2026/03/23

五代十国時代(7)

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科挙

 宋代の科挙を簡単に見ておきます。

 科挙は誰でも受験することができます。年齢、出身地関係なし。女性はダメですけれどね。

 試験は三年に一回。

 三段階の試験があります。最初が郷試、これは地方試験。合格したら都で二次試験を受けることができる。これを会試という。

 会試を通った受験者が最後に受けるのが殿試。これは宋代からはじまった。皇帝自身による面接試験です。宮殿でおこなうから殿試だ。

 

 官僚になれば、一族みんなが潤うような財産と権力とが手に入る。一番で合格すれば、将来の大臣は約束されたようなもの。

 

 一旗揚げようという血気盛んな者達は、腕力にものをいわせるんではなくて机に向かって勉強するようになる。政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚になってしまったほうが話が早い。

 

 そういう意味でも、政府は積極的に科挙を宣伝します。これは科挙を受けるように勧める歌です。

 

 「金持ちになるに良田を買う要はない。

  本のなかから自然に千石の米がでてくる。

  安楽な住居に高殿をたてる要はない。

  本のなかから自然に黄金の家がとび出す。

  外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。

  本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。

  妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。

  本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。

  男児たるものひとかどの人物になりたくば、

  経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」

         宮崎市定「科挙」中公新書より

 

 窓口に向かってというのは、昔だから照明は暗い。日が暮れかけても窓からは光が射し込むから、暗くなっても勉強しろということですね。

 

 この歌は、太宗趙匤義がつくって意図的に流行させたといわれる。人民を取り込むのに必死だったわけです。太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもありました。

 

 子供に勉強させるだけの余裕のある家は、必死に受験勉強させます。少し利発な子供だったら親戚みんなでお金を出し合って、いい先生のところに入門させて科挙の準備をさせる。子供は一族の期待を一心に担って勉強するのだから、プレッシャーも大きい。現在の受験勉強とは比較にならないでしょうね。

 優秀な人だと十代で合格する場合もあるし、五十、六十になってもチャレンジしつづける人もいました。

 

 合格率はどれくらいかというと、これは17世紀はじめくらい明朝末期の数字ですが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万、それに対して殿試合格定員が300人程度です。すごい高倍率。

 

 どんな試験をするのか。

 論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、そして詩を書かせます。当然、すべて論述です。

 政策論は官僚に必要と思いますが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことでしょうか。 儒学の理解度をみるということは、その人の徳を測ることと同じなんです。詩を書かせるのは、文化人としての教養をみることです。

 つまり、科挙の試験というのは、官僚として実務に有能な者なら誰でもいいわけではなくて、貴族的な人間を試験でさがすという意味合いが強いように思われます。今の大学入試のような単なる能力テストではない。人格を測るようなところがある。

 だから、字がきれいなことも当然要求される。今みたいに鉛筆、消しゴムではない。墨をすって筆で書くんですよ。しかも、清書用紙を墨で汚したりしたらまず不合格だ。緊張します。

 

 しかも、試験は三日間ぶっ通しでおこなわれる。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生ひとりひとりに独房が割り当てられる。そこで缶詰状態で受験します。鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書くのです。

 なかには緊張にたえきれずに、発狂する受験者もいたようです。

 

 合格するためにカンニングをする者もでるんだ。ただ、論述試験だからカンニングペーパーはあまり役には立たない。論語とか詩経とか暗記しているのが大前提で、答案を書くときにそれらをいかに上手に引用して文章を格調あるものにするのかというところが勝負所です。

 だから、合格するために不正行為をするのに一番手っ取り早いのが、採点する担当者を買収することです。高い点数をつけてもらう。

 政府としてはそんなことが横行しては、科挙の権威が台無しになるので、懸命に不正防止策をする。

 まず、答案の受験生の名前を糊付けして隠してしまう。賄賂を受け取っている採点官が、だれの答案かわからないように。

 

 みなさん、高校受験の時、答案用紙に名前を書いたかどうか覚えていますか。書かなかったでしょ。受験番号だけだったね。教師のなかには受験生のことを知っている人もいる。ついつい、甘くなったりするかもしれない。そんなの困りますからね。名前を書いてはいけないことになっている。

 

 ついでに言うと、わたしたち教員が試験が終わったらすぐに採点をするんですが、採点するときには、受験番号も見えないようにくくってあるんですよ。当然ながら全教員が一室に集まって一斉に採点する。必ず複数で答案をみる。また、答案をその部屋から持ち出すことはできません。間違っても教師が不正しないように、ですね。

