2025/07/28

カール大帝(シャルルマーニュ)(2)

772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ザクセン戦争を開始。この戦争はカールが優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗し、遠征は10回以上にも及んだ。785年には、有力な指導者ヴィドゥキントを降伏させたものの抵抗は続き、結局完全にこれを服属させたのは戦争開始から32年後の804年のことであった。

 

カールは戦後、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、ザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。これによって現在のエルベ川からエムス川にかけての広大な地域が、フランク王国に服属することとなった。さらにその東に居住するスラヴ人たちも、その多くが服属した。一方、ザクセンの征服によって、その北に居住するデーン人との軍事的緊張が高まったが、カールの存命中は膠着状態が続いた。

 

778年、カールは後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア半島北部のムスリム勢力の救援依頼をイベリアへの勢力拡大の好機とみなし、イベリア北部に遠征した。サラゴサのムスリム勢力を制圧して、人質を出させたことで目的を達したと考えたカールは撤退をはじめた。その途上、ピレネー山脈越えに差し掛かった時、バスク人の襲撃を受けて大損害を受け、多数の兵士と将軍を失った(ロンスヴォーの戦い)。この戦いを題材にしたのが、後に神話化され語り継がれた『ローランの歌』である。

 

795年には、ピレネー南麓にスペイン辺境領をおいた。またこのとき、スペインの後背地にあたり地元勢力の強かったアキテーヌをフランク人による直接支配の下に置くことを試み、息子のルートヴィヒ1世(ルイ1世)を王としたアキテーヌ王国を創設した。ほぼ同時代史料である『ルイ敬虔帝伝』によれば、カールはアキテーヌの完全掌握を目指してアキテーヌ全土の伯、修道院長の多くをフランク人から任命したという。801年には、フランク王国の支配地はバルセロナまで広がった(バルセロナ伯)。

 

北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で半独立勢力となっていたバイエルン族を攻めて、788年には大公タシロ3世を追いこれを征服するとともに、791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系、もしくはテュルク系ではないかと推定される。

 

6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる。このときはアヴァール領の西部を制圧しただけであったが、カールは再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として793年にはドナウ川とライン川をつなぐ運河を計画した。796年に再度侵攻した際には、アヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによってアヴァールは致命的な大打撃を受けて、以後は衰退するばかりとなった。またこの勝利に伴い、フランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近までを服属させた。

 

結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことによって、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配して、フランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。

 

カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底させた。さらに住民をキリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させて、フランク化もおこなった。メロヴィング朝はもともと、広い領土を支配するために全国を伯領に分け、それぞれの伯領に「伯」(ComesGraf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えていた。カロリング家は、カール・マルテルの時代から各地の伯に自らの忠実な家臣を送り込む努力を続けていたが、カールの時代にはこれがさらに大規模化・徹底され、各地の伯にはカールの忠実な家臣が送り込まれた。

 

こうして伯は、地方有力者が就く職からカールの地方官僚としての性格が強くなった。また、これによって地方の独自性が薄れ、制度の平準化と地域間の人材交流が促された。こうした伯などの家臣たちは、カロリング朝の崩壊後も世襲的に勢力を蓄え、中世貴族や王族として権勢をふるうようになるものたちも多くいた。荘園経営の指針として、荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。

 

「カール大帝は巨大な所領群を王領地に併合したばかりではなく、管理と経営を改善しようとも努めた。彼は王領地について、また教会領についても一種の検地を実施させたが、それは史料のうえでは、教会領および国庫領検地小範例集「Brevium exempla ad res ecclesiasticas e fiscales describendas」と、ロルシュおよびクーアラエティアの王国土地台帳にみいだされる。カール大帝が王国領の管理を重視したことを示すきわめて印象深い例証は、御料地令「Capiturale de villis」である。その内容は、国庫領の管理と運営に関する非常に詳細な規定と弊害除去のための方策からなっている」。

 

しかし征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた。主な宮廷は794年にアーヘンに築かれていたものの、アーヘンのほかインゲルハイムやネイメーヘンなどにも宮廷を築いた。それは、絶えず領内を移動して、王のカリスマ性を示し、伯の忠誠心を保つため伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。

 

父と共に遠征した南西フランスのアクイタニアでは土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。他に道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなった。外交面では、東方の大国であるアッバース朝とは数度の使節を交換し、友好関係を保っている。

2025/07/27

西行(3)

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西行(さいぎょう、11181190)とは、平安時代後期の歌人・僧侶である。

 

概要

新古今和歌集を代表する平安末期の大歌人で、百人一首86番の作者でもある。

俗名は佐藤義清(さとうの のりきよ)と言い、鳥羽上皇の警護を担当するエリート武士集団・北面の武士の一人だった。佐藤家は平将門を討伐した藤原秀郷(俵藤太)の末裔で、彼の実家はかなり裕福だったらしい。恵まれた家庭環境からか、若い頃から和歌や有職故事に通じ、武芸の腕前も抜群と非のうちどころが無く、将来を期待されていた。

 

謎の出家

ところが23歳の時に、それまで築き上げた地位も名誉も捨てて、突然出家してしまう。その理由はよくわかっていないが、最も有力なのは、親しかった友人が突然病で亡くなり、世の中の無常を悟ったという説である(吉川英治の小説「新・平家物語」は、この説を採用している)。

 

西行は出家して家を出る際、すがりつく4歳の娘を蹴り落としたというエピソードがある。有名な話だが、その出典は江戸時代と比較的新しく、鴨長明の「発心集」によると、どうも実際にはちゃんと西行の弟に引き取ってもらったのが真相らしい。ウィキペディアには、なぜか西行の娘の記事がある。

