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2019/10/31
ヘーラクレース(ギリシャ神話66)
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仲哀天皇
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12、13、14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。 容姿端正、身長一丈。
神功皇后の夫で、応神天皇の父とされるが、実在性を含めて諸事績の史実性には疑いが持たれる。
穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地)
筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや、福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地)
事績
『日本書紀』によれば叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年1月即位。白鳥となって天に昇った父日本武尊(景行天皇43年死去)をしのんで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。仲哀天皇2年1月11日、仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。
8年、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。それは、西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。
遺体は武内宿禰により、海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮で殯された。『(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。
『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。
「この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定めたまひき。」(『古事記』)
元年二月条に「即月に、淡路の屯倉を定む。」(『日本書紀』)
屯倉は、朝廷直轄の農業経営地あるいは直轄領。
仲哀天皇架空説
仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から、尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くとナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。さらに『日本書紀』では、父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない。
陵・霊廟
岡ミサンザイ古墳
陵(みささぎ)は、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある惠我長野西陵(恵我長野西陵、えがのながののにしのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)。
『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。現古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において、他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
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志賀の宮の巻【成務天皇】
口語訳:若帶日子天皇は近淡海の志賀高穴穗宮に住んで天下を治めた。この天皇が穗積臣らの祖、建忍山垂根の娘、弟財郎女を娶って生んだ子は、和訶奴氣王である。<一柱>
この天皇の漢風諡号は成務天皇という。
口語訳:(天皇は)建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めた。また諸国の境界を定め、大縣・小縣の縣主を定めた。
口語訳:この天皇は九十五歳で崩じた。<乙卯の年、三月十五日に崩じた。>御陵は沙紀之多他那美(佐紀楯列)にある。