄は「中国のルソー」と呼ばれる。

 

後者は中国初の哲学史とも言うべき著作で、明代の儒学史研究において今でも必読書となっている。黄宗羲は、陽明学左派のようなひたすら唯心的に事柄を論ずる学風を好まず、事実に即した実証的な学問の確立を求めた。その学風は考証学の一派、浙東学派となって清朝の主要な思潮となっていくのである。

2026/09/07

陽明学(3)

『大学』の再解釈

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宋明理学におい、て四書は非常に重視された経書である。このうち、『大学』は、宋以後著しく経書中の地位が上昇し、且つ朱子と王陽明で解釈が著しく分かれた。以下、主な朱子学との相違を記す。

 

テクスト

朱子学:朱子は大きく『大学』を改訂した。朱子以前より『大学』は文章や字句が並べ間違えられ、あるいは抜けていると言われていたが、それを改めたのが『大学章句』である。『大学章句』は程顥・程頤のテクスト批評を継承し、朱子が完成させたもので、脱落したと思われる箇所は朱子が書き足している。

 

陽明学:王陽明は朱子学以前のテクストをそのまま使用した。ただし、王陽明の序を付したものを『古本大学』という。

 

「大学」という言葉の意味

朱子学:大学を「大人の学問」と規定する。大人は成人の意である。

陽明学:小人に対する大人、すなわち「君子の学問」と規定する。小人は徳の無い者の意である。

 

三綱領の「親民」

三綱領とは『大学』における三つの総括的な主題で、『大学』はこの主題を説明するためにあるといってもよい。その二番目にあたる「親民」の解釈をめぐっても、朱子と王陽明は大きく異なる。

朱子学:朱子は「親」を「新」と読み替え、「民を新たにす」、つまり「自分自身の明徳を明らかにした君子が、他者にまでそれを及ぼし革新する」の様に解した。

陽明学:王陽明は素直に「民を親しむ」と読む。

 

八条目の「格物致知(かくぶつちち)」

八条目とは三綱領の細目で「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八つである。

朱子は読書・修養によって聖人の高みに至るとし、三綱領に置かれた「格物致知」に根拠を求めた。つまり、「物に格いたる」(事物に即して理を極める、格=至)とした。

一方、王陽明は、この部分を再解釈し「物を格ただす」(物=事、格=正)とした。朱子においては「知」は道徳知と知識知が未可分であったが、陽明は専ら道徳知として理解する。「事」とは心の動きである「意」の所在であって、「知」とは良知を指す。「格物致知」を、「意」を正すことにより良知を発揮することとしたのである。端的に言えば、心の不正を正すと王陽明は再解釈した。

 

「誠意」の重視

朱子学:朱子学で最も要とされたのは、上記の「格物致知」である。

陽明学:陽明学で最も要とされたのは、「誠意」である(「大学の要は、意を誠にするのみ」)。ただし陽明学の観点から言えば、意が誠ならば良知は致されており、また物も格されている。つまり「物を格し、知を致す」とは「意を誠にする」ことである。

 

陽明学が開いた地平

聖人観の変化

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宋以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。つまり理念的には、あらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。

 

しかし陽明学では心以外の外的な権威を否定するため、もう読書などは不可欠なものとは認められない。むしろ万人に平等に、そしてすでに良知が宿っていることを認めていこうとする。王陽明のある弟子の「満街これ聖人」(街には聖人が充ち満ちている)ということばは、端的にこのことを表現していると言えよう。陽明学にあって聖人となれる可能性があるのは、読書人のみならず普通の庶民にも十分あるとされるのである。朱子学との連続性を考慮するならば、宋以後における聖人の世俗化の動きが、明代中葉・末期に至ってひとつの頂点を迎えたといえる。

 

人欲肯定への道を開く

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心全体を理とするならば、その内にある欲望のみを否定することは原理的にできない。王陽明自身は「天理を存し人欲を去る」という朱子学的な側面を捨てきってはいなかったが、下で述べるように、その弟子達は人欲を自然なものとして肯定していくのである。よく知られているように明代中期以後、急速に貨幣経済が浸透する。軽々に思想と経済の間の因果関係を結論づけることはできないが、陽明学における人欲の肯定が、発展著しい商業経済にとって時宜に適う思想であったことは間違いない。

 

経書の地位低下

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心を外的な規範から解放した結果、六経などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも、生涯に読んだ経書は四書だけといわれる人が陽明学派から出てくるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である黄宗羲ら浙東史学から章学誠を経て、章炳麟へ受け継がれていった。

 

