2026/01/30

菅原道真(9)

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死後と神格化

菅原道真が大宰府で没した直後から、都では天変地異が相次ぎ、災害、関係者の非業の死などが重なった。まず追放した張本人の藤原時平が若くして急死し、その後も皇族や貴族が相次いで急死する。当時は、政争に敗れて非業の死を遂げた人物が「御霊」=怨霊となって祟りをなすという「御霊信仰」が浸透していたため、道真が怨霊となって祟りを成したと恐れた朝廷は、道真の罪を許して右大臣に戻し、正二位を贈った。

 

しかし異変は止まらず、ついに延長8年(930年)、天皇が政務を執る宮殿である清涼殿に落雷が起こり、稲妻が柱を直撃、隣の紫宸殿にも電撃が走った(清涼殿落雷事件)。大納言・藤原清貫をはじめとして清涼殿だけで2名死亡、紫宸殿でも5名が死亡する大惨事となった。当時の天皇・醍醐天皇は被害を免れたものの、このすさまじい光景(文献によれば、藤原清貫は衣類に火がついた上に胸を裂かれて即死、近くにいたとされる平希世も顔面を焼かれて虫の息と、まさに地獄絵図であった)に衝撃の余り体調を崩され、3ヶ月後に崩御した。

 

余談だが、この時道真の領地であった桑原町(現在の京都市中京区、丸太町通の京都地裁前の一部区間に相当)は落雷の被害を免れたとの言い伝えもあり、雷除けに唱えられる「くわばらくわばら」という呪文は、これに由来するという説もある。

 

この事件と、死亡した藤原清貫が左遷後の道真の監視役であったことなどから、ただでさえ怨霊の仕業だとして震えていた朝廷や人々の恐怖は頂点に達した。このため、人々により雷神=天神に結びつけられ、「天神様」として神格化の上祀られることとなった。また朝廷でも事件から約60年後に正一位と左大臣とし、さらに太政大臣と次々に贈位して、道真の魂を鎮めることに必死となった。

 

これには、時平が早世して子孫が振るわなかった事と、道真と同じく宇多天皇寄りであったうえに、妻の源順子(宇多天皇の養女)が道真の姪であった可能性もある藤原忠平(時平の弟)の子孫が繁栄した事もあるとされる。

 

さらに『将門記』には、道真が八幡神に取り次いで平将門を新皇にさせたという。それほどまでに「道真=怨霊」のイメージは強かった。もっとも、大宰府にいた本人は左遷されたことや醍醐天皇・時平に対して、恨み辛みを述べてはいなかったという。

 

その後、御霊信仰が次第に衰退するにつれて、道真の本来の性格の方が重視されて学問の神として信仰されるようになり、現在に至っている。

 

祟りが恐れられた菅原道真の霊をやすめるため、都の北野の地に社殿が造営されたのであるが、後世それが発展し現在の「北野天満宮」となっているのである。その他各地の天満宮、天神社に祭られている。

 

神号は天満大自在天神、日本太政威徳天、火雷天神など。

 

また「学問の神」としてのみならず、古来道真は天子(天皇)に対する忠義の心によって、多くの人々に慕われているのである。

 

道真が赴任した讃岐すなわち現在の香川県には、道真が善政の一環として行った雨乞いの儀式を元とした滝宮の念仏踊りが今も残り、現地には「滝宮天満宮」が建てられた。道真の訃報に接した讃岐の民は、その死を悼み魂を送り天地の神となってもらうため、泣きながらこの念仏踊りを踊り狂ったと伝わる。この踊りは(他地域の地踊りと合同ではあるが)2023年にユネスコの無形文化遺産に選定登録された。

 

また、文の菅原道真、武の坂上田村麻呂として、文武のシンボル的存在としても名を知られる。

 

文芸作品

詩歌・文章に秀でていただけに、和歌・漢詩・漢文ともに極めて多い。著書に自分の作品をまとめた『菅家文草』『菅家後集』がある。

 

また学者であるため史書のまとめや編纂にも関わり、史書のテキストをそのまま引用して分類した『類聚国史』を編纂している。この中には、かなり散佚してしまった『日本後紀』の文章も数多く引用されており、同書の復元に大きな力を貸している。また日本で編纂された6冊の史書・六国史の最後を飾る『日本三代実録』も編纂したが、完成が左遷直後だったため名前が外されてしまった。

 

一般的には、百人一首の24番に

 

此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に

 

が選ばれているのがよく知られている。

 

伝説

『飛梅伝説』の主人公が菅原道真であり、梅の花は主である菅原道真に忠実な花であると伝えられている。

2026/01/28

日蓮(5)

「報恩抄」

建治2年(1276年)6月、日蓮は自身の剃髪の師である道善房が死去したとの知らせに接し、道善房の恩に報ずるため、翌月「報恩抄」を完成させ、清澄寺時代の兄弟子である浄顕房・義浄房に宛てて同抄を送った。「報恩抄」の内容は

     報恩の倫理を示す

     真言密教の破折を軸に正像末の仏教史を概観する

     三大秘法の法理を示す

3点に要約される。

 

本抄の冒頭では

「夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほう(報)ず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや」

と報恩こそが倫理の根本であることを示し、末尾では

「日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」

として、日蓮が南無妙法蓮華経を弘通した功徳が故道善房に帰していくと述べられている。日蓮の実践が全て師・道善房への報恩・回向になっているとの趣旨である。

 

②の真言密教破折については、「撰時抄」では触れられなかった第5代天台座主・智証大師円珍に対する破折や、弘法大師空海の霊験の欺瞞性を暴露するなど「撰時抄」よりもさらに踏み込んだ内容が見られ、日蓮による密教破折の集大成ともいうべきものになっている。

 

本門の本尊・戒壇・題目という「三大秘法」の名目は、身延入山直後に書かれた「法華取要抄」で示されていたが、「報恩抄」は三大秘法の内容を初めて説示した著述として重要な意義を持つ(ただし、本門の戒壇については名目を挙げるにとどめられている。戒壇の意義が説かれるのは、弘安5年(1282年)の「三大秘法抄」まで待たねばならない)。

 

本門の本尊について「報恩抄」では

「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」

と説かれる。

この文の解釈は各宗派で異なる。たとえば日蓮宗では、この文の「本門の教主釈尊」を文上寿量品に説かれる久遠実成の釈迦仏とするのに対し、日蓮正宗では釈迦仏を正法・像法時代の教主とする立場から、この「本門の教主釈尊」を本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮自身であるとする。

 

本門の題目については

「三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」

と説かれる。

 

身延において日蓮は膨大な書簡や法門書を執筆し、多くの文字曼荼羅本尊を図顕して門下を教導した(現存する日蓮真筆の曼荼羅本尊は120余幅を数える)。時には百人を超える門下が参集して、妙法蓮華経の講義を受けている。日蓮の妙法蓮華経講義を、後に日興門流がまとめたのが「御義口伝」、日向門流がまとめたのが「御講聞書」とされている)。

