2007/04/29

鎌倉

 鎌倉という地名は、かなり古くから使われていて、奈良時代の「正倉院文書」の中の「相模国封戸租交易帳(735年)」の中に「鎌倉群鎌倉郷三十戸田百三十五町百九歩」という文字があるそうな。

 また8世紀に成立した、我が国最古の歌集である「万葉集」の中にも、鎌倉を歌ったものが幾つか収録されている。

 では、この「鎌倉」という地名は、何からつけられたものなのだろう? 

 とにかく、遅くとも奈良時代にはもう「鎌倉」という地名が使われていた、という事が分かっているのみだ。

《伝説的なもの》
1.神武天皇が東国を征服しようとしましたが、人々が天皇に背いたので天皇は毒矢を放ちました。すると、その毒矢に当たって一万人以上もの人々が死に、その死体が山となって今の鎌倉の山が出来た、と言われています。
屍(かばね:死体)が蔵をつくったので「屍蔵」となり、それが訛って「かまくら」になった、と言われています。

2.藤原鎌足が神宮にお参りする途中、由井里(今の由比ガ浜)に泊まったところ不思議な夢を見て、いつも持っていた鎌(鎌槍の事)を大蔵の松ヶ岡に埋めました。そこから「
鎌倉」になった、と言われています。

《地形的なもの》
1.鎌は元々は「
」の事で、倉は「」の事だと言われています。鎌倉の地形は東・西・北の三方が山で、南が海になっています。形は「」のようで「」のように一方が開いているので「鎌倉」となった、と言われています。

2.アイヌ語の「
カマクラン」という「山を越して行く」という意味の言葉から出来たとか「カーマ・クラ」という「平板な石の山」という意味の言葉から出来た、と言われています。

《その他の説》
1.昔、鎌倉の海岸近くには蘆や蒲がたくさん生えており、蒲が生えているところだから「
かまくら」になった、と言われています。

2.比叡山にも鎌倉という地名があり「
神倉」とか「神庫」が訛ったもの、と考えられています。ここ鎌倉にも「神庫」があったので、それが訛って「かまくら」になり「鎌倉」の字を当てた、と言われています。

3.神奈川県の中央部に、高座郡という地名があります。高座は昔「
たかくら」と読んでいたところから「高倉」、「高麗」(こま)に通じ、高麗座(こまくら)が「かまくら」になった、と言われています。

 幾つもの説があって、どれが本当か分からないくらいだ。

ポリネシア語による解釈
 鎌倉郡は古代から近代の郡名で、相模国の南東部、神奈川県の東部に位置する丘陵地帯にあり、北は武蔵国多摩郡、都筑郡、橘樹郡、東は久良岐郡、南は相模国御浦郡と相模湾、西は高座郡に囲まれます。

 おおむね現鎌倉市、横浜市瀬谷区、泉区、戸塚区、栄区、港南区の一部、藤沢市の一部です。

 『和名抄』は「加末久良」と訓じています。 

 「かまくら」の語源は

(1)
地形が竈(かまど)に似て、谷が発達しているところから
(2)
「カマ(洞穴、河底のくぼみ)・クラ(岩)」の意
(3)
「カマ(崖)・クラ(崖)」の意
(4)
「カマ(鎌形に曲がった地形の土地)・クラ(洞穴)」の意

 などの説があります。

 この「かまくら」は、マオリ語の 

 「カ・マクラ」、KA-MAKURA(ka=take fire,place of abode;makura=light red)、「(丘の尾根にある洞穴が)赤く照らされている居住地」または「カハ・マクラ」、KAHA-MAKURA(kaha=rope,edge,ridge of a hill;makura=light red)、「丘の尾根(にある洞穴)が赤く灯で照されている(場所)」(「カハ」の語尾の「ハ」が脱落して「カ」となった)

 の転訛と解します。

 もちろん秋田県など雪国で雪室をつくり、中で子供達が餅を焼いて楽しむ「かまくら」も、同じ語源です。

2007/04/27

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番(第4楽章&第5楽章)





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ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲のみならず,20世紀の弦楽四重奏曲の中でももっともよく知られている作品です。

 