 

出家の原因の異説として、高貴な女性との失恋が原因で出家した話も知られる。その相手として特に有名なのが、鳥羽上皇の中宮・待賢門院璋子である。大河ドラマ「平清盛」でも採用されたが、出家した後に西行が待賢門院の死を深く悲しんだという記録や、西行が崇徳天皇に重用されたのも母・待賢門院の計らいがあったからとも言われる。ただ、待賢門院は西行より17歳も年上であり、藤原定家と式子内親王の関係同様に、信憑性は低い。作家の瀬戸内寂聴は、相手は待賢門院のライバル・美福門院得子の説も考えられると評し、文学者の青柳隆志は、この美福門院説を支持している(美福門院は西行より1歳年上なので、一応年齢的には辻褄が合う)。

 

漂泊の人生

その後、西行は全国各地を行脚する生涯を送った。宮中や貴族の邸宅での歌合わせに参加することは無かったが、各地を回りながら歌を詠み、その名声は出家前にも増して高まった。また西行は、平重衡の焼き討ちで消失した東大寺を再建する高僧・重源に協力し、再建と大仏建立の勧進も行った。この際、西行は平泉の奥州藤原氏当主・藤原秀衡や、鎌倉幕府の源頼朝とも対面した。かなり顔が広かったことが窺える。頼朝と会見した後、頼朝から銀の猫の像を拝領したが、西行は道ばたで遊んでいる子供に惜しげもなくあげて去って行ったという。他にも、出家前に仕えていた崇徳上皇の菩提を弔うために、讃岐を訪れたこともある。この話を基に、小説「雨月物語」では怨霊と化した崇徳院と邂逅している。

 

西行は出家しても、なかなか自分が俗世への未練を捨てきれないことに苦悩したようだ。百人一首では

「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」

の歌が選ばれているが、西行ならば他にも旅の歌で多くの名句を読んでいるにもかかわらず、定家はあえて恋の歌を載せている。月を見て西行が思い出すのは、自分が捨てた妻か、それとも待賢門院、はたまた美福門院だろうか?

今となっては、永遠の謎である。

 

また

「世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人をぞ 捨つるとはいふ」

と、自分が出家して本当に良かったのかを問う歌も残っているなど、出家しても超然とせず、常に人間的な悩みを抱えてところに、西行の魅力があるのかもしれない。

 

旅を続けながら己自身を見つめ直す西行にも、遂に最期の時が訪れる。

かつて彼は

「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」

と遺言めいた歌を詠んでいる。

 

仏教の祖・釈迦の入寂のような死に方に憧れていた西行は、果たして桜の木が咲き誇る中、西行は釈迦の命日と一日違いで、和歌の通りに桜の木の下で静かにその生涯を閉じる。その最期は、後世の歌人にも多大な影響を与えた。

 

伝説・創作

高名かつ魅力的で、しかも各地を放浪したので想像をふくらませる余地があるためか、上記「雨月物語」のように西行に関しては、様々な伝説や創作エピソードが存在している。

 

その中でも有名な一つとして「高野山で人骨から人を造ったが失敗作であった」というものがある。「撰集抄」という説話集に掲載されており、大体のところは以下のような話である。

 

西行が高野山の山奥に住んでいた頃、一緒に月見などをしていた友人が用事で山を降りてしまったことから、西行は人恋しさに悩むようになる。そして「鬼は拾い集めた人骨から人を造る」という伝説のように、自分も以前に徳大寺家から教わって知った「反魂の秘術」を用いて人間を造ろうと思い立った。

 

西行が野ざらしになっていた骨を集め、秘術をかけたところ、確かに人の姿に似たものを造りだすことができた。しかし色が悪く、心が無かった。人は心があってこそなのだ。声を出すことはできたものの、吹き損じた笛のようにただ声を出すばかりだ。壊してしまおうと思ったが、人殺しになるのではないか?

いや心が無いから草木と同じでは?

などと考えた末、人の通わぬ高野山の奥地に放置した。

 

西行は失敗したことを不思議に思って徳大寺家を訪れたが、ちょうど宮中に上がっており不在だったので聞けなかった。しかし前中納言・源師仲の元を訪ねた際に「反魂の秘術」の詳しい手順も含めて失敗について話したところ、手順の間違いを指摘された。師仲は、四条大納言・藤原公任の流派を汲んで反魂術を行い「人」を作ったことがあるのだ。今は、その「人」は公卿にすらなっているが、もし名を明かせば作られたその「人」も作った自分も溶け失せてしまうため、口には出せぬという。

 

手順の誤りとは、術中で香を焚いたことだという。そのために本来必要な「魔縁」ではなく「聖衆」が集まってしまい、そして聖衆は生死を深く忌むために術が失敗して、心が生じなかったのだ。ただの香ではなく、沈香と乳香を焚くべきであった。また、術者は七日絶食する必要がある。これらを守れば、そのほかの手順は合っているので西行にも「人」を造れるだろう、と。だが、つまらないと感じてしまい、以後西行が人を造ることは無かった。

 

また、土御門右大臣・源師房が人を造った時には、師房の夢に謎の翁が現れて

「我が身は一切の死人を領するものであるぞ。死人どもの主に断りも無く、なぜ骨を取るのか」

と恨み言を述べた。

これに対して師房は

「この秘術を後世に伝えては、私の子孫が人を造ってしまい霊に取り殺されるであろう」

と案じて資料を焼き捨てたという。このように、やはり反魂というものは無益な術なのだろう。

 