 

熱原法難

日蓮の身延入山後、弟子の日興を中心に富士方面で活発な弘教が展開された結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院で住僧や近隣の農民らが改宗して、日蓮門下となる状況が生まれていた。その動きに対して、各寺院の住職らは反発して日蓮門下となった住僧らを追放するなど対抗したため、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じた。天台宗側は北条得宗家と結びついており、幕府権力を後ろ盾として日蓮門下に圧力を加えた。

 

抗争が頂点に達したのは、弘安2年(1279年)921日である。熱原龍泉寺の院主代・行智は、稲刈りに多数の農民信徒が集まっていた機会をとらえ、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えた。信徒は鎌倉に連行され、北条得宗家の家政をつかさどる内管領(ないかんれい)を兼務していた平頼綱の取り調べを受けた。

 

日蓮は、この事件を日蓮門下全体にわたる重大事件ととらえ、鎌倉の中心的信徒である四条金吾に書簡を送り、拘束されている農民信徒を励ましていくよう指示している。日蓮は、農民信徒が厳しい取り調べにも屈することなく信仰を貫いている事実を知り、自身の生涯の目的(「出世の本懐」)を遂げたと述べている。なお、行智側から農民信徒を告発する訴状が出されたので、日蓮はそれに対する陳状(答弁書)の文案を作成して法廷闘争に備えた。同申状で、日蓮は自身について「法主聖人」と述べている。

 

捕えられた20人の信徒が一人も妙法蓮華経の信仰を捨てなかったため、平頼綱は尋問を打ち切り、1015日、3名を斬首、余を禁獄処分とした。迫害はその後も続いたが、日蓮は龍泉寺の住僧だった門下を下総の富木常忍の館に避難させるなど、事態の収拾に努めている。

 

なお、日蓮正宗では「出世の本懐」について、熱原法難を受けて弘安21012日に図顕した本門戒壇の本尊(大石寺所蔵)を指すとするが、日蓮宗等の他の宗派ではこの解釈を認めておらず、板本尊自体も後世の作としている(同本尊は日蓮が孫弟子・日禅に授与した本尊を模刻して、後世に作成されたものとの説が出されている)。

 

弘安の役

蒙古(元)は、弘安2年(1279年)3月に南宋を滅ぼすと、旧南宋の兵士を動員して日本に対する再度の遠征を計画した。高麗から出発する元・高麗の東路軍4万人と、江南から出発する旧南宋の兵士10万人の江南軍に分け、合流して日本上陸を目指すという計画だった。弘安45月、東路軍が高麗の合浦(がっぽ)を出発、対馬・壱岐に上陸して住民を殺害した後、66日、江南軍との合流を待たず、東路軍だけで博多湾に到着し、上陸作戦を開始した。東路軍と江南軍は、7月初旬、平戸島付近でようやく合流したが、閏71日、大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。元・高麗軍は戦意を失い、高麗と江南に退却していった。

 

弘安の役に際し、戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は

「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」

と、教信の苦衷を汲み取りながら、後生の成仏は間違いないと励ましている。

 

弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する機会だったが、一方で承久の乱の再来とはならず真言僧の祈祷で勝利した。『富城入道殿御返事』では、予想外の事態に困惑している様子がうかがえる。日蓮は門下に対して、蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。

 

再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、台風がもたらした一時的な僥倖に浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた。日蓮系各派では元寇襲来的中は度々言及されるが、日本の敗北を予言していた点に言及されることはあまりない。そのため、元寇後の鎌倉幕府の滅亡に比定する解釈がされることがある。

 

文永六年の立正安国論奥書には、蒙古襲来について

「西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之を渡す。(中略)之に準じて之を思ふに未来もまた然るべきか。(中略)是偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応の致す所か」

とある。

2026/01/25

菅原道真(8)

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生涯

平安時代の貴族で学者・政治家。歌人としても名を残している。

 

承和12年(845年)625日、大和国奈良で生まれる。これは現在の奈良県奈良市菅原町と言われるが、他にも出生地については平安京、すなわち京都だけで3ヶ所も伝えられており、出雲国説(現在の島根県)や近江国説(現在の滋賀県)まであるため、本当のところはわかっていない状態である。

 

菅原道真は菅原是善の子で、祖父・清公から三代続いて学者となった家系であるが、道真は特に優秀で、幼少の頃から詩歌の才に恵まれた。当然のこととして学者を目指し、貞観6年(862年)に18歳で文章生となって以降、貞観9年には文章得業生となって学者の途を歩む出発点に立ち、異様な速度で文人としての頭角を現し始める。その速さに、貞観12年に官吏の登用試験に好成績で合格した際、規定なら三階位進めるべきところを、年齢と身分が不釣り合いになると2階位のみに留められたほどであった。以後の昇進も速く、元慶元年(877年)、33歳の時に文人のトップである文章博士に登りつめている。

 

仁和2年(886年)に讃岐守にも任じられ、4年間現地へ派遣されて善政を布いた。この人事異動を左遷と見る周囲の目があったのであるが、道真も地方官である国守は菅原家の家業ではないと断言し、不遇意識を嘆いた。文章博士として学問を以て天皇に仕えることこそが先祖代々の仕事であり、したがって道真にとって都を離れて地方に赴くことなど、ありうべからざることだったのである。なおこの間、仁和3年(887年)に参議・橘広相(宇多天皇の侍講)が起草した宇多天皇の詔勅の文言を発端とし、関白の藤原基経がストライキを起こす事件が起こった際、「これ以上、紛糾させても藤原氏の得にならない」との書状を基経に送り、宮中の人間が止められずにいたところをうまく調停するなどのできごともあった(阿衡事件)

 

寛平2年(890年)に讃岐から帰京すると、道真は政治改革を進めようとする宇多天皇の恩顧を得ることになる。それまで外戚(皇室の姻族)として権勢を振るって来た藤原氏に珍しく有力者がいないことを機と見て、違う氏族の道真を登用して藤原氏の力を弱めようとしたのである。

 

寛平3年には式部少輔に復しただけでなく、将来の公卿の地位が約束される蔵人頭となり、左中弁という要職も兼任し、栄達の途を歩み始めた。

 

寛平7年には中納言、寛平9年に権大納言・右大将と目覚ましい昇進ぶりであり、同年に宇多天皇が譲位し醍醐天皇が即位した以降も、宇多上皇からの後押しにより重用され、最終的に、7年で従五位上から正三位まで行くという猛烈な出世を遂げた。この間の事跡として、遣唐使の廃止がある。寛平6年(894年)に遣唐大使に任命された際、唐の衰退が著しい(13年後の延喜7年(907年)に滅亡)ことから中止を建言、その後唐が滅びたことで、結果的に遣唐使自体が廃止されることになったものである。

