2025/06/29

朱熹(朱子)(1)

朱熹

朱 熹(しゅ き、建炎4915日〈11301018日〉- 慶元639日〈1200423日〉は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など。諡は文公。朱子(しゅし)と尊称される。

 

本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。

 

「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。

 

その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。

 

生涯

父の朱松

朱熹の祖先は、唐末から五代十国時代の呉にかけての朱瓌(またの名は古僚、字は舜臣)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという。その8世の子孫が朱熹の父の朱松(1097 - 1143年)である。

 

朱松は、字は喬年、歙州婺源県の生まれ。政和8年(1118年)、22歳の時に科挙に合格し、建州政和県の県尉に赴任した。その後、宣和5年(1123年)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、建炎元年(1127年)に靖康の変が勃発し、金軍の侵攻が始まった。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともに転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた。建炎4915日(11301018日)のことである。朱熹の母は歙州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ。

 

その後、しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た。紹興7年(1137年)に臨安府に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは秦檜が政権を握ると決定的になった。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、紹興10年(1140年)に中央政界から追われて饒州知州に左遷された。朱松はこれを拒否し、建州崇安県の道教寺院の管理職となった[10]

 

地方に戻った朱松は、息子の朱熹に二程子の学を教えた。朱松は、もともと羅従彦を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である楊時)、これを朱熹に伝えたのであった。朱松は3年後の紹興13年(1143年)に47歳で死去した。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲(胡安国の従子)・劉勉之・劉子翬(崇安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した。

 

なお、母の祝氏は乾道5年(1169年)に70歳で死去した。

 

科挙合格まで

朱熹は、字は元晦または仲晦。幼い頃から勉学に励み、5歳前後の頃に「宇宙の外側はどうなっているのか」という疑問を覚え、考え詰めた経験があった。父の死後は胡憲・劉勉之・劉子翬のもとで学んだ。朱熹はこの三先生に数年間師事し、直接指導を受けるという恵まれた環境で成長した。ここで朱熹は「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)という方向性が決定づけられ、また一時期禅宗に傾斜した時期もあった。同時に儒教の古典の勉学に励み、18歳の秋に建州で行われた解試(科挙の第一段階の地方予備試験)に合格すると、紹興18年(1148年)、19歳の春に臨安で行われた科挙の本試験の合格し、進士の資格を与えられた。同年の合格者には、『遂初堂書目』の著者として知られる尤袤もいる。

 

朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『楚辞』や禅録、兵法書、韓愈や曾鞏の文章などを読み、学問に没入した。朱熹はこの頃からすでに、従来の経書解釈に疑念を持つことがあった。

 

同安時代

朱熹は24歳の頃、泉州同安県(現在の福建省廈門市同安区)に主簿として赴任し、持ち前の几帳面さで県庁内の帳簿の処理に当たった。また、県の学校行政を任せられ、教官の充実や書籍の所蔵管理に当たった。朱熹の文集には、彼が出題した試験問題が30余り記録されている。主簿の務めは、赴任して4年目の紹興26年(1156年)7月に任期が来たが、後任が来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞した。

 

この間、朱熹は李侗(李延平)と出会い、師事した。李侗は父と同じく羅従彦に教えを受け、「体認」(身をもって体得すること)の思想、道理が自分の身体に血肉化された深い自得の状態を重視した。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたが、彼の禅宗批判を聞いて同調し、禅宗を捨てることとなった。朱熹は24歳から34歳に至るまで彼の教えを受け、大きな影響を受けた。

 

張栻との出会い

紹興27年(1157年)、朱熹は同安を去ると、翌年には母への奉養を理由に祠禄の官を求め、12月に監潭州南学廟に任命された。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的には官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ。朱熹の官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年、朝廷に立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた。

 

隆興元年(1163年)、朱熹34歳の時、師であった李侗が逝去するが、この頃張栻と知り合い、以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響を与え合った。両者が実際に対面したのは数回だが、手紙のやり取りは50通以上に及んでいる。張栻は、湖南学の流れを汲み、察識端倪説(心が外物と接触して発動する已発の瞬間に現れる天理を認識し、涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点を置いた修養法を説いた。乾道3年(1167年)には、朱熹が長沙の張栻の家を訪問し、ともに衡山に登り、詩の応酬をした。朱熹は張栻の「動」の哲学に大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた。

 

四十歳の定論確立

しかし、乾道5年(1169年)春、友人の蔡元定と議論をしている時、自身が誤った解釈をしてきたことに気が付き、大きく考えを改めた。従来、朱熹は察識端倪説を信じ、「心を已発」「性を未発」と考え、心の発動の仕方が正か邪かを省察する、という修養の方法にとらわれていた。しかし、ここに至って朱熹は、心は未発・已発の二つの局面を持っており、心の中に情や思慮が芽生えない状態が「未発」、事物と接触し情や思慮が動いた状態が「已発」であると認識を改めた。

 

これにより、未発の状態でも心を平衡に保つための修養が必要であることになり、朱熹はかつて李侗に教わった「静」の哲学がこれに当たると気が付いた。朱熹は、李侗の「静」の哲学を根底に据えた上で、已発の場での修養として張栻の「動」の哲学を修正しながら組み合わせた。後世、これをもって朱熹思想の「定論」が成立したとされる。これを承けて、張栻の側も認識を改め、朱熹の説に接近した。

2025/06/25

平安京(2)

平安宮北辺拡大説

平安京北端の南側2町分については「北辺(北辺坊)」と呼ばれているが、平安京北端の街路は当初設計では現在の土御門大路の位置にあたり、後に北へ2町拡張し、現在の一条大路の位置に造られたという説がある。

 

この北辺の拡張については、瀧浪貞子の説がもとになっている。

中山忠親の日記『山槐記』に、昔は土御門大路が宮城(大内裏)の北側に接して一条大路と呼ばれ、後に北辺の二町分(約200メートル)を取り込んで宮城を拡張した結果、この大路が一条大路と呼ばれるようになった、という記載がある。このことに基づき、平安京は藤原京と同じく当初は大内裏の北側に空地(北辺)をもつ構造であって、元々12門であった大内裏が平安京造営後に2町分北に広げられ14門となり、平安京北端とされる「北京極大路」が一条大路に、元の一条大路(拡張前の大内裏北端)が土御門大路となったとするのが瀧浪説である。さらには冒頭のように、平安京全体が北に拡張されたとする説も唱えられている。

 

これらの説に基づけば、指図に残る平安京は変更後の姿ということになり、北辺まで大内裏が拡張された時期はおよそ9世紀後半と推定されるが、論拠のもとになった『山槐記』の記載について、この「昔」とは初期の平安京を指すものとは限らず、平安京以前の都城のことを指すのではないかという疑義が示され、さらに「昔」とは後期造営により宮城が北に拡張することになった初期の長岡京のことを指すのが適切であるとの批判があり、いまだ仮説の域を脱していない。

 

歴史

平安京は、延暦131022日(西暦7941118日(ユリウス暦))から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であったとされ、明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失っている。

 

その始めは、桓武天皇の長岡京遷都まで遡る。桓武天皇は、延暦3年(784年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかし、それからわずか9年後の延暦12年(793年)1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10 km2つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地であった。事前に、桓武天皇は現在の京都市東山区にある将軍塚から見渡し、都に相応しいか否か確かめたと云われている。

 

『日本紀略』には「葛野の地は山や川が麗しく、四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。

 

大極殿遺阯碑

(千本丸太町北西)

平安京の造営は、まず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には大極殿が作られた。その後方の東側には、天皇の住まいである内裏が設けられた。

