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住吉大社での一休
住吉大社に一休が長期滞在したのには、一休自身の南朝びいきがあったと思わせる。それに、住吉大社は明治の廃仏毀釈まで神仏融合で、神官(宮司)の津守氏は「住吉寺」の住職もかねており、「大徳寺」の住持にもなっていたとの説もある。
これらのことをふまえて、一休が住吉を訪れたときの話。
そのとき、一人の老僧も参籠していた。その老僧が一休に歌を詠むかと尋ねた。
そこで、一休は
「来てみればここも火宅の宿ならめ 何住よしと人のいふらん」(「住み良い」というから、私はわざわざ来てみたのですが、どうやらここも火宅(危険な場所/煩悩の苦界)のようだ。どうして人々は住吉(住よし/澄よし)などというのでしょうか)
と皮肉をこめて詠んだ。
それを聴いた老僧はうち笑いながら
「来てみればこちらも火宅の宿なれと 心ととめて住めばすみよし」(おっしゃる通りに、ここも火宅の宿にはちがいないのですが、あなたが自分の心をしかとお持ちながら住むのならば、きっと住みよくなり、その気持ちも澄みわたり安心を得るはずです)と返した。
この返歌に感じ入った一休は、これぞ住吉神の託宣と思い定め、この住吉に庵を結んだという。
森女との出会い
一休77歳〔文明2年(1470)11月〕のとき、住吉大社内にあった神宮寺の薬師堂で琵琶を弾く盲目の美女、森女に出会い心を引かれた。そして半年後に住吉を訪れたとき、森女に再会する。この頃には、一休は森女が南朝方の高貴な人の娘であることを知っていたのではないかという説もある。一方、森女も一休の素性を伝え聞き慕っていたともいわれている。
このほか森女に関しては、住吉大社は古来芸能が盛んで「住吉の森」といわれたことから、住吉大社に仕える巫女、あるいは神官(津守氏)の娘ではなかったかとの見方がある。
いずれにせよ、一休にとって森女はかけがえのない人となり、住吉の一隅で愛の巣を営む。その年の差は約40歳だったというから驚く。
住吉で大徳寺の再建を図る
ところが、一休81歳のとき、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となった。南朝の後醍醐天皇の後援を受けていた大徳寺は、南北朝の乱の終焉後は都では浮いた存在となっていた。なぜ、一休に大徳寺復興の大役が回ってきたのかの疑問が浮かぶが、それは一休が後小松天皇の落胤であり、母は南朝の公家の娘であったということから、お鉢が回ってきたのではないだろうかともいわれる。
しかし、住職になったが大徳寺に入寺したのはたった1日だけで、座の温まる間もなく大坂に向けて旅立ったという。
住吉大社の小出英詞権禰宜は
「応仁の乱で焼失した大徳寺ですが、一休さんは大徳寺のお寺の大切なものを持って、この住吉に大徳寺ごと疎開してきていたのです」
と驚くべき言葉を発された。
大徳寺が、一休と一緒に住吉大社に避難して来ていたなどとは、想像もしていなかった。
このことについて、一休の研究者矢内一磨氏は『フォーラム堺学』の「堺と一休派」で、「住吉大社と大徳寺には深い関係があるが、応仁文明の乱で大徳寺が焼けてしまったため、住吉大社の境内に大徳寺を一時避難させた。一時避難とは住吉大社にお堂を建てて、大徳寺歴代の人々の木像や肖像を祀るということで、大徳寺が一時、住吉に仮住まいしたかたちである」と述べている。
ことの理由はいずれにせよ、宮司津守氏の援助のもと、一休は住吉大社の一隅に「牀(床)菜(しょうさい)庵」を建て、ここを拠点に大徳寺復興の活動を開始することになる。その目的は堺の有力な商人、なかでも豪商尾和宗臨との接触であった。
宗臨は一休のパトロンのような存在で、俗名を四郎左衛門という。明との貿易で巨万の富を蓄えていた。どういうわけか一休にベタ惚れし、彼の一声で堺の豪商をはじめ一般の庶民まで大徳寺再建に進んで喜捨をした。
では宗臨は、なぜ一休に惚れたのか。恐らく、宗臨には南海の波濤を越えた異国との交易で得た貴重な体験があり、異国で通じたのは氏でも素性でもなく、大海の大波に立ち向かう度胸と真摯な人間性のみだと悟っていたのであろう。だからこそ、一見、破天荒に見える一休が一貫してとった行動と思想に、相通じるものを感じたのかもしれない。宗臨は終生、いや、死後も大徳寺のために財を提供すようにと言い残している。
一休と宗臨の努力の甲斐あって、文明10年(1478)に大徳寺法堂が再建された。一休が亡くなった年には正門と偏門が落成、すべてが完成するのにはあと10年を要している。
難解で粋狂、諧謔、眇め、皮肉、破廉恥、好色をこねて固めたような『狂雲集』から一休の人物像を想像すると、前述のそうそうたる文化人に慕われた説明がつかない。堺の豪商尾和宗臨をはじめ、それこそ海千山千の猛者たちが一休を慕ったのには、凡人の達し得ない境地を知り得た人たちでこそ理解できる世界感があったのだろう。
そんな一休が住吉を去る時の逸話を、小出権禰宜は
「捉えどころのない破天荒な方でしたが、とにかく人を引き付ける力が強く、住吉大社のトップの宮司さん(津守国昭)さえ一休さんの弟子になろうとしたのです。朝廷から任命された神主が出家することは禁止されていたのにですよ。文明10年(1478)、一休さんが住吉を離れ京都へ帰って行くときに、村人がみんな泣いてすがったといいます。宮司から村人まで惚れぬいた魅力のある人、それが一休さんです」
と語る。
今も保管されている牀菜庵の遺物の数々
一休の住吉での仮住まいの一つは、江戸時代後期の『住吉名勝図会』に見える牀菜庵(しょうさいあん)あった。『一休和尚年譜』には、文明8年(1476)、住吉大社東の野菜畑に茅葺屋根の同庵を建てた。そして翌9年の夏、庵の南側竹林に納涼のための小さなあずまや「多香軒(たこうけん)」が造られたことが記されている。
上住吉西公園には「一休禅師牀菜庵跡」と、庵がこの辺りにあったことを示す石標が立っている。ところが、実際の庵の跡は少し離れた所にあった、との地元の情報を得る。
庵の跡は、18世紀末には荒廃していたらしく昭和の初期まで廃墟が竹藪となって残っていたが、現在は住宅が立ち並び様変わりしている。その旧地は、現在の大阪市住吉区上住吉2丁目9の一帯にあたる。
関わりのあった、近くに住む松井誠志郎氏を訪ねた。松井氏の祖先は、代々朝廷の管理下にあった住吉大社の式年遷宮のときの最高位の宮大工だった。「番匠家」と呼ばれる名字帯刀を許された4家のうちの一つ。現在も名の残っているのは松井家(17代)だけという。
松井氏の曾祖父(14代)は牀菜庵を含む一帯を所有していて、辺りの開発に着手。松井氏は、14代のその時の様子を聞き伝えとしながらも話してくれた。
「牀菜庵のあった所は、いまは工場のような建物が建っていて面影はありません。曾祖父が門や井戸が残っていた竹藪を切り開いて分譲したあとで一休さんの遺跡だったことを知り、取り壊したことを大変残念がっていたそうです」。
しかし、幸いにも竹藪の中にあった蹲(つくば)い(手水鉢)や石塔、井筒が自宅に移され、いまは庭の景色となり17代が大切に守っている。