 

 高校入試ですらこうですから、国家の指導層を選ぶ科挙では、さらに不正対策がとられている。

 受験者の名前を隠すだけでは足りません。受験者の筆跡で誰かわかる場合がある。何しろ筆で答案書くんですから、個性がハッキリでがちです。筆跡をわからなくするために、受験者の提出した答案を別の役人たちが書き写すの。書き写して筆跡がわからなくなったものを採点官がみる。

 ここまでやると、不正はできないと思うでしょう。ところが、まだある。

 

 どんな手段があるかというと、受験者が採点官に事前に答案の特徴を教えておくのです。といっても、どんな問題がでるかわからないので、「私の答案は二枚目の五行目の三文字目に「仁」という字を書きます。」というふうに教える。

 これは、もう防ぎようがない。しかし、あらかじめ決めた場所に特定の文字をいれて、しかも筋の通った論文にしなければならないわけで、これをやるには相当の実力がいりますよね。

 

 そんなこんなの不正をたくらむ輩はいたかもしれませんが、科挙はおおむね公正におこなわれていきます。モンゴルが中国を支配した一時期をのぞいて、王朝が変わってもずっとつづけられ、20世紀1904年まで科挙はおこなわれたんです。

 

 宋の時代には、科挙官僚を出した家は「官戸」とよばれ特権を得ました。徭役を免除など簡単にいったら減税ですね。この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまうものです。そういう意味で、家系そのものが高貴とされる貴族とは全然違うものです。

 

 宋はこの科挙に象徴されるように、文治主義の政治体制をつくりあげていきました。

2026/03/22

一遍(1)

一遍(いっぺん、英語: IPPEN)は、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。全国各地で賦算(ふさん)と呼ばれる「念仏札」を渡し、踊りながら南無阿弥陀仏(念仏)と唱える「踊り念仏」を行った。

徹底的に自身の所有物を捨てたことで「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれた。

 

一遍は、承久3年(1221年)の承久の乱により没落した伊予国(愛媛県松山市)の豪族の河野家の次男として、延応元年(1239年)に生まれる。宝治2年(1248年)に10歳より仏門に入り、建長3年(1251年)からは太宰府の聖達上人の元で、浄土教を学んだ。

弘長2年(1262年)に父の訃報を受けると、一度故郷に帰り、半僧半俗の生活を続けていたが、文永8年(1271年)に33歳で再出家し、文永11年(1274年)より全ての財産を捨て一族とも別れ 16年間の遊行の旅に出る。

 

熊野本宮大社に着いた時、夢の中に白髪の山伏の姿をした熊野権現(阿弥陀如来)が現れ、

「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されているので、あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければなりません。」

とのお告げを受けて歓喜し、この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加し、諸国遊行を続けた。

 

弘安2年(1279年)からは、信濃国佐久郡(長野県佐久市)で一遍が尊敬してやまない平安時代の僧侶空也が始めた、輪になって念仏をとなえながら踊る「踊り念仏」を始めた。

 

一遍は、学問や理論ではなく、「念仏をとなえて極楽浄土へ往生する」という仏教的実践、つまり余計な考えは捨て、南無阿弥陀仏と声を出してとなえることを人々に勧めた。

 

「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されており、仏教を信じれば、極楽浄土へ行ける喜びが踊りや歓喜となって現れるだろう」

という考え方で、日蓮宗が唱える「南無妙法蓮華経」でも「南無阿弥陀仏」と同じ功徳があるとも言っており、非常に柔軟性に富んだ考えだった。

 

一遍は、著書を残すこともなく、信徒を組織化して教団を作ることもしなかったが、弟子の他阿弥陀仏が時宗の教団化を行うことで再興した。一遍は念仏札を25万人以上に配ったと言われている。

 

「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す[信頼性要検証]

「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。諡号は「円照大師」(明治19年(1886年)8月、近代における私諡号[要出典])、「証誠大師」(昭和15年(1940年)323日宣下)。俗名は河野時氏[要出典]とも、通秀[信頼性要検証]とも、通尚ともいうが、定かでない。

 

略歴

延応元年(1239年)、伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。

 

有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について敗れ、祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれたころにはかつての勢いを失っていた。

 

10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 建長3年(1251年)、13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の1年間派遣し、華台は法名を智真と改めさせた。

 

「法事讃」(巻下)に「極楽無為涅槃界は、随縁の雑善をもってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(少善根)であり、往生できない根源の雑善である随縁を名とするのは好ましくないとの判断であった。建長4年(1252年)から弘長3年(1263年)まで、聖達のもとで修学。