 

都の東西を流れる鴨川や桂川沿いには、淀津や大井津などの港を整備、これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は、都の中にある大きな2つの市(東市・西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ「堀川」(現在の堀川と西堀川)を始めとする河川をいくつも整備し、水運の便に供するとともに生活廃水路とした。

 

そして長岡京で認めなかったように、ここでも官寺である東寺と西寺を除き、新たな仏教寺院の建立を認めなかった(この他、平安遷都以前からの寺院として京域内には六角堂があったとされるが、平安遷都後の創建説もある。また、広隆寺はこの時に太秦に移転されたとされ、京域外の北野上白梅町からは移転以前の同寺跡とみられる「北野廃寺跡」が見つかっている)。なお、建都に当っては、それまで上賀茂付近から真南に流れていた賀茂川(鴨川の出町以北の通称)を現在の南東流に、また出町付近から南西方向に左京域を斜行していた高野川を現在の南流に変え鴨川としたとの説が塚本常雄によって唱えられ、多くの歴史学者に支持された(「鴨川つけかえ説」)。

 

これに対して後に横山卓雄によって否定説が提出され、歴史学者も一転してこの説に従うようになり、現在は「鴨川・賀茂川つけかえはなかった」とするのが有力となっている。ところが、最近になって横山説に疑問を呈する研究者が現れ、塚本の鴨川つけかえ説に対する再評価の動きが活発になりつつあり、現在では「つけかえ説」「非つけかえ説」とも定説とは言えない状況となっている。

 

辛酉。車駕遷于新京。

同十三年十月廿三日。天皇自南京、遷北京。

(略)

丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

『日本後紀』卷第三逸文、延暦1310月及び11月の条。

「此の国は山河襟帯(さんがきんたい)し、自然(おのづから)に城をなす。此の勝(形勝 けいしょう)によりて、新号を制(さだ)むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし。また子来(しらい)の民、謳歌(おうか)の輩(ともがら)、異口同辞(いくどうじ)に、号して平安京と曰(い)ふ」(此の国は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この景勝に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と書き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)。ここに言う「謳歌」とは、遷都の翌延暦14年(795年)正月16日に宮中で催された宴でも歌われた踏歌の囃し言葉「新京楽、平安楽土、万年春(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」を言うのであろう。

2025/06/23

その後のイスラーム哲学

イブン・ルシュドの死とともに「アラブ逍遥学派」と呼ばれるイスラーム哲学の一学派が終わりを迎え、西方イスラム世界、すなわちアンダルスや北アフリカにおける哲学的活動は著しく減退した。一方で東方の国々、特にイランやインドでは哲学的活動がずっと長く存続した。伝統的な考え方に反して、ディミトリ・グータスとスタンフォード哲学百科事典の考えでは、11世紀から14世紀にかけての時代はアラブ哲学・イスラーム哲学の真の「黄金時代」である。この時代はガザーリーが論理学を、マドラサの研究計画や続いて起こったイブン・スィーナー哲学の興隆に統合したことに始まる。

 

西ヨーロッパ(スペインとポルトガル)において、政治的力がムスリムからクリスチャンのコントロール下に移ったため、当然西ヨーロッパではムスリムは哲学を行わなくなった。このことによって、イスラム世界における「西方」と「東方」の交流が幾分か減少することにもなった。オスマン帝国の学者と、特に今日のイランやインドの領域にあったムスリム王国に生きていた学者、例えばシャー・ワリー・ウッラーやアフマド・シルヒンディーといった人々の研究からわかることなのだが、「東方」のムスリムは哲学を続けた。この事実は、イスラーム(あるいはアラブ)哲学を研究していた前近代の歴史家の注意から外れていた。また、論理学は近現代までマドラサで教え続けられた。

 

イブン・ルシュド以降、イスラム哲学後期の多くの学派が興隆した。ここではイブン・アラビー及びモッラー・サドラーが起こした学派などの、ごく少数の学派に言及するにとどめる。しかしこれらの新しい学派は、現在もイスラム世界に生きているのでとくに重要である。その内でも最も重要なのは:

 

    照明学派(Hikmat al-Ishraq

    超越論的神智学(Hikmat Muta'aliah

    スーフィー哲学

    伝統主義派

 

照明学派

照明学派は、12世紀にシャハブッディーン・スフラワルディーが創始したイスラーム哲学の学派。この学派はイブン・スィーナーの哲学と古代のペルシア哲学を、スフラワルディーの多くの新しい革命的な思想と組み合わせたものである。この学派は、ネオプラトニズムの影響を受けてきたとされる。

 

イスラーム哲学の論理学では、論理哲学の思索の歴史の中で重要な革新である「確実的必要性」という概念を発展させた、シャハブッディーン・スフラワルディーが始めた照明学派がギリシア論理学に対する包括的な論駁を行った。

 

超越論的神智学

超越論的神智学は、17世紀にモッラー・サドラーが起こしたイスラーム哲学の学派。彼の哲学と存在論のイスラーム哲学における重要性は、後のマルティン・ハイデッガーの哲学の20世紀西洋哲学における重要性と、ちょうど同じだとされる。モッラー・サドラーはイスラーム哲学において、「真実の本性を扱ううえでの新しい哲学的識見」を獲得し、「本質主義から実存主義への大転換」を成し遂げた。これは西洋哲学で同じことが起こる数世紀前のことである。

 

「本質は実存に先立つ」という考えは、シャハブッディーン・スフラワルディーと彼の学派照明学派どころではなく、イブン・スィーナーと彼の学派アヴィケニズムにまで遡る。対する「実存は本質に先立つ」という考えは、イブン・ルシュドやモッラー・サドラーの著書中でこの考えに対する応答として発展させられており、実存主義の鍵となる根本的な概念である。

 

モッラー・サドラーによれば、「実存は本質に先立ち、そして本質があるためには実存が先立って存在しなければならないので、実存は原理である。」 このことは、第一にモッラー・サドラーの超越論的神智学の中核に据えられた主張である。サイード・ジャラル・アシュティヤーニーは、後にモッラー・サドラーの思想を要約して以下のように述べた。

 

「実存は本質を有するなら、引き起こされて純粋な実存でなければならない。それゆえ実存は必要な存在である。」

存在論(あるいは存在神学)の、つまりハイデッガーの思想や形而上学史批判による比較を経由した研究の現象学的方法の術語において、イスラーム哲学者(および神学者)に関する思想の術語でより繊細なアプローチが必要とされた。

 

論理学

ガザーリーの論理学と、11世紀のマドラサの学習計画との首尾よくいった統合によって、論理学、主にイブン・スィーナーの論理学を重視した活動が盛んになった。

 

イブン・ハズム(994 - 1064年)は、著書『論理学の射程』で知識の源泉としての知覚の重要性を強調した。ガザーリー(アルガゼル・1058–1111年)は、カラームにおいてイブン・スィーナー論理学を用い、神学における論理学の使用に対して重要な影響を及ぼした。

 

ファフルッディーン・アル=ラーズィー・アモーリー(b. 1149)は、アリストテレスの「三段論法第一格」を批判して、ある種の帰納論理を構築した。これは、後にジョン・スチュアート・ミル(1806 - 1873年)が発展させた帰納論理を予示するものである。イスラーム哲学の論理学では、論理哲学の思索の歴史の中で重要な革新である「確実的必要性」という概念を発展させたシャハブッディーン・スフラワルディーが始めた照明学派が、ギリシア論理学に対する包括的な論駁を行った。イブン・タイミーヤ(1263 - 1328年)が、ギリシア論理学に対するもう一つの包括的な論駁を行っている。『ギリシア論理学者に対する論駁』(Ar-Radd 'ala al-Mantiqiyyin)において、三段論法に関して妥当性には異論はないが有用性がないと主張して、帰納的推論の方を好んでいる。