 

昌泰2年(899年)には、ついに異例の右大臣に昇進、朝廷のトップ近くまで登りつめた。しかし、このことによって藤原氏・源氏などの有力貴族の反発がどんどん強まったほか、下級貴族にも政策に不安を感じてそれに追随する者が多く、次第に政敵が増加。

 

貴族社会の身分秩序を乱す、学者出身者の異例な栄達は、家柄を誇る貴族たちには到底認められなかったのである。このような雰囲気の中で、道真は右大臣となっていた。

 

それを知った同じ学者でライバルの三善清行が、そろそろ政界を退いた方がよいと忠告をしたが、確執もあり無視されてしまう。

 

そして、ついに従二位に上った昌泰4年(901年)、左大臣・藤原時平により醍醐天皇を廃位して弟の斉世親王(道真の娘婿)を即位させようとしていると訴えられてしまう。これにより、道真を罪人として大宰府に大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷するという醍醐天皇の命が下された。処分を知った宇多上皇は、命令を撤回させようと醍醐天皇の御所を訪れたが、御所に入ることもかなわず、夕暮れにやむなく立ち去ったという。

 

この一連の事件には、「根拠がない讒言であった」という見解と、「宇多上皇からの政治干渉を嫌った醍醐天皇が、自分と親しい時平と組んで、宇多上皇に後押しされている道真を失脚させた」という見解がある。

 

この命からわずか6日後に道真は大宰府(福岡県太宰府市)へ向かう。道真には多くの子供があり、正確には分からないが標準的な系図によれば男11人、女3人の子供が挙げられているが、そのうち大宰府に連れて行くことが許されたのは幼い子供だけであった。京の家では妻と年長の娘たちが留守を守ったが、門前の木を売り、在地の一部を賃借しするなど、留守宅の生活もしだいに苦しくなっていった。

 

よく勘違いされているが、この大宰権帥自体は、兵権をも預かる平安末期まで実質的な大宰府のトップで、貴族の憧れの官職であった。しかし、道真の場合は「大宰員外帥(だざいのいんがいのそち)」と呼ばれるもので、名前だけの高級官人左遷用ポストとして使われたものであった。このため大宰府の人員のうちにも数えられないばかりか、大宰府本庁にも入れてもらえず、ずっと南のぼろ屋で侘び暮らしを強いられていた。

「都府楼(大宰府本庁)はわずかに瓦が見えるばかり、観世音寺(大宰府に附属する寺)はただ鐘の音が聞こえるだけ」

と漢詩に詠んだのも、遠くに追いやられていたためである。道真は大宰府に流されると、幾度か天拝山に登って天を拝し、みずからの無実を訴えたと言われる。

 

2年をこの地で過ごした道真は、延喜3年(903年)225日、そのまま京に帰ることなく、失意のうちに配所で没した。享年59であった。墓地は現在の太宰府天満宮である。埋葬地を探して牛車に遺体を乗せて運んでいたところ、いきなりこの場所で動かなくなったため、道真の意思であるとして葬ったものと言われている。

2026/01/23

日蓮(4)

「観心本尊抄」

文永9年(1272年)の初夏、日蓮の配所は塚原三昧堂から国中平野の西方に位置する一谷(いちのさわ)に移された。それまで日蓮を保護してきた守護代・本間重連が佐渡を離れたことに伴う処置であった。居住環境という点では改善されたが、念仏者らに命を狙われるという状況はまだ続いていた。この頃、門下の中に日蓮の赦免を幕府に嘆願しようとする動きがあったが、それを知った日蓮は赦免運動を厳しく禁じている。

 

文永10年(1273年)4月、日蓮は自身が図顕した文字曼荼羅本尊の意義を明かした「観心本尊抄」を著した。本抄では、曼荼羅本尊を受持して南無妙法蓮華経の唱題を行ずることが成仏への修行(観心)であることを示し、日蓮の仏教における実践を明らかにしている。

 

文永104月、富木常忍に宛てた観心本尊抄副状において

『此の事日蓮当身の大事なり。(中略)未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。(中略)国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す』

等とある。

 

「観心本尊抄」では、まず天台大師が『摩訶止観』で説いた一念三千の法理と草木成仏の義を確認し、紙や木の板に記される曼荼羅が仏の力用を持つ所以を示す。次いで、十界互具の法理について詳細に論じ、妙法が一切の仏を成仏させた能生の存在である故に、妙法を受持することによって仏が有する一切の功徳を譲り受けることができると説いている。

 

後半では、本尊について妙法蓮華経の前に書かれた爾前権教、法華経の迹門・文上本門・文底本門の段階を追って説かれる。経典を序分・正宗分・流通分にわける三分科経を五重にわたって論じ(五重三段)、文上本門が脱益の法門であるのに対し、題目の五字(南無妙法蓮華経)こそが末法に弘通する下種益の法門であることを明らかにしている。

 

「顕仏未来記」

文永10(1273)の『顕仏未来記』では、釈迦、智顗、最澄等の生きた時代に生まれなかったことを嘆きつつも、末法の自分は広宣流布・仏法西遷の使命があると決意している。

 

赦免

佐渡配流において日蓮は生命の危機に直面したが、その中でも多くの著作を残して自身の思想を展開していった。また「佐渡百幅」といわれるように、多くの曼荼羅本尊を図顕して門下に授与した。さらに、佐渡在住の人々から阿仏房日得や国府入道、中興入道など多くの門下が生まれている。

 

文永11年(1274年)2月、執権・北条時宗は日蓮の赦免を決定し、赦免状が38日に佐渡にもたらされた。佐渡配流が根拠のない讒言によるものであったことが判明し、また蒙古襲来の危機が切迫してきたためである。日蓮は313日に佐渡を発ち、326日に鎌倉に帰還した。佐渡の在島期間は、25か月であった。

 

身延期の活動

身延入山

文永11年(1274年)48日、日蓮は幕府の要請を受けて平頼綱と会見した。頼綱は丁重な態度で、蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。日蓮は年内の襲来は必然であると答えた。頼綱は寺院を寄進することを条件に日蓮に蒙古調伏の祈禱を依頼したが、日蓮は諸宗への帰依を止めることが必要であるとして、その要請を拒絶したと伝えられる。日蓮は蒙古調伏の祈禱を真言師に命ずるべきではないと頼綱を諫めたが、頼綱はそれを用いなかった。

 

「立正安国論」提出時、文永8年の逮捕時、さらに今回と3回にわたる諫暁も幕府に受け入れられなかった日蓮は、これ以上幕府に働きかけるのは無意味と考え、鎌倉を退去することにした。そこで、日興の勧めに従い、517日、日興の折伏で日蓮門下になっていた南部実長(波木井実長)が地頭として治める甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に入った。その間も日蓮は著述活動を持続し、身延到着後まもなく日蓮自身の法華経観をまとめ、三大秘法の名目を挙げた「法華取要抄」を完成させている。

