2025/12/13

親鸞以前の悪人正機説

この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の法然が、7世紀の新羅の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。(なお、近年では『遊心安楽道』が、元暁仮託の偽撰書である可能性が指摘されている。)

 

四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。

元暁『遊心安楽道』

 

また浄土真宗本願寺第三世覚如も、元は法然の教えであるとしている。

 

本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。(中略)しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。

 

覚如『口伝鈔』

このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていた。

 

法然も『選択集』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は、悪を慎み善を努めることを勧めたのである。

 

源智が記したと伝えられる法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』(『昭和新修法然上人全集』所収)のなかに「善人尚以往生況悪人乎 口伝有之」と、『口伝鈔』『歎異抄』と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、末木文美士は「源空門下の人達によって、スローガン的に伝持されたものではないか」としている。

 

『法然上人伝記』・醍醐寺本は、大正6年に醍醐寺三宝院(真言宗)から発見され、法然の弟子・源智が残したとされる文書の写本である。このうち「三心料簡および御法語」には、「歎異抄」と酷似した表現、悪人正機思想の意味と誤解の注意が記されている。文献の内容が法然自身の語った思想であるか否かについては議論がある。

 

一、善人尚以往生況悪人乎事 <口伝有之> 私云、彌陀本願 以自力可離生死有方便 善人為をこし給はす。哀極重悪人無他方便輩をこし給へり。 然るを菩薩賢聖付之求往生、凡夫善人帰此願得往生、況罪悪凡夫尤可憑此他力云也。 悪領解不可住邪見、譬如云本為凡夫兼為聖人、能能可得心可得心。

『法然上人伝記』 三心料簡および御法語

 

本願ぼこり

悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。

 

ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。

2025/12/08

遣唐使(4)

遣唐使の消滅

寛平6年(894年)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた。821日、遣唐大使に菅原道真が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出された。

 

道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧中瓘の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた。奏状の概要は、以下のとおりである。

 

中瓘の伝えてくることによれば、唐では内乱が続いており、唐の衰えは甚だしく既に日本と唐の交流は停止している。

過去の記録の伝えることによれば、遣唐使の多くは遭難したり盗賊に遭うなどしていたが、唐に渡ってからは危険が及んだ例はない。しかし、唐が衰えている現状では、唐に渡ってからも危うい。

中瓘の情報を公卿・諸学者は、よく検討し、派遣の可否を決めて欲しい。

 

『日本紀略』には、道真の奏状が提出された同年の九月三十日条に「其日、遣唐使を停める」という記事があったため、長らく道真の建議によって遣唐使が「停止」されたと見られていた。しかし1990年、石井正敏が『日本紀略』において「其日」が「某日」と同意義で使われていることなどから、この記述に史料性はないとし、この日付で遣唐使が停止されたという事実はないという結論を発表した。この結論は、研究者によって概ね支持されている。道真ら遣唐使予定者は、これ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年(897年)513日であり、遣唐副使の紀長谷雄は延喜元年(901年)1028日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年(896年)には、宇多天皇が唐人李環(梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている。

 

しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった。ついに延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

 

遣唐使停止後の日本の外交・貿易

遣唐使の停止後、日本の朝廷は国家の許可なく異国に渡ることを禁じる「渡海制」と、唐や宋などの商船の来航制限(前回の安置(滞在許可)から、次回の安置まで10余年の間隔を空ける)を定めた「年紀制」が採用されたとされている。ただし、「渡海制」自体は公使(公的な使者、日本で言えば遣唐使・遣新羅使・遣渤海使など)以外の往来を禁じた各国律令法の規定の延長に過ぎず、9世紀後半から唐や新羅では、この規制が緩んで国家統制下で民間貿易が認められたのに対して、島国であった日本だけが引き続きこの規定を維持する地理的条件を備えていた。同様に「年紀制」も、この仕組を維持するための政策であったと言える。だが、海外への渡海制限は無いという研究もある。

 

しかし、貴族や寺院を中心とした「唐物」の流行など、中国の文物への憧れや需要は変わらなかった。そのため、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める「特例」が見られ、一方で法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場するようになった。更に「年紀制」の規制では、唐宋商人の日本での滞在期間が考慮されず、かつ「年紀制」違反によって廻却(帰国)処分を受けても取引自体は禁じられなかったため、唐宋商人は大宰府に近い博多に「唐坊」と呼ばれる居留地を形成して貿易を行った。

 

とは言え、摂関期・院政期でも「渡海制」「年期制」違反で処分された事例も存在し、こうした規制は曲がりなりにも鳥羽院政の時代(12世紀中期)までは維持されたとみられている。鳥羽院政期に入ると、平忠盛のように大宰府による規制を排除して宋の商船と取引を行うなど、貿易の国家統制が解体されて民間が主導する日宋貿易が本格化することになる。