 

弘長3年(1263年)、25歳の時に父の死(524日)をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)に32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行。窪寺では十一不二の偈を感得する。

 

文永11年(1274年)28日に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され大いに悩むが、参籠した熊野本宮で阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。

 

建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、鹿児島神宮で神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ(常に南無阿弥陀仏と念仏すれば、弥陀と一体になり浄土に生まれることができる)」を拝し、建治3年(1277年)に豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる。

 

さらに各地を行脚し、弘安2年(1279年)には伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。

 

弘安5年(1282年)には、鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284年)に上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や當麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10年(1287年)は圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。

 

文永11年(1274年)以来14年の遊行を経て、正応元年(1288年)には瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻り、菅生の岩屋へ巡礼、繁多寺に3日間参籠して浄土三部経を奉納、1216日一遍一行は3艘の船に分乗して、今治の別宮大山祇神社付近から大三島へ渡海、河野氏の氏神である大山祇神社に3日間参籠後、今治に戻る。

 

正応2年(1289年)1月下旬に大山祇神社の供僧長観(124日)、地頭代の平忠康(27日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり、25日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は26日再度大山祇神社参詣、29日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請。

 

その後で善通寺、曼荼羅寺を巡礼、61日阿波の大鳥の里の川辺で発病、7月初めに淡路に渡り大和大国魂神社、次いで志筑神社に詣でて結縁した後、718日明石に渡り、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51歳(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で旧暦823日午前7時ごろ 没し、15年半の遊行を終えた。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。

2026/03/19

【WBC2026】ベネズエラがアメリカを破り初優勝(日本は準々決勝敗退)

■準々決勝

〇ドミニカ共和国 10―0 韓国●

1次リーグは「やっとこさ2勝2敗」ながら「タナボタ」で準々決勝に進出した韓国と、優勝候補の一角に挙げられるドミニカ共和国との対戦は「順当に」ドミニカが圧勝。そもそも韓国の実力は3A以下だろうし、準々決勝の顔ぶれの中で圧倒的に格落ちだから、メジャーリーガーが揃うドミニカの相手ではなかった。

 

〇アメリカ 5-3 カナダ●

こちらもバリバリのメジャーリーガーを揃えたアメリカだが、カナダ相手に予想以上の苦戦をした。1次リーグ最終戦でもイタリアに打ち負けるなど、アメリカの調子がイマイチの感は否めない。

 

〇イタリア 8-6 プエルトリコ●

イタリアが激しい打撃戦を制し、ヨーロッパ勢として唯一かつ初の準決勝進出を決めた。

 

〇ベネズエラ 8-5 日本●

連覇を狙う日本はベネズエラのパワーに屈した。

 

1回表、ベネズエラに先頭打者本塁打が飛び出すも、その裏すかさず大谷が先頭打者本塁打の返礼で同点に追いつく。1点リードされた3回裏には、代打森下の3ランなどで4点を奪い、5-2とリードした。

 

これで日本ペースになるかと思われたが、中盤からはメジャーリーガーを揃えたベネズエラがじわじわと底力を発揮し、日本の繰り出す自慢の投手陣を打ち砕く。一方、日本打線は中盤以降は凡打の山を築き、これといった見せ場も作れずにあっけなく敗退。

二連覇を目指した日本だったが、前回大会では胴上げ投手となった大谷が最後の打者となるという、これ以上ない皮肉な結末となった。

 

■準決勝

○アメリカ 2-1 ドミニカ共和国●

ここまで5試合で51得点と猛威を振るったドミニカ打線も、アメリカの前に1点しか取れず惜敗。アメリカは2大会ぶりの優勝に王手をかけた。

 

〇ベネズエラ 4-2 イタリア●

ベネズエラが逆転の勝利。イタリアは予選でアメリカに勝つ大金星を挙げ、ヨーロッパ勢で唯一準決勝に進出したものの決勝進出はならず。

 

■決勝

〇ベネズエラ 3-2 アメリカ●

準々決勝で日本を破ったベネズエラがアメリカに勝って初優勝。

 

準決勝、決勝の3試合は、どれもが接戦となった。

 

ドミニカは、1次リーグでベネズエラに勝った。そのドミニカにアメリカは準決勝で勝ったが、決勝でベネズエラに負けた。さらにイタリアも1次リーグでアメリカに勝った。

こうしてみると4強に進んだ各チームは、それぞれがもう一度戦ったら、どっちが勝ってもおかしくないくらい実力が拮抗しているのではないか。

 

