2024/09/19

壬申の乱(2)

白村江の敗戦

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。

 

近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

 

額田王をめぐる不和

天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は、『万葉集』に収録されている額田王の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推察した。

 

異説・俗説

房総における伝説

千葉県には、大友皇子が壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びたとする伝説があり、それに関連する史跡が数多く存在する。

 

中心となるのは、君津市俵田の白山神社である。皇子はこの地に落ち延び、「小川御所」を営んで暮らしていたが、大海人皇子が差し向けた追討軍による急襲を受けて死亡したとされる。周辺の同市戸崎には、皇子に付き従った7人の侍を葬った「七人士の墓」が存在するほか、皇子とともに房総に下ったとされる蘇我赤兄を祀った飯綱神社が同市末吉にある。

 

また、残された后の十市皇女は山を分け入って大多喜町筒森の「限りの山」にたどりついたものの、その地で難産(流産)の末亡くなったとされ、地元の里人がこれを哀れに思い、大友皇子と十市皇女の霊を手厚く弔い社を建てたのが筒森神社である。

 

九州主戦場説

九州王朝説では、壬申の乱は九州が主な戦場であるとする説もある。それによると、倭京は太宰府、大津京は肥後大津のことであり、難波は筑後平野に在ったと考えられるという。

 

阿波説

大和朝廷の前身としての邪馬台国は阿波で成立し、大和朝廷は710年(和銅3年)に奈良の平城京に遷都するまで阿波にあった、と解する阿波説では、壬申の乱は、鳴門市大津町と三好市三野町加茂野宮(吉野宮跡)との間で行われた戦いであり、鳴門市大津町と三好市三野町加茂野宮との間の吉野川北岸の東西ほぼ全域にわたって、日本書紀に見える壬申の乱に関わる地名が揃っている。

 

ü  粟津(滋賀県大津市膳所):鳴門市里浦町粟津

ü  大津宮(滋賀県大津市):鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野

ü  宇陀(奈良県宇陀市榛原町):鵜の田尾(阿波市土成町)鵜峠(宮川内街道:阿波市土成町~讃岐白鳥)

ü  鈴鹿(三重県鈴鹿市):鈴川、鈴川谷川(阿波市土成町樫原の東を流れる川)

ü  桑名(三重県桑名市):久王野(山)(阿波市土成町と市場町の境)

ü  安八幡(岐阜県安八郡):粟島(吉野川にある日本最大の川中島、現善入寺島、阿波市市場町粟島(旧粟島村))

ü  大野(奈良県宇陀市室生大野):阿波市市場町大野島

ü  尾張(愛知県):阿波市市場町尾開(旧尾開村)

ü  倭京(奈良県高市郡明日香村):阿波市市場町奈良坂(現「若宮皇太神宮」の鎮座する平山台地)

ü  不破道(岐阜県不破郡):阿波市市場町大門(讃岐の難波郷(香川県さぬき市津田町・大川町辺り)に通じる奈良街道(日開谷街道)入口

ü  乃楽山(奈良県北方の丘陵地帯):阿波市市場町奈良街道沿いの城王山(旧名大奈良山)

ü  美濃(岐阜県):阿波市市場町上喜来の美濃谷(川)(他に「美濃王」(東みよし町美濃田の勇者)、「三野王」(三好市三野町の勇者))

ü  伊勢(三重県):阿波市阿波町伊勢

ü  高安城(奈良県生駒市と大阪府八尾市の境の高安山):大滝山(美馬市脇町と香川県塩江町との境をなす山:地名に「安原上」、「安原下」などが残っている。また脇町は倭城に通じる。)

ü  吉野宮(奈良県吉野郡宮滝):加茂野宮(三好市三野町(旧美野郷))

ü  山崎(諸説あるも京都府乙訓郡大山崎):鳴門市撫養町木津に字名で旧「山崎」が存在

 

日本書紀によれば、672624日、大海人軍は吉野宮を出発し「大野に到りて日落れぬ」とあるが、大海人皇子がこの戦いで戦勝祈願をしたのが阿波市市場町大野字山野上の大野寺で、三好市三野町加茂野宮の吉野宮から約30km東にあり、吉野川の川筋を下れば一日で充分進める距離である。この大野寺は天智天皇の勅願にかかる古刹であり、徳道山灌頂院と号しているのは、天武天皇が出家し「陛下の為に功徳を修はむ」として仏門に入り、壬申の乱に及んで戦勝を祈願したことに因んで冠したものと思われる。阿波の徳道山灌頂院大野寺と奈良の楊柳山慈尊院大野寺の、寺院にとって何より重要な山号を比較すれば、壬申の乱の舞台が阿波であることは一目瞭然である。

 

また、桓武天皇が延暦13年(794年)10月に平安京に遷都した後の11月、それまでの「古津」を「大津」に改めているので、平安遷都より100年以上も前の天智6年(667年)に、天智天皇が「後飛鳥岡本宮」から遷都した「大津宮」が滋賀県の「大津」であることなどありえない。天智天皇の「淡海の大津宮」は鳴門市撫養町木津の金毘羅神社・長谷寺一帯であり、淡海(あふみ)とは阿波の海のことで、淡水に海水が流れ込む阿波吉野川下流域から鳴門海峡を巡って讃岐の難波郷(香川県さぬき市津田町・大川町辺り)までの海を指し、「阿波海(あわうみ)」が「淡海(あふみ)」と表記されたものである。

 

通説は「淡海(あふみ)」を琵琶湖のこととしているが誤りである。本居宣長も「あふみ」は「阿波宇美が切(つづ)ま」ったものと説いている。鳴門市撫養町木津の天智天皇の「淡海の大津宮」より古代櫛木街道を越した、現在の鳴門市北灘町粟田には葛城神社があり、祭神は天智天皇である。また、葛城神社の別当寺である長寿寺は天智天皇と中臣鎌足の伝記「阿州葛城山記」(版木)を伝える。それによると、天智天皇が巡幸の時に馬が呉竹に足を取られて落馬し右目を痛めて鎌足の介抱で事なきを得たという。以来、葛城山には呉竹を生やさず馬の飼育を慎んだとされる。このような天智天皇の故事を伝える長寿寺の版木の存在は、天智天皇が阿波に住んでいた何よりの証左である。

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