2026/03/13

日蓮(11)

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日蓮にとって、宗教は個人やあるグループが信じてればいい、というものではなく、あらゆる人が真の宗教を信じるべき物であり、それは国の統治者も例外ではない。

 

彼は鎌倉幕府の要人に反仏教と看做す諸宗派を排し、真の仏教と信じる法華宗を受け入れるよう上告までする。これが『立正安国論』である。

 

それにおいて、蒙古(モンゴル帝国)が日本に攻めて来たのも邪宗を野放しにした結果であるとしたが、伊豆へ流罪された。

 

その後も念仏信徒等に命を狙われつつも活動を続けるが、とうとう死罪が言い渡される。

 

首を刎ねられるはずだったが、その時強烈な光が現れ下手人や立会人は目が眩み、処刑は中止されたという。この事柄は刑場の場をとって「竜の口の法難」と呼ばれている。

 

市中引き回しの際には、源氏の武人たちの前で「(彼らの信仰対象であり、仏教の守護神ともされていた)八幡神はまことの神か」と社に向けて呼ばわる等、世間の人々を驚かせる行動にも出る。

 

処刑のやり直しはされなかったが、佐渡へ流罪され迫害は続いた。いつまでたっても鎌倉幕府が日蓮を登用せず、真言宗や天台宗ばかり重用するため、その後現在の山梨県身延へと移住し、そこで教団を運営、彼は他殺ではなく病死によってその生涯を閉じた。享年60

 

死後

日蓮は亡くなる前に、弟子の中から六人(六老僧)を選び後継者としていたが、六老僧のひとり日興が離脱し分裂した。その弟子たちの後継者たちは「門流」と呼ばれる諸流派と、そこから枝分かれした教団を形作った。

 

さらに後世、それらの諸門流、宗派グループとしての合流の道を選んだり、単立の教団としての道を選ぶことになる。

 

今日、日蓮宗といえば、だいたいは身延山久遠寺系の派閥を指す。しかし日蓮系で最も有名なあの創価学会は日蓮宗の系譜ではない(ややこしい)。これは、六老僧の一人「日興」が興した「富士大石寺」の門派、現在の日蓮正宗から生まれた教団なのである。

 

よって日蓮宗と創価学会は、むしろ仲が悪かったりする。さらに日蓮正宗と創価学会も破門以降、めちゃくちゃ仲が悪い。宗祖日蓮からして他の宗派を認めない人だったため、仕方ないといえば仕方ない。

 

一方、日興門下かつ、日蓮宗に合流している教団もある。両者とも別な日蓮本宗、法華宗興門流として活動する派もある。

 

日興以外での弟子に連なる門派の多くは後世に日蓮宗となっているが、現在もそちらに合流しない教団(法華宗本門流、本門法華宗、法華宗真門流、法華宗陣門流、顕本法華宗、不受不施日蓮講門宗)も存在する。

 

日蓮を祖とする諸教団において、根本的な仏「本仏」は釈迦如来とするが、日興に連なる「富士門流」の中には「本仏」を日蓮とする教団があり、後に日蓮正宗として合流している。

 

両者の立場の違いが生じるのは、聖典である御書(日蓮の著作)や弟子の著作や口伝として残るテキストのうち、どれを正典とするか両宗派で違っているためである。というのは、自派閥の正当化をするために、日蓮御書の偽書が量産された歴史があるためである。

 

例えば日蓮宗では、日蓮正宗が根拠とするテキストを正典としないし、その逆も然り。

そのため日蓮宗と日蓮正宗などをごちゃまぜにするのは、当人たちにとってはかなり不快がられる事である。

 

他宗を虚偽と断じ、蒙古襲来という国難から流星まで謗法の報いと唱える日蓮は、非宗教的な現代的観点からするとエキセントリックそのものである。学習研究社が1982年に刊行した『学研まんが 日本の歴史 (6) 元寇のあらし 鎌倉時代・後期』での、路上の人々に向けて