 

歴史哲学

歴史学を主題とする最初の研究と、歴史学研究法に対する最初の批判的考察はアラブ人でアシュアリー派の博学者イブン・ハルドゥーン(1332 - 1406年)の作品に現れる。彼は、特に『歴史序説』(「プロレゴメナ Prolegomena」とラテン語訳される)と『助言の書』(Kitab al-Ibar)を書いたことで、歴史学、文化史、歴史哲学の父とされる。また、彼の『歴史序説』によって歴史上の主権国家、コミュニケーション、プロパガンダ、組織的バイアスの研究の基礎が築かれていて、彼は文明の盛衰を論じている。

 

フランツ・ローゼンタールは著書『ムスリム歴史学の歴史』で、以下のように述べている:

 

「ムスリム歴史学は、歴史的にイスラーム圏の学問一般の発展と密接に結び付いてきた。イスラーム圏の教育における歴史的知識の地位は、歴史に関する文献の知的レベルに決定的な影響を及ぼしてきた。

ムスリムは歴史の社会学的理解と歴史学の体系化において、歴史の文献の中で一定の成果を上げてきた。近代歴史学的文献の発展は、それによって17世紀以降の西洋の歴史家が異文化の目を通して、世界の広い領域を見ることができるようになったところのムスリムの著作の利用を通じて、速度と内容において相当に進んできた。間接的にムスリム歴史学によってある程度今日の歴史思想が形作られた。」

 

社会哲学

最も有名な社会哲学者は、アシュアリー派の博学者イブン・ハルドゥーン(1332 - 1406年)で、彼は北アフリカでは最後の有名なイスラーム哲学者である。彼の『歴史序説』では、構造的結束性や社会的軋轢の理論を定式化する上で、先駆的な社会哲学の理論が発展させられている。

 

また、『歴史序説』は、7巻からなら普遍史の分析の序論でもある。彼は社会学、歴史学、歴史哲学の話題を初めて詳細に論じたため、「社会学の父」、「歴史学の父」、そして「歴史哲学の父」である。

2025/06/19

平安京(1)

平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、日本における古代最後の宮都。794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都。

 

桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の長安城を模して793年(延暦12年)から建設された。翌794年(延暦13年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。

 

遷都以来、平清盛により断行された福原遷都(1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って都として機能し、1869年(明治2年)まで続いた。今日の京都市街が形成されるに至る。

 

概要

建造地の選定、範囲、都市計画

新都建設地の選定にひそかに入った桓武天皇は、792年(延暦11年)1月そして5月、狩猟をよそおって、候補地の一つであった山背国葛野郡宇太村を訪れた。さらに翌793年(延暦12年)には、大納言の藤原小黒麻呂や左大弁の紀古佐美らも派遣し、同地を確認・検討させた。その結果ここが建設地と決まり、新都市建設計画、遷都計画が動き出し、と同時に長岡京の取り壊しが始まった。

 

当時の山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地(結果として、現在の京都市街となった地)に東西4.5 km、南北5.2 kmの長方形の都城として計画された。

 

平安京の計画の大枠(平面計画)は、基本的に中国の隋・唐の長安城を手本としたものであり、またやはり長安を模した日本の平城京・長岡京を踏襲したものでもある。都市全体が四角形で、左右対称で、街路が「碁盤の目」状に整然と直交するように設けられ、市街の中心に朱雀大路を南北方向に配置し、政治の中心となる大内裏は朱雀大路の北、都の北辺に設けられた(「北闕型」)。

 

朱雀大路によって分けられた京域の東西を、それぞれ左京・右京と呼んだ(「左・右」はあくまで内裏側から見ての左右である)。また、後には大内裏の南を東西に走る二条大路の北を「上辺」(かみのわたり)、南を「下辺」(しものわたり)、さらには「上京」(かみぎょう)、南を「下京」(しもぎょう)と呼ぶようになり、これが地形も相俟って現代の京都で北に行くことを「上ル」、南に行くことを「下ル」と呼ぶことに繋がる。手本となった長安城は羅城(=都市を囲む城壁)で囲まれていたのに対して、平安京では京域南辺の入り口である羅城門の左右の短い部分を除き、羅城は造られなかったと考えられている。

 

この地の選定は、中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。この四神とは北・玄武、東・青龍、西・白虎、南・朱雀の霊獣をいうが、選地にあたりこれを「山」「川」「道」「沢」に当てはめ、それぞれを船岡山、鴨川、山陰道、巨椋池といった具体的な地物に擬したというものである。この考えは通説となっているものの、現在では否定する研究者も少なくない。それは、平安京が四神相応の地として造られたことが平城京とは異なり不明である上に、四神を山川道沢とするのは宅地の風水に見られる考え方で、本来都市の風水でもって占地すべき都の四神とは別のものであることなどを理由とするものである。

 

平安京の範囲は、現代の京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地は、JR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。

 

京内は東西南北に走る大路・小路によって、40丈(約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町には、それぞれ番号が付けられていた(『条坊制』。これにより、それぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため、街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。

 

道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても、造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった。また、堀川小路と西堀川小路では、中央に川(堀川、西堀川)が流れていた。

 

宮城の平安宮

平安京の北部中央には、天皇が身を置き、まつりごとが行なわれる施設群となる宮城(大内裏)の平安宮が建造された。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(「朝堂院」、朝堂院の正殿が「大極殿」)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立った。

 

なおそれらは、平安京の衰微とともに、太政官庁など大内霊場(おおうちれいじょう)と呼ばれた4つの建物を残して荒廃し、後にこれらも倒壊して遂に当時の大内裏を偲ばせるものはすべて無くなってしまった。ただし、新たな内裏である京都御所が建設されるとこれを平安宮と称するなど、その名が完全に忘れ去られることはなかった。

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(6)

ユダヤ人における影響

同時代のマイモニデスは、イブン・ルシュドの作品を熱狂的に受け入れた初期のユダヤ人学者の一人で

「イブン・ルシュドがアリストテレスの作品について書いたものをすべて受け取った」、「イブン・ルシュドは極めて正しい」

と述べた。また

「アリストテレスは難解であり、それを理解するにはアレクサンドロスかテミスティオス、あるいはイブン・ルシュドの註解によらなければならないと」

と述べた。

 

サムエル・イブン・ティッボーンは『哲学者の意見』において、ユダ・イブン・ソロモン・コーヘンは『知恵を探求』において、シェームトーヴ・イブン・ファラクェラなど13世紀のユダヤ人思想家は、イブン・ルシュドのテキストに大きく依存していた。

 

1232年、ヨセフ・ベン・アッバ・マリがイブン・ルシュドのオルガノン註解を翻訳した。これがユダヤ人による最初の翻訳である。1260年、モーセ・イブン・ティッボーンが、イブン・ルシュドのほとんどの註解といくつかの医学書を翻訳した。ユダヤにおけるアヴェロエズムは、14世紀にピークを迎えた。これらの翻訳に影響を受けたユダヤ人には、アルルのカロニュモス・ベン・カロニュモス、マルセイユのサムエル・ベン・ユダ、アルドのトドロス・トドロスィ、ラングドックのゲルソニデスがいる。

 

