2007/10/26

日本シリーズ開幕

  プロ野球のクライマックス・シリーズ(以下、CS)が終わり、いよいよ日本シリーズが始まる。

 

毎年、好試合が続くパリーグのCSは、今年も第一、第二ステージともに最終戦まで縺れ込み、どっちが勝ってもおかしくない接戦の末、最終的にはシーズンの順位通りの結果となった末に、日本ハムが昨年に続いてシリーズに勝ち上がった。

 

対照的にまったく盛り上がらなかったのが、今年からCS制度が導入されたセリーグで、こちらは第一ステージ(阪神に2連勝)、第二ステージ(Gに3連勝)ともに一方的な展開で、中日が呆気なく勝ち上がってしまった。

 

導入当初から、一貫してこの制度に反対を貫いているワタクシが、もっとも畏れていた事態が現実になったのだ。半年のシーズン144試合で優勝を勝ち取ったGは、この3連敗によってセリーグ優勝を否定されたも同然だ。

 

元々、上位三チームであるし、そもそも一応は「プロ」なのだから、どのチームも実力的にそんなに差があるわけでなく、その時の調子やコンディションによっては3連勝、3連敗は往々にしてあるのは、シーズンを見ていても明らかである。これで日本シリーズの出場権を決めるのでは、やはり

 

「何のためのシーズン144試合か?」

 

と思えてしまう。某解説者が言っていたように、今年の場合はGに長いブランクがあったのに加え、初めてCSを経験するGと昨年はシリーズで煮え湯を飲まされた中日という、短期決戦の経験値の差が大きかったと思う。もっとも、今年のGに限っては優勝とは名ばかりで、中日にも阪神にもコテンパンにやられ続けてきていたのだから、この両チームに対する実力はこんなものだろうと、個人的にはある程度予測はしていたのだったが。

 

とにもかくにも、これで日本シリーズは、昨年と同じ「中日vs日本ハム」という顔合わせとなった。似たような両チームであり、また昨年も同じ日本シリーズを戦い今年もまたCSを勝ち上がってきた両チームだから、いずれにしろGのようなハンディはないだろう。チーム力としては、どちらもこれといった爆発力はないものの、勝ち方を非常によく知っている強かなチームだが、ワタクシの見る限りは総合力では日本ハムの方がやや上回っているように感じる。

 

ここ数年のCSを見ている限り、全体的にパリーグの方が実力的に上なのではないか、というのがワタクシの一貫した見方であり、特にここ一番に畳み掛けるような日本ハムの集中力は、中日には真似が出来ないだろう。中日としては、日本ハムには昨年のこの舞台で殆ど手も足も出ないような感じでやられているだけに、どれだけ執念を見せて食い下がれるかが注目される。

 

2002年にGが日本一になったのを最後に、2003年以降は4年連続でパリーグがチャンピオンの座に輝いているだけに、今年こそは中日に頑張ってもらいセリーグに覇権を取り戻して欲しいところだが、果たして日本ハム、そしてパリーグの厚い牙城を破る事が出来るか?

2007/10/21

横浜(2)

1923年(大正12年)の関東大震災では大きな被害を受け、以後この区域に住む外国人居留民は激減したが、異国情緒あふれる景観から現在でも人気の観光地で、次のような観光スポットがある。

 

施設等

ü  外国人墓地

観光

ü  港の見える丘公園(公園内に神奈川近代文学館、大佛次郎記念館などがある

ü  横浜外国人墓地

ü  山手資料館

ü  岩崎博物館

ü  横浜ブリキのおもちゃ博物館

ü  山手イタリア山庭園

ü  山手公園

ü  元町公園、エリスマン邸(元町一丁目)

ü  ベーリック・ホール

 

その他

ü  カトリック山手教会

ü  山手聖公会

ü  山手キリスト教会

ü  横浜インターナショナルスクール

ü  フェリス女学院大学、フェリス女学院中学校・高等学校

ü  横浜山手女子中学校・高等学校

ü  横浜雙葉中学校・高等学校

ü  横浜女学院中学校・高等学校

ü  横浜共立学園中学校・高等学校

ü  サンモール・インターナショナル・スクール

 

横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち、単に外人墓地とも)は、神奈川県横浜市中区にある外国人専用の墓地。19世紀から20世紀半ばにかけての40余国、4400人余りの外国人が葬られている。1854年(嘉永7年)、24歳の水兵ロバート・ウィリアムが戦艦ミシシッピのマスト上から誤って転落死したため、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというアメリカ合衆国の意向を受け設置されたことに由来する。

