遙輦氏の時代
この頃に、大賀氏と八部は先述の戦乱と内紛で衰微逃散し、八部の大帥であった遙輦氏の李懐秀(遙輦組里)が涅里によって立てられ阻午可汗となる。
745年、唐に降り、李懐秀は松漠都督に任じられ、崇順王に封じられる。また、静楽公主の降嫁を受ける。同年、奚ともに反乱を起こし、静楽公主を殺したが、唐の節度使であった安禄山によって敗れる。唐によって、楷落が恭仁王に封じられる。
750年、安禄山によって契丹・奚の酋長が多く毒殺される。
751年、契丹が反乱を起こそうとしているとして、安禄山によって攻められたが、これを大破する。
753年、再び、唐に降伏する。
756年、安史の乱の勃発後、安禄山が不在となっていた范陽を奚とともに攻撃する。なお、安禄山配下には、多数の契丹人が入っていたと伝えられる。
この後、安史の乱の混乱と後に河北に節度使が割拠することにより、文献によって記述が大きく異なり判然としないが、遙輦氏が3部の耶律氏・2部の審密氏(後の蕭氏)を含めた一族の10部とも12部とも20部とも記される諸部が、契丹を統治したとされる。また、河北の節度使が兵備を厳しくしたため契丹の侵攻は少なく、毎年もしくは隔年に使者が長安に入り、唐の皇帝に面会した。その一方で、契丹はウイグルに付随していたと伝えられる。842年、ウイグルが破れたため、酋の屈戍(耶瀾可汗)が唐に内附し、印を与えられる。
咸通年間に、唐に使者を入朝させた契丹王・習爾(巴剌可汗)の時に部族はようやく強くなり、習爾の死後、一族の欽徳(痕徳菫可汗)が後を継いだ。唐末、光啓年間に奚や室韋を侵略して服属させ、劉仁恭を何度も攻めた。欽徳の晩年に政治が衰え、その死後、迭剌部の耶律阿保機(やりつ
あぼき)が契丹王となった。
10世紀に耶律阿保機が登場し八部を纏め、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て国号を遼とし、契丹国皇帝となった。契丹は勢力を拡大して、北の女真や西の西夏・ウイグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海や西の烏古を滅ぼした。二代目耶律徳光の頃、後唐では内紛が起こり、石敬瑭(せき
けいとう)に正統なる者として晋皇帝の称号を与え、援助をし燕雲十六州の割譲を成立させる。こうして後唐は滅び、後晋が建国となる。
その後、しばらくの間は中国文化を取り入れようとする派と、契丹の独自風習を守ろうとする派とに分かれて内部抗争が起き、南に介入する余裕が無くなった。その間に南では北宋が成立する。内部抗争は六代目聖宗期に一段落し、再び宋と抗争するようになった。
1004年、南下した遼と北宋は盟約(澶淵(せんえん)の盟)を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。経済力を付けた遼は、東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。
しかし宋からの財貨により、働かなくても贅沢が出来るようになった遼の上層部は次第に堕落し、武力の低下を招いた。また内部抗争も激しさを増し、その間に東の満州で女真族が台頭し、1125年に宋の誘いを受けた女真族の金により遼は滅ぼされた。
この時に皇族の耶律大石(やりつ たいせき)は部族の一部を引き連れて、中央アジアに遠征し、西ウイグル王国・カラ・ハン朝を征服、契丹語でグル・ハーン、中国語では天祐皇帝と称号を改め西遼を建てた。
1126年、現在のキルギス共和国の首都付近にクズ・オルドという都を定める。トルコ人にはカラ・キタイと呼ばれた。これは黒い契丹の意味である。耶律大石は更にセルジューク朝の軍を撃破して中央アジアに基盤を固め、故地奪還を目指して東征の軍を送るが、途上で病死した。
耶律大石死後の西遼は中央アジアで勢力を保持したが、チンギス・ハーンによってモンゴル高原から追われて、匿ったクチュルクによって簒奪され、西遼は滅びた。
遼の滅亡後
一方で遼が滅びた時に残った人々は金の中で諸色人に入れられて、厳しい収奪を受けた上に対南宋戦争では兵士として狩り出され、これに反発した契丹族は度々反乱を起こした。特に金の海陵王の時の反乱は、海陵王が殺される大きな要因となった。
金滅亡後は、チンギス・ハーン率いるモンゴル帝国の下で漢人に組み入れられた。元来、遊牧民でモンゴル周辺部に居住していた彼らは、ほとんどがモンゴル人と普通に会話でき、大半は中国語や漢文にも長けていた。その為、漢人とモンゴル人の橋渡しを行うことが多く、この中にモンゴル帝国に仕えた耶律楚材がいる。