2026/04/10

ノルマンディー公国(1)

ノルマンディー公国(フランス語: Duché de Normandie)は、ノルマン人が9世紀にフランスに侵入し、その後、次第に地歩を固めて成立したノルマンディー公の公国である。

 

ノルマン人(ノースマン、ないしはラテン語のNormanni)は、デンマーク人、ノルウェー人、ノルマン・ゲール人、オークニーヴァイキングおよびデーンロウから来たアングロ・デーン人といった様々な民族からなる。

 

レーエン関係の設定は、おそらくは伯領として、911年にサン=クレール=シュール=エプト条約によりなされたものである。これは西フランク国王シャルル3世単純王の譲歩によるもので、ノルマン人の首長であるロロに対して与えられた。

 

領土の変遷

元来はネウストリア区の北部から成り立っていて、セーヌ川のルーアンに中心を置いていたが、後には征服活動を行うことでエヴルーとアランソンを含む南部やブルターニュ半島西部に拡大し、最終的には今日のフランス共和国のノルマンディー地域圏、および現在もイギリス王室属領に属すチャンネル諸島とほぼ重なるようになった。かつてのノルマンディー公領の主要な地域は皆フランスの一部となり、現在では公国を成すのはイギリスの君主の王室属領たるジャージーとガーンジーのチャンネル諸島領のみである。現在では、イギリスの君主がノルマンディー公の称号を用いている。

 

言語

ノルマンディーへの移住者は当初は古ノルド語を話したが、公国全体に定住すると現地の住民が話していたガロ・ロマンス語を採用した。ノルマンディーでは、人々の相互作用によって新たに形成されたノルマン語は、古ノルド語からの語彙を継承している。イングランドでは、ノルマン語はアングロ=ノルマン語に発展している。公国およびアングロ=ノルマン王領時代のイングランドの文学は、アングロ=ノルマン文学として知られている。

 

歴史

公国はヴァイキングが植民地化したルーアン伯領、コーおよびタロウ(ディエップ伯領)から形成された。912年にルーアンで首都が樹立され、後に公国の拡大とともに西方のカーンに首都が樹立された。

 

928年にはエヴルー伯領、イエモワ伯領およびベッサンが加わった。

 

931年から934年にかけて、ロロの息子であるギョーム1世長剣公はコタンタン半島とアヴランサンを編入した。チャンネル諸島は933年に編入されている。

 

950年から956年にかけての時折、ノルマンディーおよびその辺境地帯は、辺境伯の地位を獲得した。

 

リシャール2世は、最初にノルマンディー公の称号を用いた(公の称号は987年から1006年の間に設置された)。

 

1066年、ノルマンディー公ギョーム2世はヘイスティングズの戦いでイングランド国王ハロルド2世を撃破して、イングランド王についた。このノルマン・コンクエストは、当然のことながらノルマン化の始まりとなった。

 

ノルマン・コンクエスト後に、ノルマンディーの支配者がフランス国王の封臣として忠誠を誓う形でノルマンディーの地を支配する一方で、同時にイングランド王として対等の地位にあったことは、アングロ=ノルマンとフランスの関係を複雑なものにした。1150年代のアンジュー帝国の創立は、ノルマンディーがフランスの半分とイングランド全土を支配することで、フランスの力を小さく見せた。

 

アングロ=ノルマン王国の一部としての公国支配は、1204年のフランス国王フィリップ2世による征服まで続き、それ以降はフランス王領となった。イングランド王は 1259年のパリ条約まで要求し続けたが、現実のところはかつての公国の内、チャンネル諸島を保持したのみであった。

 

ノルマン朝の忠誠を僅かに確信しつつ、フランス王は新たな領域に行政官を据えて、王権の象徴としての強力なルーアン城という要塞を築いた。王領の内、ノルマンディーは幾つかの独自性を保持していた。ノルマン法は、裁判の判決として使用され続けた。

 