西欧における影響

キリスト教圏西欧での主な影響は、アリストテレスの広範な彼の解説によるものであった。西ローマ帝国崩壊後、西ヨーロッパは文化の衰退に陥り、アリストテレスを含む古典的なギリシャ人の知的遺産のほとんどが失われた。13世紀に翻訳されたイブン・ルシュドの註解は、アリストテレスの専門的な説明を提供し、再びアリストテレスの利用を可能とした。イブン・ルシュドは、その影響の大きさから名前ではなく、単に「注釈者」(Commentator)と呼ばれた。

 

1217年にパリとトレドで始まったラテン語訳の最初の語訳者ミカエル・スコトゥスは、自然学、形而上学、霊魂論、天体論の各大註解を翻訳した。これに続いてヘルマンヌス・アレマンヌス、ルナのウィリアム、モンテペリエのアルマンゴーなどが、時にはユダヤ人の助けを借りて他の作品を翻訳した。その後、まもなくキリスト教徒の学者の間に広まった。それらは、ラテン・アヴェロイストとして知られる強固なサークルを引き付けた。パリとパドヴァはアヴェロイズムの主要な中心地であり、13世紀の主要な人物としてブラバンのシゲルスやダキアのボエティウスがいた。

 

ローマ・カトリック教会は、アヴェロイズムの蔓延に反対した。1270年、パリ司教エティエンヌ・タンピエは、15の教説に対して教会の教義と反していると非難した。1277年、教皇ヨハネス21世の依頼によってタンピエは別に非難を発し、アリストテレスとアヴェロエスの教説から219の論説を対象とした。

 

13世紀の主要なカトリック教会の思想家トマス・アクィナスは、アヴェロエスのアリストテレス解釈に大いに頼っていたが、多くの点で彼に反対した。例えば知性単一論に対して詳細な反論を書いた(『知性単一論(フランス語版)』)。また、宇宙の永遠性と神の摂理についても反対した。

 

1270年と1277年のカトリック教会の非難とトマス・アクィナスの反駁は、ラテン・キリスト教世界においてアヴェロイズムの広がりを弱めたが、影響はヨーロッパがアリストテレス主義から脱却し始める16世紀まで続いた。14世紀にはジャンダンのヨハネス、パドゥアのマルシリウス、15世紀ティエネのガエターノ、ポンポナッツィのピエトロ、16世紀マルカントニオ・ツィマラなどのアヴェロイストが存在した。

 

イスラム圏における影響

イブン・ルシュドは、現代に至るまでイスラームの哲学的思想に大きな影響を与えなかった。理由の一つとして地理があり、イブン・ルシュドはイスラーム文明の最西端であるイベリアに住んでいた。また彼の作品は、東方のイスラーム教学者には知られていなかったのかもしれない。しかし、イブン・ハルドゥーンと彼の師アービリーはそれを知っており、一部その注釈を書いた。19世紀になり、イスラーム思想家は再びイブン・ルシュドと関わり始めた。アン・ナフダ(an-Nahda覚醒)と呼ばれる文化的ルネッサンスがあり、イブン・ルシュドの作品はイスラーム教徒の知的伝統を近代化するためのインスピレーションと見なされた。

 

一般文化における影響

1320年に完成したダンテ・アリギエリの『神曲』において、辺獄に古代ギリシア人およびイスラーム思想家の中にイブン・ルシュドを描写している。チョーサーの『カンタベリー物語』のプロローグでは、当時知られていた医家のリストのなかにイブン・スィーナーやアッラーズィーとともに彼の名がある。また、ヴァチカン宮殿を飾るラファエロのフレスコ画「アテナイの学堂」には、その姿が描かれている。ユーセフ・シャヒーンによる1997年のエジプト・フランス映画『Destiny』(邦題炎のアンダルシア)は、イブン・ルシュド死後800年を記念して作られた。

 

スターフルーツやビリムビを含む植物類名である″アヴェロア”(Averrhoa)、月面クレーター"ibn Rushd"、小惑星"8318Averroes"は、彼の名にちなんで名づけられた。

2025/06/14

長岡京

長岡京は、山城国乙訓郡にあった奈良時代末期(または平安時代初期)の都城(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。

 

延暦3年(784年)1111日、第50代桓武天皇により平城京から遷都され、延暦13年(794年)1022日に平安京に遷都されるまで機能した。

 

概要

長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40キロメートルの長岡の地に遷都して造営され、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。また、造営地の南東には当時、巨椋池が存在し、ここも物流拠点として期待された。

 

発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていたと言える。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。

 

桓武天皇は、自らの宮殿を街より15メートルほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。

 

歴史

「続日本紀」に、桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。

「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。その他の理由として、

 

    既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く

    新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係

    父の光仁天皇の代から、天智系に皇統が戻ったことによる人心一新

    難波津の土砂の堆積によって、ここを外港としてきた大和国が東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国の経路が成立したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)

などの説がある。

784年(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武天皇は天武系とは異なる天智系の天皇であった。

 

785年(延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。

 

しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王も、この叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。

 

親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、792年(延暦11年)610日にその原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2か月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害を蒙った。

 

このことから、治水担当者であった和気清麻呂の建議もあって、793年(延暦12年)115日には再遷都のための公式調査が葛野郡宇太村で行われた。2月には賀茂大神への再遷都奉告、3月には再遷都先の百姓に立ち退き補償が行われ、再遷都作業が始まった。そして長岡京への遷都から、わずか10年後となる翌794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。

 

もっとも、789年(延暦8年)の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は姿を消しており、791年(延暦10年)平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されていることから、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と、新たな都の計画が進められていたと考えられている。

 

平安京への遷都後の旧長岡京地域は菅原道真の領地になったとされ、901年(昌泰4年)に道真が失脚した昌泰の変に際して、在原業平が贈った木像を神体とした長岡天満宮に「長岡」の名が残った。また、旧長岡京地域の南西側を占める地域は1949年(昭和24年)の3村合併で「長岡町」、1972年(昭和47年)の市制施行で「長岡京市」となり、行政区域名で「長岡京」の名前が復活した。同市内にあったJR西日本東海道本線(JR京都線)の神足駅は、1996年(平成8年)に「長岡京駅」と改称している。

 

発掘調査

長岡京は近年まで「幻の都」とされていたが、1954年(昭和29年)より、西京高校教員であった中山修一(後、京都文教短期大学名誉教授)と、その教え子であった袖岡正清(NHKブックス74[長岡京発掘]より抜粋)を中心として発掘が開始され、翌1955年(昭和30年)、大内裏朝堂院の門跡が発見されたのを皮切りとして、1962年(昭和37年)大極殿跡が発見され、今日までにかなり発掘調査が進み、1964年(昭和39年)に国の史跡に指定された。1967年(昭和42年)、内裏内郭築地(ついじ)回廊北西部が確認され、1979年(昭和54年)内裏南方の重要官衙の存在を証明する遺構として大規模な築地塀が発見された。

 

発掘の結果、わかったことは次の通りである。

 

    未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、かなり完成した姿であった

    平城京、平安京と並ぶ京域を持つ都であった。

 

遺跡の一角で、2003年に日本電産(現:ニデック)の本社建設が行われることとなり、事前に調査が行われた。出土した墨書土器の文字によって、桓武天皇が長岡京から平安京に移る1年余りの間、滞在した長岡京東院であることが判明した。日本電産では学会などの保存要望に応えようと、地下に遺跡を保存するため当初の設計を大幅に変更して施工された。社屋では、発掘された出土品一部を展示している。

2025/06/13

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(5)

