2020/10/17

後漢(1)

 後漢(中国語: 東漢、拼音: Dōnghàn25 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

 

前漢は王莽により簒奪されたが、呂母の乱が勃発したのを皮切りに全国で反乱が起こり、最終的に南陽(現在の河南省南陽市)の皇族傍系の地方豪族である光武帝により平定された。

 

銅馬や赤眉など多くの民衆叛乱を吸収して自らの勢力とした光武帝は、民衆は疲弊し、それが兵糧を給じる軍兵は相対的に多いため、材官、騎士、都尉などの地方の駐在軍を廃止し、徴兵制から少数の傭兵制へと切り換えた。また、本来は中継ぎが役目である尚書を使い、三公ら大臣の権力を奪い皇帝へと集中させた。しかし、後に皇帝が若くして亡くなると権力は真空となり、皇帝の権力を利用できる宦官と外戚による権力争い、それに儒教の振興による地方豪族出身の知識人官僚の反抗が展開された。政局の混乱に耐えかねて民衆叛乱が頻発するようになっても、地方軍備の欠如が裏目に出て為すすべがなかった。

 

光武帝と第2代明帝を除いた全ての皇帝が20歳未満で即位しており、中には生後100日で即位した皇帝もいた。このような若い皇帝に代わって政治を取っていたのは豪族、特に外戚であった。第4代和帝以降から、外戚は権勢を振るうことになった。宦官の協力を得た第11代桓帝が梁冀を誅殺してからは、今度は宦官が権力を握るようになった。宦官に対抗した清流派士大夫もいたが、逆に党錮の禁に遭った。

 

外戚、宦官を問わずに、この時期の政治は極端な賄賂政治であり、官僚が出世するには上に賄賂を贈ることが一番の早道だった。その賄賂の出所は民衆からの搾取であり、当然の結果として反乱が続発した。その中でも最たる物が184年の張角を首領とした黄巾の乱であり、全国に反乱は飛び火し、実質的支配者であった10人の大宦官(十常侍)はその多くが殺され、混乱に乗じて董卓が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。

 

その後は、曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る。後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡であった。220年、曹操の子曹丕に献帝は禅譲して後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。

 

献帝(劉協)は魏によって山陽公に封じられ、その死後は孫の劉康が跡を継いだ。魏に取って代わった西晋でも、この待遇は引き継がれたが、劉康の孫である劉秋の代に、永嘉の乱で漢(匈奴)により殺害された。

 

魏では漢王朝の宗室は禁錮(公職追放)の扱いを受けていたが、西晋成立後の266年に解除された。

 

特徴

幼帝を仰ぐことによって皇太后が力を持ち、外戚も盛んになり外戚による専断が幾度も見られた。また末期には、外戚を廃することに成功した宦官が、やはり幼帝を傀儡に仕立て上げ政治を壟断した。宦官が増えたのは、皇后府が力を持ったのが原因である。

 

この王朝の皇帝は、極めて短命である。幾人も30代で崩御しており、若くして崩御することから後嗣(跡継ぎ)を残さずに亡くなる皇帝も少なくなかった。このため幼少の皇帝が続出し、即位時に20歳を越えていた皇帝は初代光武帝と第2代明帝の2人だけであり、15歳を越えていた者も章帝(19歳で即位)と少帝弁(17歳で即位)の2人だけであった。ちなみに、最も長寿だったのは初代光武帝(63歳)である。

 

政治

後漢の政治体制は、基本的に前漢から引き継いでいる。

 

前漢から後漢に推移する時の騒乱により人口は、前漢末期の2年の5,767万から後漢初めの57年は2,100万へ減少した。その後は徐々に回復し、157年に5,648万に回復している。しかし、黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1,616万と言う数字になっている。動乱の途中では、これより少なかった。

 

この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる(歴代王朝の全盛期においても、税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には、人口把握は更に困難であったと言われている)。なお、中国の人口が6000万近くの水準に戻るのは隋代であった。

 

官制

後漢の三公は太尉・司徒・司空(初期は大司馬・大司徒・大司空)であり、それぞれ前漢の太尉・丞相・御史大夫に相当する。しかし後漢の政治特徴として、宦官の重用による側近政治が強くなったことがあり、皇帝の秘書役であった尚書が実質的に政治を動かすようになり、三公は実行機関に過ぎなくなっていた。

 

地方制度の主な変更は、前漢武帝期に創設された郡の長官である太守を監察する役職である刺史である。刺史は600石の秩禄であり、2,000石の秩禄である太守に及ばない。これは不都合であるため、元帝の頃に2,000石の州牧と替った。何度か刺史と州牧の制度が入れ替わり、時には刺史と州牧は並立していた。しかし、州が地方行政の最高単位となり、刺史には軍権が無いため、後漢も末期になって地方反乱が続出するようになると、軍権を併せ持つ州牧が地方行政の最高役となった。

 

牧の民政と軍権を併せ持つ権限は強大な物であり、州牧は後には地方の自立勢力となる。黄巾の乱以降の群雄達は、ほとんどが牧を経験している。

 

外戚と宦官

後漢は建国以来豪族の寄せ集め国家であり、豪族は皇帝と婚姻関係を結び、外戚として大きな政治的・軍事的権力を持った。それでも章帝の時までは皇帝が権力を持っていたが、88年に第4代和帝が数え年10歳で即位すると、皇太后竇氏が垂簾政治を行い、その兄の竇憲が大将軍として専権を奮った。これが後漢の外戚の台頭の始めである。

 

その後、92年に和帝は宦官の鄭衆の力を借りて、竇憲らを誅殺する。以降、後漢末まで外戚と宦官の争いが続いた。鄭衆以来、宦官は強大な権力を持ち、侯に封ぜられ、没後は養子によって封地を継ぐようになった。

 

6代安帝の代にも宦官の江京・李閏らの誣告によって鄧氏一族が粛清され(121年)、第8代順帝の治世が開始するにあたっては、閻氏一族が孫程らの宦官(みな侯に封ぜられたので十九侯と呼ばれる)によって粛清される(125年)など、外戚と宦官との間で皇帝の擁立合戦が続く。沖帝・質帝・桓帝の3人の幼帝を次々に擁立して猛威をふるった外戚の梁冀が、宦官の単超ら(五侯)に滅ぼされて以後は宦官が優勢となり(159年)、外戚勢力は一歩後退する。

 

宦官が権力を私物化すると、それを批判し抵抗する知識人たちの世論が高まった。これを清議と呼ぶ。彼らは自らを清流・宦官のことを濁流と呼んで非難し、宦官側は清議派を党人と呼んで弾圧した。豪族の中にも、清議派と共同するものが現れた。

 出典 Wikipedia

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