1315年にノルマンディーにおける自由への止むことのないフランス王権の浸食に直面すると、伯爵や町民は国王にノルマン憲章を押し付けた。この文書は地方の自治権を有していないが、王の行動への抗議であることには議論の余地はない。ノルマンディーの宮廷の主要部である財源の評決は、最終的に宣言された。これはパリがルーアンの評決をひっくり返すことが出来ないことを意味していた。

 

その他の重要な譲歩は、国王はノルマンディーの承諾を得ずに税を上げることが出来ないことである。しかしながら、憲章は王の権威が怯んだ時に叶えられたのであり、王権が回復されるや反故されるようになった。

 

ノルマンディー公国は、主に公が断続的に任じられることで生き延びた。実際のところフランス王は時々、王国の一部を自分に忠誠を誓っていない近縁の王家の者に与えていた。フィリップ6世は、自身の長子で後継者であるジャン2世をノルマンディー公に任じており、そのジャン2世は自身の後継者で「ドーファン」の称号で知られるシャルル5世をノルマンディー公に任じている。

 

1465年にルイ11世は貴族達によって、18歳の弟ベリー公シャルルに扶持として公国を譲渡することを強要された。この譲歩はルイ11世にとってはシャルルが、敵対勢力の傀儡になったことを意味する懸案であった。ノルマンディーは、このように王権に敵対する勢力の基盤になり得た。それゆえにルイ11世は、シャルルとノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)公領を交換することに同意した。最終的には、1469年に公内の徒党が固められて粉砕されたことから、ノルマンディーは最終的には譲渡されることがないことを意味した。これは大陸側の公国の決定的な終焉であった。

 

それにも係わらず、16601231日にジェームズ2世は、ルイ14世によって名誉的な「ノルマンディー公」に叙せられている。これはジェームズ2世の兄であるチャールズ2世が、イングランドとアイルランドの王位に返り咲いてから数か月後のことであり(チャールズ2世は、1651年にスコットランドで戴冠式を済ませていた)、恐らくはルイ14世によるジェームズ2世への支援による政治的ジェスチャーだと思われる。チャールズ2世も、また「ノルマンディー公」を請求していたからである。

 

ルイ16世の2番目の息子で、兄が死んだ1789年以前のルイ=シャルル王太子が最終的なノルマンディー公として知られているが、この称号は純粋な儀礼称号であった。

 

現在

ノルマンディー公国は、行政上ジャージー(ジャージー諸島とマンキエおよびエクレウの無人島から成る)とガーンジー(ガーンジー島、サーク島、オルダニー島, ブレッシュ島、ハーム島、ジェソー島およびリホウ島から成る)の二つの代官管轄区から成るチャンネル諸島として生き残っている。現在は英国王チャールズ3世がノルマンディー公の継承者として、これらの地域の領主とされており、「ノルマンディー公」と呼ばれることもある。チャネル諸島は連合王国の一部ではないが、王室属領の一部ではある。

2026/04/09

トマス・アクィナス(2)

思想

トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである。かつてはトマスは単なるアリストテレス主義者にすぎないという見方もあったが、最近の研究ではそのような見方は否定されている。

 

トマスはアヴィケンナやアヴェロエス、アビケブロン、マイモニデスなどの多くのアラブやユダヤの哲学者たちの著作を読んで研究し、その著作においても度々触れている。そこから、トマスは単なる折衷家にすぎないとの見方も根強いものがあったが、現在では、「存在」(エッセ)の形而上学がトマス的総合の核心であり、彼独自の思想である点に見解の一致があり、その存在をどのように解釈するかによって、様々な立場に分かれるとされている。

 

全体的にみれば、トマスはアウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念の、ほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。

 

トマスの思想は、その死後もトマス主義として脈々と受け継がれ、近代の自然法論や国際法理論や立憲君主制にも多大な影響を与えただけでなく、19世紀末におきた新トマス主義に基づく復興を経て、現代にも受け継がれている。