だが、聖賢と讃えられる「呉竹の二子(伯夷と叔斉?)」は、天老という鬼が穎川のほとりで造った者たちだ、という話も言い伝えられているのだ。

 

寂しいからと人を造った挙句、失敗作だからとあっさり放置。結構ひどい話である。

死人の骨から造られた「人」が再び死ねるものかは分からないが、もし死ねないものであるとしたら、心が無いため捨てられたことも理解できず、数百年経った今でも西行の迎えを待ち続けているのかもしれない。高野山の奥のどこかの暗がりで、吹き損じの笛のような声を上げながら。高野山にハイキングに行く人などは探してみてはいかがだろう。

 

ただし、この「撰集抄」は古くは西行本人の作だと信じられていたが、江戸時代の頃には、西行が書いたという体で別人によって著されただけのものと判明したので、この話も当然ながら単なる伝説である。

2025/07/22

カール大帝(シャルルマーニュ)(1)

カール大帝(独: Karl der Große)、またはシャルルマーニュ(仏: Charlemagne)(742?/747?/748? 42 - 814128日)は、フランク国王(在位:768 - 814年)。カロリング朝における初代ローマ皇帝(在位:800 - 814年)として、ローマ教皇レオ3世より帝冠を受けた。

 

ドイツおよびフランスの始祖的英雄と見なされるため、(神聖)ローマ皇帝としてカール1世(独)・フランス国王としてシャルル1世(仏)と称される。ドイツ語読みとフランス語読みを共に避けて、英語読みのチャールズ大帝(英: Charles the Great)という表記が用いられることもある。

 

カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。768年に弟のカールマンとの共同統治としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によって、東ローマ皇帝コンスタンティノス6世の後継者として帝冠を授けられた。帝都コンスタンティノープル(東ローマ帝国)は、カールの皇帝位を承認しない代わりにフランク人の皇帝だとは認め、ギリシャと正教の西方への権威を事実上放棄した。

 

こうして古典ローマ、カトリック、ゲルマン文化の融合を体現したカール大帝は、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後、843年にヴェルダン条約でフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスから、イタリアの国々が誕生した。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の尽力により、カール大帝は列聖された。

 

生涯・事績

出生について

カールはピピン3世の長男として生まれたが、その出生について詳しいことは分かっていない。カールに仕えて「カール大帝伝」を記したアインハルトは、「カールの出生については公表されておらず、もはやそれを知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙している。カールの生年は一般には742年であると考えられているが、父ピピン3世と正妻ベルトレドの結婚は744年以降と考えられており、カールが姻前子であったか、ベルトレド以外の女性から産まれた子であった可能性が考えられる。佐藤彰一は、アインハルトがカールの出生について書き記さなかったのは、このことに議論が及ぶ事態を恐れたからではないかと推測している。

 

一方、K.F.ヴェルナーやベッヒャーは「ペトーの年代記」に記された747年、または748年をカールの正しい生年としている。この場合、ピピン3世とベルトレドの結婚年に744年説を採用すれば、前述の矛盾は解決されることとなる。もっとも、「フランク王国年代記」と「サン・ベルタン年代記」は、ピピン3世とベルトレドの結婚を748年または749年としており、この記述を採用する場合、やはりカールには私生子の疑惑がつきまとうこととなる。ベルトレドの子とされる弟カールマンとの不仲に、彼の出生の疑惑がかかわっていたかどうかは判然としない。出生地についても、アーヘンで生まれたとする説や、エルスタルで生まれたとする説があり定まってはいない。

 

今日、「ラン(Laon)伯Heribertの娘」と記されるベルトラダ(ベルタ)は、「ブリタニアの王女」(Tochter des Königs von Britannien)であり、しかも一旦は求婚の使者となったピピンの執事によって、その娘に王妃の座をだまし取られたものの、最後には王妃となる伝説がある。

 

即位まで

ピピン3世の子のうち、カール、カールマン、ギゼラの3人が成人し、男子であるカールとカールマンが後継者とされた。すでに751年にはピピン3世は、主君だったメロヴィング朝のキルデリク3世から王位を簒奪してフランク国王に即位しており、また754年にローマ教皇ステファヌス2世がサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した際、ピピンは後継者であるカールとカールマンへの塗油も望み、これが実行されていた。

 

768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二分され、カールはアウストラシアとネウストリアを、カールマンはブルグント、プロヴァンス、ラングドックを手に入れたが、両者の間は不仲であったとされる。771年にカールマンが死去すると、カールマンの妻であるゲルベルガは幼子とともにランゴバルド王国へと亡命し、カールはフランク全域の王となった。

 

外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一

カールの生涯の大半は、征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに、53回もの軍事遠征をおこなっている。

 

父ピピン3世の死後、イタリアのランゴバルド王国の国王デシデリウスは、王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威を取り除き、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年にローマ教皇ハドリアヌス1世がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父デシデリウスと対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ(ランゴバルド戦役(de:Langobardenfeldzug))。

 

774年には、ランゴバルド王国の首都パヴィアを占領し、デシデリウスを捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、自らランゴバルド国王となって教皇領の保護者となった。さらに父の例にならって、中部イタリアの地(以前のラヴェンナ総督府領)を教皇に寄進した。またカールは、征服したランゴバルド領の各地にフランク系の貴族を伯として大量に送り込み、新領土の統治体制を固めた。これらの新領主は、やがてイタリアに土着し後世のイタリア貴族の多くの起源となった。

2025/07/21

西行(2)

評価

この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(20234月)

独自研究が含まれているおそれがあります。(20234月)

 

