2020/09/12

四分統治の崩壊 ~ ローマ帝国(12)

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元首政からの脱皮
ディオクレティアヌスの改革は、テトラルキアに限らない。行政、税制、軍制をも大改革し、中央集権化、属州細分化、軍事力強化を進めた。また官僚制が整備されたことにより、軍政と民政が分かれ属州の反乱が小康化した。なお、この軍政と民政の分離は東ローマ帝国にも受け継がれ、テマ制(軍管区制)になった。

ディオクレティアヌスは、オリエント的な儀礼をも導入した。このため、ローマ皇帝は「市民の中の第一人者(プリンケプス)」ではなく「専制君主」となった。

こういった変化によって、ローマ帝国の政体は元首政から絶大な権力集中からなる専制君主制(ドミナートゥス)へと変質した。いわゆる「I am God」である。以後のローマ皇帝、とくに東ローマ帝国の皇帝は、この傾向が強くなる。東方風の専制が明確に始まったため、この時代を中世の始まりということもできよう。

また303年、ディオクレティアヌスは、キリスト教徒の大迫害も敢行した。しかしこれは失敗し、僅か一割されど一割のキリスト教徒を黙らせることができず、結局これが最後の迫害となる。ここに、拡大し続けるキリスト教の勢力を見ることができよう。

以上のように、軍人皇帝の時代、テトラルキアを経て、ローマ帝国は決定的に変質したのだった。

四分統治の崩壊
305年、ディオクレティアヌスがキャベツづくりのために、体調の変化を理由に隠居の身になると、四分統治のバランスが一斉に崩壊した。

ディオクレティアヌスの友、西方正帝マクシミアヌスも「引退するならディオクレティアヌスと一緒」と決めていたため引退。すると東西の副帝ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスが、それぞれ正帝へと昇格した。そうなると、今度は副帝の席が二つ空く。東方副帝にはマクシミヌス・ダイアが、西方副帝にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスが就いた。

東方正帝:ガレリウス up!
東方副帝:マクシミヌス・ダイア new!
西方正帝:コンスタンティウス・クロルス up!
西方副帝:フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス new!

しかし306年、西方正帝コンスタンティウス・クロルスが没する。

すると、東方正帝ガレリウスは次期西方正帝の座に、西方副帝のセウェルスを就けようとした。つまり、そのまま昇格させようと。ところがややこしいことに、亡くなったコンスタンティウス・クロルスの息子コンスタンティヌスが軍に担がれると、コンスタンティヌスもまた「我こそ西方正帝なり!」と高々に宣言した。

つまり、西方正帝の座を巡って

西方副帝セウェルス V.S. 亡き西方正帝の息子コンスタンティヌス

が相争う形となったのである。

さらにさらに、ディオクレティアヌスの友マクシミアヌス(元西方正帝)の息子、マクセンティウスも、また「父ちゃんが元西方正帝なら、息子の俺こそ西方正帝!」と言い始め、307年、西方副帝セウェルス(上のコンスタンティヌスと争ってた)を殺害、西方正帝の位を要求した。

亡き西方正帝の息子コンスタンティヌス V.S. 元西方正帝の息子マクセンティウス

さらにさらに、息子の帝位僭称を正統化すべく、元西方正帝マクシミアヌス(ディオクレティアヌスの友)が現役復帰、再び正帝を宣言した。

内乱勃発
東方正帝:ガレリウス
東方副帝:マクシミヌス・ダイア
自称西方正帝:
コンスタンティヌス new!
マクシミアヌス(元西方正帝) new!
マクセンティウス(↑の息子) new!
西方副帝:不在

元西方正帝マクシミアヌスは、息子マクセンティウスの実権獲得の大義名分として、正帝を称した。東方正帝ガレリウスに一度、勝利していたマクシミアヌスは、同じく自称西方正帝のコンスタンティヌスに娘を嫁がせることで、味方とすることに成功。

しかし308年、何を思ったか元西方正帝マクシミアヌスは、息子マクセンティウスへ向けて挙兵。息子の飾り物、というのが気に食わなかったのだろう。が、ローマ市へと進軍するも、あえなく敗れた。

それをうけ、同年、東方正帝ガレリウスと先帝ディオクレティアヌス、そして元西方正帝マクシミアヌスは会議を開いた。結果、東西の帝位は次のようになる。

東方正帝:ガレリウス
東方副帝:マクシミヌス・ダイア
西方正帝:リキニウス new!
西方副帝:コンスタンティヌス new!

しかし、マクシミアヌスの息子マクセンティウスは、依然としてイタリア道、すなわちイタリアとアフリカを支配していた。また、東西の副帝であるマクシミヌス・ダイアとコンスタンティヌスは、新たに西方正帝となったリキニウスより下、という処遇に納得がいかなかった。結果、東西の副帝は「正帝」と自称する。

かくして、壮絶な帝位の奪い合いが始まる。310年、自称西方正帝コンスタンティヌスは、元西方正帝マクシミアヌスを反逆の罪で処刑。さらに311年には東方正帝ガレリウスが亡くなり、312年にはイタリア道を支配していたマクセンティウスがコンスタンティヌスと対決するも、敗れ戦死した。一方313年、東方副帝マクシミヌス・ダイアは、西方正帝リキニウスと対峙し敗れ、この世を去った。

結果として、コンスタンティヌスとリキニウスだけが残った。

324年、コンスタンティヌスは、最後にして因縁であった敵リキニウスを倒し、「唯一の正帝」を宣言。こうしてローマ帝国は、再び1人の皇帝が統治する国家となった。

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