宇宙の無始

イブン・ルシュド以前の何世紀にも渡り、ムスリム思想家の間に宇宙は特定の瞬間に創造されたのか、それとも常に存在していたのかについて論争があった。アル・ファーラービーやイブン・スィーナーなどの哲学者は、世界は常に存在したと主張した。この主張は、アシュアリー派の神学者によって批判された。特にアル・ガザーリーは、この宇宙の永遠説について広範な反論を書き、彼ら哲学者の不信(Kufr)を非難した。

 

これに対してイブン・ルシュドは『崩壊の崩壊』において、アル・ガザーリーに答えた。第一に、この二つの立場の違いは不信(Kufr)の罪に当たるほど広大なものではないと主張した。また、この宇宙永遠説はクルアーンに矛盾しないとも述べ、クルアーンにおける創造に関連した箇所、「王座」「水」について言及する句を引用した。クルアーンを注意深く読めば、宇宙の形態だけが時間内に創造されたことを暗示するが、その存在そのものについては永遠と主張した。

 

政治

イブン・ルシュドは、プラトンの『国家』の注解において自身の政治哲学を述べる。彼は自分の考えをプラトンとイスラームの伝統とに組み合わせて、理想的な国家はイスラーム法に基づいたものであるとする。プラトンの言う哲学者王を、アル・ファーラービーに従ってそれをイマーム、カリフと等しいものとみなす。

 

市民に美徳を与える方法は、説得と強制の二つであるとする。説得は修辞的、弁証的、論証的であり、より自然的な方法である。しかし、説得の通じない者には強制が必要である。従って最後の手段として戦争を正当化する。それゆえに、統治者は知恵と勇気の両者を持つべきであり、それは国家の統治と防衛のために必要である。

 

プラトンのように、イブン・ルシュドは兵士、哲学者、支配者たちとして参加することを含めて、国家の統治において女性に男性と共有することを求めている。同時代にイスラーム社会が女性の公共の役割が制限されていることを残念に思い、これを国家の幸福に有害であると言う。

 

理想的な状態からの劣化というプラトンの考えを受け入れ、イスラーム史における正統カリフ時代からウマイヤ朝への移行の例を挙げる。

 

自然哲学

天文学

イブン・バーッジャとイブン・トゥファイルと同様に、イブン・ルシュドはプトレマイオスの体系を批判し、月、太陽、惑星の見掛け上の動きを説明するために導入した従円と周転円を否定した。彼はアリストテレスの原理に従って、地球の周りを厳密に円運動すると主張した。惑星運動には三つあると仮定し、肉眼で見ることができるもの、観察するために道具が必要なもの、哲学的推論によってしか知ることができものに分けた。イブン・ルシュドは当時のアラビアやアンダルシアの天文学者によって、一般的に行われていた単なる数学に基づくものではなく、自然学に基づくものとして天文学を再定義しようとしたが、それは未完成に終わった。

 

『形而上学大註解』最終巻において、彼は言った。

「私の若い頃に、この研究は私によって完成されると意気込んだのであるが、今や老年となって私はそれを諦めている。しかし恐らく、この問題は他の誰かが、この研究に取り組むことになるであろう」

 

自然学

自然学においては、イブン・ルシュドはアル・ビールーニーによって開発された帰納法を採用せず、むしろ今日の自然学に近い。科学史家のルツ・グラスナーの言葉によれば、彼はアリストテレスの著作の議論を通して、自然について新しい論説を生み出した“釈義的”な科学者であった。彼は、しばしばアリストテレスの非創造的な追従者と描かれたが、グラスナーはイブン・ルシュドが非常に独創的な自然学の理論を導入したと主張する。特に彼のアリストテレスのミニマ・ナトゥラリア理論と、フォルマ・フルエンスとしての運動についての精緻化は、西洋において取り上げられ物理学の全体的な発展にとって重要であった。また「物質の運動状態を変化させるのに働く仕事の割合」として力の定義を提案した。これは、今日の物理学における力の定義に近い定義である。

 

心理学

イブン・ルシュドは、アリストテレス『霊魂論』に関する三つの註解で、心理学に関する彼の考えを詳述している。彼は哲学的方法を用い、アリストテレスの考えを解釈することによって人間知性を説明することに興味を持っている。彼の考えが発展するにつれて彼の立場は変化していった。

 

最初に書かれた小註解では、「素材的知性」は人が遭遇する特定のイメージ(表象)を保持するというイブン・バーッジャの理論に従う。これらのイメージは、普遍的な「作用知性」によって「統一」のために基体として役立ち、それが起こることによって、人はその概念について普遍的な知識を得る。

 

中註解では、アル・ファーラービーやイブン・スィーナーの考えに近づき、作用知性は人間に普遍的な理解の力を与え、それが素材的知性であるとした。人がある概念と十分な実験的な逢着を持てば、その力は活性化されて人に普遍的知識を与える。

 

大註解において、「知性単一論」として知られるものを提案した。そこでイブン・ルシュドは唯一の素材的知性を主張し、それはすべての人間において同一であり、またそれは身体と混合するものではない。この理論は、キリスト教圏の西欧に入ったとき論争を巻き起こした。1229年、トマス・アクィナスはアヴェロイストに対して知性単一論の反駁を書いた。

2025/06/09

和気清麻呂(2)

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生涯

和気氏は備前国藤野郡の豪族。清麻呂は姉の広虫と共に朝廷に仕え、清麻呂は「藤原仲麻呂の乱」の鎮圧などで手柄を挙げていた。淳仁天皇が廃されてから践祚した孝謙上皇(称徳天皇)から目をかけられていた僧侶の道鏡は仲麻呂死後、大臣禅師・太政大臣禅師と出世をとげ、文武百官に礼拝され、ついに官の最高位であり天皇に準じる法王にまでのぼりつめた。

 

神護景雲3年(西暦769年)、大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曾麻呂が「法王の道鏡を天皇にすれば天下泰平となるだろう」との宇佐八幡宮の神託があった事を伝えた。

 

そこで称徳天皇は最初広虫を遣わそうとしたが、彼女の体調のこともあり弟の清麻呂を神託の真偽を確かめるため、宇佐に遣わした。出発に際し、道鏡は清麻呂に対し、「良い返事をもって帰れば、貴公に高位高官を与えよう」と語ったと言う。

 

しかし、八幡大神から

 

わが国、ひらけてより以来、君臣さだまりぬ。臣をもちて君とすることは、いまだあらず。

天つ日嗣は、かならず皇緒を立てよ。無道の人はすみやかに払い除くべし。

 

という神託があり、清麻呂はそのまま天皇に報告申し上げた。上皇(と道鏡)は怒り、清麻呂の官職を解いて左遷した。姓もいやしい「別部」、名も「穢麻呂」に改めさせられ、広虫共々流罪になった。

 

こののち、道鏡の即位は立ち消えとなった。称徳天皇が崩御されると、皇太子の白壁王が藤原永手らの後押しを受けて即位。光仁天皇や永手らにより力を失った道鏡は、下野国の薬師寺別当に左遷された。のち広虫と清麻呂は罪を解かれ帰京。清麻呂も官位を従五位下に戻された。最終的には従三位まで昇るが失脚もせず、死後には正三位を贈られ、地方豪族としては異例の出世を果たしている。

 

復権から10年近くを経て、桓武天皇の即位とともに一気に四ランクアップの従四位下になり、清麻呂の人生は大きく転換していくこととなる。

 