朋友関係の重視

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陽明学の一派は、講学といわれる研究会を好んだことで知られる。派内の交遊が壮んであることは、「五倫」(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の中でも特に「朋友」という人間関係を重視する姿勢を生み出した。すなわち極めて同志意識・連帯意識が濃厚であった。本来、朋友以外の四倫は上下関係を基礎におくものであるが、朋友に限っては水平方向の人間関係である。それを重視するということは、儒教的価値観に一石を投じるものであった。

2026/08/28

陽明学(2)

王陽明の登場

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朱子学は体制側の思想となったが、それ故に体制擁護としての作用が肥大化し、かつての道徳主義の側面が失われていった。その道徳倫理を再生させようとしたのが、王陽明である。

 

朱子学では「理」(万物の法則であり、根拠、規範。「然る所以の故であり、且つ当に然るべき則」)はあらゆるものにあるとし(「一木一草みな理あり」)、そうした理について読書など学問することにより理解を深めた後に「性」(個々に内在する理、五常五倫)へと至ることができるとした。いわば心の外にある理によって、心の内なる理を補完せんとしたのである。

 

当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。その際、王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に、以下のような疑義を呈した。

 

まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。ただ、陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。

 

なお陽明学の登場は、朱子学の時ほど劇的ではなかった。朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学は、そのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、大転換が起こったわけではなく、その点は注意を要する。

 

陽明学の根本思想

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王陽明の思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』にうかがうことができる。そして、その学問思想の特徴は、以下のことばに凝縮されている。

 

1. 心即理陽明学の倫理学的側面を表すことば。「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した。

朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。

 

しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では、心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険性をはらんでいた。

 

なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別を立てなかったのに対し、王陽明は朱子と同様「天理を存し人欲を去る」という倫理実践原理を持っていた点は異なる。

 

2. 致良知陽明学の方法論的側面を表すことば。

「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明が晩年、独自に提唱した概念である。

 

まず「良知」とは、貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において、非常に動的なものとして扱われる。

 

そして「致良知」とは、この「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「無善無悪」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。

 

    無善無悪是心之体(善無く悪無きは是れ心の体なり)

    有善有悪是意之動(善有り悪有るは是れ意の動なり)

    知善知悪是良知(善を知り悪を知るは是れ良知なり)

    為善去悪是格物(善を為し悪を去るは是れ格物なり)

 

これは

「理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ」

というのが大意である。

 

ただし、善悪を超えたといっても、孟子的性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「無」は単なる存在としての有無ではなく、既成の善悪の観念や価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなる。

 

3. 知行合一良知の有り様。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践を指す。陽明学に反感を持つ朱子学者や日本では誤解され、実践重視論として理解されたが、これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考える。

 

たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないと王陽明は説く。

 

また「知は行の始めにして、行は知の成なり」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。

 

4. 万物一体の仁と良知の結合良知の有り様。「万物一体の仁」とは、人も含めて万物は根元が同じであると考え、自他一体とみなす思想である。元々は程顥に見られる発想であるが、陽明はそれを良知と結びつけた。陽明は自らを含む万物はいわば一つの肉体であって、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然で、良知のなせるものだとした。ここに陽明学は、社会救済の根拠を見出したのである。

 

5. 事上磨錬自己修養のあり方。朱子学においては読書や静坐を重視したが、陽明はそうした静的な環境で修養を積んでも一旦事があった場合役には立たない、日常の生活・仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。これが「事上磨錬」である。

2026/08/20

陽明学(1)

陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。

 

西洋では、朱子学とともに新儒学(英: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする。

 

陽明学以前

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宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は経書の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。これに対して、宋代の学者は訓詁学者は六経(五経)に込められた孔子ら聖人の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。

 

その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学と陽明学であった。

 

朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。

 

四書とは、経書の中の『礼記』から分割編纂した「大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。

 

隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に道学と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。

 

この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そして、この注釈書は元朝以来、徐々に科挙に登用され、明朝初期に及び科挙の使用注釈書は、全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。

 

このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達していた江南地方には、明初期以来、朱子学と微妙な距離を置く人々がいた。例えば、撫州府崇仁県の呉与弼(康斎)や広州府新会県の陳献章(白沙)は朱子学派に属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践・静坐を重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異なる側面も見られなくはなかったのである。

 

このことは、特に陳献章の弟子湛若水(甘泉)と王守仁(陽明)とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期の江南地方の儒学者と、明中期以後の陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし、総じて明初期の思想界は朱子学的側面が強く、呉与弼や陳献章にせよ本人としては朱子学の実践を行っているつもりであったのである。

 

なお、以上の解釈には一定の歴史的根拠が与えられるが、これらの説明は日本の近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある。近代以後、日本の中国思想研究は、西洋哲学を模倣する必要に迫られた結果、朱子学の思弁的側面を強調し、これを以て哲学と比較可能であると見なすようになった。この結果、朱子学とその派生形態である陽明学の中にある、思弁的側面に集中的に研究が加えられ、或はその思弁的側面こそが朱子学ないし陽明学の特徴であると考えられるに至った。それ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試みの多くは、この思弁的側面のみに注目したものとなっている。

