2026/05/30

一休宗純(4)

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多くの文人や商人に慕われた破戒僧

生まれは応永元年(明徳5年・1394)、幼名は千菊丸。後小松天皇の落胤と伝えられるが、一休は生涯、自分の出生については何も語らず自慢もしていない。

 

6歳で出家、17歳のとき、貧困の中でも本物の禅を説いた謙翁宗為(けんおうそうい)に弟子入りし、宗純と名乗った。

 

20歳の時、一休は謙翁から

「自分の得たものはすべてお前に注ぎ尽くした、しかし自分は師の無因宗因(むいんそういん)から印可状を与えられていないので、お前に印可状を与えることはできない」

といわれた。その謙翁は一休が21歳のとき亡くなり、一休は悲しみのあまり瀬田川に入水自殺をしようとする。しかし、身辺を案じる母からの使いに思いを止められる。

 

22歳になって師を亡くした傷心からようやく立ち直り、近江堅田の華叟宗曇(かそうそうどん)を新たな師と仰ぐ。

 

27歳、琵琶湖畔で座禅していたとき、暁に鴉(からす)の一声を聞いて天地が一体となる感覚を得、悟りを開く。華叟は一休が35歳のとき病没するが、その後も一休はあらゆる階層の人々に仏教の教えを説くために、一か所にとどまらず、一蓑一笠(いっさいいちりゅう)の姿で近畿一円を説法して回った。

 

74歳、応仁・文明の乱がおこり、都は荒れはてる。一休は難を避け、現在の京都府京田辺市薪里ノ内にある酬恩庵(しゅうおんあん)を本拠地とし、大和、和泉の各地を巡る。

 

77歳、住吉大社で盲目の美女「森女(しんじょ)」に出会う。

 

78歳、住吉にて森女と再会し同棲をはじめる。禅僧は清僧というイメージを根底から崩した型破りで、しかも人間味のある人物だったようだ。

 

81歳のとき、後土御門天皇から大徳寺(京都)の住持に任ぜられ、やむをえず就任するが、入寺したその日のうちに退去した。文明13年(1481)、マラリアにかかり亡くなる。臨終のことばは「死にとうない」であった。享年88歳。

 

フィールドノート

トンチの一休さん

「あわてない、あわてない。一休み、一休み」のセリフが心地よいリズムと共に耳の底に残っているあのテレビアニメ。この名セリフは

「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

という一休自身が残した言葉から来ているという。人の一生は有漏路(煩悩の世)から無漏路(悟り)に向かうのだから、慌てるなということなのか。死は必ずやってくる、慌てなくともいつかは死ぬ。その前に、一休みせよということか。

 

さて、一休がまだ小坊主だったころ、和尚さんのお供をしてある屋敷に招かれた。ところが、屋敷の前の堀川に橋があり、橋の手前に「このはしわたるな」と書いた立札があった。和尚さんは、橋を渡ることができずに困っていると、一休さんは平気な顔で橋をスタスタと渡ってお屋敷に入って行ったという。はて!、どうして橋を渡ることができたか。一休さん曰く「はし(端)を渡ってはいけないのなら、『真ん中』を渡ればいい」。トンチの一休さんの有名な話の一つである。

 

このように、「一休さん」といえば、トンチで大人を負かす小賢しい小坊主のイメージが定着しているが、実際には詩文に長じ、書画も巧みで、一方酒を呑み、遊里に出入りし、女性を愛した。が、はて、さて、取材を通してみえてくる一休さんはどのような人だったのか。

 