 

基本的に内部は非公開であるが、3月から12月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されている。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設している。

 

山手公園(やまてこうえん)は、横浜市中区の公園。日本初の洋風庭園であり、日本におけるテニス発祥の地としても知られる。

 

1866年(慶応2年)、当時の幕府と外国公使団との間で、公園の整備などを盛り込んだ「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が交わされた。公園の設置は具体化されずに終わったが、1869年(明治2年)に居留民代表から再度要望が出され、日本政府は約書で約束した土地の代替として山手妙光寺付近の土地約6,000坪を貸与した。

 

居留民により整備がなされ、1870年(明治3年)64日に山手公園が開園した。1878年(明治11年)、レディズ ローン テニス アンド クロッケークラブ(現・横浜インターナショナルテニスクラブ)により日本初のテニスコートが建設され、100年後の1978年(昭和53年)にはこれを記念した碑が設けられた。1998年にはテニス発祥記念館が建てられ、かつてのテニス道具などが展示されている。200431日には文化財保護法による日本国の名勝に、2007年には元町公園、港の見える丘公園、山手イタリア山庭園とともに、日本の歴史公園100選に指定された。

 

港の見える丘公園は、神奈川県横浜市中区山手町114にある公園。 オフコース(小田和正)の『秋の気配』の歌詞に出てくる“港が見下ろせるこだかい公園”とは、この公園のこと。またB'zの『TIME』でも“港が見渡せる丘”として歌われている。

 

山下公園と並んで横浜市の観光地の公園の一つで、横浜港を見渡せる高台にある。ただし、見える物はあくまで本当の意味の「港」であり、横浜ベイブリッジを除くと、横浜の代表的な観光地であるみなとみらい21や関内といった地区を見下ろすことはできない。そのため、初めて来た人には予想していた綺麗な風景とは違うということで残念に思う人も多いが、夜景においては横浜では屈指の美しさを誇る。日本三大夜景と呼ばれる函館・神戸・長崎の山より標高はずっと低く、見渡せる景色の範囲は限られてしまうが、その分港を間近で見ることができる。

 

また、公園自体のおしゃれな造りには定評があり、こちらを目当てに来る人も多い。山手地区に近く、雰囲気も山手と似ているので、家族連れや若者のカップルなどの憩いの場としての性格が強い。

 

江戸時代末期、横浜が開港した際に、イギリスとフランスの軍隊が当地に駐留した。その後、太平洋戦争後もアメリカ軍など進駐軍が、この地を接収した。接収が解除になってから、横浜市が公園用地として手に入れ整備し、1962年の10月に風致公園として開園、一般者が立ち入ることが出来るようになった。

 

なお以前は高台から横浜港湾の岸壁を望むことができたが、近年は横浜ベイブリッジ建設に伴う道路の整備が行われたため、視界に首都高速道路の高架が必ず入ることから「高速道路の見える丘」と揶揄されることもある。ただし、これにより道路用の照明が数多く設置されたため、夜景は展望しやすくなった。平日は人通りも少ないが、週末にはカップルで賑わう。

2007/10/20

横浜(1)

関内は、神奈川県横浜市中区にある大岡川、首都高速横羽線、中村川と海に囲まれた地区を示す通称で、国土交通省の都市景観100選に選定されている。

 

日米修好通商条約(安政の五カ国条約)によって1859(安政)年に横浜に設置された開港場の区域を「関内」と呼んだことに由来し、住所表示上の正式な地名として関内という地名はない。但し、国道16号のキロポストや方向標識には、関内と表示されている。

 

馬車道、中華街、山下公園など古くからの観光地が多く、隣接するみなとみらい地区と並び、多くの観光客で賑っている。また、神奈川県庁舎、横浜市役所、神奈川県警など官公庁や企業が集まる、横浜の中心地である。横浜港が開港して以来、西洋文化を一気に取り込み、アイスクリーム、ビール、ガス燈など、横浜市の発祥とするものが多くあり、昭和初期の近代洋風建築が残されている。

 

地域内にある駅はJR根岸線関内駅・石川町駅、横浜市営地下鉄ブルーライン(13号線)関内駅、横浜高速鉄道みなとみらい線馬車道駅・日本大通り駅・元町・中華街駅である。