 

鎌倉退去の後も日蓮は幕府にとって警戒の対象になっており、対外的には「遁世」の形であったから、身延入山後は門下以外の者と面会することを拒絶し、入滅の年に常陸の湯に向かう時まで身延から出ることはなかった。訪問客は多く来ていたが、わずらわしいと述べている。身延山中は大雪が降ることもあり、体調を崩しがちになる。

 

文永の役

文永11年(1274年)10月、3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬と壱岐島に上陸、防備の武士を全滅させ、さらに博多湾に上陸した。日本の武士は、蒙古軍の集団戦術や炸裂弾(てつはう)や短弓・毒矢などの武装に苦しめられ、戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は深刻な被害を受けた。日蓮は2年後の建治2年(1276年)に記した「一谷入道御書」で、対馬・壱岐の戦況を記述している。

 

幕府は文永の役の後、再度の襲来に備えて戦時体制の強化を図り、防塁の建設や高麗出兵計画のため、東国から九州へ多数の人員を動員した。日蓮は故郷から離れて戦地に赴いた人々の心情を詳しく述べている。

 

「撰時抄」

日蓮は蒙古襲来を深く受け止め、その意味を思索した。その結論を記したのが、文永の役の翌年建治元年(1275年)に著した「撰時抄」である。そこでは、蒙古襲来は日本国が妙法蓮華経の行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果であるとし、妙法蓮華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜でことごとく処刑せよと述べている。

 

また、妙法蓮華経に従わないばかりか真言僧が敵国降伏の祈祷をしているので、日本の滅亡はやむなしという悲観的な様子もうかがえる。一方で日蓮は、蒙古襲来などの戦乱の危機は日本に妙法が流布する契機となると述べている。

 

「撰時抄」で日蓮は「時」を中心に仏教史を論じ、末法は釈尊の「白法」が隠没し、それに代わって南無妙法蓮華経の「大白法」が流布する時代であるとする。すなわち日蓮の弘通する南無妙法蓮華経は、従来の仏教を超越した教であることを明確にしている。

 

さらに「撰時抄」では、仏教史の記述を通して念仏・禅・真言に対する破折がなされるだけでなく、それまで示されることのなかった台密破折が示されている。天台宗の密教化をおし進めた第3代天台座主の慈覚大師円仁を、安然・源信と並べて「師子の身の中の三虫」と断ずる。東密(真言宗)だけでなく、台密(天台宗)までも破折の対象にしているのが「撰時抄」の大きな特徴となっている。その上で、日蓮自身について「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」との自己規定が見られる。

2026/01/19

菅原道真(7)

太宰府

『寛永諸家系図伝』によれば、道真が筑紫にいたとき、兄“前田”と弟“原田”2人の息子を授かったという。

 

大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って、謫居周辺を絶えず徘徊していたという。

 

謫居には、左遷時に別れをあまりにも悲しみ慕われたため仕方なく連れてきた姉紅姫、弟隈麿幼い2人の子供がいた。『菅家後集』「慰少男女詩」で、親子で励ましあって一緒に生活していたことが綴られている。また、2人を連れて館のまわりを散歩していると、小さな池にたくさんの蛙がおり、親兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげていた。その声を聞いていた道真が、離れ離れになった家族のことなどを思い出して一首詠むと、歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真たちの心を察したのか、こののち鳴かなくなったという伝承がある。

 

しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後に道真も他界した。残された紅姫は、亡き父から託された密書を四国にいる長兄菅原高視に届けるために、密かに大宰府をたった。藤原氏の追手が迫る中、若杉山麓に身を潜め、山上の若杉太祖神社に守護を祈願したが、いつしか刺客にみつかり篠栗の地で非業の最期を遂げたという。現在は、紅姫稲荷神社に紅姫天王という稲荷神として祀られている。

 

道真が大宰府に流されたとき、道真を慕ってついてきた時遠という従者が鳥栖に隠れ住んでいた。鹸老いて子供のいない時遠を憐れみ、道真は我が子長寿麿を養子にやったという。道真は時々、長寿麿の元を訪ね池に映った自分の肖像画を描き子にあたえたという。その池が元町に残る(鏡姿見の池)で、道真が腰掛けた石とともに伝わっている。

 

道真公が藤原氏の刺客から逃れるため、板屋まで逃げてきたことがあった。数日後、太宰府へ発つさい、親切にしてくれた板屋の民家に同伴の子どもを預けた。これが、板屋の「真子」姓の始まりとされ、その子孫が奉納したという道真と、その母と妻二組の像が北山神社のご神体となっている。

 

道真は太宰府に向かう途中、津和田村の「千早の杜」を訪ね、そこで

「わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく」

「ふりかえりかへり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは」

と詠み、連れ子の好寛を隣村の中務家に預けたという。

 

梅ヶ枝餅は、道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になり、道真の死後老婆が梅の枝を添えて餅を墓前に供えた、或いは、道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。

 

左遷のおり、道真の母の霊が息子を心配し、京都伏見稲荷大社から稲荷神を遣わせ、大宰府の石穴神社に鎮まったとする伝承がある。稲荷神は道真の配所に稲穂を届け、飢えを救ったという。

 

あるとき、葦の生い茂る沼周辺で大鯰が顔を出して、通行人の邪魔をしていた。道真は、これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したという。その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として、地元の人々に大切にされたという。

 

延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。また他にも道真が賊に襲われたとき、牛が身をていして守ってくれた伝説や、道真が難破に巻き込まれたとき、昔飼っていた愛犬の霊が宿った犬石が助けてくれたという犬島伝説が伝わる。

 

道真が、いろは歌の作者とする説がある。7段書きにした場合に下の部分が「咎なくて死す」となるため、『菅原伝授手習鑑』を契機に、江戸時代中期頃広まったという。

 

晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。すると、祭文は空高く舞上り帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。

 

飛梅伝説

道真が京の都を去る時に、庭に植えられた梅の木に

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

いう和歌を詠んだ。

その梅が、京の都から太宰府の道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」が存在する。また、同様に松の木も京都から飛び立ったが、須磨(現在の神戸市須磨区板宿町板宿八幡神社)で力尽きて落ちたという「菅公の飛松」の伝説もある。

 

薨去の地に関する伝承

身の危険が迫り、筑前から船で水俣湾を経て鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、薩摩川内市城上町吉川を経て、同市東郷町藤川の藤川神社で隠棲し薨去したとされる。その経路には、船繋石・御腰掛石などの史跡が残っている。また、吉川では菅原道真を奥座敷に納戸にかくまったことから、年中行事として村人が集まり女子は左右の袖を広げて男子を隠して、奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている。

 