秘密の隠れ家「尸陀寺(しだじ)」跡

嘉吉2年(1442)、一休49歳。初めて譲羽(ゆずりは)山の出灰(いずりは)(現在の高槻市)に入り、民家を借りて住む。後に尸陀寺を創立。寺跡は高槻市出灰の譲羽山の麓にある。ここで一休は、「入山したときは、夜ともなれば、身の毛もよだつ思いのするところであった」と書き残している。深山幽谷ともいえる出灰での生活は窮乏を極めたと思われるが、水上勉の『一休』によれば、ここはかつて宮中の所領で、山の民は宮中護衛をつとめ、御所の白壁にこの地で産出した石灰岩を使用したとある。一休も、このことを承知していたようだ。だからこそ、このような山奥に庵を結んだのだろう。里人も一休が後小松天皇の子であることを承知していて快く受け入れ、なにくれとなく身の回りの世話をしていたのではないか、とも記している。

 

54歳〔文安4年(1447)〕のとき、大徳寺の僧が獄に繋がれるという事件があり、一門の者は深刻に悩んだ。一休も心労がつのり、再び尸陀寺にこもって餓死しようとした。このことが後花園天皇の耳に入り、勅書をもって

「和尚が餓死するなら、仏王と王法ともに滅することになる。この私を見捨てて国を見放すのか」

と制止。一休は、その勅命に従って帰京した。後花園天皇の即位は、後小松天皇が一休のアドバイスを得て決まったといういきさつがあるだけに、天皇も一休の動静を気にかけていたと思われる。

 

戦火を嫌い都を離れ酬恩庵へ移る

一休の後世に残る活動は、その晩年に集中している。当時は50歳にもなると隠居している頃だが、一休の人生は一波乱も二波乱も回り舞台のように激しく変転する。50歳で譲羽山を出てから77歳までは動乱の中を歩む。

 

応仁・文明の乱で京の町は戦火で焼き払らわれ、大徳寺も多くの堂宇を失う。都は荒れに荒れ、人々は塗炭の苦しみを味わう。一休(1467年・74歳)も難を逃れ、都から南にある薪村の酬恩庵に逃げ込んだ。

 

そこは「薪の一休寺」ともよばれ、晩年をここで過ごし、ここで亡くなった。薪の名は、平安時代、石清水八幡宮に庭燎(にわび)(篝火)のための薪を供給する場であったことから付いた。

 

村人は一休が来たことを大喜びし、諸国から一休を慕う人が薪村にきた。都は皇族、貴族、幕府の混乱で人々の生活は困窮を極めるが、そんな中で新しい文化が起っていた。茶の湯である。一休を慕って、連歌師の飯尾宗祇、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)、俳諧の山崎宗鑑、茶の湯の村田珠光、観世の音阿弥、金春の禅竹、絵の曾我蛇足、兵部墨渓が集まり、薪村はあたかも「文化サロン」の体をなした。音阿弥も禅竹も一休を慕って、しばしば薪の酬恩庵をたずねている。酬恩庵の門前に「金春の芝」といわれる場所があるが、禅竹が一休ひとりのために能を演じたといわれる場所である。

 

文明元年(1469)になると、薪村にも兵火が及ぶようになったので難を避け、大和・和泉の諸地を巡った後、住吉に足を向けた。

2026/05/25

契丹(4)

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概要

建国

契丹は、モンゴル高原に居住していた遊牧民族。モンゴル系とされる民族で、自らはキタイと名乗っていたようで、契丹とはその漢字音写である。出自については諸説あるが、鮮卑もしくはその源流である東胡から派生した民族。4世紀の北魏から契丹の名は史書に出るが、大きな勢力となったのは唐代で、東の渤海と競いながらモンゴル高原に支配領域を広めていった。

 

契丹族は8つの部族に分かれていたが、907年に『遼河』の上流域にいた迭剌(てつら)部族の耶律阿保機(太祖)が勢力を蓄えて8部族を統一し、916年に天皇帝と称し年号を神冊と改めて大契丹王朝を築いたことから始まる。タタール、ウイグル等の四方の民族を攻め、ついには926年渤海を滅ぼした。次代の耶律徳光(太宗)が936年に五代の後晋から燕雲十六州の領土割譲を受け、続いて946年に後晋を滅ぼして華北に領土を広げ、中国風に遼と国号を改めた(ただし、以後も何度か改名したりしている〈後述〉)