 

2004年のみなとみらい線の開通により横浜駅周辺、みなとみらい地区との交通アクセスが一層容易になり、街の再活性化が進んでいる。一方、社会・経済情勢の変動に伴い、古い事務所・店舗ビルを取り壊してマンションを建設・分譲する動きが目立ち、都市計画上の課題となったため、横浜都心機能誘導地区建築条例が制定され、関内駅周辺はマンション建設が規制されている。なお、横浜駅周辺も同様。

 

かつて関内周辺は海であった。現在の大岡川と中村川に囲まれた一帯は入江であり、久良岐郡横浜村は、この入り江の先に突き出た宗閑(洲乾・洲干)嶋と呼ばれた砂州上に形成された寒村であった。江戸時代に、この入り江は吉田新田として埋め立てられ現在のような陸地となり、更に海側の現在の関内地区に相当する場所には、横浜新田や太田屋新田が埋め立てにより造成された。そのため、これらの地区の道路は碁盤の目状に整備されており、町名も古来からの物ではなく、埋め立てに関わった人物に因むもののほか、埋め立てた当時の謡曲や百人一首から取られた綺麗な町名、縁起のいい町名(瑞祥地名)が多く付けられている。

 

江戸幕府はアメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」(神奈川の横にある浜、横に伸びた浜)を神奈川の一部と称し、この地を開港した。それは幕府が、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためである。

 

神奈川宿から横浜村へ道が作られ(横浜道)、間にある大岡川の分流「吉田川」に「吉田橋」を架け、その橋に関門という関所の様なものを置いた。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだ。現在の地域名は、このことに由来する。神奈川運上所(今の県庁のある場所)の西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。

 

1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けない様にし、全ての橋に関門を設けた。当時、武士と外国人との接触を避けるため、武士は関内には入れなかった。吉田橋から旧居留地に至る道が、今の「馬車道 (横浜市)」である。

 

現在、吉田川が流れていた所は首都高や大通り公園に、橋は道路と一体になってしまい、石碑でそこに川が流れ、橋が架かっていたことが解るのみである。 吉田橋は鉄の橋として1869年に架けかえられた。設計はリチャード・ヘンリー・ブラントンというイギリス人技師。

 

近代化が進むにつれ関門の存在意義が薄れ、やがて廃止となったが、長年の慣習と名残りで、今もこの辺りを「関内」と呼んでいる。また、今の伊勢佐木町辺りは関門の外、「関外」と呼ばれた。現在関内と名が付いているものは、JR・横浜市営地下鉄の関内駅、関内ホール(横浜市市民文化会館)のみである。(民間施設は除く)

 

キングの塔(神奈川県庁本庁舎)・クイーンの塔(横浜税関)・ジャックの塔(横浜市開港記念会館)は、地元では「横浜三塔」と呼ばれ、横浜港のシンボルとして長年市民に親しまれている。

 

横浜を代表する商店街の1つである元町の南側の高台で、高級住宅街、観光地として有名で都市景観100選に選定されている。狭義には中区山手町をいうが、その周辺の高台(本牧地区の北西側、山手駅付近まで)を含めることもある。

 

山手町は横浜の開港後、外国人居留地とされた区域で、英語で"Yamate Bluff"または"The Bluff"(切り立った岬という意味)と呼ばれる。「山手」という呼称は、先に設置された関内の居留地に対して、南の高台上に設けられたことによる。後に、この「山手」に対して関内の居留地は「山下」と呼ばれるようになった。

 

開港により関内に外国人居留地が設けられたが、そこが低湿で狭隘であることから住宅地としてより条件の良い堀川の南側の高台が注目された。1861年(文久元年)、幕府は高台の一部の約6,000坪を各国領事館用地としてイギリス等に貸与し、さらにイギリスは高台の東端に当たる堀川河口南側の区域(現フランス山)を海軍用地として借入した。1863年(文久3年)、幕府は、このイギリス借入地へのイギリス・フランス両国軍の駐留を承認し、両国軍の駐留は1875年(明治8年)まで継続した。

 

山手の高台は1867年(慶応3年)に居留地とされ、外国人居留民の住宅やキリスト教系の学校などが建てられた。元は久良岐郡北方村に属していたが、1878年(明治11年)の郡区町村編制法実施の際には、関内居留地(山下)とともに横浜区及び周辺各村のいずれにも属さない区域とされた。1884年(明治17年)に横浜区に編入され、以下の26か町が設けられた。