清麻呂は、藤原種継や坂上苅田麻呂・田村麻呂父子らと共に桓武天皇の有力な側近と見られている。桓武天皇は旧来の仏教勢力から訣別し、その宿弊から逃れて政治を立て直すとともに、仏教そのものを新生させる狙いを持っていたが、これは清麻呂も同じであり摂津識の長官として長岡京遷都へのムードづくりをし、長岡京造営に手柄で従四位上の位階を与えられた。ただし長男の和気広世は、種継暗殺事件に連座して一時禁錮刑になっている。

 

遷都後も造営に8年の歳月をかけ、完成も近くなった長岡京に2度も大水害が起こった。そこで真っ先に平安遷都を提案したのは、河川の改修工事の責任者であった清麻呂であった。後に清麻呂は造宮大夫(長官)に任命され、平安京造営事業全体の責任者になった。

 

平安京はこののち、途中の平清盛の福原(神戸市)遷都を除き、明治2年に江戸(東京)遷都まで帝都として存続した。

 

また国内体制の整備の面でも、国民や農地の管理にあたる民部省の長官をつとめた清麻呂は、省内に蓄えられた施行細則としての「例」を集成した『民部省例』20巻をまとめている。

 

和気清麻呂が登場する作品

里中満智子の「女帝の手記」

仏教に帰依して法均と称した姉の広虫と同様、女帝・孝謙上皇に仕える若き青年官吏で生真面目な性格。淳仁天皇を擁立した藤原仲麻呂の圧政に対し、吉備真備や道鏡と共に孝謙上皇に与して立ち向かう。称徳天皇として復位した女帝の信認を得るが、清麻呂自身は天皇の道鏡への偏愛を疑問視するようになる。

 

宇佐八幡宮事件では、当初天皇の意を受けて「道鏡に皇位を讓る」神託をもたらすつもりだったが、都への帰路に刺客の襲撃から偶然の落雷に救われたことに「神意」を感じ、苦悩の末に神託の政治利用を神への冒涜と考え翻意する。結果、天皇に反対派への寝返りを疑われ、姉と共に流罪となった。

 

国際情報社の「道鏡」(イラストは山田ゴロ氏)

丸顔で温和な中年の男性で描かれるが、どこか中国の軍師風。当初はまともな僧だったが野望に狂いつつある道鏡の姿に疑問を感じ、恫喝を受けたときには義憤に駆られる。続日本紀に記されたように、正当な神託を伝えたために叱責され都を追い出された。

 

小林よしのりの「天皇論」シリーズ

奈良時代の官僚らしく唐風の衣冠に身を固め、恰幅の良い美髯の男性でやや中国風。初期シリーズこそ淡々とした扱いだったが、「女性天皇の時代」では法や皇統に対して馬鹿正直なまでに生きたことを熱く書かれる一方、「わけのわからんきよまらん仕打ち」と言う親父ギャグにされるなどネタ扱いされる。

 

少年少女日本の歴史(小学館)

皇室と国家に忠誠を誓う名臣…だが、道鏡の豹変ぶりと彼が有罪か無罪かも疑わしい部分もあるのと、女帝&道鏡がメインと言うこともあって影が薄い。

 

両さんの日本史大達人(集英社)

服は唐風だが冠は日本風、あごひげと角ばった顔が特徴。小悪党の道鏡が「わしが天皇になってやる」と嫌らしくほくそ笑んでいる所に「神のお告げだ、許さん!」と登場して簒奪の危機を防ぐ正義の味方である。

 

余談

1890年に発行された改造十円札から終戦の直前まで、十円紙幣の肖像として採用されている。和気清麻呂の他には猪や、彼を祀った護王神社が印刷されていた。

 

出身地である岡山県には清麻呂にちなんだ和気町という町があり、同じく彼を祀った和気神社という神社もある。ちなみに和氣神社、護王神社はともに狛犬の代わりに猪が配置されている。これは、流罪になったときに刺客に命を狙われそうになった清麻呂の前に大きな猪が現れ、背中に乗せて走ったことにより彼を助けたという伝説があるからである。

2025/06/08

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(4)

医学著作

ムワッヒド朝の宮廷医であったイブン・ルシュドは、多くの医学論文を書いている。もっとも有名なのは「医学大全」(Kulliyat fit-tibb;ラテン語Colliget)であり、1153年から1169年の間に書かれ、凡そ90年後にはヘブライ語とラテン語に翻訳された。宮廷医になる前に書かれ、医学の一般的かつ不可欠な要素を抽出することを求められている。七巻に分けられ、解剖学、生理学、病理学、診断、治療学、衛生学、病気の治療の各科を論じている。より広域な部分では薬理学と栄養学に及び、300の単純薬と食物について述べられている。ラテン語訳は、何世紀に渡って西洋の医学の教科書となった。またガレノスの作品の要約やイブン・スィーナーの『医学の詩』についての註解を表した。

 

イブン・ルシュドは解剖学に大きく興味を示し「解剖の実践は信仰を強める」と言い、人体について「神の驚くべき技」という見解を述べた。神経学においてパーキンソン病の存在を示唆し、網膜に光受容体を帰属せしめた。脳卒中の研究において、東ローマ時代のガレノス派の医師の単純なモデルを詳細な分類に置き換え、アッ・ラーズィーやイブン・スィーナーの研究を補完し、脳血管に基づく病因を提示した。生殖器科では勃起不全の問題を特定し、治療のために薬物療法を処方した最初の一人である。この治療のために、いくつかの方法を使用した。殆どが経口薬であったが、一部では経尿道的手段が採られた。また1世紀の医師アンドロマコスが開発したと言われる蛇毒の解毒剤テリアカに関しての研究を行った。

 

友人である臨床医イブン・ズフルに依頼し、身体の諸部分についての治療についての医書を書いてもらい、それを『治療と管理についての簡便の書』(Kitab al-Taysir fi 'l-muddawat wa 'l-tadbir)と呼んだ。これは『医学大全』と併せて包括的な医学的教科書となり、ヨーロッパでは18世紀まで教えられた。

 

法学著作

イブン・ルシュドは、裁判官としてイスラーム法の分野で複数の作品を表した。今日現存しているのは『ムジュタヒドの入門』であり、スンナ派の諸法学派の実践と法理の違いを説明している。彼はマーリク学派裁判官としての地位にもかかわらず、リベラル、保守を問わず他学派の意見についても論じている。

 

『論説の決定』(fasl al-maqal)は、宗教と哲学の両立性を主張する1178年に書かれた論文である。『証明の方法の説明』は、1179年にアシュアリー神学派を批判するために書かれた。

 

哲学的見解

イスラーム哲学者の伝統におけるアリストテレス

彼はアリストテレス哲学に回帰しようとしたが、それはアル・ファーラービーやイブン・スィーナーのようなネオ・プラトニズム的なムスリム哲学者によって歪められていたからであった。アリストテレスがプラトンのイデア説を拒絶したように、彼はプラトンとアリストテレスの思想を融合させようとする試みを拒絶した。彼はまたアリストテレスを誤って解釈した、アル・ファーラービーの論理についての作品を批判した。また中世イスラーム哲学の標準的な担い手であったイブン・スィーナーについて広範的な批判をした。イブン・スィーナーの流出論は、アリストテレスには見られないものと主張し、存在は本質に対して偶有にすぎないとするイブン・スィーナーの説に反対した。有るものはそれ自体で存在し、本質は抽象化によってしか見出すことができない。また、神を必然的存在として証明するイブン・スィーナーの説を否定した。

 

宗教と哲学の関係

イブン・ルシュドの時代、哲学はスンナ派は特にハンバル学派やアシュアリー神学派から攻撃を受けた。アシュアリー神学派のアル・ガザーリーは「哲学者の崩壊」を書き、ネオ・プラトニズム的な哲学、特にイブン・スィーナーを批判した。アル・ガザーリーは哲学者のイスラームへの不信仰を訴え、論理的な議論を用いて哲学者に反証しようとした。