「日本がほろぶ。日本がほろびますぞ!!」

「わたしの予言が当たった!今に元の大軍が攻めてきますぞ」

と赤い吹き出しで叫ぶコマは、ふたばちゃんねるで取り上げられネタにされた。

 

このページでは

「真言、浄土、禅宗の宗派をことごとくつぶしてくだされーっ!」

とも言っている。

 

たしかに『立正安国論』において謗法を禁じる事を求めているが、斬刑に処すべきというのかという問いは否定し、他宗を禁じる具体的な手段としては布施を止める事のみを語っている。もっとも、この書を送った相手のような権力者に、パトロンの座を退かれる事が大打撃になる事には違いないのだが。

 

苛烈な日蓮には謎の引力があるようであり、その側面は近年の学習漫画でも取り上げられている。2015年の『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 5 鎌倉時代』では

「このっ あほうがっ!!念仏なんぞを唱えておったら 無間地獄へ落ちるぞ!!」

「法華経だけが正しく、他の経は全て間違っておる」(正確には「劣っている」という立場)とシャウトしている。

 

特に戦前の日蓮主義の時代にかけて「革命家日蓮」として描かれてきた日蓮だが、日蓮主義がいろいろやらかしてしまったため、戦後の日蓮宗側および新宗教では「法華経を唱える親鸞」のようなマイルドな描かれ方をされる傾向にある(破門後の創価学会も同様)。

 

児童向けの偉人伝では、比較的かなり柔らかめにわかりやすく日蓮の信念を解説する事があり、「日蓮は、この世で人は救われなければ意味がないと行動した」などと解説される事がある。

 

法然や空海、禅批判を避けるため犠牲になるのが日蓮生涯のライバル(?)極楽寺良観で、彼の真言律宗は小派閥に過ぎないため大悪人として描かれるのが定番である。

2026/03/11

【WBC2026】日本が全勝で決勝トーナメント進出決める(1)

WBCが開幕した。

前回大会(2023)は決勝でアメリカを破り、チャンピオンとなった日本。

これまで「連覇」を達成したのは日本のみだが、今回は「二度目の連覇」がかかっている。

 

グループCは、日本のほかオーストラリア、台湾、韓国、チェコという顔ぶれだ。この中で最も強敵とみられる台湾と、いきなり初戦でぶつかった。

台湾には、過去の大会で好投手に抑えられて苦戦する場面も見られただけに、初戦としてはかなり嫌な相手と言える。

 

〇日本 13-0 台湾●

日本相手には毎度エース級をぶつけてくる台湾だけに今回も苦戦が予想されたが、今回は序盤から予想外の展開が待っていた。

まず、2回表に「千両役者」大谷がいきなり満塁ホームランで敵のド肝を抜く。これに勢いを得たかナント打者15人の猛攻で大量10点を奪うと、3回にも3点を追加。投げては先発・山本が22/3を投げ無安打無失点。2番手以降も台湾打線をまったく寄せ付けず、13-0で圧勝。初戦から「日本強し!」を印象付ける戦いとなった。

 

〇日本 8-6 韓国●

初回いきなり3点を奪われたが、すかさず鈴木の2ランで反撃の口火を切ると、3回裏には大谷、鈴木、吉田の「メジャートリオ」によるド派手な3ホームランで大逆転。一気に日本に流れが傾くかに見えたが、日本相手には死に物狂いの異様な執念を発揮する韓国が粘りを見せ、4回に同点に追いつく。

5-5とヒリヒリする展開で迎えた7回。この嫌なムードを立ち払うかのように、鈴木が押し出し四球を選び勝ち越すと、続く吉田が2点タイムリーを放ち、しつこくしがみつく韓国を突き放した。

打線は台湾戦に続いて好調を維持しているが、「格下」韓国に6失点と投手陣に不安を残す一戦となった。

 