 

澶淵の盟

太宗の華北統治は反乱が続いて挫折し、遼には内紛が続いて、その間に華北では宋王朝が成立して五代の混乱を収めた。

 

6代聖宗は宋の北征を破った上で、1004年に宋へ大規模な遠征軍を送って、遼を弟・宋を兄とする形式で和議(澶淵の盟)を結ぶ。遼は講和条件として毎年多額の銀と絹を受け取り、さらに絹や茶、香薬の交易をおこなって国力を付けた。聖宗、興宗、道宗の3100年間に渡り、平和が続いて遼は全盛期となった。

 

契丹人らの遊牧民族は部族制を取って北枢密院に支配させ、農耕民族の漢族は郡県制を用いて南枢密院に支配させる。独自の文字として契丹文字が作られ、工芸では遼三彩という陶器が今に伝わる。遼朝の歴史的な特徴は、遊牧民族としての文化を維持しながら燕雲の中国人をも支配したという二重構造にあり、後に金や元などの征服王朝のモデルとなった。

 

滅亡へ

しかし、遼の属国として苛斂誅求を受けていた女真は1115年に金朝を建国、遼に対して謀反を起こしたことから運命が暗転する。遼は大敗し、宋と金に挟撃された遼は1125年に滅亡した。1122年には燕京(北京)で北遼、1213年に耶律留哥が吉林で東遼を起こすなど、耶律氏の政権が各地に勃興したが昔日の勢いはなく、内部闘争や簒奪で短命に終わった。

 

西遼

遼の滅亡に際して、金の包囲から脱出した王族の耶律大石が、1132年にトルキスタンにてカラ=ハン朝を滅ぼし、西遼を建国した。都はベラサグン。さらに1141年にはセルジューク朝を破り、サマルカンドやブハラなどのオアシス都市に領土を広げた。しかし1209年にホラズムに敗れ、1211年にモンゴル軍が迫る混乱の中で滅亡した。この時代に東アジアの王朝がイスラム化した中央アジアを支配したことは注目できるが、大きな文化的影響を与えるには短命に過ぎたようだ。しかしセルジューク朝を破った戦勝は西欧にまで伝わり、イスラムを打ち破る伝説の王「プレスター・ジョン」伝説の一部を成すことになったともいう。

 

歴代皇帝

(契丹)

    太祖(907-926):耶律阿保機。初代皇帝で契丹の族長。

    述律皇后(926-927):阿保機の正室で権勢をふるった。

    太宗(927-947)

    世宗(947-951)

    穆宗(951-969)

    景宗(969-982)

    聖宗(982-1031)

    興宗(1031-1055)

    道宗(1055-1101)

    紹宗(1101-1125) :天祚帝。金朝に降参した。

 

北遼

    宣宗:(1122):耶律淳。金朝に敗れ、北方に逃れて対抗した。

    秦王:(1122-1123)

    順文帝:(1123)

    英宗:(1123)

 

西遼(カラ=キタイ)

    徳宗:(1132-1143):耶律大石。トルキスタンに亡命政権を築いた。

    感天蕭太后:(1143-1150):大石の后で幼い息子仁宗の代わりに政務をとった。

    仁宗:(1150-1163)

    承天太后:(1163-1177):甥の末主の代わりに政務をとった。

    末主:(1177-1211): 耶律直魯古。モンゴルからの亡命者クチュルクに滅ぼされた。

    屈出律:(1211-1218):クチュルクと言い、モンゴル系で末主の娘婿。行為簒奪を起こしたがチンギス・ハーンの部下に殺され、崩御した。


(契丹)出身のその他人物

    耶律阿海:金の家臣時代にチンギス・ハーンに出会って意気投合、寝返って金や西域の征伐に貢献した。

    耶律楚材:金朝の文官。モンゴルの捕虜になった際に「君の敵をワシが討ったのだぞ」とチンギスに言われた時、「金は主君なので恨んではいません」と言い返し、お気に入りになる。その後も占い師や軍師としてモンゴルの幹部になった。陳舜臣の小説『耶律楚材』ではモンゴルの軍師的扱いだが、本来はそこまで地位が高くない。