 

神学

トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけにアラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また同様に、商業がめざましい勢いで発展し都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。

 

トマスは、このような時代背景の下、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた。またトマスは、同様にアビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。トマスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとしたのであり、哲学は「神学の婢」(ancilla theologiae)であった。

 

アリストテレス自然哲学とキリスト教神学の調停

アリストテレス自然哲学による二元的宇宙像は、地上界の出来事には必然的に天上界が作用するという考え方の基本となった。この考え方には

「地上界のあらゆる出来事は、天上界の動きによって予め決まっている」

という運命決定論と、逆に天上界の運行がわかれば未来を予測できるという占星術が含まれていた。この「自然が自身の法則性にのっとって自律的に振る舞う」という古代ギリシャ自然哲学の世界観は、神による奇蹟を認めるキリスト教とは相容れなかった。

 

キリスト教会は、400年の第1トレド教会会議で占星術の排斥を決議し、さらに561年の第1プラガ教会会議でも占星術を公式に否定した。その後、ヨーロッパでは古代ギリシャ哲学の書物は、イスラム圏に流出したもの以外は教会の書庫の奥に眠ることとなり、その内容は次第に忘れ去られていった。

 

ところが12世紀ルネサンスの過程で、イスラム圏からの流入によって、ヨーロッパの知識人たちはアリストテレス自然哲学を知ることになる。そしてアリストテレスの自然哲学が大学で教育され西欧の知識階級に浸透してゆく過程で、二元的宇宙像とそれに基づく占星術は一般の人々を広く魅了して浸透していった。キリスト教は一方的な禁止や弾圧では、アリストテレス自然哲学を抑えきれなくなっていった。トマスは、その危機に直面したキリスト教神学を救った。

 

問題は

「アリストテレスの二元的宇宙像では、天上界が地上界のどこまで影響を及ぼすのか」

ということだった。

 

トマスは

「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」

と解釈して、キリスト教神学とアリストテレスの自然哲学を調停した。

 

彼の神学思想は、死後一時異端と判断されたが、1322年に復権してキリスト教世界で公式に認められ、14世紀中期に正統神学の地位を確立した。

 

一方で、トマスのおかげで、アリストテレスなどによる古代ギリシャ自然哲学は、公に研究できるようになった。これによるアリストテレス自然哲学などの研究は、17世紀のいわゆる「科学革命」へとつながっていった。

2026/04/04

ファーティマ朝(3)

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

 809年にハールーン・アッラシードが亡くなると、地方の統制がきかなくなり、エジプトやイランのアミール(地方の行政官)が独立し始めた。そして10世紀になると、イスラム世界には3人のカリフが並立するようになった。

 

    スペイン(後ウマイヤ朝):アッバース朝に追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世はスペインに渡り、756年に後ウマイヤ朝を建国した。王はカリフを名乗った。

 

    チュニジア(アグラブ朝):アッバース朝の将軍イブラーヒーム・イブン・アグラブがアグラブ朝をおこした。アグラブ朝はシチリア島へ侵攻した。ファーティマ朝に倒される。

 

    エジプト(ファーティマ朝):ファーティマ朝は、チュニジアにおこったシーア派の王朝で、909年にアグラブ朝を倒し、エジプトに進出した。この王朝はカリフを名乗った。1169年サラディンによって滅ぼされる。

 

    イラン(サーマン朝):874年、ブハラ(ウズベキスタン)にスンニ派のサーマン朝ができる。955年にアフガニスタンのガズナで自立したガズナ朝に滅ぼされる。         

 

    イラン(ブワイフ朝):シーア派がブワイフ朝(9321055)を建国。946年にバグダードを占領し、カリフから大アミールの称号を受ける。セルジューク朝に滅ぼされる。

 

https://timeway.vivian.jp/index.html

エジプトも、やがてアッバース朝から自立します。エジプトにできたイスラム王朝は三つ覚えればよい。ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝です。