〇日本 4-3 オーストラリア●

台湾、韓国に連勝した日本だが、この日は苦戦を強いられる。

6回まで0-1と、ここまで好調だった打線がわずか3安打に抑えられるという苦しい展開だ。

1点を追う7回裏、吉田に値千金の2ランが飛び出し逆転。続く8回には、代打・佐藤のタイムリーでさらに2点を挙げ、リードを広げた。

オーストラリアは、9回に2本のソロホームランで1点差まで追い上げたものの、日本がなんとか薄氷の勝利だ。

これで3連勝となり、早くも1次ラウンド首位通過で決勝トーナメント進出を決めた。

前回大会のメキシコ戦でも、敗色濃厚の展開から逆転ホームランを打った吉田は、さすがに国際大会では頼りになる存在と言える。一方、抑えの大勢は9回に立て続けにホームランを許し、1点差まで詰め寄られる失態。大勢の抑えは危なかしくて観てられんよ。

 

〇日本 9-0 チェコ●

相手はグループ最弱とみられるだけに、多少メンバーを落として主力を温存したとしても楽勝が予想されたが、7回を終わった時点でまで0-0とまさかの大苦戦となる。

8回裏、若月の二塁打に相手失策が絡み、やっとこさ先取点をあげた。これでようやく目が醒めたか、続けて周東の3ラン、さらには村上の満塁ホームランも飛び出すなど遅まきながらに打線が爆発し、この回一挙9点。

投げてはチェコ打線を2安打完封リレーで、日本は前回王者の貫禄を見せて1次ラウンド全勝での予選突破となった。

2026/03/10

五代十国時代(5)

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十国

十国とは以下の国家を指す。

 

    (902-937)

    前蜀(907-925)

    荊南(907-963)

    呉越(907-978)

    (907-951)

    (909-945)

    南漢(909-971)

    後蜀(934-965)

    南唐(937-975)

    北漢(951-979)

 

また、十国以外の国として李茂貞の岐(901-924)と、劉守光の燕(895?911-913)がある。

 

群盗の出身の楊行密が、現在の南京周辺を支配した政権。黒雲都と呼ばれる軍勢を率いたことによって台頭したが、頼り過ぎたが故に黒雲都の指令官である徐温と張顥が実権を握るようになる。

楊行密が死んだ後の君主は完全に傀儡であり、徐温と張顥との権力争いは徐温の勝利に終わる。が、その徐温も禅譲直前に病死、その養子である徐知誥に禅譲することによって4代で滅んだ。

 

南唐

禅譲によって南唐を建国した徐知誥は、楊行密に拾われた正体不明の孤児で、才能を見込まれたが楊行密の子たちとは折り合いが悪かったため、徐温の養子になる。ここで才能を発揮し、徐温の実子たちを差し置いて後継者へと成り上がり、ついには国王にまでなった。皇帝即位後は唐の宗族と自称して李昪と改名、国名も唐にちなんだものとした。

 

国を運営するうえで最重要物資である塩の生産地を抑えていたため、十国の中では最強といわれていたが、李昪は外征よりも内政に力を尽くした。その姿勢はまさしく名君といってもよかったが、外征をしなかったことが結果的に最悪な展開を迎えてしまう。

 

2代目の李景は外征を推し進め、内乱に乗じて楚と閩を滅ぼすがその後の処理がまずく、得た領土を手放すことになってしまう。その上、文人気質で実務に疎い傾向にあったため、後周の世宗に敗北、大幅な領土の割譲など、後周の属国になることを余儀なくされてしまう。

 

3代目の李煜は国を保つことに保身するが、結局は後周の後継である宋に攻め込まれて滅ぼされることとなった。

 

前蜀

群盗出身で黄巣の乱で名を上げた王健が、蜀に割拠した政権。

戦乱の世ではあったが、天然の要害である地理条件と塩や鉄などの重要資源が産出することから経済発展に尽くし、別天地ともいえる平和な空間を造り上げた。文人たちが避難してきたことによって文化が花開いたが、その反面、秘密警察を作って国民を監視するなど暗い面もあった。

だが、その後を継いだ2代目が無能であり、蜀の天然資源に目をつけた後唐によってあっさり滅ぼされた。

 