翻って日本代表はといえば、6大会目にして初めて準決勝進出を逃した。

確かにこれまでの大会とは違い、以前はメジャーリーガーを出し惜しみしていた各国が一流のメジャーリーガーを揃え、ようやく「本気に」なってきた。それだけに、そう簡単には勝てなくなっているのは事実で、メジャーリーガーの少ない日本の準々決勝敗退は決して「番狂わせ」ではなく、実力通りとは言えなくもない。

 

それよりも、ワタクシの疑問は

「なぜ代表監督が、監督経験のない井端なのか?」

である。

 

別に個人攻撃をするつもりはまったくない。ただ、代表監督をだれが決めているのかは知らぬが、どう考えても「わざわざ監督経験のない人物を監督に抜擢した」料簡は、まったく理解不能である。

 

確かにベネズエラは強かったとはいえ、日本にも勝つチャンスが十分にあった。あるいは短期決戦の戦い方を知悉した指揮官なら、違った結果になっていたかもしれない。

 

思えば今大会は、1次リーグから苦戦続きだった。

初戦の台湾戦だけは大勝したものの、続く韓国、オーストラリア、チェコと思わぬ苦戦の連続で、特に「最弱」と思われたチェコ戦も結果は9-0だが、7回までは0-0だった。いかにメンバーを落とした戦いだったとはいえ、アマチュア相手にここまでの苦戦は想定外と言える。

 

試合を重ねるごとに投手陣がほぼ総崩れとなったのは、単純にメジャーリーガーを抑えるだけの力がなかったのだろうが、打つ方では近藤、岡本、牧ら結果が出ていない選手に拘り続けるなど疑問を感じる采配が多かった。

 

短期決戦の戦い方は難しいといわれる。長いシーズンなら最終的には実力がモノをいうだろうが、短期決戦は違う。ましてやWBCの決勝トーナメントとなると、負ければ終わりというシビアな戦いだ。そんなことはド素人でも百も承知のことなのに、なぜ国際舞台での短期決戦はおろか、監督経験すら皆無の人物を敢えて抜擢したのか理解に苦しむのである。

2026/03/17

五代十国時代(6)

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五代から宋へ

 唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。

 

 華北、黄河流域には、開封を首都として5つの王朝が交代します。これを五代という。

 後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。

 

 それ以外の地域に、合計10ほどの独立政権が成立。

 

 この時代のほとんどの政権が、節度使の自立したものです。各政権の皇帝や王は、みな軍人出身です。戦乱の絶えない時代です。均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。その過渡期の混乱。

 

 新しい時代の担い手は新興地主層です。これを形勢戸(けいせいこ)という。後漢以来の豪族と何が違うかというと、豪族は南北朝から隋唐までずっとつづいて貴族階級になっていきますが、形勢戸は同じ家がずっと地主としてつづきません。自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。だから形勢戸は貴族階級にはなっていきません。形勢戸という言葉には「成り上がり」という意味があるのです。

 

 また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは、一つの地域を丸ごと持っていることをいう。豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属していきます。そして、豪族は貴族化していったのです。

 

 しかし、形勢戸はたくさんの土地を持っているのですが、あちこちに分散している。全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さい。小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りている。だから、一人の形勢戸に隷属するような関係にはなりにくい。したがって、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。

 

 黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場しないのです。すべて人民は、同じ身分。

 

 日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。中国では10世紀には、すでに貴族が消滅している。こういう面で、中国はものすごく進んでいる社会です。

 

 五代最後の後周が宋に替わるのが960年。

 宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(位960~976)。都は開封です。

 

 宋が成立したときには、すでに統一に向けた機運は生まれつつあった。

 

 宋の前の後周の時代に世宗(せいそう)という皇帝がいました。この人は非常に有能で南北に領土を拡げていて、やがては戦乱を終わらせてくれるだろうと期待されていた。ところが三十代の若さで病死します。代わって即位したのが幼い息子。

 

 みんなガックリする。また、混乱がつづくのか、というわけだね。唐末以来の長い混乱で情勢は煮詰まっている。平和な世の中をみんなが望んでいる。幼い皇帝では、こういう期待に応えられない。軍人たちも無能な皇帝に仕えていてろくな事はないですから、幼い皇帝を喜ばない。

 