「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(『小倉百人一首』86番、『千載和歌集』恋・936

 

『後鳥羽院御口伝』に

「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」

とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

 

歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美運子をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。

 

和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことは、ほぼ間違いないと思われる。出家後は、山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合は、それぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。

 

しばしば西行は

「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」

として見られがちであるが、これは明らかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。

 

後世に与えた影響は極めて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇、芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇、芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以も、またここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

 

逸話

出家

出家の際に、衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。この出家に際して、以下の句を詠んだ。

 

「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」

崇徳院

 

ある時(1141年以降)、西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ(山家集)。

 

「最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」

意:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。

 

対して西行は、次の返歌を詠んだ。

 

「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて」

意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。

 

旅路において

西行戻し

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。

    松島「西行戻しの松」

    秩父「西行戻り橋」

    日光「西行戻り石」

    甲駿街道「西行峠」

 

鴫立沢

奥州下りの折、神奈川県中郡大磯町の旧宿場町(江戸時代における相模国淘綾郡大磯宿、幕藩体制下の相州小田原藩知行大磯宿)の西端(江戸時代における淘綾郡西小磯村付近、幕藩体制下の寺社領相州西小磯村付近、鎌倉時代における相摸国餘綾郡内)の海岸段丘を流下する渓流にて、下記を詠んだと伝えられる。

 

《原歌》 ※字は旧字体。振り仮名は歴史的仮名遣。振り仮名とスペースは現代の補足。

 

心なき 身にもあはれは しられけり 鴫しぎ立たつ澤さはの 秋の夕ゆふぐれ

《口語解釈例1:一般的解釈》 角括弧[ ]内は補足文。

[私のような]風流を解する心まで捨てたはずの出家の身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ。鴫(しぎ)が飛び立つ沢の夕暮れよ。

 

《口語解釈例2:白洲正子の解釈》 角括弧[ ]内は補足文。

物の哀れを知ることが不十分な[私のような]身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ。鴫が飛び立つ沢の夕暮れよ。

 

「鴫立沢(しぎたつさわ、旧字体表記:鴫立澤、古訓:しぎたつさは)」は「鴫の飛び立つ沢」を意味するだけの、ありふれた地名であったろうが、いつしかこの地は西行の歌にちなんでその名で呼ばれるようになったと思われる。時を下り、伝承にあやかって江戸時代初期の寛永年間(1624-1645年間)に結ばれた「鴫立庵」が今も残る。

 

伊勢神宮で詠んだとされる歌

伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる歌は、日本人の宗教観を表す一例に挙げられる。古来、西行の歌か否か真偽のほどが問われていた歌であるが、延宝2年(1674年)板本系統の『西行上人集』に収録されている。

 

何事なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに 淚なみだこぼるる  ──『西行上人集』

 

源頼朝との出会い

頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、「一切忘れはてた」ととぼけたといわれている。

頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

 

晩年の歌

国文学研究資料館 電子資料館 - 『続古今和歌集』の原典を実際に画像で閲覧できる。

以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦216日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

 

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ  ──『山家集』

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比  ──『続古今和歌集』

花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とは桜のことである。その欲望の意味するところは、下の句の、如月(きさらぎ)の満月(望月)の頃つまり涅槃の頃に朽ち果てたいということである。(あくまで日本仏教の文脈における後世の解釈)

 

伝説

『撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。“鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは〜”。

<要約>(西行が)高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く、声もか細く魂も入っていないものが出来てしまい、高野山の奥に捨ててしまったという記述がある。伏見前中納言師仲に会い作り方を教わるものの、つまらなく思い、その後、人を作ることはなかった。

 

西行の子・隆聖の子孫・佐藤正岑の子が長束正家であるという伝説がある。

 

ゆかりある人々

    西行の娘

    西住 - 西行自身が「同行に侍りける上人」と呼んだ僧侶。

    木下勝俊(木下長嘯子) - 最晩年、西行出家の寺の近くの寺に居を構えた。

    似雲 - 江戸時代の僧。西行を尊崇し、「今西行」と呼ばれた。

2025/07/15

平安京(5)

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概要

平安京は現在の京都府京都市中心部にあたる、山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して、左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものであるが、城壁は存在しなかった(ただし、豊臣秀吉の時代に、都を囲む土塁は築かれたことがある)。この地の選定は、中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。

 

平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は、現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地は、JR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。

 

京内は東西南北に走る大路・小路によって、40丈(約120m)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町には、それぞれ番号が付けられていた。これにより、それぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。

 

道幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あった。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっている。朱雀大路に至っては、28丈(約84m)もの幅があった。また、堀川小路と西堀川小路には、並行して川(堀川、西堀川)が流れていた。

 

歴史

桓武天皇は784年に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかし、それから僅か9年後の793年の1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する。場所は、長岡京の北東10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野であった。

 

事前に桓武天皇は京都市東山区にある将軍塚から葛野を見渡し、都に相応しいか否か確めたと云われている。日本紀略には

「葛野の地は山や川が麗しく、四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。

 

長岡京からの短期間の遷都には、配流されて死んだ早良親王の怨霊が原因とされた皇后らの死と疫病の流行、洪水による都の大被害が理由として挙げられる。この為、これまでの慣例では山城国葛野郡という所在地から、葛野京と名付けられるはずであった新都は、平穏無事を祈って平安京(音読みではへいあんきょう、訓読みではたいらのみやこ)と名付けられたとされる。

 

平安京の造営は、まず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、どこからでも見えるように大極殿を作り、天皇の権威を示した。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備した。

これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は、都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給される。

 

このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとした。

 