    耶律休哥:北方謙三の『楊家将』に登場する人物。

    耶律輝:『水滸伝』の悪役で架空の皇帝。有利な状況下で宋を攻めるが、梁山泊が朝廷に加担したので形勢逆転。奪った領土の返還と朝貢(史実とは逆)を約束し、これまでの悪事を許してもらうことになった。

 

国号について

前述の通り、契丹は遼に改めたが、以降も「遼」と「契丹」の国号はどちらも使っていた。度々、改名したり戻したりを繰り返していた。

2026/05/24

一休宗純(3)

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概要

京都の生まれ。

 

後小松天皇の落胤で、母が南朝の関係者であったため「天皇の命を狙っている」と讒訴され、一休を妊娠中に宮中から追放されたと伝えられる。

 

実際、同時期の記録複数に散見されるほか、一休自身も出自を暗示するような漢詩や和歌を作っており、後花園天皇の即位に際して助言を行ったという説もある。

 

ちなみに「一休」は道号で「宗純」は戒名である。

 

この項目では、彼を「一休」で表記して解説する。

 

幼名は「千菊丸」と伝承されており、6歳で安国寺の童子となり戒名を「周建」と名付けられ、禅(臨済宗)の修行に励んだ。臨済宗は室町幕府と関係が深く、旧南朝関係者が出家する際には監視を兼ねて臨済宗の寺院に入れられる事が多かったため、この事も一休が落胤である傍証になると考えられている。

 

謙翁宗為への入門(戒名を「宗純」としたのはこの時)と、謙翁との死別(一休はこの時、絶望のあまり琵琶湖に身を投げるという自殺未遂を起こして、母が遣わした者に止められている)を経て、江州堅田・祥瑞庵の華叟宗曇和尚を訪ねて教えを乞うたが断られた。

 

一休は葦の茂る川辺の小舟で座禅を組み、夜を明かす。

 

やがて弟子入りを認められた一休は、或る晩、カラスが鳴くのを聞いて大悟したという。

 

師の華叟宗曇は「こんなことで、本当に悟りを開いたのか?」と試しに聞いたのに対し、「悟っていないのなら、悟っていないでいい」と答え、華叟宗曇はその答えに満足し、一休の悟りを認めたと伝えられている。

 

と、こうして一人前の禅僧となった一休だが、当時の臨済宗寺院は先に述べたように室町幕府との関係が強かったため、権力争いや師匠の系統間の抗争も激しかった。一休と縁の深い大徳寺は、妙心寺などと並ぶ「林下」として幕府の庇護も統制も受けなかったが、禅宗の寺院は他の宗派とは違い、師匠の系統を問わずに住職となる事ができる事もあり、系統ごとに派閥ができて争いを繰り広げていた。

 

このような禅宗の俗化に反発し、堺など各地を行脚して武士・町人と自由に交際、禅の普及に努めた。厳格な修行を行い、自身が貰った印可(修行の証明書)すら焼き捨ててしまうほどであった一休は、木刀を腰に差して歩き回り「今の禅僧は、こんな木刀みたいな連中ばかりだ」と非難したり、大徳寺を継いだ兄弟子を激しく罵ったり、「浄土宗に改宗した」と言い出したりと、時勢に対して強い非難を加えている。

 

このような様々な奇行を通して禅のありかたを主張していた一休は、天皇、皇族から民衆までに広く受け入れられた。

 

晩年、81歳で大徳寺の住持となり、大徳寺に住む事はなかったが再興に力を尽くした。この頃には森女という愛人がいて、その女性は盲目ながらも美人であった。一休とは40歳以上も歳が離れていたが、一休はこの女性を愛し、遷化するまで同棲を続けたという。