後蜀

前蜀滅亡後の蜀の統治を任された孟知祥が、混乱に乗じて独立。

前蜀譲りの経済力で文化が花開いたが、天下の険があることをいいことに外よりも内に向いてしまい、奢侈に走るのも前蜀と同じであった。そして、宋にあっけなく滅ぼされてしまう。

 

群盗の王審知が、福建に中心に割拠した政権。

初代の王審知は名君であったが、後継者に恵まれず、内紛の果てに南唐に攻め込まれて滅亡。

閩時代の遺物が、今でも意外に残されている。

 

呉越

群盗の銭鏐(せんりゅう)が杭州を中心とした地域を支配した政権。

内政に務め、長江、東シナ海、南シナ海の結節点という立地を生かしての貿易国家として栄えた。その一方で、細々としたものに税をかけていたと言われている。

 

周辺諸国と比較して後継者には恵まれていたため内紛が少なかったこと、強国に臣従して金で安全を買うことによって、五代十国としては長期に渡って存続したが、宋が南唐を滅ぼして直接国境を接するようになると不利を悟り、自ら領土を献上する形で滅んだ。国としては一番まともな終り方であり、呉越公室は優遇されたという。

 

時代は流れて現代、子孫の一人が中国においてはロケット博士になり、もう一人の子孫はアメリカに渡ってノーベル賞を受賞をしているのだから、地下の銭鏐もさぞかしびっくりしているだろう。

 

木工出身の群盗、馬殷が長沙周辺に割拠した政権。

経済国家であり、茶の販売が主な収入源だったため5代の国家には臣従、皇帝とは名乗らなかった。

馬殷は子沢山であったが、その息子たちが凡庸であったことから内紛が勃発、南唐に攻め込まれて滅亡する。

ちなみに馬王堆は馬殷の墓だという伝承があってつけられた名称であったが、実際に葬られていたのは全くの別人、そして馬殷よりも遙か古代の人だった。

 

荊南

丁稚出身で、後梁の朱全忠に才能を認められた高季興が荊州以下、3州の統治を任され、その後、独立した勢力。実は国家ではなく自治領という存在であり、員数合わせのために五代十国に組み込まれたのではないかという説もある。

 

十国中、もっとも小さい国家ではあったが大陸の中心という立地条件を生かし、五代の国のみならず後唐や呉越といった国まで臣従、勢力の緩衝地帯と認識させることよって独立を保った。だが、宋の侵攻が始まると交通の要所という点から真っ先に攻撃目標とされ、宋に国軍を通過させろと脅されて認めると、そのまま占領されて滅んだ。荊南の滅亡により、十国が連携して宋を攻撃することが不可能になったので重要な意味を持つ。

ちなみに、万事休すとはこの国発祥の故事成語である。

 

南漢

劉隠が広東を中心に割拠した政権。ちなみに劉隠はアラブ系だったのではないかという説がある。

その頃の広東は中央から遠く離れていたので平和であり、南海貿易で栄えていたので国力も豊かであった。ただし、ベトナムの呉朝との戦いに敗れて独立を許し、これを契機に中華王朝のベトナム支配が終わったというのは重要な事件である。

 

特徴としては、宦官大好き政権であったこと。宦官でないと役人として登用されない有様だったので、人口100万人に対し宦官の人口が7000人、末期には20000人に増加したといわれている。まともな状況ではなかったので、宋が侵攻するとあっさりと滅亡した。

 

北漢

後漢皇帝、劉知遠の弟である劉崇が甥の隠帝が殺された後、太原を中心として独立した政権。

誕生の経緯から後周、宋に敵対的ではあったが国力では叶わなかったため遼に臣従した。

遼の支援を受けて後周と対決するが敗北、内紛もあって4代で滅亡。北漢の滅亡により、中国統一は完了した。

2026/03/08

日蓮(10)

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出自

鎌倉仏教と呼ばれる鎌倉時代に誕生した日本大乗仏教諸宗派の開祖の一人である。

 

現在の千葉県にあたる安房国の海岸地域に住む漁師の家の出。幼少期の名は善日麿(ぜんにちまろ)。当時の漁業民の中では中級にあたる「釣人権頭(つりびとごんのかみ)」の家系である。(この事から、後述の出家前の生活についても「平民の中では裕福な家」とする説も有る)