そして、長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認める。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えたのである。

 

7941022日に桓武天皇は遷り、翌118日には山背国を山城国に改名すると詔を下した。

 

810年(弘仁元年)、皇位をめぐる対立で平城京に都を戻そうという動きが起こるが、嵯峨天皇は平安京を残すことこそ国の安定と考え、この動きを退ける。そして平安京を「万代宮(よろずよのみや)」と定める(永遠の都という意)。

 

右京の地は、桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して、本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。

 

貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ密集する一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始め、鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。天皇の御所も大内裏を離れて左京を転々とするようになり、大内裏は荒廃してやがて武士の鍛錬場に用いられる内野という原野になっていく。

 

1115年(永久3年)から、白河上皇が鴨川東岸に白河南殿・北殿を築いて政治の中枢とし、その南の六波羅は平家の拠点となった。その後朝廷は左京に戻るが、六波羅には鎌倉幕府の拠点である六波羅探題がおかれて、京都武家社会の中心となった。こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られた。

 

 

平安京(京都)は関東地方を基盤とする鎌倉幕府の成立と、承久の乱後の朝廷弱体化によって行政府としての機能を次第に失っていく。室町幕府が成立し、幕府が京都を本拠地とすることによって政治の中心に返り咲くが、各地の守護が力を強めて以前ほどの求心力はなかった。しかし、なおも全国に流通網をめぐらす商業や金融の中心地であり、工芸品や織物などの工業も栄えた。

 

応仁の乱により過半が消失するが、数十年後には町衆の力により復興している。安土桃山時代に入っても、織田信長や豊臣秀吉は重要拠点と見なして町の発展を保護した。江戸時代には国政の中心地は江戸、商業の中心地は大坂に移ったものの、京都には幕府の機関である京都所司代が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担い、各藩も藩邸を置いて対朝廷及び各藩間の外交を行い、独特の政都としての地位を有した。

 

明治維新の際には、明治天皇の東京行幸で留守の都となり、留守官が置かれた(1871(明治4)廃止)。江戸を東京と改名する詔勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため「遷都」という言葉は避けられた。以後も天皇の京都行幸は度々行われ、その際には、勅旨で保存された京都御所または仙洞御所(京都大宮御所)に宿泊することが慣例となった。

 

現代において、日本の首都は東京都であるとほとんどの日本人が認識する所であるが、実は現行法において東京を首都と定めた法律は存在しない状態にある。過去において有効な首都制定法を探すと、平安遷都の勅にまで遡るとされる。この事や「東京」という名前は「東の京」であることから、今でも日本の本当の首都は京都府であるという説も存在し、そう主張する市民も少なからずいる。なお、天皇の玉座である高御座も京都御所の紫宸殿に据え置かれており、即位の礼も昭和天皇まで京都で行われた。

 

平成時代の明仁天皇からは京都ではなく、東京で即位の礼が行われるようになっており、次代の今上天皇もそれを受け継いでいる。また、政治・経済・文化の発祥地としての影響力も考慮すれば、首都は名実と共に東京になっているともいえる。

 

余談

実は平安京内には神社・仏閣は数えるほどしか存在しておらず(特に仏閣は東寺・西寺の2つしかなく、しかも、西寺は早い時期に衰亡した)、実は京都の観光名所の多くは「平安京の外(洛外)」か「鎌倉時代以降に作られたもの」である。

2025/07/12

西行(1)

西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 建久元年216日〈1190330日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。

 

和歌は約2,300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして、二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と注目される事もある。

 

生涯

誕生は元永元年(1118年)。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女である。

父系は藤原魚名(藤原北家の藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称す。祖父の佐藤季清も父の康清も衛府に仕え、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市、旧那賀郡打田町竹房)を知行地としていた。母系についてはよくわかっていないが、源清経については考証があり文武に秀でた人物だったとされている。

 

祖父の代から徳大寺家に仕えており、『古今著聞集』の記述から自らも1516歳頃には徳大寺実能に出仕していた。『長秋記』によると、保延元年(1135年)に左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、さらに鳥羽院に下北面武士としても奉仕していた(同時期の北面武士に平清盛がいる)。この頃、徳大寺公重の菊の会に招かれ、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んでおり、既に歌人としての評価を得ていたとされる。

 

保延6年(1140年)10月、出家して西行法師と号した(『百錬抄』第六)。出家後は東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んだ。30歳頃に陸奥に最初の長旅に出る。その後、久安5年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入った。

 

仁安3年(1168年)には、崇徳院の白峯陵を訪ねるため四国へ旅した(仁安2年とする説もある)。これは江戸時代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峯」に仕立てられている。また、この旅は弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。

 

高野山に戻り、治承4年(1180年)頃に伊勢国に移った。文治2年(1186年)、東大寺再建の勧進のため2度目の陸奥行きを行い藤原秀衡と面会。この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが『吾妻鏡』に記されている。

 

伊勢国に数年住まった後、河内国石川郡弘川(中世以降の同郡弘川村、現在の大阪府南河内郡河南町弘川)にある弘川寺(龍池山瑠璃光院弘川寺)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。かつて

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

 

生誕の地

西行の生誕地は、佐藤氏の支配した紀伊国田仲荘(紀の川市)であるとする説と、佐藤氏の生活の基盤は京都にあり京都が生誕地であるという説がある。

 

出家の動機

友人の急死説

『西行物語絵巻』(作者不明、2巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

 

失恋説

『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが「あこぎの歌」を詠みかけられて失恋したとある。この恋の相手の女性は待賢門院璋子であるという。

 

近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて1度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。

 