 

88歳で遷化する際も「死にとうない」と言葉を残したという。

 

酬恩庵(京都府京田辺市)に墓所があるが「後小松天皇皇子 宗純王墓」と記されており、皇族の陵墓として宮内庁が管理している。

 

幼時の奇才を伝える「一休頓智咄」も有名。実際に幼時にそのような事があったかはともかく、成人後の数々の奇行はよく知られている(ただし禅僧の奇行はありふれており、その中ではまだ大人しい方と言えるかもしれない)。

 

偈頌(禅宗の詩)集に『狂雲集』がある。

 

また、同時期に活躍した本願寺の蓮如とは、大変に仲が良かった。

ある春の一日、一休が蓮如を訪ねると、おり悪しく不在だった。一休は勝手に上がりこみ、待っている間、本堂に入って手ごろの仏像を一つ持ち出し、これを枕にして昼寝してしまった。やがて蓮如が帰って来て、「こらこら、私の商売道具に何をする」と言い、二人で腹をかかえて大笑いしたという。

 

一休は遷化する時、蓮如に頼んで、浄土念仏による引導を渡してもらいたいと遺言したとも伝わっている。

2026/05/21

契丹(3)

文化・習俗

婚姻

元来の契丹人は厳格な氏族外婚制を行い、同氏族内(耶律姓-世里氏族・遙輦氏族・大賀氏族ほか、蕭姓-抜里氏族・乙失革氏族・述律氏族ほか)の婚姻は行われなかったが、遼建国以前の契丹は大部分が両姓で占められたため両姓による通婚制とも言え、胞族外婚制と呼ばれる。

 

経済

史書では契丹は靺鞨と同じ風俗とされ、狩猟・略奪を好み、また、貂やその他の毛皮や名馬を交易したと記す。

 

5世紀後半の記録では人口十数万・雑畜数十万頭、6世紀末の記録にも同じく人口十数万・雑畜数十万頭という記述が見られるが、出土物から6世紀後半以降の農業民と手工業民の分化が認められる。また新唐書には、7世紀末に起きた契丹の大規模な略奪が書かれており、8世紀中葉から遼建国前後までは奴隷制の時代と考えられている。

 

契丹人にとって漁業は重要で、遼代に至っても漁業は大きな役割を占めていたとされる。

 

言語

史書によれば、契丹、室韋、庫莫奚、豆莫婁は同じ言語であると記されている。

12世紀、中国宋代の『夷堅志』(1198年頃)は

「契丹の小児ははじめ漢文を読むのに、まず俗語でその文句を顚倒して習っている。たとえば漢文で『鳥宿池中樹。僧敲月下門』という詩の句を読むとき、『月明裏和尚門下打。水底裏樹上老鴉坐』とするのである」と伝えており、契丹語の構成法はアルタイ系のSOV型であると推測することができる。

 

19世紀、契丹語史料の研究が進むと、ドイツのユリウス・ハインリヒ・クラプロートは満州語に似ているとし(1823年)、ショットもツングース系に属すと推定した(1880年)。これに対し、日本の白鳥庫吉は中国史書から契丹語を抽出し、これを当時の北アジア諸民族の言語と比較した結果、ある単語はモンゴル語、またある単語はツングース語で解きえるとし、契丹語はモンゴル語とツングース語の混成であると推論、現代でいえばソロン人かダフール人かのどちらかに該当するとした。

 

さらにソロン人とダフール人の使用する数詞と、中国の史書の中から抽出した契丹語の数詞「一、五、百」の三語を対照させて、それがダフール語に最も近似しているとした(1912年)。またロシアのニコラス・ポッペの研究によって、ダフール語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言であることが明らかにされた(1934年)。よって、契丹語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言に最も近い言語と考えてよい。

 