 趙匡胤は後周の軍人だった。節度使の経験もありますが、新皇帝のもとで親衛隊長をしていた。北部国境に敵の侵入があったという報告で、趙匡胤は親衛隊をひきいて出陣した。

都の北方で宿営していたらかれのもとに、部下の将校たちが押しかけてきて迫った。

「幼い現皇帝では混乱が起きる。あなたが皇帝になってください。」

 

 趙匡胤は親衛隊長として反乱なんてできないと断るのですが、部下たちは強引で断りつづけたら自分は殺されるかもしれない。そういう雰囲気だった。そこで、やむなく皇帝になると約束しました。部下たちは喜んで黄色の服を持ってきて趙匡胤に着せた。黄色は皇帝の象徴なのです。

 

 そんなわけで、趙匡胤はいやいやながら皇帝にされ、親衛隊をひきいて都に戻り、幼い後周の皇帝から位を奪いました。こうして宋は建国された。

 

 これは、宋の成立したあとに作られた記録だから、本当に趙匡胤がいやいや皇帝になったかどうかはわからないんですが。はじめから、そういう段取りを部下たちとつけていたのかもしれない。しかし、それにしてもそういう芝居なら人民が納得する状況だったのです。

 

 これはおまけの話ですが、宋は後周の皇帝一族を殺さずに丁重に保護していく。宋の時代に後周皇帝家は、ずっとつづいている。「水滸伝」には豪傑の一人として、後周皇帝の末裔が出てくるんですよ。

 

 後周以外にも、宋が全国統一するときにすすんで降伏してきた十国の君主たちも、同じように丁重な扱いを受けます。

 戦乱を終わらせる、余分な血を流さないという民衆の願いを、宋の支配者は自覚しているようですね。

 

宋の基本政策

 趙匡胤は、宋の太祖ともいいます。かれの時に、ほぼ中国を統一しますが、完全に統一したのは二代目皇帝の時です(979)。二代目は趙匡胤の弟、趙匤義(ちょうぎょうぎ)(位976~997)です。こちらは、宋の太宗と呼ばれるほうが多い。

 

 この兄弟が宋の基礎を固めた。

 

 宋の政治方針は漢字四文字で覚える。「文治主義」です。

 

 「文」の反対語は何かわかりますか。この場合は「武」です。文治というのは武力ではなく「文の力」で治めることです。

 

 具体的には、節度使の権限をどんどん削っていく。地方の軍も弱体化させる。兵士を急に減らすと、失業兵士が賊になってしまうかもしれませんから、急には減らさない。そのかわり新しい兵士を採用しない。兵士はどんどん年をとってお爺さんになるわけだ。これでは戦力としては役に立たないのですが、政府はかれらに地方都市の城壁の修理とか、橋や堤防工事などをさせる。こんなふうに地方軍を骨抜きにしていきます。

 

 かわりに皇帝直属の軍、「禁軍」というのですが、これを強化します。

 

 軍人の力を削って、かわりに文人官僚による行政機構を整備します。多くの文人官僚を採用するために科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験がおこなわれた。

 

 「選挙」という名で隋の時代からはじまって、唐の則天武后時代に充実されていたのですが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からです。

 なぜかわかりますね。この時代に貴族階級がいなくなっているからです。すべての官僚が科挙によって選ばれるのですから。

2026/03/13

日蓮(11)

https://dic.pixiv.net/

日蓮にとって、宗教は個人やあるグループが信じてればいい、というものではなく、あらゆる人が真の宗教を信じるべき物であり、それは国の統治者も例外ではない。

 

彼は鎌倉幕府の要人に反仏教と看做す諸宗派を排し、真の仏教と信じる法華宗を受け入れるよう上告までする。これが『立正安国論』である。

 

それにおいて、蒙古(モンゴル帝国)が日本に攻めて来たのも邪宗を野放しにした結果であるとしたが、伊豆へ流罪された。

 

その後も念仏信徒等に命を狙われつつも活動を続けるが、とうとう死罪が言い渡される。

 

首を刎ねられるはずだったが、その時強烈な光が現れ下手人や立会人は目が眩み、処刑は中止されたという。この事柄は刑場の場をとって「竜の口の法難」と呼ばれている。

 

市中引き回しの際には、源氏の武人たちの前で「(彼らの信仰対象であり、仏教の守護神ともされていた)八幡神はまことの神か」と社に向けて呼ばわる等、世間の人々を驚かせる行動にも出る。

 