瀬戸内寂聴は、自著『白道』(1995年)の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。

 

五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では、恋の相手を上西門院に擬している。

 

妻子・兄弟

妻子の存在については否定説と肯定説がある。『尊卑分脈』では「権律師隆聖」という男子があるとする。また『西行物語絵巻』では、女子があるとする(西行の娘を参照)。『発心集』には九条民部卿(藤原顕頼)の娘・冷泉殿が、西行の娘の母に「ゆかり(血縁関係か)」があったと記されており、『撰集抄』では冷泉殿は「(西行の娘の)ははかたのをば」とされ、『撰集抄』が事実であるとするならば西行は藤原顕頼の娘を娶っていたことになる。

 

さらに『尊卑分脈』には、兄弟に仲清がみえるが西行の兄とする説と弟とする説がある。

 

『地下家伝』では、山形左衛門尉を称した俊宗という子がいたとされており、子孫は日野家に仕えた山形氏である。

2025/07/07

平安京(4)

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平安京とは、794年に生まれた日本の千年王都である。現在の京都市の原型となった。

読みは「たいらのみやこ」(当初)もしくは「へいあんきょう」(現在)。

 

概要

784年桓武天皇は、道鏡などの仏教勢力の強かった奈良平城京から脱するため、長岡京を造営した。ところが、その責任者である藤原種継が暗殺されてしまう。そして暗殺の首謀者の中に皇太子早良親王も与していたことから、早良親王は皇太子を廃位され流される。ところが早良親王の死後、飢饉や疫病が起こり、和気清麻呂の建議もあり、793年に再び都を移すことを決定する。そうして選ばれたのが、今の京都市に当たるところである。

 

平安京は、およそ5キロ四方で少し南北に長い縦長の形をしている。最も北には大内裏があり、そこから朱雀大路が南に貫き、それと平行に東西四つずつの坊、それに垂直に北から一条、二条と九条までの条、と条坊制となっている。大路が八丈、小路が四丈あり朱雀大路にいたっては二十八条あったそうな(一条は約3メートルである)。

また長岡京もそうだが、淀川水運を使うことによって陸路しか使えなかった平城京の欠点を克服した。

 

次の代の嵯峨天皇の時代には万の都、すなわち永遠に首都はここであると宣言された。

 

しかし、右京は湿地帯にあたったため人が住み着かず、平安時代後半には農地に成っているところもあったらしい。京極が最初は京都の端にあったと言われれば納得だろうか。そもそも、平安京造営そのものが蝦夷征服と同時に途中で財政難で中止されている。そのうえ平清盛によって一時、福原に遷都させられかけている。

 

しかし、平安通じて日本一の都市であったことは確かであるし(人口では一時期、平泉がそれに匹敵している)。鎌倉時代にあっても、武家側の鎌倉と公家側の京都という形で併存した。室町においては再び幕府が置かれたこともあって、日本一の都市の座にあったが、応仁の乱、さらに天分法華経の乱で焼け野原と化し、上京と下京に縮小した。その後、徐々に復興を果たすが、決定的に回復するのは信長入京後である。

 

江戸時代にあっては、政治は江戸(東京)、経済は大坂(大坂)へと中心は移っていったが、それに並ぶ三府として第三位の人口を持った。

 

大政奉還と戊辰戦争と来て、東京行幸後、東京奠都令が出され天皇の住まいも東京へと移っていった。また大阪も経済的に発達し、影響力は弱くなったがそれでも京阪神地区や関西全体に文化的に大きな影響力を持っている。

 

京都は首都か

千年王都として、794から1869年と千年以上もの長い間(実質はともかく建前は)日本の首都としてあり続けた。間の6日間の福原京を無視すれば、これに匹敵するものは世界を探してもそうは無い。現在は、基本的に東京が首都であると言われる。実際1869年の東京奠都令で、東京は首都であると定められた。では何が問題何かといえば、別に京都が首都でないと言われていないことである。

 

理由として、千年以上も続いた京都を捨てることに対し、当時の公家や京都の住民が猛反発したことが挙げられる。そのため京都は首都であるかどうかは、東京に政府を作るとされた時に有耶無耶にされたのである。

 

また、日本の国家というものを考えた時、天皇との関連は決して外せるものではない。むしろ、建国から現在に至るまで歴史の転換点で、何かと天皇という存在は関わりを見せたのである。そして、その天皇の玉座はいまだ京都にある。

 

さらに言えば、必ずしも首都は一つだけでなくて良いのである。歴史的に見ても我が国では、副都として準備された都があったし、更に遡れば天皇の宮が併存した可能性もある。南北朝もあったし。また、世界を見れば、首都が複数ある国や経済的な首都と実際の首都がわかれている国もある。こうしたことを鑑みた時、別に東西に二つ京があって構わないわけである。

 

それに、もし京都が今まで首都であったとされた場合、千二百年以上続く首都ということになり、このような都市は世界でも類を見ない。

 

歴史が古いといえばイタリアのローマや中国の北京南京も挙げられるが、連続性を見た時、京都の長さに匹敵する都市は多分ない。別の国が引き継いでというならコンスタンティノープル→イスタンブールがある。要は俺らの首都スゲーだろと自慢できるではないか。

2025/07/06

朱熹(朱子)(2)

鵝湖の会

朱熹は40代の頃、著作活動に最も励んだ。39歳に『程氏遺書』の編集、40歳に周敦頤『太極図説』『通書』(50歳の時に再校定)、41歳に張載『西銘』の注解(『西銘解』、以後も改訂し59歳で刊行)、42歳に『知言疑義』、43歳に『八朝名臣言行録』『資治通鑑綱目』、44歳に『伊洛淵源録』『程氏外書』、45歳に『古今家祭礼』、46歳に『近思録』、48歳に『四書集注』とその『或問』(その後も改訂を続ける)、49歳に『詩集伝』(57歳定本)を著した。

