2020/09/03

四分統治 ~ ローマ帝国(11)


ウァレリアヌス捕囚
しかし混乱期は終わらない。

ゴルディアヌス3世の没後、帝位簒奪者も含め5人の正帝が続いた。その5人目の皇帝が、253年に即位したウァレリアヌスである。彼は息子のガリエヌスを共同統治者に選び、自らは東方領域を治めることとした。259年、ウァレリアヌスはペルシャへ侵攻。しかしエデッサの戦いで、シャープール1世率いるペルシャ軍に敗れ、ローマ史上初の捕虜となる。ローマ帝国の権威は失墜し、国力の低下を外部に晒すこととなった。

ガリア帝国とパルミラ王国 (A.D. 260 - A.D. 274)
260年ごろにウァレリアヌスが皮剥ぎの刑に処されると、共治者であった息子のガリエヌスが唯一の皇帝となった。

フランスの世界遺産、ポンデュガール。しかし時を同じくして、実力者ポストゥムスはガリエヌスの息子を殺害し、さらに、あろうことかローマ帝国中にガリア帝国(260 - 274年、現在のイングランド・フランス・スペイン・ポルトガルに相当)を建国した。

一方、ガリエヌスはパルミラ(現シリア)の実力者オダエナトゥスと結託し、ペルシャ帝国の拠点アンティオキアを制し、僭称皇帝を討伐した。その後もパルミラのオダエナトゥスはアナトリア半島で活躍するも、甥に暗殺されてしまう。

オダエナトゥスの妻、ゼノビアは夫を殺した彼の甥を処刑し、すぐさま実権を掌握した。するとパルミラの方針を転換し、堂々とローマ帝国から離反した。パルミラ王国(260 - 273年、現在のトルコ・シリア・パレスチナ・エジプトに相当)の成立である。こうしてローマ帝国から二つの国家が(半)独立し、地中海世界はローマ帝国・ガリア帝国・パルミラ王国に分裂したのだった。

帝国の変質
帝国が最悪の危機に瀕していた中、正帝ガリエヌスは蛮族対策のため、騎士階級から重装騎兵を登用し、軍の主力とした。しかしこれは、ローマの軍と市民層の変質をもたらした。また彼は、多忙に対処すべくゲルマニア防壁を破棄し、現地の住民にそこを防衛するよう申請した。が、防壁の喪失は、後世に多大な負担を背負わせことになる。

分裂と多方向からの攻撃を受け、ローマ帝国は四面楚歌に陥った。ローマ皇帝は国防のため元老院よりも軍と親密になり、結果として軍人の台頭を促した。ガリエヌスはさらに、軍人と文官を分離したとされるが、これが軍人台頭に強く影響した。その筆頭がイリュリア人で、すぐ後に皇帝として何名かが現れている。

268年ごろ、ガリエヌスは反乱に遭い、この世を去った。軍人皇帝の時代は、まだしばらくは続くこととなる。

イリュリア人の時代へ
ガリエヌスの後に帝位に就いたのは、269年ごろにゴート族を討ち破り「ゴティクス」の名を得た、クラウディウス・ゴティクスだった。

ゴティクスのもと、ローマ帝国は外敵と戦い続ける。ゲルマンのアラマンニ族がアルプス山脈を越え強襲するとこれを迎え撃ち、ガリア帝国にも攻撃し、ヴァンダル族にも反撃した。しかしガリア帝国は陥落せず、ヴァンダル遠征中には皇帝ゴティクスが疫病にかかり、270年、没してしまう。

ちなみに、ヴァレンタインデーの由来となったキリスト教の殉教者、聖ウァレンティヌスが処刑されたのが、この時代(269年)である。

ゴティクスの後は彼の弟が継ぐが、軍が強き皇帝を望んだため、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスを推戴した反乱が勃発。帝位は軍に担がれたアウレリアヌスに移った。

帝国再編
ゴティクス存命中は、彼のゴート族討伐で鎮静化していた北方異民族だったが、271年、アラマンニ族のイタリア侵入でそれは破られた。アラマンニ族は40,000の騎兵と80,000の歩兵という大軍をもってして襲いかかる。ヴァンダル遠征中のアウレリアヌスはアフリカにいたため、急いでイタリアへと向かった。