 

彼に対し「論説の決定」において、哲学は啓示に反することはなく、それらは真理に達する二つの方法であり「真理は真理に反することはできない」と書いた。哲学によって成された結論が啓示のテキストと矛盾すると思われた時には、矛盾を除くために啓示は解釈され、または寓意的に理解によらなければならない。この解釈は、クルアーン3:7のいうところの「知識の根差した」人々によらなけばならず、イブン・ルシュドによれば、それは「知識の最も高い方法」に達した哲学者を指す。また、クルアーンはムスリムが哲学を学ぶことを要求していると主張する。なぜなら、自然の研究と考察は、造物主である神についての知識を高めるからである。彼はクルアーンの一節を引用し、ムスリムに自然を考察し、哲学はムスリムに許され、それに対する才能を持つ人々にとっては義務であるという法的見解を表明した。

 

また、議論の三つの様式があることを説く。説得力に基づく修辞的なもの。論争に基づく弁証的なものであり、これは神学者やウラマーによって使用される。そして推論に基づく論証的なものである。イブン・ルシュドは、クルアーンは修辞的な方法に用いて人々を真理へと導く。一方、哲学は可能な限り最高の理解と知識とを与える論証的な方法を用いて、哲学を学ぶ者を導く。

2025/06/05

和気清麻呂(1)

和気 清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。

 

経歴

備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に参加したらしく、天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲六等の叙勲を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓している。右兵衛少尉を経て、天平神護2年(766年)従五位下に叙爵し、近衛将監に任ぜられるとともに特別に封戸50戸を与えられた。

 

神護景雲3年(769年)7月頃、宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛していた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と奏上する。道鏡は、これを聞いて喜ぶとともに自信を持ち(あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂を唆して託宣させたともされる)、自らが皇位に就くことを望む。

 

称徳天皇は神託を確認するため側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられないため、代わりに弟の清麻呂を召して宇佐八幡宮へ赴き神託を確認するように勅した。清麻呂は出発にあたって、道鏡から吉報をもたらせば官位を上げる(大臣に任官するとも)旨をもちかけられたという。また、清麻呂に対する懐柔策として、

    吉備藤野別真人清麻呂・広虫他1人(清麻呂の妻か)に輔治能真人

    藤野郡大領外従八位上・吉備藤野別宿禰子麻呂・藤野郡人従八位下・吉備藤野別宿禰牛養ら11人に輔治能宿禰

    藤野郡人・吉備石成別宿禰薗守ら9人に石成宿禰

    元部民の藤野郡人・別部大原、邑久郡人・別部比古、藤野郡人・忍海部興志、御野郡人・物部麻呂、藤野郡人・財部黒士ら64人に石成別公

    元奴婢頭の藤野郡人・母止理部奈波、赤坂郡人・家部大水、勝田郡人・家部国持ら6人、また備前国・美作国で母止理部・家部を氏とする奴婢に石野連

が賜姓されている。

 

一方で、道鏡の師である路豊永からは、道鏡が皇位に就くようなことがあれば、面目なくて臣下として天皇に仕えることなど到底できない、自分は殷の伯夷に倣って身を隠そうと思う旨を伝えられる。清麻呂はこの言葉を当然と思い、主君のために命令を果たす気持ちを固めて宇佐八幡宮に参宮する。

 

清麻呂が宝物を奉り宣命を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を聞くように願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈3丈(約9m)の満月のような形をした大神が出現する。大神は再度宣命を聞くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣

「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」

を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した。

 

清麻呂の報告を聞いた道鏡は怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷するが、さらに、別部 穢麻呂(わけべの きたなまろ)に改名させ、大隅国に配流した(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は配流途中の清麻呂を追って暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。

 

神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御して後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂は大隅国から呼び戻されて入京を許され、翌宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。また、清麻呂の祖先の墓が郷里に営まれて大木が茂る林となっていたが、清麻呂の配流中に伐採されてしまっていた。清麻呂が帰京してこの事情を上表したところ、祖先4名と清麻呂を美作備前両国の国造とする旨の詔が出された。両国の国造として以下の事績がある。

 

延暦7年(788年)、備前国和気郡のうち吉井川の西側の人民から、この人民の居住地と藤野郷にある同郡の役所の間に大きな吉井川があるため、雨で増水が発生するたびに公務が果たせなくなるとの訴えがあった。そこで清麻呂は河の西側を磐梨郡として独立させて新たな役所を設置すること、水難を避けるとともに人民の負担に不公平がないよう和気郡藤野郷にある駅家を川の西側に移転させ(のちの珂磨駅家か)ることを言上し、許されている。

 

延暦18年(800年)、備前国にあった私墾田100町について、清麻呂の遺志を継いで子息の広世が賑給田として寄進した。

 

天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、一挙に四階昇進して従四位下に叙せられる。清麻呂は庶務に熟達して過去事例に通暁していたことから、桓武朝において実務官僚として重用されて高官に昇る。延暦2年(783年)摂津大夫に任ぜられ、延暦3年(784年)従四位上に昇叙されるが、摂津大夫として以下の事績がある。

 

延暦4年(785年)、神崎川と淀川を直結させる工事を行い、大阪湾から長岡京方面への物流路を確保した。

 

延暦7年(788年)、のべ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。

 

清麻呂は摂津大夫を務める傍ら、民部大輔次いで民部卿を務め、民部大輔・菅野真道とともに民政の刷新を行うとともに、『民部省例』20巻を編纂した。延暦7年(788年)には中宮大夫に任ぜられて皇太夫人・高野新笠にも仕え、その命令を受けて新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し『和氏譜』として撰上し、桓武天皇に賞賛されている。

 

さらには、延暦3年(784年)の遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、山背国葛野郡宇太村を選んで平安京への遷都を進言するとともに、延暦12年(793年)には造宮大夫に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。この間の延暦9年(790年)正四位下、延暦15年(796年)には従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇っている。

 

延暦18年(799年)221日薨去。享年67。最終官位は従三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造。即日正三位の位階を贈られた。

 

後世

江戸時代末の嘉永4年(1851年)315日、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と護王大明神の神号を贈った。明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。また、明治31年(1898年)318日には、薨後1100年を記念して、贈正三位から位階を進め、贈正一位とした。

 

また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神である和気神社があり、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。ゆかりの寺として実成寺もある。配流先とされる鹿児島県霧島市にも和気神社がある。

 

清麻呂は楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされることもあり、戦前には十円紙幣に肖像(想像図、キヨソーネの描いた木戸孝允の肖像画を修正したもの)が印刷された。日本銀行券の歴代の十円紙幣のうち、兌換銀券の旧券と戦後のA号券を除く6券種に採用されている。東京都千代田区大手町の大手濠緑地や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。

 

伝説

ある時、清麻呂は脚が不自由になって起立できなくなってしまったが、八幡神に拝礼しようとして輿に乗って出発した。豊前国宇佐郡楉田村(現在の大分県宇佐市和気近辺か)に至ると、300頭の野猪が現れて道を挟んで列をなし10里ばかり前駈して山中に走り去った。これを見て人々は不思議なことだと思った。神社に参拝すると、清麻呂はすぐに立って歩けるようになった。宇佐八幡宮の神封から綿8万余屯を与えるとの神託を受けて、清麻呂は宮司以下豊前国中の百姓にこれを分け与えた。往路は輿に乗って出発したが、帰路は馬を駆って帰還した。これを見て驚かない者はなかったという。