 

淳熙2年(1175年)4月、同安時代から交友のあった呂祖謙とともに『近思録』の執筆に当たったのち、彼の仲介で陸象山とその兄の陸九齢と会見した。これが後に言う鵝湖の会であり、対照的な思想を唱える両者は激しい議論を交わした。結果、兄の陸九齢の思想はのちに朱熹に接近したが、陸象山の思想は変わらず、両者の調停はならなかった。ただし、両者は互いを好敵手であると認識しており、賛辞の言葉も与えている。

 

政治家として

乾道4年(1168年)に発生した建寧府の大飢饉に際して粟600石を貸し与えて民を救済し、その後も飢饉に応じて利息を加減しながら貸付を継続した。この社倉は「飢饉時に食を欠く者なし」と称される成功を収め、朱熹は孝宗に社倉法を献じて、これを全国で行わしめた。後にこの制度は朱子学を通じて江戸時代の日本に伝播して、各地に義倉が設けられることとなる。

 

淳熙5年(1178年)、朱熹49歳の時、宰相の史浩によって知南康軍の辞令を受けた。朱熹は何度も辞退したが、何度も推薦を受け、結局翌年3月に南康軍(中国語版)に赴いた。朱熹はここに二年間在職し、学校制度の整備、郷土の先覚者の顕彰、減税の請願、旱魃の対策などに奔走し、民生の安定に尽力した。特に、廬山の白鹿洞書院の復興に着手し、図書の充実を朝廷に願い、陸象山の講演を実現するなど、大きな功績を残した。なお、この頃から朱熹は脚の病に侵され、晩年に至るまで苦しんだ。

 

淳熙7年(1180年)、朱熹は孝宗に対して「庚子応詔封事」と呼ばれる上書を奉り、重税を省くこと、余分な軍事力を割くことを述べ、更に今の政治が皇帝によるものではなく、数人の権臣によって牛耳られていることを批判した。翌年、南康軍での手腕を認められた朱熹は、提挙江南西路常平茶塩公事(江西省の茶塩の監督官の待次差遣)に任命され、また直秘閣(宮廷図書館の責任者)を与えられた。同年に浙東で飢饉が発生したため、朱熹は改めて提挙両浙東路常平茶塩公事に任命された。ここで朱熹は絶えず管内を巡回し、飢饉対策と官吏の不正の摘発に励んだ。12月には、自身の崇安での経験に基づき「社倉事目」を奏上し、各地に社倉が設置されることになった。

 

淳熙9年(1182年)7月、朱熹は台州知事(台州の治所は、現在の浙江省台州市臨海市)の唐仲友が不正を働いたとして弾劾し、その罷免を朝廷に要求した。朱熹の弾劾は激しく執拗であり、朝廷がなかなか動かないのを見て、脅迫的な自身の罷免状を送り付けたほどであった。但し、唐仲友が実際にどれほど悪辣な行為があったのかは定かでなく、朱熹がここまで執拗に攻撃した理由は明らかでない。この事件によって、台州知事から江西提刑に移っていた唐仲友は罷免され、6年後の他界まで家で過ごした。この江西提刑のポストは朱熹に回されたが、朱熹はこれを辞退し郷里に帰った。

 

偽学の禁

53歳の時に郷里に帰った朱熹は、これから8年ほどは公務から遠ざかり、祠禄の官をもらって家で学業に励んだ。50代の著作として『易学啓蒙』『孝経刊誤』『詩集伝』『小学書』などがあり、次第に『四書』から『五経』へと研究対象が移行した。陸象山との無極太極論争や、陳亮との義利王覇論争が交わされたのも、この時期である。

 

淳熙16年(1189年)、孝宗が退位しその子の光宗が即位する。その翌年、朱熹は漳州知事に一年間赴任し、経界法の実施を試みたが、在地の土豪の反発を受けて上手く行かず、一年で離任する。また、紹熙4年(1193年)には潭州知事として3カ月間赴任し、張栻と縁の深い嶽麓書院を修復した。

 

朝廷で再任されるために知事を辞めた際、朱熹が部下に地方行政について指示した書(1194年)

紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、宰相の趙汝愚の推挙もあって寧宗は朱熹に強い関心を寄せ、煥章閣待制兼侍講(政治顧問)として朱熹を抜擢する。朱熹は、皇帝への意見具申や経書の講義などを積極的に行ったが、韓侂冑の怒りを買ってわずか45日で中央政府を追われ、郷里に戻った。その帰り道で、江西の玉山にて晩年の思想の集約であるとされる「玉山講義」を行った。

 

慶元元年(1195年)、趙汝愚は失脚し、韓侂冑が独裁的な権限を握るようになり、「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧が始まった。これによって道学は「偽学」として排撃され、道学者の語録は廃棄処分、科挙においても道学風の回答は拒絶された。この弾圧中には、道学派を弾劾すれば自分の官職が上がったため弾圧は激化し、朱熹も激しい弾劾に晒された。

 

慶元639日(1200423日)、そうした不遇の中で朱熹は建陽の考亭で71歳の生涯を閉じた。朱熹の臨終の前後の様子は、蔡沈の「夢奠記」に記録されている。

 