アウレリアヌスはパヴィアまで進軍し、アラマンニ族を1度撃破した。その後も戦いは続き、とうとう三度目の戦いでローマ帝国はアラマンニ族を撃退することに成功する。

さらにバルカン半島のゴート族討伐も成し遂げ、またドナウ河北方のダキアを改築し、異民族を牽制した。

ローマ帝国の逆襲はそこで終わらず、273年、アウレリアヌスはパルミラ王国に対し2度戦い、これに勝利する。籠城した摂政ゼノビアを捕らえ、ついにパルミラ王国を滅ぼしたのである。次は西方。アウレリアヌスはガリア帝国の統合をも望み、274年、みごとそれに成功した。これら武勲によりアウレリアヌスは、元老院より「世界の修復者」の称号を与えられた。かくしてローマ帝国は、本来の領土を取り戻したのである。

275年、アウレリアヌスはペルシャ遠征の最中、秘書官の1人エロスに暗殺された。理由は叱責されたから、だそうだ。帝国を危機から救った英雄にしては、実に報われぬ最期である。

専制君主制期
テトラルキア TETRARCHIA (A.D. 286 - A.D. 324)
軍人皇帝の時代、そしてその混乱期を制したのが、ディオクレティアヌス(在位:284 - 305年)である。

内乱を経た280年代当時、ローマ市は荒廃し首都機能を失っていた。そして外敵も単体というわけではなく、北や西の異民族にササン朝ペルシャ帝国と、ローマ帝国は四面楚歌に通ずる困難に陥っていた。

これらを受けて、ディオクレティアヌスは「皇帝1人では限界がある」とし、286年、かつての同僚マクシミアヌスを「共治帝」とし「西方正帝」とした。ディオクレティアヌス本人は、アナトリア半島(現トルコ)の西端、ニコメディアを首都とする帝国の東方を統治し、一方のマクシミアヌスは、メディオラヌム(現ミラノ)を首都とする帝国の西方を治めた。ディオクレティアヌスが東方を取ったことからも分かるように、当時のローマ帝国の重点は東に移っていたのである。

293年、2人の皇帝は各々「正帝(アウグストゥス)」として新たに「副帝(カエサル)」を任命した。つまり、これで東方と西方に2人づつ、計4人の皇帝が置かれたわけである。これがいわゆる四分統治(テトラルキア)になる。帝国に正帝と副帝が2人づつ置かれたことにより、同時に各方面での敵に対処できるようになった。

トルコのローマ遺跡、アフロディシアス293年から305年までのテトラルキアは

東方正帝:ディオクレティアヌス
オリエンス道(現トルコ・シリア・パレスチナ・エジプト)を統治
首都はニコメディア(現トルコのイズミット)

東方副帝:ガレリウス
イリュリクム道(旧ユーゴスラビアと現ギリシア)を統治
首都はシルミウム(現セルビアのスレムニカ・ミトロヴィツァ)

西方正帝:マクシミアヌス
イタリア道(現イタリア・北チュニジア・北リビア)を統治
首都はメディオラヌム(現イタリアのミラノ)

西方副帝:コンスタンティウス・クロルス
ガリア道(現イギリス・フランス・スペイン・ポルトガル・北モロッコ)を統治
首都はアウグスタ・トレウェロルム(現ドイツのトリーア)

このようになる。どの皇帝も、ローマを首都にしていない点には留意しておきたい。

4人の皇帝がほぼ対等に統治しているように見えるが、それはディオクレティアヌスの巧みな政治的手腕によるところが大きい。事実、ディオクレティアヌスが引退した305年以降、四分統治は空回りし始める(後述)。付け加えておくと、四人の序列は「ディオクレティアヌス>東方副帝&西方両帝」である。

なお、本来、ローマ史におけるテトラルキアとは、ディオクレティアヌスによる分割統治を指す用語であり、厳密には四分統治に限らない。したがって、本項ではその始まりをマクシミアヌスが共治者となった286年としている。

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