 

しかし、彼自身は自身の出自を「旃陀羅(せんだら)」であると語っている。

 

元はインドの言葉で、チャンダーラという被差別階級を漢訳した語である。非アーリア系の狩猟文化を持ったインド先住民であるが、東征してきたアーリア人に敗れカースト下層に置かれた人々である。

 

「ヴェーダの宗教」から見れば殺生として破戒にあたる屠畜などに従事していたと見られ、実家が漁業という魚を死なせる要素を持つ職業であることを恥じて、日蓮はこの語を使ったともされる。

 

貴族出身の道元や親鸞と比べれば平民であり、生活は豊かではなかったようである。

 

経歴

十二歳の時に天台宗の寺「清澄寺」に預けられ、薬王麿(やくおうまろ)と名を改めた。そこで仏教を学び十六歳で出家して僧侶となる。当時は仏僧として是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と呼ばれた。それから十二年後に比叡山の門を叩くことになるが、それまでの彼の事跡は当時無名の一僧侶だったこともあり、さほど明らかではない。

 

比叡山延暦寺の天台宗は『法華経』を至上とする中国天台宗の思想を中心に、日本において念仏や禅、密教、律など仏教の様々な修行法を集大成した宗派である。

 

ただし鎌倉で浄土教について学んだりと、各地で経験・研鑽を積んでいたことは確かである。

 

この下積みの十二年間と比叡山入山後で彼は仏教諸宗派について学んだが、後にそれらを完全否定する事になる。清澄寺で念仏をしても、他の場所で様々な法門を学んでも救いの実感を得られなかった事が背景にある。

 

32歳の時、彼は「南無妙法蓮華経(私は法華経に帰依する)」を旨とし、これを題目として唱える法門を立ち上げる。

 

後に日蓮宗(身延久遠寺系)と日蓮正宗(富士大石寺系)などに分かれることになる「法華宗」の誕生である。この時から、彼は「日蓮」と名乗るようになる。幼名と出家名を合わせたような名前である。

 

しかし彼自身の意識としては新しい宗派を興したというよりも、天台宗の根本聖典でもある『法華経』への回帰、それを説いたとされた釈迦如来の本心を明らかにしたいというものであった。

 

現在では、法華経も含め大乗経典は釈迦からかなり後の時代の成立とみられているが、当時はすべて釈迦の直説とされていた。あまりにも膨大な経典を整理したのが中国天台宗の智顗で、彼は『法華経』を最高の経典と判定し、この学派を伝教大師最澄がこの思想を日本に伝え、興したのが比叡山延暦寺である。

 

ところが末法到来と言われた11世紀以降、延暦寺で学んだ法然(と弟子の親鸞)は浄土思想に傾倒、道元や栄西は禅に傾倒し、天台宗自体も密教に傾倒、法華信仰が時代遅れになっていた。智顗・最澄の後継者を自認する日蓮にとって、これは許し難いものであった。

 

「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」という他宗派否定の言葉(『与建長寺道隆書』『諫暁八幡抄』にみられる)は有名だが、実は古巣である当時の天台宗も否定している。

 

彼は中国の天台智顗や日本の最澄は尊敬しているが、「法華経以外の不純物」が持ち込まれて以降の天台宗は邪宗扱いなのである。

 

その性格は、よくマルティン・ルターと比較される。しかし思想的には、カトリック側の対抗宗教改革に近いところもある。

 

日蓮は四月二十八日、朝日差す中、清澄寺にて開教の決意をする。その日は出家にも立ち会った師匠・道善坊が弟子である彼のために、始めての法座(僧としての説法の場)を用意した日でもあった。

 

念仏信徒も集まるその場で、日蓮は

「謗法である念仏を捨てて、正法である法華経の信仰に立ち返れ」

と説き、最初の波乱を巻き起こすのである。

 