他に『放ちの鐘伝承』がある。迫る刺客に危険を感じた菅原道真は、舟で南下する途中にお告げのあった湯田川河口奥の大きな石に舟を繋ぎ(菅公舟繋ぎ石)降りて鈴を鳴らすと潮が引き、持ち物共々船は河口から沖へと消え、身軽になった道真は幾山を越え東郷の地を辿り、藤川にて天神になったという。その後、湯田川河口は放し事を下げ潮時に念じれば叶う聖地となった。

 

怨霊伝説と北野信仰

道真を怨霊と見る向きが決定的になったのは、延喜23年(923年)に醍醐天皇の皇子保明親王が薨去し、これを受けて道真の復権が行われた頃だと見られている。さらに延長3年(925年)に保明親王の皇子慶頼王、承平3年には時平の長男保忠が没しており、これも道真の怨霊説を補強する形となった。

 

清涼殿落雷事件(930年)によって道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野寺の寺内社北野神社に道真を祀った。太宰府には、先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を安楽寺天満宮に改修して、道真の祟りを鎮めようとした。また時平の弟藤原忠平の子藤原師輔は北野神社を支援し、天徳3年(959年)に祭文を捧げ、社殿を造営している。師輔は兄であり、時平の娘を妻としていた藤原実頼の家と競っており、道真の怨霊の強調は実頼の系統を圧迫する目的があったのではないかという説がある。

 

正暦4年(994年)には疫病が流行し、これは道真の祟りとして正二位・左大臣が贈られている。一方で寛和2年(982年)には、慶滋保胤が道真を学問の神として祀る祭文を挙げており、寛弘9年(1012年)には大江匡衡の祭文によって学問の神的側面が強調されている。また冤罪を晴らす神としての信仰もあり、『栄華物語』には太宰府に配流された藤原伊周が雪冤を願って太宰府天神を参詣する姿が描かれている。以降、北野信仰は中・下層階級から摂関家に至るまで広まった。

 

江戸時代には、昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でも、この作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。

2026/01/17

日蓮(3)

龍の口の法難

文永8年(1271年)6月、日蓮は当時関東における真言律宗教団の中心人物で、非人の労働力を組織化することで道路や橋の建設、港湾の維持管理や様々な社会事業を行っていた良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請されたことを知り

7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経に帰依せよ」

と降雨祈願の勝負を申し出たが、良観はこれに応じなかった。

 

1271910日、日蓮は幕府に召喚され、現代で言えば刑事裁判を管轄する侍所の次官である平左衛門尉頼綱の尋問を受けた。『御成敗式目』の定めに従い、行敏の訴状に対する「陳状」(答弁書)を日蓮に求めると、日蓮は陳状を提出するが

「庵室に凶徒を集め弓箭(弓矢)・兵仗(武器)を貯えている」

との行敏側の指摘は否定せず、日蓮らは防衛体制強化を行う幕府に異を唱える悪党(反社会的行動をする集団)とされ、流罪の判決が下った。

 

この法難は、鎌倉における日蓮教団の壊滅を意図する大規模な弾圧であり、元寇という未曽有の危機に見舞われ、国内で一致団結した防衛力強化が必要とされる中、過激な他宗批判を行い国内の宗教対立を扇動する日蓮らの言動を危険視した幕府が、蒙古襲来の危機に対応するため幕府に異を唱える「悪党」を鎮圧する防衛体制強化の一環としてなされたと考えられている。

 

日蓮側の記述では、日延べしても一滴の雨も降らず、結果勝負は良観の惨敗に終わったこと、敗れた良観は鎌倉浄土教勢力の中心人物である良忠や道教と共同して念仏僧・行敏の名を使って日蓮を告発したが、日蓮の反論に遭い告発は成功しなかったこと、良観は次に蘭渓道隆らとともに北条時頼、北条重時の未亡人らにも働きかけ、御成敗式目第12条(悪口の咎)にあたる日蓮の処罰を訴えたことなどが主張されており、良観の報復であるとする。

 

912日夕刻、頼綱は数百人の兵士を率いて日蓮の逮捕に向かった。その際、兵士らが松葉ヶ谷の草庵に経典類を撒き散らし、法華経の巻軸をもって日蓮を打擲するなどの暴行を働いたが、日蓮は頼綱に対して日蓮を迫害するならば内乱と外国からの侵略は不可避であると主張し、諫暁した。頼綱は日蓮を馬に乗せて鎌倉中を引き回し、佐渡国守護である北条宣時の館に「預かり」とした。

 

頼綱は同日夜半、日蓮を龍の口の刑場へと連行した。当時、裁判など規定の手続きを経ず斬首に処すというのは、御成敗式目にも反したものであった。種種御振舞御書によれば、日蓮が斬首の場に臨み刑が執行されようとする時、江の島の方角から強烈な光り物(発光物体)が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行は中止されたとある。

 

文永八年九月、日蓮とともに刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡において『貴辺たつのくちまでつれさせ給ひ』『月天子は光物とあらはれて竜の口の頸をたすけ』『(法華経)安楽行品に云く、「刀杖も加へず」』『()普賢品に云はく「刀尋(つ)いで段々に壊(お)れなん」』等と、その際の様子を振り返っている。また、立正安国論を時頼に提出する際、それを介した宿屋入道は、この龍の口の法難の後、日蓮に帰依している。宿屋入道は禅の篤信者で寺を寄進するほどだったが、日蓮の弟子になった後には自宅を寺としている。

 

文永八年、日蓮は弟子日朗に宛てた土籠御書において、法華経安楽行品第十四を引用し『天諸童子 以為給使 刀杖不可 毒不能害』(天の諸の童子、以て給使を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能わず)と自身の境涯を説いている。

 

日蓮は「開目抄」で「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ」と述べて、それまでの日蓮はひとまず終わったと述べている。また「三沢抄」では、自身が佐渡流罪以前に述べてきた教えは、釈尊の爾前経のようなものであると説いている。日蓮は龍の口の法難以後、新たな境地に立って布教を開始した。佐渡に出発する前日(109日)には、初めての文字曼荼羅本尊(「楊枝本尊」と称される)を図顕している。

 

日蓮は、相模国依智(現在の神奈川県厚木市依知)にある佐渡国守護代・本間重連の館に護送され、1か月ほどそこに留め置かれ、最終的に佐渡へ向かった。この法難で迫害を受けたのは日蓮一人ではなく、鎌倉の門下260余人がリストアップされ、逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。

 

佐渡流罪

「開目抄」

文永8年(1271年)1010日に依智を出発した日蓮護送の一行は、1028日、佐渡に到着し、111日、配所である塚原三昧堂に入った。日蓮には日興など数人の弟子が随行していた。塚原三昧堂は、名前の通り墓(塚)のある野原に建てられた粗末な小堂で、冬は雪が吹き込む建物であり、与えられた食糧も乏しく極めて厳しい環境だった。

 