曲は「ファシズムと戦争の犠牲者の思い出に」捧げられています。過去の作品のモチーフを散りばめている点,作曲者自身を意味するD-S-C-Hの主題を使っている点など,いかにもショスタコーヴィチらしい作品となっています。演奏時間も20分余りとコンパクトですので,「ショスタコーヴィチ入門」として相応しい曲です。

 

曲は1960年に作曲され,同年,ベートーヴェン弦楽四重奏団によってレニングラードで初演されています。この曲の意図については,謎な点が多いのですが,自殺を覚悟したショスタコーヴィチの辞世の曲という説も出されています。楽章は5つに分かれていますが,一続きに演奏されます。

 

この曲は,後にモスクワ室内管弦楽団の指揮者のルドルフ・バルシャイが弦楽合奏用に編曲しています。この編曲に際しては,ショスタコーヴィチの意見が相当取り入れられているとのことです。この弦楽合奏版の方は,室内交響曲という名前で知られています。


2007/04/26

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番(第3楽章)

 


引用されている主題

音形「D-S(Es)-C-H

ショスタコーヴィチのドイツ語のイニシャル「Dmitri Schostakovich」より、D-S(Es)-C-Hの音形が全曲のテーマとして現れる。

 

また、彼が親友に送った手紙によると、自身の作曲、さらに他人の曲から以下のものが引用されている。

    交響曲第1番ヘ短調

    交響曲第8番ハ短調

    交響曲第10番ホ短調

    ピアノ三重奏曲第2番ホ短調

    チェロ協奏曲第1番変ホ長調

    オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》よりアリア「セリョージャ、愛しい人よ」

    ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』より「ジークフリートの葬送行進曲」

    チャイコフスキー:交響曲第6番『悲愴』

 

なお、この手紙には

「私が死んだときには、誰かが弦楽四重奏曲を私に捧げてくれるとは思えないので、私は自分自身のために書くことにしました」

とあり、この曲を書いたあと自殺するつもりであるということを示唆している。

 

4楽章には、革命歌「過酷な徒刑に苦しめられて(Замучен тяжелой неволей)」の引用も現れる。

2007/04/25

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番(第1楽章&第2楽章)

 



弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110 は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチが1960年に作曲した弦楽四重奏曲である。

 

作曲者によって「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に」捧げるとしてあるが、ショスタコーヴィチ自身のイニシャルが音名「D-S(Es)-C-H」(DSCH音型)で織り込まれ、自身の書いた曲の引用が多用されることにより、密かに作曲者自身をテーマにしていることを暗示させている。全15曲あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の中で、最も重要な作品である。

 

初演は1960102日、レニングラードのグリンカ小ホールでベートーヴェン弦楽四重奏団によって行われた。

 

また原曲以外に、ルドルフ・バルシャイによる弦楽合奏への編曲版が『室内交響曲』(作品110a)として知られている。

 

曲の背景

本作が作曲された1960年は、ショスタコーヴィチにとって大きな精神的危機に見舞われた年であった。この曲を書く直前の6月、不本意ながらも共産党に入党することを決意したのである。その1ヶ月後、戦争後のドレスデンでの有名絵画救出劇の映画『ドレスデンの五日間』(作品111)の、ソビエト軍によるドレスデンのナチスからの解放の場面のための音楽を書くためにドレスデンに行ったショスタコーヴィチは、戦争の惨禍を目の当たりにし、自身の精神的荒廃と重ね合わることになる。そこで表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するようにみせつつ、圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として、同年712日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。

 

719日にショスタコーヴィチ自身が友人グリークマンにあてた手紙には、映画音楽の仕事が全く手に付かずに、ひたすら弦楽四重奏曲の作曲に向かったと述べ、「この曲を書きながら、半ダースのビールを飲んだ後の小便と同じほどの涙を流しました。帰宅後もこの曲を2度弾こうとしましたが、やはり泣いてしまいました」と苦しい気持ちを訴えている。

 

このようにして書かれたこの曲は、すべての弦楽四重奏曲の中で最も、皮肉とは無縁の直接的表現力を持ち、聴衆に訴えかける力を持っている。また、映画音楽にも通じていたショスタコーヴィチは、バルトークやヴェーベルンのような特殊奏法を弦楽四重奏に用いずとも、標題音楽的手法により劇的な表現を実現している。