 

また、朱子学(旧来の思想に対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝が正式に認めた学問であった朱子学に対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後の日本に於ける近代思惟・反権力・人間解放などの概念と容易に結びつき、朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念に近似する部分を抜き取り、そこに思想的価値を与えるという試みが盛んに行われた。以後に説明される陽明学の特徴も、その様な意味づけを与えられた結果であり、それが朱子学及び陽明学の歴史的・全面的な結果であると言い得るか否かは大いに疑問とする立場も一部にはある。(2006年現在)[要出典]

 

朱子の死んだのは1200年であるが、その頃の朱子学は程氏系統の学問や道学と呼ばれ、必ずしも支配的な学問としての地位を獲得してはいなかった。

 

朱子の晩年に偽学の禁がおこって道学を偽学問とよび、道学の学従が官界から一掃されようとしたこともあり、当時の宰相趙如愚以下の名士59人が偽党とされた(慶元党禁)。

 

しかし、元代になると南方では既に学界の主流となり、更に許衡と劉因の二人によって北方にも伝来していった。

 

以下、許衡と劉因との有名な問答のみを紹介する。

劉因は、生涯異民族たる元の朝廷に仕えなかった人であり、許衡は仕えて大臣にまでなった人である。許衡が朝廷の召命をうけて北京におもむく途中、劉因を訪ねた。劉因いわく、公がただ一度の招きによって起こったのは、あまりにお手軽すぎはしないか、と。許衡答えいわく、かくのごとからざれば、道、行われず、と。

 

次いで劉因にも召命が下ったが、劉因は固辞してうけなかった。ある人がその理由を聞くと、「かくのごとからざれば、道、尊からず」と答えたという。ともかく、延祐元年に元朝が長年絶えていた科挙を再開したときには、科挙の学科として、朱子学で特に重んじる四書をたて、かつての注は朱子のいわゆる『四書集注』を用いることにし、そのほかの五経についても従来の指定学説であった古い漢唐の注釈のかわりに、朱子もしくはその弟子の作った新しい注が指定されることになった。

 

つまり、朱子学はこの頃にはすでに、科挙試験がその科目として採用せざるをえなくなるほどまでに普及していたということであり、また逆に科挙の科目となることによって、朱子学は圧倒的な権威をふるうことになるのである。

2026/08/11

戦術論 ~ マキャヴェッリ(6)

『戦術論』(伊: Dell'arte della guerra)は、ニッコロ・マキャヴェッリによる軍事学の著作である。

古代ローマの軍事制度・戦闘教義を参考にした軍事学の研究であり、1519年から1520年に全7巻が執筆された。対話篇形式で書かれている。

 

構成

1 : 市民軍について

2 : 市民軍の訓練・武器・戦闘形態

3 : 軍事訓練の未来像

4 : 司令官の心得

5 : 敵中行軍

6 : 陣地作戦

7 : 都市の防衛

 

内容

本書の冒頭で、マキャヴェッリは

「幸福のために社会にもたらされる技術や神の下で制定された儀礼は、軍事力がなければ無価値になる」

と論じている。

これはマキャヴェッリの現実主義的な政治思想を反映しており、他の著作でも一貫して述べられている。

 

国家が採用するべき軍事制度について、マキアヴェッリは主にローマ軍を参考としている。そのため、当時イタリアで主流であった傭兵による軍事組織ではなく、自国民を徴集して軍事組織を作ることを主張する。同時に、この軍は騎兵よりも歩兵を重要視しており、騎兵に依存する国家の脆弱性を指摘している。

 

自国民によって組織した軍隊に対して実施する軍事訓練について、4段階の方式を論じている:

 

1段階 - 戦闘隊形に号令と共に瞬時に展開する基本教練の動作

2段階 - 部隊が同一の歩調で行動することで隊伍を整然と維持する行軍の動作

3段階 - 敵に対する適切な戦闘行動を行う動作

4段階 - 命令を伝達する際に使用する信号の意味の教育

 

これら軍事訓練によって精強な軍事組織を作り上げられる。

 

一方で指揮官の重要性は別の問題であり、部隊の団結は指揮官に対する勇気や善行などの評判によって左右される。指揮官にとって重要な力量とは、危機的状況において攻撃的に行動する資質であり、また部隊の士気を高めるために演説に長けていることも求められる。

 

本書は16世紀において21版を重ね、フランス語・英語・ドイツ語・ラテン語に翻訳されており、徴兵制度の提唱、軍事訓練の提案などの面において後世の軍事学の研究に影響を与えた。