 

谷戸坂町、山手本町通、富士見町、内台坂、西坂町、地蔵坂、小坂町、大丸坂、撞木町、環町、公園坂、西野坂、汐汲坂、高田坂、三ノ輪坂、稲荷町、南坂、貝殻坂、宮脇坂、陣屋町、諏訪町通、弓町、畑町、矢ノ根町、泉町、林町

 

1899年(明治32年)、条約改正により外国人居留地が廃止されると、全域が山手町として横浜市の町の1つとなった。

2007/10/19

定期健診(2007年版)

 今年も8月に、市の定期健診に行ってきた。

自費で大枚約5万を払いドックを受診したのは2年前だから、去年に続いて市の基本健診で済ませる事に。去年までは特に問題なしという事だったが、色々とストレスもあるから、やや不安な気持ちでの受診だった。酒好きのワタクシは2年前のドックの前日にも、こっそりとチビ缶を呑んで行ったくらいだが、今年は何とか我慢して、3回目にして初めて呑まずに受診。

その前は10年くらい健診などは受けてこなかったから、酒断ちしたのも何年ぶりか記憶にないくらいである。が、結果は去年同様、全項目が「」ランク(所見なし)で、ほぼ基準値を網羅していたのは意外だった。と言うよりも、どれも去年の数値と殆ど変わってないのである。

次いで眼科健診。去年同様、散薬を使っての精密検査は拒絶して、簡単な基本健診で済ませる予定だったが、何故か医師が「詳しい検査をやりましょうよ」  と乗り気だったため、押し切られてやるハメに。

今度は眼科だから関係ないだろうと、前日はいつも通りビールを5本ほど飲んでいたせいか、散薬がなかなか効かずに三度も射されてしまった。ドックの精密検査になると、胃の中を空っぽにするために3日くらい絶食が必要らしいが、こんなことをしていたら却って体を壊してしまうのではないか? やはり、食べたい時に好きなものを食べるのが一番だという気がする。

眼科健診も同じで、散薬で瞳孔を開いた状態で目の前でフラッシュを焚かれたり、赤い光を見つめさせられたりするのは、検査というよりも拷問に近い。 仕事だけでなく、自宅でもPCのヘビーユーザーのワタクシは、寝てる時間と通勤時間以外は殆どPCをやっているから、目に関してはかなりの不安があったが、取り敢えず今回の検査では「所見なし」の結果でホッと一息。

皮肉な事に、雲ひとつ無く晴れ渡ったピーカンの日だったが、秋祭りで賑わう吉祥寺の雑踏の中、無謀にも見えない目を細めつつ自転車で帰った。
※最近、JRの車両内の広告が、吊り広告と言わず貼り広告と言わず「ピンクリボン一色」になっている事がよくある。確かに、乳がんの怖さや猛威に関して理解できないわけでは決してないが、このように他の雑誌などの広告を総て排除して、ヒステリックなまでに同じ広告一色に染まった車内に居ると、まるで共産主義国家に迷い込んでしまったのか、と錯覚してしまう。

2007/10/17

ワースト・ファミリー

  スポーツも格闘技も好きなワタクシは、言うまでもなく他の格闘技と同様にボクシングも好きであり、一流のスポーツ選手や格闘技者同様、プロボクサー(特に世界チャンピオンクラスなら、尚更)にも尊敬の念を抱いている。

 

そんなワタクシだけに、普段はTVは観なくて世事には疎いとはいえ、バカメダ三兄弟(というか一家?)が、マスコミに持て囃されているのは、とうの昔から知ってはいた。が、そんなワタクシが、これまで敢えて彼らに関するテーマを一度も採り上げてこなかった理由は、言うまでもなく『10ちゃんねる』の品位を貶めたくなかったがためである。

 

これまでマスコミに騒がれていた、バカメダ一家の試合は一度として観た事がなかったし、これまでに伝え聞く限りでもプロボクサーとは思えぬゴロツキのような言動に加え、無駄にショーアップされただけの胡散臭い試合のオンパレードには、早くからインチキ臭い匂いを嗅ぎ取っていた。スポーツオタクのワタクシを甘く見てもらっては困る

 

インチキには、一切興味のないこのワタクシとはいえ、今回に限ってはいよいよサギ師どもの化けの皮が剥がれる公算が大と感じたから、初めてこの一家の試合を観てやる事にした。