配所に到着した日蓮は、直ちに「開目抄」の執筆に着手、翌年2月に完成させた。執筆の背景には、法難によって多くの門下が信心に疑問を持ち、退転していった状況があった。門下の疑問とは、法華経の行者には諸天の加護があるはずであるのに何故、日蓮とその門下に加護がなく迫害を受けるのか、というものであった。日蓮は今後の布教のためにも、この疑問に答える必要があった。

 

日蓮はこの疑問に答えるために、まず末法の衆生が帰依すべき主師親の当体を儒教(中国古代思想)、外道(インド古代思想)、内道(仏教)の検証を通して明らかにしようとする。仏教とそれ以外の宗教の検討の後、さらに仏教内部の教について大乗教と小乗教、大乗の中でも妙法蓮華経とそれ以外の経、法華経の中でも前半(迹門)と後半(本門)、本門の中でも文上本門と文底本門との勝劣を論じ、結論として妙法蓮華経の文底本門の教である南無妙法蓮華経が、末法に弘通すべき正法であることを明らかにしていく。

 

「開目抄」では、教の検証を通して諸宗が教の浅深勝劣を知らずに謗法を犯しており、日蓮こそが教の勝劣を正しく知る真の行者、すなわち末法における主師親の主体であることを明らかにしていく。

「開目抄」に示された

「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちかいし願いやぶるべからず」

との三大誓願は主(柱)・師(眼目)・親(大船)の表明と解される。

 

その記述を通して、先の疑問に対する答えが示される。すなわち行者に諸天善神の加護がない理由として

   経文や歴史上の先人の例に照らして、行者が難を受けるのはむしろ当然である

   行者が難に遭うのは、行者自身に謗法の罪があるからである

   迫害者に順次生に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れぬ

   行者に諸天の加護がないのは、諸天善神が謗法の国を去っているためである、という4点を示して、その回答としている。

 

「開目抄」が完成した文永9年(1272年)2月、鎌倉と京都で幕府内部の戦闘が生じた(二月騒動)。幕府中枢が、北条一門の名越時章・教時兄弟と北条時宗の庶兄で、六波羅探題南方の職にあった北条時輔を謀反の罪を着せて誅殺した粛清事件である。日蓮が「立正安国論」で予言した自界叛逆難が現実のものとなった。

2026/01/14

菅原道真(6)

左遷

左遷の日、藤原時平、源光、藤原定国、藤原菅根らは、勅宣と称し陰陽寮の官人をあつめ、道真とその子孫が永く繁栄できぬよう絶えるよう、皇城の八方の山野に雑宝を埋めおき、神祭(陰陽道祭)を行うという大がかりな呪詛・厭術をさせた。しかし、道真はこれを絶つ術を知っていたため呪いを免れたが、子孫たちはなす術がなかったため、死後、神となった道真が守護し呪詛・厭術を防いでいるという。

 

左遷のおり、道真は嫡子を哀れみ「日月は天地の父母なり、梅は寒苦を経て清香を発し、松は千年を経て尚、志節道義を失わず」と諭したという。

道真が都を出発する前日、都七条坊門の文(あや)という娘が、夢中で見送るようにとお告げをうけ、三条大橋の袂で綾竹を持ち別れの舞を舞い見送ったのが綾子舞の由来とされる。

 

大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説にちなんだ地名である。

出水市壮の菅原神社に関する伝承として、ジョウス(城須)という老夫婦が道真に三杯の茶を振舞い、そのため道真が追手から逃れることができたという。

道真が、失意の中で尼崎に立ち寄ると、悲しみで人だけでなく草木もしおれた。しかし、ネギだけがしゃんとしており、村人はそのネギを憎み、食べなくなったという言い伝えがある。

 

山陽道を通って太宰府へ向かう道中で、かつて讃岐に赴任する際に懇意になった明石駅の駅長・橘季祐(たちばなのゆえすけ)に再会したが、落魄した道真を見た駅長は道真にかける言葉もなかった。道真は、このときの思いを

「駅長驚くなかれ 時の変改することを 一栄一楽 是れ春秋」

の詩を与えて慰め返したという。

この逸話は『大鏡』に載せられているものであるが、後年の『源氏物語』でも「駅長に口詩を与えた人もいた」と記されている。

 

901年、道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が彼を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、という伝承が福岡県の北野天満宮に、河童の手の亡骸とともに残されている。

 

また、大宰府左遷のおり道真は兵主部という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束をかわした、という伝説も伝わっている。

 

道真は左遷の際、忠臣高田正期へ桜の木を与えた。この桜の花が咲かなかった年に道真に何かあったのでは、と正期は不安になり大宰府へ赴いたという。このことに感動した道真は、天拝山の土で自身の像をつくりそれを持ち帰らせた。正期は、独鈷抛山の麓に祠をつくりそれを祀った。正期の死後、桜は枯れてしまう。それから300年後、積善寺の住職の枕元に天神となった道真が夜毎に立ったので、独鈷抛山の麓の祠を寺の境内に移動した。すると桜の形をした石が桜の木が植わっていたまわりの石から浮かび上がってきたという。

 

道真が忌宮神社の大宮司家に立寄り泊まった際、庭にある井戸に自分の姿を映した。すると、ひどく淋しい気持ちになり、水にうつった自分の顔に向かい

「都を離れて、すでに百日以上になる、ずいぶんやつれた顔になったな、しかし、もう二度とこの土地にくることはなし、この井戸で私の顔をみることもあるまい」

と筆と紙をとり出し、自画像を描いたという。その後、その井戸は「御影の井戸」と呼ばれ、この井戸をのぞいたものは、目がつぶれるという言い伝えが伝わっている。

 

岡山県にある天満宮(称:子安天満宮)には、道真が当地に宿泊したさい、海女が難産で苦しんでいるのを不憫に思い一首の歌を与えた。すると、たちまち海女は安産したという言い伝えがあり、その時に道真が座った石を腰懸石として瓦祠で祀っている。

 

道真の側室は臨月であったが、道真との別れを惜しみ後を追ったという。しかし、途中で産気を催したため、人家に立ち寄ろうとしたものの、間に合わず輿中で大量に出血しながら産んだという。その時、道が真赤に染まった為、「赤大路」の地名由来となった。その後、近くの民家で介抱したものの、産後の経過が悪く亡くなってしまう。夫人は死期に臨むさい、里人の介抱を深く感謝し死後は安産の神になると遺言されたので、子安天満宮が建立されたという。

 

他に、斎世親王の妃となっていた道真の息女が身重で信濃に落ち延びる途中で産気づき、街道の平石で臥せって苦しんでいた。その後、里人の手厚い看護もむなしく無念な最期となったが、その臨終の際、里人の厚い情けに報いるためにと女人の安産を平石に強く祈願したといわれている。

 

また道真の息子の福部童子は、父の後を追って大宰府へ向かったが、山口で病気になり亡くなったという。

娘の苅屋姫も父のあとを追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。のちに、大宰府でその話を聴いた道真は、三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。