処刑のやり直しはされなかったが、佐渡へ流罪され迫害は続いた。いつまでたっても鎌倉幕府が日蓮を登用せず、真言宗や天台宗ばかり重用するため、その後現在の山梨県身延へと移住し、そこで教団を運営、彼は他殺ではなく病死によってその生涯を閉じた。享年60

 

死後

日蓮は亡くなる前に、弟子の中から六人(六老僧)を選び後継者としていたが、六老僧のひとり日興が離脱し分裂した。その弟子たちの後継者たちは「門流」と呼ばれる諸流派と、そこから枝分かれした教団を形作った。

 

さらに後世、それらの諸門流、宗派グループとしての合流の道を選んだり、単立の教団としての道を選ぶことになる。

 

今日、日蓮宗といえば、だいたいは身延山久遠寺系の派閥を指す。しかし日蓮系で最も有名なあの創価学会は日蓮宗の系譜ではない(ややこしい)。これは、六老僧の一人「日興」が興した「富士大石寺」の門派、現在の日蓮正宗から生まれた教団なのである。

 

よって日蓮宗と創価学会は、むしろ仲が悪かったりする。さらに日蓮正宗と創価学会も破門以降、めちゃくちゃ仲が悪い。宗祖日蓮からして他の宗派を認めない人だったため、仕方ないといえば仕方ない。

 

一方、日興門下かつ、日蓮宗に合流している教団もある。両者とも別な日蓮本宗、法華宗興門流として活動する派もある。

 

日興以外での弟子に連なる門派の多くは後世に日蓮宗となっているが、現在もそちらに合流しない教団(法華宗本門流、本門法華宗、法華宗真門流、法華宗陣門流、顕本法華宗、不受不施日蓮講門宗)も存在する。

 

日蓮を祖とする諸教団において、根本的な仏「本仏」は釈迦如来とするが、日興に連なる「富士門流」の中には「本仏」を日蓮とする教団があり、後に日蓮正宗として合流している。

 

両者の立場の違いが生じるのは、聖典である御書(日蓮の著作)や弟子の著作や口伝として残るテキストのうち、どれを正典とするか両宗派で違っているためである。というのは、自派閥の正当化をするために、日蓮御書の偽書が量産された歴史があるためである。

 

例えば日蓮宗では、日蓮正宗が根拠とするテキストを正典としないし、その逆も然り。

そのため日蓮宗と日蓮正宗などをごちゃまぜにするのは、当人たちにとってはかなり不快がられる事である。

 

他宗を虚偽と断じ、蒙古襲来という国難から流星まで謗法の報いと唱える日蓮は、非宗教的な現代的観点からするとエキセントリックそのものである。学習研究社が1982年に刊行した『学研まんが 日本の歴史 (6) 元寇のあらし 鎌倉時代・後期』での、路上の人々に向けて

「日本がほろぶ。日本がほろびますぞ!!」

「わたしの予言が当たった!今に元の大軍が攻めてきますぞ」

と赤い吹き出しで叫ぶコマは、ふたばちゃんねるで取り上げられネタにされた。

 

このページでは

「真言、浄土、禅宗の宗派をことごとくつぶしてくだされーっ!」

とも言っている。

 

たしかに『立正安国論』において謗法を禁じる事を求めているが、斬刑に処すべきというのかという問いは否定し、他宗を禁じる具体的な手段としては布施を止める事のみを語っている。もっとも、この書を送った相手のような権力者に、パトロンの座を退かれる事が大打撃になる事には違いないのだが。

 

苛烈な日蓮には謎の引力があるようであり、その側面は近年の学習漫画でも取り上げられている。2015年の『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 5 鎌倉時代』では

「このっ あほうがっ!!念仏なんぞを唱えておったら 無間地獄へ落ちるぞ!!」

「法華経だけが正しく、他の経は全て間違っておる」(正確には「劣っている」という立場)とシャウトしている。

 

特に戦前の日蓮主義の時代にかけて「革命家日蓮」として描かれてきた日蓮だが、日蓮主義がいろいろやらかしてしまったため、戦後の日蓮宗側および新宗教では「法華経を唱える親鸞」のようなマイルドな描かれ方をされる傾向にある(破門後の創価学会も同様)。

 

児童向けの偉人伝では、比較的かなり柔らかめにわかりやすく日蓮の信念を解説する事があり、「日蓮は、この世で人は救われなければ意味がないと行動した」などと解説される事がある。

 

法然や空海、禅批判を避けるため犠牲になるのが日蓮生涯のライバル(?)極楽寺良観で、彼の真言律宗は小派閥に過ぎないため大悪人として描かれるのが定番である。