 

そもそも世界ランク14位程度の選手が、何故世界タイトルに挑戦出来るかは、疑問を通り越して不可解というしかないが、結果はマコトに絵に描いたように、全くの予想通りに終わってしまった。世情を騒がせている、最終ラウンドのプロレス紛いの反則云々以前に、ボクサーとしてまったく未熟なのはオハナシにもならず、ピリッとしなかったチャンピオンにさえ、今回に関しては

 

「相手があまりにも、ド素人過ぎたせいか」

 

と同情してしまった始末である。

 

こんな実力で、恥じる事も無く「浪花の弁慶」などと名乗っているのは、畏れ多くも生き恥を晒し続けている、稀代のアホの証明というしかない。この試合でセコンドに着いて、反則を煽っていたといわれている兄のコウキには、実質的な処分が何一つ課されなかったのはなんとも不可解だったが、そもそも「首魁」とも言うべき出来損ないヤクザ者崩れの親玉こそを、ボクシング協会は永久追放にすべきではないのか?

 

さすれば、そろそろ成人しようかと言うに、未だに父離れ・子離れできないゴロツキ一家の瓦解は一瀉千里であろうし、それこそはボクシングという歴史と伝統ある競技を迷走から救う、唯一の途なのである。

 

掌を返したように、一転して「バカメダ・バッシング」に狂奔を始めたマスゴミだから、もう充分に元は取ったのだろうし、追放したところでこの期に及んでは、もう誰も思い残す事はないと思うが。

2007/10/08

マーラー 交響曲第3番(第1楽章)

 


交響曲第3番ニ短調は、グスタフ・マーラーが1895年から1896年にかけて作曲した交響曲。全6楽章からなり、第4楽章にアルト独唱、第5楽章にアルト独唱と児童合唱、女声合唱を導入している。演奏時間は約100分。マーラーの交響曲としても、また通常の演奏会で採り上げられる交響曲としても最長の曲として、かつては「世界最長の交響曲」としてギネスブックに掲載されていた。

 

作曲時にマーラーは全曲及び各楽章ごとにも標題を付していたが、出版時にこれらをすべて削除している。交響曲全体の標題は、初期には「幸福な生活-夏の夜の夢」、その後「楽しい学問-夏の朝の夢」、「夏の真昼の夢」などと変遷している。各楽章に付けられていた標題(後述)も含めて、これらは作曲と平行して考えられていたものであり、音楽の内容と深く結びついている。したがって、演奏や録音の際の解説では作品理解の助けとして各楽章の標題が紹介されることが多く、交響曲の副題として「夏の交響曲」あるいは「夏の朝の夢」などとするものも一部にある。

 

もともと7楽章構成で構想されたが、最後の楽章は分離されて交響曲第4番の第4楽章となった。このため、第3交響曲の第5楽章と第4交響曲の第4楽章には同じ旋律素材が見られるなど、ふたつの作品には音楽的に関連がある。また交響曲第2番も含めて、声楽の歌詞に歌曲『少年の魔法の角笛』を用いていることから、これらを「角笛三部作」と括ることがある。

 

第一部

序奏 「牧神(パン)が目覚める」

1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」 

 

第二部

2楽章 「野原の花々が私に語ること」

3楽章 「森の動物たちが私に語ること」

4楽章 「夜が私に語ること」

5楽章 「天使たちが私に語ること」

6楽章 「愛が私に語ること」

しかし、これらの標題は、後に誤解を受けるとして、マーラー自身の手により破棄されたため楽譜には書かれていない。

 

各楽章の標題

各楽章の標題も、交響曲全体の標題とともに変遷が見られ、当初からのものも含めて示せば以下のようになる。

 

1楽章 「森が私に語ること-岩山が私に語ること-牧神(パン)が目覚める、夏が行進してくる(ディオニュソスの行進)」

2楽章 「草原の花々が私に語ること」

3楽章 「夕暮れが私に語ること-森の獣が私に語ること」

4楽章 「夜が私に語ること-人間が私に語ること」

5楽章 「カッコウが私に語ること-朝の鐘が私に語ること-天使が私に語ること」

6楽章 「愛が私に語ること・父様はぼくの傷口を見てくださる」

7楽章 「子供が私に語ること・天上の生活」

2007/10/03

「クワタG監督」の笑止千万

  クワタ投手が、Gの監督候補という信じがたい噂が出ている。桑田といえば、清原とともにPL学園の1年生から甲子園に出場して、あの史上最強と言われた池田高校を倒して優勝した時から、ワタクシは良く知っている。