 

この伝説の縁から、護王神社・和気神社・御祖神社などでは、狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。

2025/06/02

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(3)

著作

ファクリーによると、イブン・ルシュドは多作な作家であり、哲学、医学、法学、法理論、言語学を含む。彼の著作のほとんどは、アリストテレスの作品に対する解説・パラフレーズであり、しばしば彼独自の見解が含まれている。

 

フランスの作家エルネスト・ルナンによれば、イブン・ルシュドはアリストテレスの作品に対する注釈とプラトン国家篇の註解を加えて哲学に関して28作品、医学に関して20作品、法律に関して8作品、神学に関して4作品、文法に関して4作品を含み、少なくとも67作品を書いた。この多くの作品はアラビア語では存続できなかったが、ヘブライ語とラテン語への翻訳によって生き残ることができた。たとえばアリストテレスの大注解については「ほんの一握りのアラビア語手稿が残っているだけ」である。

 

アリストテレス註解

イブン・ルシュドは、現存するアリストテレスの著作ほぼすべてについて註解を書いた。例外は「政治学」についてであり、彼はそれを入手することができなかったので、代わりにプラトンの『国家篇』について注釈した。彼は自らの註解の三つを、小・中・大の三つのカテゴリーに分類した。

『小註解』(jami)のほとんどは初期に書かれたもので、アリストテレスの教説の要約が含まれている。

『中註解』(talkhis)はアリストテレスの原意を明確にし、単純化するために言い換えが含まれている。中註解は、アリストテレスの文意を理解することの難しさに不満を覚えたアブー・ヤアクーブ・ユースフと同様の立場にある人々のために書かれた。

『大註解』(tafsirまたはsharf)は、原文と各行の詳細な分析が含まれている。大註解は非常に詳細で高度な独自の見解が含まれており、一般の読者を対象したものではなかった。

 

1169年以降、アブー・ヤアクーブ・ユースフの要請によるアリストテレス解釈は、中註解として表された。イスラーム哲学思想界において、プロティノスの『エンネアデス』の抜粋抄訳が『アリストテレスの神学』という名で流布し、ネオ・プラトニズムの流出論がアリストテレス真正の教えであるとされていた。イブン・ルシュドも『形而上学中註解』においては流出論に従っていたが、アリストテレス研究から『崩壊の崩壊』以降はそれを否定し、アリストテレスの『天体について』『形而上学』Λ巻などに基づいて独自の宇宙観を立てた。

 

1186年より少し前に『霊魂について』、1186年以降に『分析論後書』『自然学』、1188年頃に『天体について』、1190年頃『形而上学』の大註解を完成させたと思われる。『分析論後書大註解』と『形而上学大註解』はアラビア語で現存し、他はヘブライ語及びラテン語によって現存する。

 

イブン・ルシュドは、基本的に精確さで名高いフナイン・イブン・イスハークによる翻訳を使用しているが、他にもアラビア語翻訳を利用・参照している。イブン・イスハークによる『形而上学』翻訳はギリシャ語版のA巻を欠いており、α巻から始まっている。イブン・ルシュドは『形而上学大註解』を書くにあたり、ナズィーフ・イブン・ユムンによるA巻の翻訳をイブン・イスハークによる第1巻(α巻)の後ろに挿入して第2巻としている。

 

大註解には、アレクサンドロスやテミスティオスといった先行する注釈者からの引用が数多く含まれており、ギリシャ語原典で散逸したものもあり、資料的価値も存在する。例えば、イブン・ルシュド『形而上学大註解』Λ巻の冒頭において

「アレクサンドロスのΛ巻の3分の2に及ぶ注解と、テミスティオスによる完全な提要を見つけたので、それを明快かつ簡潔に載せるのが良いように思える」

と述べ、多くのアレクサドロスの注解を引用している。アレクサンドロスの『形而上学注解』は、1-5巻までしかギリシャ語では現存しない。

 

独自の哲学的著作

『知性について』、『三段論法について』、『作用知性との結合について』、『時間について』、『天体について』、『天体の運動について』などの独自の著作があった。他にも、アリストテレスと比較したアル・ファーラービーの論理学に関するエッセイ、イブン・スィーナーの『治癒』で扱われた形而上の諸問題や、イブン・スィーナーの存在するもの分類に反論などの論争的な書がある。

 

『崩壊の崩壊』

アル・ガザーリーは、イブン・スィーナーに基づいた哲学説を批判するために『哲学者の崩壊』(Tahāhut al-falāsifa)という書を書いた。アラビア語の題名にある"Tahāhut”は崩壊、崩落などを意味し、アル・ガザーリーによれば哲学者の説は自己矛盾に満ちており、そのことを批判することによって哲学説は自己崩壊することを明らかにすることを目的としていた。この書の影響はスンナ派の東方イスラーム世界では大きく、イブン・スィーナーの影響は大きく後退した。イブン・ルシュドは、アンダルシアにおいても哲学者に対する風当たりの強くなっていく状況を打破するために、『哲学者の崩壊』の全面的な批判的注解を書き下ろし、意趣返しとして『崩壊の崩壊』(Tahāhut al-Tahāhut)と名付けた。

 

直接的には、神学者アル・ガザーリーによる哲学批判をアリストテレスに基づいて反論する体裁だが、その真の目的は哲学説の正当性を訴え、哲学と宗教とは調和しうるものだということを当時のムワッヒド朝の思想風潮に投げかけるためだった。そのため、イブン・ルシュドはイスラーム神学において、主流のアシュアリー派を否定的に扱っているが、部分的にその考え方も許容している。また、この書は同時にアル・ガザーリーが批判した、イブン・スィーナーに対する批判でもある。アル・ガザーリーの批判はイブン・スィーナーの教説にのみ当てはまり、アリストテレスの立場による真正の哲学には当てはまらないという立場をイブン・ルシュドは採った。故に彼は場合によって、アル・ガザーリーのイブン・スィーナーの誤りの指摘に同意している。

 

おそらく1180年ごろ書きあげられたが、結局のところアンダルシアにおいても保守的宗教勢力によって哲学を異端視してゆく流れは変わらず、イブン・ルシュドは宮廷から追放され、後に赦免されたが宮廷に戻る途上に死去した。

 

翻訳

アラビア語原典は断片を除き失われたが、ヘブライ語に翻訳されユダヤ人の間にて影響力を持った。イブン・ルシュドのアリストテレス注解書は、早く13世紀にはラテン語に翻訳されたが、この書の翻訳し始めはやや遅れ、1328年にナポリ王ロベール・ダンジューの依頼によってユダヤ人カロニュモス・ベン・カロニュモスによってなされた。始めにはその註解的体裁から、イブン・ルシュドはアル・ガザーリーの弟子という誤解も生じた。

 

1497年、アゴスティノ・ニフォが注解をつけてヴェネツィアで出版されたが、これは形而上学部分だけであった。完訳はナポリのカロ・カロニュモスがヘブライ語訳からラテン語訳され、1527年にヴェネツィアで出版された。ルネッサンス期には度々再版され、神学に対して哲学を弁護するものとして影響を及ぼした。

 

1930年にイエズス会司祭モーリス・ブイジュ(1878-1951)により、ヘブライ語訳との比較によってアラビア語へ再構成され出版された。近代語では英語、イタリア語、トルコ語で全訳されており、日本語では『「(アルガゼルの)哲学矛盾論」の矛盾』、中世思想原典集成.11 イスラーム哲学『矛盾の矛盾』などの抄訳が存在する。