道真の六女で愛娘のみよこ姫は、宮城県丸森町にある宗吽院に輿入れしたという。

道真の正室島田宣来子(または側室)が、岩手県一関市東山町に落ち延びたという落人伝説がある。

左遷の折、北九州市戸畑区天籟寺に立ち寄ったという伝説がある。立ち寄りにあたり、手足を洗ったとされる菅公御手洗の池が存在する。ただ住民は不審に思い早々に追い出してしまったとなっており、後に道真と知った住民は菅原神社を建立した。

2026/01/13

日蓮(2)

立教開宗

遊学を終えた日蓮は建長4年(1252年)秋、あるいは翌年春、清澄寺に戻った。

建長5428日、師匠・道善房の持仏堂で遊学の成果を清澄寺の僧侶たちに示す場が設けられた。その席上、日蓮は念仏と禅宗が妙法蓮華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いた。南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、南無妙法蓮華経と唱えることは天台宗の修行としても行われていた。その場合、南無妙法蓮華経の唱題は南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われた。しかし、日蓮は念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。

 

日蓮が念仏と禅宗を破折したことは大きな波紋を広げた。念仏の信徒であった東条郷の地頭・東条景信が日蓮の言動に激しく反発して危害を及ぼす恐れが生じたため、日蓮は清澄寺にいることができなくなり、兄弟子である浄顕房・義浄房に導かれて清澄寺を退出した。

 

伝承によれば、立宗に当たって日蓮は、それまでの「是聖房蓮長」の戒名を改め、「日蓮」と名乗った。また立宗の後、両親を訪れ、妙法蓮華経の信仰に帰依せしめたと伝えられる。

 

鎌倉での活動

「立正安国論」

日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動を開始した。この年の11月、後の六老僧の一人である弁阿闍梨日昭が日蓮の門下となったとされる。鎌倉進出の時期については、建長6年または同8年とする説もある。

 

鎌倉進出当時、日蓮が辻説法によって布教したと伝承されるが、日蓮遺文には辻説法を行った事実の記述はない。この時期に、僧侶としては日昭・日朗・三位房・大進阿闍梨、在家信徒としては富木常忍・四条頼基(金吾)・池上宗仲・工藤吉隆らが日蓮の門下になったと伝えられる。

 

正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た(正嘉地震)。日蓮は多くの死者を出した自然災害を重視し、災害の原因を仏法に照らして究明し、災難を止める方途を探ろうとした。伝承によれば、正嘉2年(1258年)、日蓮は駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に登り、同寺に所蔵されていた一切経を閲覧した。この時期、日蓮が仏教の大綱を再確認した成果は、「一代聖教大意」「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「唱法華題目抄」「守護国家論」「災難対治抄」などの著作にまとめられた。

 

その上で、日蓮は文応元年(1260年)716日、「立正安国論」を時の最高権力者にして鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出して国主諫暁を行った。この時の諌暁は、時頼の信頼厚い近臣である宿屋入道を介して行われた。

 

「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は、法然(日本浄土宗の宗祖)の教えが流行し、為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあるとし、その故に国土を守る諸天善神が国を去って、その代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる(これを「神天上の法門」という)とする。そこで日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法への帰依を停止して、正法に帰依することが必要であると主張する。さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により、日本が滅びると予言し、警告した。

 

「立正安国論」で、日蓮はとりわけ法然の専修念仏を批判の対象に取り上げる。それは、貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった専修念仏を抑止することが、自身の仏法弘通にとって不可欠と判断されたためである。この時期に作成された「守護国家論」「念仏者追放宣旨事」などでも、徹底した念仏批判が展開されている。

 

松葉ヶ谷の法難

しかし「立正安国論」による国家諫暁は、鎌倉幕府から完全に無視された。その一方で、日蓮の念仏破折は念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)827日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された(松葉ヶ谷の法難)。この法難の背後には執権・北条長時と、その父・北条重時(北条時頼の岳父)の意思があったと推定される。

 

日蓮は草庵襲撃の危難を免れたが、もはや鎌倉にいられる状況ではなくなった。そこで、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、布教活動を展開したとされる。この時期に、下総国在住の大田乗明・曾谷教信・秋元太郎らが日蓮に帰依したと伝えられる。

 

伊豆流罪

弘長元年(1261年)512日、鎌倉に戻った日蓮は鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪となった。その際、俎岩まないたいわという岩礁に置き去りにされた、あるいは川奈の漁師・船守弥三郎の保護を受けたという伝説があるが、いずれも根拠のない伝承に過ぎない。「船守弥三郎許御書」は真筆が現存せず、偽書説が強く出されているので、根拠にはならない。

 

伊豆配流中、日蓮の監視に当たったのは伊東の地頭・伊東祐光であった。祐光は念仏者だったが病を得た折、日蓮の祈念によって平癒したので日蓮に帰依した。また、伊豆配流中、日蓮が岩本実相寺に滞在していた時に門下となった日興が、伊豆に赴いて日蓮に供奉したとされる。

 

日蓮は伊豆配流中に「四恩抄」を著し、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪などの法難が妙法蓮華経の行者であることの証明であると位置づけ、また『教機時国抄』を著して、いわゆる「宗教の五綱」の教判を明確にしている。

 

弘長3年(1263年)222日、日蓮は伊豆流罪を赦免された。その赦免は『聖人御難事』に「故最明寺殿の日蓮をゆるしし」とあることから、北条時頼の判断によるものと判断される。

 

小松原の法難

文永元年(1264年)の秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った。それを知った東条郷の地頭・東条景信は、日蓮を襲撃する機会を狙った。同年1111日の夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃した。日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った。この法難で、鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した。

 

1114日、日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した。日蓮は道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、妙法蓮華経に帰依するよう説いた。その後、日蓮は文永4年(1267年)まで房総地域で布教し、母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定される。

 

蒙古国書の到来

文永5年(1268年)116日、蒙古と高麗の国書が九州の大宰府に到着した。両国の国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送した。蒙古の国書は日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった。

 

日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺の良観(忍性)、建長寺の蘭渓道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した(十一通御書)。十一通御書においては念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇格言」を見ることができる。「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行った。

 

幕府は当初は他宗へ依頼したように蒙古調伏の祈祷を日蓮へ依頼したが、未曽有の国難に見舞われた日本の状況下で、過激な発言を繰り返す日蓮教団を危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した(「種種御振舞御書」)。

2026/01/07

菅原道真(5)

人物像

梅ヶ枝餅とカレイと醤油ご飯が好物だったという伝承がある。他に、柿を庶民に普及したという言い伝えも残っている。

茶に関する故実を調査・研究し、世間に喫茶の習慣を広めたため、茶聖菅公と称されたという。

乗馬を好み、通勤は馬でおこない、讃岐での遠出や右近の馬場での桜狩りなど、趣味でも馬を走らせていたという。のちに、天神乗りという騎乗法が伝わり、馬術の師として祀られることになる。