 

最初に見た時が彼が15歳の時であり、その時の印象はかなり鮮烈だった。勿論、あの難攻不落と言われ、憎らしいほどに強かった池田高校を完膚なきまでに叩き潰したのだから当然と言えば当然だったが、それ以上にあのデカくて鈍重そうな清原よりは、少年のワタクシの心を掴んだのは、猫のようにしなやかな運動神経と反射神経を持った少年、桑田真澄投手の方であった。

 

その後、何の因果かGに入団した事もあって、必然的にまたしても桑田に注目を続ける事になる。入団後、数年間は桑田は期待通りというか、期待以上の働きを見せた。あの(プロ野球選手としては)小柄な体だから、プロでは難しいかという個人的な予想を覆し、類稀な野球センスと精神力、そして身体能力を発揮して活躍したのは、確かに立派だった。が、その桑田が途中からおかしくなったのは「投げる不動産屋」と言われた、悪名高いエガワの影響が大きかったと言われた。

 

元々、体格に加え並外れた天賦の才に恵まれたエガワと違い、小柄な体のハンディを気持ちで補っていたタイプだけに、こうした雑念に捕らわれてはひとたまりもなく、またプロはそんなに甘くもなかった。悪い事は重なるもので、スポーツ用品メーカーの「たかり告発」に続いて「八百長疑惑」も噴出するに及び、チーム内外から総スカンを喰らい、優勝した年には誰にも相手にされずに、一人でビール掛けをしている姿が映し出され、世間の失笑を買った。

 

実際「たかり告発」なんぞは、個人的にはどうでもいい事だが「八百長疑惑」に関しては、大いなる疑惑を抱かざるを得なかった。何しろ、ここ一番という肝心な試合の肝心な場面になると「背信」としか考えられないような、信じ難い大崩れをするケースがあまりにも多過かった。

 

これ以来、ワタクシはクワタには完全に愛想を尽かした。勿論、このような事がなくとも、クワタがGのエースだった事は一度もなく、同時代のエースは一貫して人格的にも遥かに明るく素晴らしい斎藤雅樹であった事に、一点の疑いはなかったが。

 

こうした疎外感からか、途中からは怪しげな整体師に頼ったり、武術に打ち込んだりという経過はあの貴乃花に通じるところもあるが、素行はさておき「大横綱」と称されるほどの実績を残した人物と比較しては、あまりに相手に失礼か。

 

ともあれ、このような疑惑まみれの胡散臭い男がGの監督などは、エガワ同様にもっての外である、というのがワタクシの譲れぬ結論である。また、ここへきて手術を受けて未練がましくも現役続行、という話も出て来ている。もう、とうにピークを超えたのだから、個人的にはさっさと辞めて欲しいのだが、こればかりは本人が決める事だが、まかり間違ってもGに復帰するような事だけはないだろーな?

2007/10/01

リヒャルト・シュトラウス オペラ『サロメ』

 


『サロメ』(ドイツ語: Salome)作品54は、リヒャルト・シュトラウスが1903年から1905年にかけて作曲した1幕のオペラ(元々の記述はオペラではなく、「1幕の劇 Drama in einem Aufzuge」であるが、ドイツオペラはむしろオペラと明記してある作品の方が少数でもあり、通常は一括してオペラと呼ばれる)。台本はオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』をもとに、ヘートヴィヒ・ラハマンが独訳したもの。

 

概要

『火の危機』を発表後、この作品と対になる1幕もののオペラを構想したことに始まるといわれる。サロメの物語はもともと『新約聖書』の挿話であるが、オスカー・ワイルドの戯曲になる頃には預言者の生首に少女が接吻するという世紀末芸術に変容している。シュトラウスが交響詩の作曲を通じて培った極彩色の管弦楽法により、濃厚な官能的表現が繰り広げられる。

 

シュトラウスは最初、アントン・リントナーの台本による作曲を考えていたが、原文をそのまま用いる方が良いと判断し、原作の独訳を台本としている(原文の台詞を削除している箇所もある)。

 