朱子の業績

経書の整理

四書集注

『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。この四書への注釈は『四書集注』(『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)に整理され、後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。また、朱熹は経書を用いて科挙制度の批判を行った。朱熹は儀礼に関する研究も行っている。孔子の祭りである釈奠の儀礼を整備したり、儒服の深衣の復元などに取り組んでいた。朱熹の儀礼の研究に関する書物としては『家礼』『儀礼経伝通解』がある。

 

朱熹は、五経に関しても注釈を施しており、『易経(周易)』に関する注釈書『周易本義』、『書経』に関する注釈書『書集伝』、『詩経』に関する注釈書『詩集伝』などがある。

2025/07/01

平安京(3)

弘仁元年(810年)、桓武天皇亡き後の皇位を巡る対立で平城上皇と、その一派から平城京に都を戻そうという動きが起こるが、平城上皇の弟の嵯峨天皇は平安京を残すことこそ国の安定と考え、平城上皇らのこの動きを退け、側近の藤原仲成・薬子兄妹を討伐し上皇を出家させた(薬子の変)。そして平安宮を「万代宮(よろずよのみや)」と定める(永遠の皇居という意)。

 

京域が広すぎたためか、規則正しく配置された条坊が人家で埋まることはついになく、特に右京は南方の地が桂川の形作る湿地帯にあたるため左京と比較すると宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀に入ると、本来京内では禁じられている農地へと転用までされるようになった。

 

980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(俗に「羅生門」という)が倒壊し、以後再建されることはなかった。また朱雀大路を始めとして広かった大路小路も、次第に宅地に侵食され狭められた。

 

貴族の住む宅地は、大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ集中する一方、貧しい人々は京内南東部に密集して住み、さらには平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始めた。また、鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて、平安京の本来の範囲より東(左京)に偏った市街地が形成されていった。

 

政庁を平安京外に置いた院政の出現は、平安京の都市構造の変化をもたらし、また天皇中心の都という形態を損なうことで、結果として平安京という定められた都市規範を崩壊させる大きな引き金となった。

 

平安時代の末期に至って京内で戦が頻発し、荒廃が進行した。政情不安もあって治承4年(1180年)、平清盛は安徳天皇を奉じて福原に遷都(福原京)したが、公家たちの反対に遭い、わずか半年で京都に還都した。

 

平安末期から「平安京」に代わる言葉として「京都」という語が用いられ始め、鎌倉期初頭にかけてその使用の頻度が増す。また、平安京を擬えた「洛陽」から採られた、中世・近世の京都市中を示す「洛中」という言葉も、鎌倉時代から使われ始める。

 

鎌倉幕府により、京都を冠した最初の役職となる「京都守護」(六波羅探題の設置により消滅)が設置される。鎌倉が武家政権の本拠となる一方、京都は貴族や寺社権門の中心となった。天皇の住まいである内裏は度重なる災害により転々とし、室町時代に鴨川寄りの里内裏「土御門東洞院殿」が修造を経て正式な内裏となり、以降はこの場所で築造が繰り返され、現在の「京都御所」の原形となった。

 

室町時代から戦国時代にかけての時期は、応仁の乱にて市街地の過半を焼失し、衰退した。その後、京都の市街地は、上京と下京に分かれて小規模なものとなっていた。これが再度、一体の市街として復興に向かうのは安土桃山時代であり、織田信長の上洛後のことである。豊臣秀吉は大内裏の跡地である内野に政庁である聚楽第を設け、また京を取り囲む延長20 km余りの惣構である「御土居」を建設した。秀吉は、関白位を甥の秀次に譲ると伏見の指月に隠居した。間もなく秀次が失脚して聚楽第が破却され秀吉が伏見城を建設すると、政治の中心は京都から離れて完全に伏見に移ることとなった。

 

そして関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康も伏見城に入城し、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。家康は洛中に二条城を建設したが、これは政庁としての城ではなくもっぱら儀礼的な役割を担うものであったから、このことによって京都が政都に復することはなく、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。

 

江戸時代には、国政の中心地は江戸、商業の中心地は大坂に移ったものの、京都には江戸幕府の機関である京都所司代が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担った。各藩も藩邸を置いて対朝廷および各藩間の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず、例えば西国大名が参勤交代の際、京都に入ることを禁じた。幕末には京での政情不安に鑑み京都守護職を新たに置き、一層支配を強めようとした。

 

明治維新の際には、明治天皇の東京行幸で留守の都となり、留守官が置かれた(明治4年廃止)。江戸を東京と改名する詔勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため、「遷都」という言葉は避けられた(東京奠都)。以後も天皇の京都行幸はたびたび行われ、その際には、勅旨で保存された京都御所または仙洞御所(京都大宮御所)に宿泊することが慣例となった。天皇の玉座である高御座も京都御所の紫宸殿に据え置かれており、東京奠都後の大正・昭和の即位の大礼は京都御所で行われたが、平成・令和では高御座を東京の皇居に輸送して行われた。

 

名称

平安京は、ふつう音読みで「へいあんきょう」と読むが、ときに「たいらのみやこ」と訓読みした。古来、都の名はその地名を冠することが一般的であり、本来ならば葛野京となるはずであったが、藤原の都を「新益京(あらますのみやこ)」と称したように、ここでも「平安京」と命名された。唐の都「長安」に倣っての命名であることは容易に理解できるが、長岡京での騒動が原因のひとつとして再び遷都されたため、新京では悪いことが起こらず、「平らかで安らかな都」、「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという願いも込められたと考えられている。また平安時代の漢詩文には、文学上の雅称として「洛陽」「長安」と呼ぶ例が見られる。この「洛陽」から後に「洛中」「入洛」「上洛」などの言葉が生まれる。