天台宗の説法の場に念仏信徒が来ている事からもわかるように、当時の諸宗派は自宗こそ最高の教えとしつつも他宗派に一定の配慮はしていたわけだが、日蓮はその全てに対し喧嘩を売った。

 

歯に衣着せぬ遠慮無い否定と非難によって全方位から敵意を買った日蓮は迫害を受け、命すら狙われる事になる。

 

本人はというと「法華経に信徒が迫害されると書いてるのが実現した」と、さらに気合を入れるのだった。

 

彼は唱題を説きつつ、題目曼荼羅という「南無妙法蓮華経」の周囲に神仏の名を配した幾何学的な曼荼羅を作成し、信者たちに分け与えた。その内のいくつかは現存している。

2026/03/06

五代十国時代(4)

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五代十国とは、10世紀(907960)の中国の時代区分である。

 

概要

具体的には朱全忠による唐の滅亡(907年)から、趙匡胤(ちょうきょういん)の即位(960年)までの時代である。

この約50年の間に、華北では5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が覇権を競い、一方で華中、華南では10の地方政権が独立して成立していた。

 

後梁

907年、唐を倒して後梁をたてた朱全忠は開封に都を定め初代皇帝となり、ここに五代十国時代が始まる。しかし建国時の後梁の領土は唐の1/4にすぎず、各地には晋王の李克用、前蜀の王建など天下を狙う武将達が存在した。その多くは、唐の辺境の将軍である節度使出身であった。また同じ頃、耶律阿保機(やりつあぼき)が率いる遊牧民族の契丹は北アジアや中央アジアに勢力を広げており、万里の長城を超えて中国国内への進出を狙っていた。

 

907年、李克用は長男の李存勗(りそんきょく)と共に後梁へ侵攻を開始。李克用は片目が不自由であったため「独眼竜」と呼ばれ、また彼の軍隊は全員黒い衣装を着ていたので鵶軍(あぐん、カラス軍団の意)と呼ばれ、その強さを恐れられていた。しかし、朱全忠に比べ政略や謀略という面で劣っていた李克用は朱全忠に遅れを取り、朱全忠打倒を果たす前に死去し、李存勗がその跡を継ぎ晋王を名乗った。

 

そんな中、体調を崩した朱全忠は自分の跡を養子である朱友文に継がせようとしたが、これに怒った実子の朱友珪が912年に父である朱全忠と朱友文を殺害してしまった。しかし朱友珪自身も、翌年に弟の朱友貞に謀反を起こされ死亡。こうして朱友貞が皇帝となった。

 

この隙をついて晋の李存勗は、知恵袋の馮道(ふうどう)の勧めで契丹との和平を結んだ後に後梁へ攻め込んだ。李存勗は後梁の基地を次々と攻め落とし後梁の首都、開封に迫っていった。李存勗は916年に黄河の岸に達し、923年には魏州で皇帝として即位して新しい国を建てた。これが後唐である。その年の秋には、荘宗(李存勗)は大軍を率いて黄河を渡り開封へと進撃した。末帝(朱友貞)は、これに対抗できず自殺。後梁はわずか2代、17年で滅んでしまった。

 

後唐

しかしその後、都を洛陽に移した荘宗は唐の朝廷に習って宦官を復活させ側近政治を行ったため批判が強まった。また、荘宗は贅沢な暮らしを好んだため馮道は引退してしまった。

 

その後、華北で反乱が起き、荘宗は義兄である李嗣源(りしげん)に鎮圧を命じるも、これを不服に思った李嗣源は926年に荘宗に反旗を翻し、軍を率いて洛陽を落としてしまった。こうして李嗣源は、後唐の皇帝の座についた。

 

明宗(李嗣源)は引退していた馮道を召還し、そのアドバイスに従って宦官を遠ざけ、財政の立て直しをはかった。また、皇帝直属の軍隊をつくり、皇帝の権力を強めることにつとめた。明宗の時代は大きな戦いもなく、それなりに平和であったが933年に明宗が病気で倒れると、次の皇帝の座を巡って再び激しい権力闘争が始まった。3代皇帝の閔帝(李従厚)は即位後はずか半年で殺され、934年に末帝(李従珂)が4代目皇帝になった。