政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていた。左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという。別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで龍女が現れ、「瑠璃壺」を承ったという。

 

学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承がある。また、大蛇に苦しめられたため、自ら矢で射て退治したという逸話もある。

宝剣「天國」、宝刀「神息」、神刀「猫丸」/脇差「小猫丸」、毛抜形太刀〈無銘/〉(伝天國)、菅公御佩用の御太刀、銀の太刀など様々な太刀を常に佩刀していたという。また、河童の大将や大鯰を斬り殺したという逸話も残っている。

 

刀工として、古代の名工の一人に数えられている。

 

子はおよそ23人、またはそれ以上に上るとされ、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという。

 

「和魂漢才」という言葉を生み出したとされる。日本固有の精神「大和魂」と、中国伝来の学問「漢才」という対なる概念のことで、また、その両者を合わせるといった思想。のちに和魂洋才という言葉が派生した。ただし、この言葉が出てくる『菅家遺誡』は、鎌倉時代から室町時代に成立したと見られており、後世に平田篤胤によって加筆改竄された偽書ではないか、という指摘がなされている。

 

心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん(人は、心さえ誠の道にそっていれば、あらためて祈りを捧げなくても、神がきっと守ってくれるだろう。)

 

勝楽寺延命院には、讃岐国が栄えるよう道真が「一」の字を奉納したという言い伝えがある。「一」には物事のはじめ、又は全体を知るという意味があり、古来よりこの「一」と縁を結べば諸願成就すると言われている。

 

菅原家は代々焼物、神聖文字、占呪法(気・密教・呪術等の秘法)、土木事業、行事、儀式、法律等を祖業とし、道真もこれを受け継いでいる。また、仙人、道士を研究し秘法の実践に余念がなかった。

 

伊勢神宮には、神代文字で書かれた道真の奉納文が残されている。また、道真を遠祖とする副島家には、道真のものとする御神印が伝わっている。直系子孫の塩小路家には、祖父清公が始め道真が完成させた神と対話する為の神聖文字として、菅家塩小路篆刻道が現代まで継承されている。

 

出来事

元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に47月まで滞在した。その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。

 

同年、畿内が大旱魃にみまわれたため、陽成天皇の勅命により道真が奉幣使として意賀美神社にて祈雨祈願したところ、たちどころに雨が降るという霊験があったという。

 

『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。

 

17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。

 

久米仙人の修行の様子が龍門寺の扉に描かれ、道真の文と共にしばらくの間残ったとする文献がある。

 

讃岐

仁和4年(888年)、讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。

そのさい、道真が舞ったとされる踊りが西祖谷の神代踊として伝わっており、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。

 

道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。

 

極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。

 

おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。

 

また、『竹取物語』の竹取の翁の名が「讃岐造」であること、自身の神秘的な出生にまつわる伝承から、道真が作者ではないかという説がある。

 

右大臣

寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が、與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。

 

寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し、伊香具神社へ納経したという。

また、道真自刻として伝わる志明院の眼力不動明王、清閑寺の十一面千手観音像、大報恩寺の千手観音立像、他に、住吉神社の神鏡、氣比神宮の為当太神御神幣有奉納鉾太刀など、さまざまなものを神社仏閣へ奉納している。

 

寛平8年(896年)210日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。

 

昌泰元年(898年)1017日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。

 

また、同時期に百人一首の舞台ともなった宇多天皇御一行遊覧のさい、「人々以為らく、今日以後の和歌の興衰を」と、いずれ漢詩にかわり和歌が台頭することを予見している。

 

醍醐天皇の時世に、道真が谷汲山華厳寺の岩屋に参籠し、毎日、お経を書いていると、白石山の淵に住む乙姫が毎朝早く、ご飯の炊事・洗濯に使用している「姫ヶ井の泉」の清水を「閼迦の水」として道真に与えていた伝承がある。乙姫の歌として

「このころは汲みては知らん山の井の 浅さ深さを 人の心に」

が残されているが、不思議なことに、道真以外にこの乙姫の姿を見られた者はいなかったという。

 

醍醐天皇の命により、災いを起こす人魚を道真が小野の地で退治した伝承が、四角柱の人魚塚とともに残されている。

2026/01/05

日蓮(1)

日蓮(にちれん、承久4年(1222年)216日 - 弘安5年(1282年)1013日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。

 

概要

文応元年(1260年)716日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。

 

立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。(日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。

 

『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも)いだきぬべし』(開目抄)、『日蓮が慈悲広大ならば(中略)、万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し

「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」

等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。

その直前に、幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。

 

文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」と、その際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエピソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)

 

文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。

 

だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。

 

文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)1013日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)。大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。

 

日蓮上人、日蓮聖人、日蓮大聖人等と敬称されるが、本項では敬称なしで表記する。

 

生涯

誕生

日蓮は、承久4年(1222年)216日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した。片海の場所については諸説あるが、内浦湾東岸の地とされている。

 

両親について、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。日蓮は自身の出自について「日蓮は、安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり」、「海辺の旋陀羅が子なり」、「東条郷・片海の海人が子なり」と述べているので、漁業を生業とする家庭の出身と考えられる。ただし、両親は荘園を所有する領家の夫人から保護を受けており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は最下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場にあったと見られる。

 

修学

日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った。天台宗は智顗以来、妙法蓮華経を最も優れた経典とする五時八教の教相判釈を受け継いでいた。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた。幼名は善日麿、あるいは薬王麿と伝えられる。

 

清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった。清澄寺には、これらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。

 

伝承によれば、日蓮は16歳の時、道善房を師匠として得度・出家し、是聖房蓮長と名乗った(日蓮が17歳の時に書写した「授決円多羅義集唐決上」に是聖房の直筆署名がある)。

 

宗教体験と遊学

得度した後、虚空蔵菩薩に真剣に祈り、主体的な思索を重ねた結果、日蓮はある日、各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た。

 

次に日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになった。

 

遊学の中心は延暦寺で、比叡山の横川定光院に滞在したと伝えられる。比叡山での研鑽の結果、日蓮は「阿闍梨」の称号を得ている。比叡山で日蓮は、妙法蓮華経を中心とする文献的な学問と、いわゆる天台本覚思想を学んでいる。恵心流の碩学・俊範を比叡山における日蓮の師とする説もあるが、日蓮は俊範から学んだとは述べておらず、実際には俊範の講義に参加していた程度と考えられている。

 

遊学中に日蓮が書写した文献には「授決円多羅義集唐決上」と「五輪九字明秘密釈」がある。著作としては「戒体即身成仏義」など数編が伝えられるが、いずれも真筆はなく、偽書の疑いがある。十数年に及んだ遊学の結果、日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経が最勝の経典であること、天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、時代が既に末法に入っていることを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。