 

1,ファーティマ朝(909~1171)首都カイロ

 ファーティマというのは、ムハンマドの娘の名前です。建国者がファーティマと第四代正統カリフ、アリーの血筋を引いていると自称しているので、こう呼ばれています。

 だからシーア派の王朝です。アッバース朝はスンナ派ですから、対抗上都合がいい。スンナ派のカリフなどは認めませんから、ファーティマ朝の君主はカリフという称号を名乗りました。

 

イスラムは一つという理念があったので、それまでもアッバース朝に対立する政権ができてもアミール(将軍)くらいの称号で満足していた。アッバース朝のカリフがいるのに、カリフを名乗るのはタブーだったんですが、それを平気で破ってしまった。

 日本でいえば、天皇家が二つできた南北朝のようなものです。

 

 しかし、一度タブーが破られてしまったらそのあとはあまり抵抗がないもので、ファーティマ朝の君主がカリフを称したすぐあとに、イベリア半島にあった後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世がカリフを自称しました。

 

 この時点で、イスラム世界に、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝と三人のカリフが出現したことになります。

2026/04/03

トマス・アクィナス(1)

トマス・アクィナス(羅: Thomas Aquinas1225年頃 - 127437日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。

 

カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino) とも表記される。

 

生涯

1225年ごろ、トマスは南イタリアの貴族の家に生まれた。母テオドラは神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家につらなる血筋であった。生まれたのはランドルフ伯であった父親の居城、ナポリ王国アクイーノ近郊のロッカセッカ城であると考えられている。伯父のシニバルドはモンテ・カッシーノ修道院の院長をしていたため、やがてトマスもそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待されていた。修道院にはいって高位聖職者となることは、貴族の子息たちにはありがちなキャリアであった。

 

こうして5歳にして修道院にあずけられたトマスはそこで学び、ナポリ大学を出ると両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は当時、フランシスコ会と共に中世初期の教会制度への挑戦ともいえる新機軸を打ち出した修道会であり、同時に新進気鋭の会として学会をリードする存在であった。家族はトマスがドミニコ会に入るのを喜ばず、強制的にサン・ジョバンニ城の家族の元に連れ帰り、一年以上そこで軟禁されて翻意を促された。初期の伝記によれば、家族は若い女性を送り込みトマスを誘惑させたが、トマスはそれを追い払った。

 

ついに家族も折れてドミニコ会に入会を許されるとトマスはケルンに学び、そこで生涯の師とあおいだアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスと共にパリ大学に赴き、3年同地ですごし、1248年に再び二人でケルンへ戻った。アルベルトゥスの思考法・学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、トマスがアリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。

 

トマスは非常に観念的な価値観を持つ人物であり、同時代の人と同じように聖なるものと悪なるものをはっきりと区別するものの見方をしていた。あるとき、自然科学に興味があったアルベルトゥスがトマスに自動機械なるものを示すと、トマスは悪魔的であるとしてこれを批判した。

 

1252年にドミニコ会から教授候補としての推薦を受けてパリに赴き、規定に則り講師として数年講義を行うことで学位(教授認可)を取得しようとしたが、当時パリ大学の教授会は托鉢修道会に対して敵対的であり、学位取得は長引いた。講師として教鞭を執りながら取得を待ったトマスは、1256年は学位を取得してパリ大学神学部教授となり、1257年には正式に教授会に迎え入れられた。1259年には、ヴァランシエンヌでおこなわれたドミニコ会総会に代表として出席した。

 

1259年にパリ大学を辞任したのちイタリアに戻り、1261年頃にはオルヴィエートのドミニコ会修道院で教鞭を執りつつ、教皇ウルバヌス4世の願いによって聖書註解や神学研究を行った。1265年にはドミニコ会の命により、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で神学大学を設立した。

 