前奏なしの4場構成となっていて、第4場の『サロメの踊り(7つのヴェールの踊り)』が著名で単独の演奏や録音も存在する。ただし、劇の流れからするとこの部分はやや浮いており、前後の緊張感あふれる音楽・歌唱を弛緩させているという評価(例えばアルマ・マーラーによる批判など)も少なからず存在する。この「欠陥」は、次作の『エレクトラ』でほぼ克服されている。

 

さほど長い作品ではないが、表題役のサロメは他の出演者に比べて比重がかなり大きく、ほとんど舞台上に居続けで歌うこととなる。また少女らしい初々しさと狂気じみた淫蕩さ、可憐なか細い声と強靭で大きな声といった、一人の演者では両立困難な演技表現が求められる。さらに前述した第4場の「サロメの踊り」の場面では、長いソロダンスを踊らなければならない(ただし、この踊りには代理のダンサーが立てられることもある)。これらのことから、サロメの表題役はドイツ・オペラきっての難役とも言われる。

 

あらすじ

紀元30年ごろ、ガリラヤ湖に面したヘロデの宮殿の大テラス。シリア人の衛兵隊長ナラボートは、宮殿で開かれている宴を覗き見し、サロメの美しさに心を奪われるものの、ナラボートをひそかに慕うヘロディアスの小姓にたしなめられる。そこへ救世主の到来を告げる重々しい声。兵士たちによれば、それは地下の空の古井戸に幽閉されている預言者ヨカナーンの声だとのこと。

 

そこへサロメが現れる。彼女は義父であるヘロデが自分に投げかける、情欲むき出しの視線に耐えかね宴席を抜け出してきたのだったが、聞こえてくる声に興味を示し、ナラボートが自分に好意を抱いていることにつけこんで、ヨカナーンをここへ連れて来いという。兵士たちはヨカナーンに接触することを禁じられていたため、はじめはそれに応じないが、サロメはナラボートに媚を売り、古井戸から連れ出させる。

 

現れたヨカナーンに圧倒されるサロメ。ヨカナーンは彼女には見向きもせず、サロメの母ヘロディアスの淫行を非難するが、サロメはなおも彼に近付こうとする。憧れのサロメの、あまりに軽薄な態度に落胆したナラボートは自決を遂げてしまう。ヨカナーンはサロメをたしなめつつ自ら古井戸に戻る。

 

やがてサロメを探してヘロデがヘロディアスや家臣たちとともに姿を現す。彼らはナラボートの死体から流れ出た血で足を滑らせたため、ヘロデはナラボートが自決したことを知る。不気味な前兆におびえながらも、ヘロデはサロメを自分の側に呼び寄せ、関心を惹くべく酒や果物を勧めるがサロメはまったく興味を示さず、ヘロディアスも娘を王に近づけまいとする。

 

そこへ、ヘロデ夫妻の行状を非難するヨカナーンの声。ヘロディアスは激怒し、彼を黙らせるか、ユダヤ人たちに引き渡してしまえと叫び、ユダヤ人とナザレ人たちは言い争いを始める。ヨカナーンの声はなおも響いてくるので、心を乱されたヘロデは気分直しにサロメに舞を所望する。サロメははじめはそれに応じようとしないが、ヘロデが褒美は何でもほしいものを与えると持ちかけたため、サロメは裸身に7枚の薄いヴェールを身につけて踊り始める。官能的な舞が進むにつれ、ヴェールを一枚ずつ脱ぎ捨ててゆくサロメ。ヘロデは強く興奮し、やがて舞を終えたサロメに何が欲しいかと尋ねる。

 

サロメの答えは銀の大皿に載せたヨカナーンの生首。さすがに狼狽したヘロデは、代わりのものとして宝石や白いクジャク、果ては自分の所領の半分ではどうかと提案するものの、サロメは頑として合意しない。ヘロデはとうとう根負けし、ヘロディアスが彼の指から死の指輪を抜き取って首切り役人に渡す。役人は古井戸の中へ入ってゆき、サロメはその近くで耳を澄ましている。不気味な静寂だけが続き、サロメが苛立ちを募らせていると、騒々しい大音響が響き、首切り役人が銀の大皿に乗せたヨカナーンの生首を持って現れる。サロメは狂喜してそれを掴むと、お前は私にくちづけさせてはくれなかった、だから今こうして私がと長いモノローグを歌った後、恍惚としてヨカナーンの生首にくちづけする。そのさまに慄然としたヘロデはサロメを殺せと兵士たちに命じ、サロメは彼らの楯に押しつぶされて死ぬ。