文字

契丹は中国文化や回鶻文化の影響を受け、契丹語を表記するための契丹文字を創出した。漢字をもとにした契丹大字と、ウイグル文字をもとにした契丹小字の2種類が存在する。920年(神冊5年)に遼の耶律阿保機が公布し、1191年(明昌2年)に金が契丹文字使用禁止令を出すまで使用された。

 

葬儀

史書では、子や孫が死ねばその親は泣いて悲しむが、父母が亡くなった際、泣き悲しむ者は「不壮者」とされ軽蔑される。遺体は馬車に乗せて山中に入り、樹の上に3年間置いて白骨化させた後、その遺骨を火葬する。墓はつくらず、これは室韋や豆莫婁と似ている、と記す。墳墓群も発見されており、多くは火葬された遺骨や遺灰が武具や陶器などと共に土坑へ埋葬されているが、高麗や扶余の影響を受け竪穴や石棺に埋葬されている場合もある。

 

宗教

遼代に仏教・道教・儒教が流入する以前は、上記の木吐山と魂を司る黒山に神が宿るとして、木吐山神・黒山神・天・地・日を祀り信仰していた。

 

政治体制

契丹には君長がおり、契丹を構成する8部族の部族長を束ねる。議会を開き独断をしない。代々大賀氏が君長を務めていたが、大賀氏が衰退したため協議の末に耶律氏が君長に選ばれる。など、アテナイやローマ等の古代社会に見られる軍事民主主義が布かれていた。

 

各部族長は基本的に「大人(たいじん)」と称すが、突厥に臣従していたころは「俟斤(イルキン)」と称し、唐に臣従していたころは「刺史(しし)」となった。

 

各言語での「契丹」

英語で中国の旧名であるCathay、ロシア語で中国を意味するКитай(Kitay)、モンゴル語で中国あるいは漢民族を示すХятад(Hyatad)などは契丹に由来する。

 

1113世紀におけるモンゴル高原のモンゴル人にとって、「中国」とは漢民族の宋ではなく契丹の遼であった。そのため、モンゴル語では「中国」のことを「契丹」で呼ぶようになった。

 

モンゴル帝国の拡大に伴い、モンゴル人が中央アジアや西アジアに移住した結果として、同時代のアラビア語・ペルシア語文献には、契丹や広く北中国全域を指す場合「ハター(ウ)」ないし「ヒター(ウ)」 الخطاء al-Khaā'/al-Khiā' と呼ぶようになった。特に中央アジア・イランで編纂されたペルシア語の地理書・年代記などでは、(ソグド語の時代から)中国全般を指す「チーン(支那)」چين Chīn ないし「チーニスターン(震旦)」 چينستان Chīnisān という呼称が存在し、13世紀半ばまでは北中国を指す別の呼称として「タムガーヂュ(拓跋)」 طمغاج amghāj などの語も使われていた。

 

モンゴル帝国時代以降は「ハターイ(ー)」ないし「ヒターイ(ー)」ختاى Khatāī/Khittāī という表記が一般化し、これ以降、北中国方面を指す言葉として「ヒターイー(ハターイー)」が定着していったようである。

 

モンゴル帝国時代の中期モンゴル語では、単数形のキタン Qitan よりも複数形のキタド(キタト 乞塔惕) Qitad/Kitat で呼ぶ場合がより一般的に見られ、金朝についていう時も「キタド」という呼称が使われる。たとえば「金朝皇帝」という場合、『元朝秘史』では「キタドの民の金朝皇帝」(乞塔惕 亦舌児格訥 阿勒壇 罕 Kitat-irgen-ü Altan Qan)という表現があり、『集史』のペルシア語文でも、「ヒターイーの帝王であるアルタン・ハン」( پادشاه ختاى التان خان pādshāh-i Khitāī Altān khān)と同様の表現がされている。

 