 

その後、河東節度使の石敬瑭(せきけいとう)が反乱を起こしたので末帝はこれを兵糧攻めするも、石敬瑭と結んだ契丹の攻撃を受け936年に後唐は滅び、石敬瑭は太原(晋陽)で帝位につき国号を晋とした。これが後晋である。

 

後晋・後漢

後晋は援軍を送ってくれた契丹に臣下の礼をとり、毎年30万匹の絹布と、燕雲十六州を契丹の耶律徳光に送った。燕雲十六州は万里の長城の南、河北省・山西省の北部の地域で、現在の北京や大同を含む広大な地域であった。この地域は地政学的に重要な地域で、この地域を巡って北方民族と中華は、後々に長いこと争うことになる。

 

一方その頃、朝鮮半島では918年には開城(けそん)を本拠地とする王建が高麗を建国し、935年には朝鮮半島を統一した。

 

937年、石敬瑭は都を洛陽から開封に移した。942年に石敬瑭が亡くなると、甥の石重貴(せきじゅうき)が跡を継いだが、石重貴は契丹への貢ぎ物を拒否したため、946年、契丹の皇帝、耶律徳光は開封に軍隊を送り、出帝(石重貴)を捕虜にした。ここに後晋は212年で滅んだ。このとき契丹は打草穀騎と呼ばれる略奪部隊を作り、河北地域を荒し回った。また契丹は翌年の947年に国号を遼と改めた。しかし打草穀騎は後晋の農民の激しい抵抗にあり、遼軍は北方に追いやられた。

 

後晋にかわって後漢を建てた劉知遠は、突厥出身のトルコ系の武人の家柄であったが、皇帝となってわずか1年で病死してしまう。18歳の隠帝が跡を継ぐも、2年後側近の兵に殺された。後漢の治世はわずか3年。五代の中で最も短命な王朝であった。

 

後周

951年、後漢の有力武将であった郭威は、部下に推され後周をたて皇帝となった。これが後周の太祖である。郭威は内政に力を注ぎ、国力の充実をはかるも954年に死去した。郭威の一族は、後漢の隠帝に殺されていたため、養子の柴栄(さいえい)が二代目皇帝として即位した。

 

世宗(柴栄)は馮道をまた重用したのだが、馮道にとってこれは5つ目の王朝であった。後唐、後晋、遼、後漢、後周と五朝十一皇帝に仕えた馮道を、人は不倒翁と呼んだ。また、この頃には後に宋の初代皇帝となる趙匡胤も台頭し始めていた。

 

華北が北で5つの王朝を交代させている間、華中や華南では10の地方政権が存在していた。華北をおおよそ統一した後周は、中国統一のためにそのうちの一つ、後蜀を攻めることを決定する。955年、世宗の柴栄は自ら後蜀を攻撃し、4つの州を奪い取った。こうして西方の脅威を取り除いた後周は、937年に南唐への侵攻を開始した。南唐は徐知誥(じょちこう)により建国された国家で、金陵に都を置き十国の中で最も豊かな経済力と高い文化を誇っていた。

 

南唐の抵抗にあいつつも958年、後周は南唐の長江以北の1460県を奪取した。進退窮まった李昪(徐知誥)のあとを継いでいた李璟は、後周へ服属することを決めた。

 

南唐を屈服させた後周の次の敵は、遼と遼を後ろ盾にしていた北漢であった。959年、世宗は趙匡胤とともに、燕雲十六州を奪い返すために軍隊を派遣した。後周軍は各地で遼軍をやぶり、瀛州と莫州を取り返すも世宗が倒れたことにより汴州(開封)へ退却。跡をついだのは、わずか7歳の柴宗訓(さいそうくん)であった。960年に趙匡胤は再び遼や北漢と戦うために北進するが、その途中、趙普と趙匡義の推戴を受けて皇帝となった。五代十国という時代はここで一区切りにされるが、この後も趙匡胤の中国統一の戦いは続いて行く。