1269年再びパリ大学神学部教授になり、シゲルスを中心とするラテンアヴェロエス派や、ジョン・ペッカムを中心とするアウグスティヌス派と論争を繰り広げる。同時代の人々の記録によるとトマスは非常に太った大柄な人物で、色黒であり頭ははげ気味であったという。しかし所作の端々に育ちのよさが伺われ、非常に親しみやすい人柄であったらしい。議論においても逆上したりすることなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったようだ。記憶力が卓抜で、いったん研究に没頭するとわれを忘れるほど集中していたという。そしてひとたび彼が話し始めると、その論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていた。

 

1272年のフィレンツェの教会会議において、トマスは、ローマ管区内の任意の場所に神学大学を設立するように求められ、温暖な故郷ナポリを選び、著作に専念して思想を集大成に努めるようになった。

 

1274年の初頭、教皇は第2リヨン公会議への出席を要請した。トマスは健康状態が優れなかったがこれを快諾し、ナポリからリヨンへ向かった。しかし道中で健康状態を害し、ドミニコ会修道院で最期を迎えたいと願ったが、かなわずソンニーノに近いフォッサノヴァ(現在はプリヴェルノ市の一部)のシトー会修道院で世を去った。127437日のことであった。

 

シトー会士たちは遺体をドミニコ会側に渡すまいと、棺を修道院内に隠す、頭を切り離す、骨だけにするために遺体を煮込むなどの暴挙をあえて行ったともいわれているが、教皇の命令により1369年になってようやく遺骨がドミニコ会に引き渡された。トマスの遺骨の納められた墓は、フランス・トゥールーズのジャコバン教会に存在する。

 

トマスは会う人すべてに強い印象を与えている。彼はパウロやアウグスティヌスと並び立つ人物といわれ、Doctor Angelicus(神の使いのような博士)と呼ばれた。1319年にトマスの列聖調査が始められ、1323718日、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世によって列聖が宣言され、聖人にあげられている。

 

1545年のトリエント公会議。議場に設けられた祭壇の上には二つの本だけが置かれていた。一つは聖書、そしてもう一つはトマス・アクィナスの『神学大全』であった。

2026/03/30

ファーティマ朝(2)

アズハル・モスク

エジプトの征服にあたり、ファーティマ朝はイフシード朝以来の支配層の財産を保証し、強圧的なイスマーイール派の押し付けを避けて、多数派であるスンナ派との融和をはかった。このため、ファーティマ朝は内部にこれまで以上のスンナ派勢力を抱えることになったが、978年にはムイッズの建設したアズハル・モスクにイスマーイール派の最高教育機関となるアズハル学院が開講され、カイロでイスマーイール派の教理を学んだ教宣員たちはファーティマ朝の版図に留まらず、イスラム世界の各地に散らばってイスマーイール派を布教した。現在、シリア、イラン、パキスタン、インド西部で信仰されているイスマーイール派は、こうしたファーティマ朝の積極的な布教により広がったものである。

 

しかし、10世紀末のシリアで土着のスンナ派勢力による反ファーティマ朝の動きが広がり、ファーティマ朝支配から独立した。一方、王朝発祥の地チュニジアでは、ファーティマ朝からマグリブ(西アラブ)・トリポリタニア(現リビア)方面の統治を委ねられていたズィール朝が事実上の独立を果たし、エジプト以西の領土が失われていた。さらに、第6代カリフのハーキムが1021年に謎の失踪を遂げて以降は実力のないカリフが続き、行政官庁の最高実力者である宰相(ワズィール)が実権を掌握した。

 

同じ11世紀にはシリア地方にセルジューク朝、ついで第1回十字軍が到来し、エルサレムをはじめとするシリア地方のほとんどがファーティマ朝の支配下から失われた。ヒジャーズの宗主権もセルジューク朝に奪われ、12世紀にはファーティマ朝はもはやほとんどエジプトのみを支配するに過ぎなくなった。

 