東欧においては、チンギス・ハンの孫であり、かつ長男ジョチの後継者であるバトゥが東欧を征服(モンゴルのルーシ侵攻)し、ジョチ・ウルスを成立させた。そして、現在のロシアを中心とした地域にモンゴル人が支配者として移住したことにより、東スラヴ語はモンゴル語の影響を受けた。その結果として、ロシア語では「中国」をКитайと呼ぶようになった。

 

マルコ・ポーロなど、モンゴル帝国へ訪れたヨーロッパ人が北中国や中国全般を指すのに用いた Chatay, Catay, Katay は、モンゴル語が元朝の公用語であったことに由来する。

 

東方見聞録の述べるところでは、日本語でカタイという言葉はCathayという英語になった契丹を語源とするCataiのことで、東方見聞録の頃に西洋人が考えた中国北部を言う。これに対し中国南部はマンジ (Manji) と呼ばれる。

2026/05/20

一休宗純(2)

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一休宗純とは、室町時代の臨済宗の僧侶、大徳寺の元住職である。

 

概要

とんち話などで書籍やアニメで知られるが、これらは江戸時代の作り話である。

しかし、実際の一休は風狂の精神の下で、奇行をしつつ室町時代中期の政治や形骸化した仏教を風刺していた。

その中で様々なエピソードを生んでいた。

 

こうした形式にとらわれない行動と人間らしい生き方が庶民の評判を呼び、とんち話を生み出すきっかけになったともいえる。

しかし大徳寺派の高僧でもあったため、貴族や武家との交友もあり、寺の復興、再建も行っている。

 

一方でいくつもの詩集を出し、また書家(能筆)としていくつもの墨蹟が珍重されていた。

 

生涯

1394年京都生まれ。母は藤原氏の一族で、一説には後小松天皇の落胤だと言われる。幼名は千菊丸。

 

6歳の時に安国寺に入り受戒、周建という戒名をいただく。このときに漢詩の才能が開花し、いくつもの作品が評判を呼んだ。

 

1410年に安国寺を出て、西金寺の謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改める。しかし1414年に謙翁が亡くなってしまう。悲しみのあまり入水自殺を試みるが失敗に終わる。

 

1415年、大徳寺の出身で近江国堅田の祥瑞庵に住む華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、道号として一休の名をいただく。

 

1420年に大悟し、華叟は一休に印可状(悟りに達したことを証明する卒業証書のようなもの)を与えようとするが、一休は辞退し寺に入らず風狂の生活を長らく送ることとなる。印可状は華叟の弟子が持っていたが、持ち込んだ際に一休は火にくべてしまった。

 

1456年には、戦災で衰退していた(現在の京都府京田辺市にある)妙勝寺を復興し、酬恩庵(一休寺)と改め、ここを住まいとした。

 

1474年、後土御門天皇の勅命により、大徳寺の住持(住職)に任ぜられた。しかし寺に住むのは断り、酬恩庵から通っていた。大徳寺は応仁の乱で荒れ果てていたが、一休の努力によって復興していった。

 

1481年に病に倒れ、酬恩庵で亡くなる。享年88。死の間際に「死にとうない」と言ったとされる。

 

人物像

風狂の生活に入ると、見た目には髪やひげを剃らずに伸ばしたまま、袈裟もぼろぼろだった。また、当時の戒律で禁じられている肉食、飲酒、性行為(女性だけでなく男性も)も行っていた。実際、実の子もいたと言われている。

 

朱の鞘に木刀を差して歩いていた。

「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、体面を飾ることしかできない当時の世相を批判した。

正月には杖の頭に頭蓋骨をつけ、「ご用心、ご用心」と練り歩いた。

 

詩集においては、当時の足利義政や日野富子による悪政を風刺、糾弾する内容も含まれていた。

 

酬恩庵や大徳寺においては、一休の手で「一休寺納豆」「大徳寺納豆」が伝えられている。

これは現在の納豆とは異なり、大豆に麹と塩をまぶして発酵させ、乾燥の後熟成させたものである。中華料理に使われる豆豉(トウチ)と製法は同じで、これが日本に伝わったものといえる。