ファーティマ朝の滅亡

12世紀の後半に入ると、幼弱な者がカリフの地位に就くようになり、宰相の地位をめぐる軍人たちの争いが一切の抑えを失って、政治はますます混乱した。さらにファーティマ朝の衰退に乗じ、シリア地方で激しく争うイスラム勢力のザンギー朝と、エルサレム王国などの十字軍国家がエジプトへの侵攻、介入をはかるようになっていった。

 

1163年、ファーティマ朝の有力者同士の宰相位を巡る争いに際し、一方の要請を受けたザンギー朝のヌールッディーンは、部下のクルド人の将軍シールクーフをエジプトに派遣した。1164年、シールクーフはカイロに入ったが、エルサレム王アモーリー1世の介入によりシリアへと撤退を余儀なくされた。シールクーフとエルサレム王国は、その後もエジプトへの介入を繰り返し、1169年、最終的にシールクーフがエルサレム王国軍を追ってカイロに入城した。

 

1168年、カリフの援軍要請によりシールクーフはエジプトへ入り、カリフはスンナ派である彼を宰相に任じたが、シールクーフはそのわずか2ヵ月後の同年323日に急死し、かわって甥サラーフッディーンが宰相に就任した。サラーフッディーンは一切実権をもたないカリフになりかわってエジプトの政治を取り仕切り、外来のシリア軍に対して反乱を起こしたファーティマ朝の黒人奴隷兵軍団を撃破し、カリフ宮廷で勢力を振るっていた黒人宦官を殺害して政権を固めた。さらに、自身の親族やマムルークにイクターを授与してザンギー朝式の国制を導入し、イスマーイール派の法官(カーディー)を追放してスンナ派の法官にすげ替えるなど、体制の切り替えを進めた。

 

1171年、宮廷に篭りきりだった最後のカリフが20歳の若さで病死するのに前後して、サラーフッディーンはエジプトがアッバース朝カリフの宗主権を承認する宣言を行い、ファーティマ朝は終焉を迎えた。

 

ファーティマ朝の消滅にともない、かわってサラーフッディーンによるスンナ派王朝、アイユーブ朝がエジプトを支配し、やがてシリアへと勢力を広げてゆく。

 

国制

ファーティマ朝のきわだった特性は、カリフを絶対君主とするきわめて中央集権的な国家体制をもったことである。これは、預言者ムハンマドの従弟にして娘婿であったアリー以来、その子孫がイマームとして父から子に受け継がれる政治的・宗教的な指導力を引き継ぐとするシーア派の原理に裏打ちされていた。ファーティマ朝のカリフは、すなわちシーア派の一派であるイスマーイール派のイマームであるとされ、クルアーン(コーラン)などに示された神の意志の真なる意味を解釈する能力を認められる。この点で、原則としては政治的な指導者に過ぎなかったスンナ派のカリフと比べると、神権的な力に裏付けられた権力を正当化することができた。

 

国家機関は、アッバース朝と同様、イスラム時代の初期からイスラム王朝によって行われてきたものを踏襲し、ディーワーンと呼ばれる行政官庁によって徴税を行い、軍人に俸給(アター)を分配した。行政官庁の長が宰相(ワズィール)で、エジプト時代に地位を高め、次第にカリフに代わる実質上の最高権力者となっていった。エジプト時代の初期には、カリフ専制体制を背景に、宰相には宮廷との個人的なつながりによって登用された有能なユダヤ教やキリスト教からの改宗者が就任したが、11世紀後半以降は軍人出身の有力者が就任するようになる。

 

軍人は王朝の創建当初は、その成立事情を反映してベルベル人の軍団、将軍が力をもったが、後には黒人、ギリシャ人、スラヴ人、トルコ人などからなる傭兵あるいは奴隷身分の出身者(マムルークなど)により編制された。軍人たちはそれぞれの出自、身分別に編成された軍団に分かれ、有力者同士の宰相位を巡る争いによって相互に対立したことは、ファーティマ朝の混乱の大きな要因となった。