 

また、日本では遣唐使停止以後に、独自の文化である国風文化が発達することになったとされているが、貴族の生活・文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書も漢文で作成され続けた。また、王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品とされる書画や文学作品に大きな影響を与えた点についても、様々な指摘がされている。こうした風潮は中世の武士の時代になっても同様であり、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は、中国大陸から輸入した色糸が必要不可欠であった。

 

復元遣唐使船

遣唐使船は、これまでに数隻が復元されている。

1984年公開の映画「空海」では、海上撮影のために航行可能な遣唐使船が建造された。

長門の造船歴史館(広島県呉市)において、1989年(平成元年)に復元した遣唐使船が展示されている。

 

2010年(平成22年)の上海国際博覧会に際しては、ジャパンデーに合わせて財団法人の角川文化振興財団(理事長:角川歴彦)の企画「遣唐使船再現プロジェクト」(協賛:森ビル、読売新聞社、経済産業省、文化庁など)によって全長30m、全幅9.6m、排水量164.7tでエンジン付き遣唐使船(名誉船長:夢枕獏)が復元され、かつての遣唐使と同一の航路で大阪港から上海に入港した。出港式では、住吉大社の安全祈願と歌手の坂本真綾によるプロジェクトのテーマソング『美しい人』(作曲・編曲:菅野よう子)の披露が行われた。プロジェクトの親善大使を務める俳優の渡辺謙を乗せて会場内を流れる黄浦江を航行している。

 

2010年(平成22年)の平城遷都1300年祭に際しても、同年開館の平城京歴史館と合わせて全長約30m、全幅9.6m、排水量300tの遣唐使船が復元された。2016年(平成28年)に平城京歴史館は閉館し遣唐使船の公開も中止されていたが、2018年(平成30年)の平城宮跡歴史公園朱雀門ひろばの開園とともに、遣唐使船も改めて公開されている。

2025/12/06

悪人正機 ~ 親鸞(7)

悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で

「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」

という意味である。

 

阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。

 

悪人と善人

「悪人正機」の意味を知る上で「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは「阿弥陀仏の視点」による善悪である。

 

法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。

 

悪人

衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。

 

善人

親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。

 

ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。

 

因果

凡夫は「因」がもたらされ、「縁」によっては思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もあるし、なおかつ悪と思い行った事(因)が、縁によっては悪をもたらす事(悪果)もあれば、善をもたらす事(善果)もある。つまり、親鸞の他力本願の教えに基づいて、悪因悪果や善因善果以外にも、善因悪果もあれば、悪因善果もあるのである。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。

 

救済の対象

『仏説無量寿経』には、すべての人が苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察した法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに

「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」(意訳:わたしが仏になるとき、すべての人々が私を憑み(一切任せ)わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)と説かれている。

 

「十方衆生」、すなわちすべての衆生が救済の対象である。また至心・信楽・欲生は、如来の願によるものである。よって自らの計らいによる善悪は、阿弥陀による救済の条件・手段にはならない。

 

「唯除五逆誹謗正法」(「唯除の文」)についての親鸞の了解は、曇鸞の『浄土論註』、善導の『観無量寿経疏』に依るものである。

 

我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。

自分のやった善行によって往生しようと思うのは、阿弥陀仏の誓願のはたらきを疑いの心による。

何を行うにしろ我々には常に欲望(煩悩)があり、その計らいによる行為はすべて悪(煩悩濁)でしかない。

善いことをしようにも、実際には自らの善悪の基準でしかなく、本質的な善悪の判断基準がない。

すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、阿弥陀仏の救済の対象は「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない悪人だったと知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、「悪人正機」の本質である。

 

しかしこの事は「欲望のままに、悪事を行っても良い」と誤解されやすく注意を要する。

さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと『仏説無量寿経』で説かれていることは「親鸞一人のためであった」と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、つまり我々一人一人のためであったと受け止め、称名念仏は行ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した。 この点が、宗教者としての親鸞の独自性である。

 

以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。

 

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

 

この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

 

そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

『歎異抄』第3

2025/12/02

遣唐使(3)

遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた。古代の網代帆は、竹や葦を薄く削った物や、棕櫚(しゅろ)や笹の葉を平らに編んで作った網代を籠目(かごめ)に編んだ竹に縛って繋ぎ合わせた帆で、開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく、優れた帆走性を持っている。船体は耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。

 

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に、佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し、乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する。

 

東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには、12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。外交の条件に拘束されない遣渤海使では、気象の良好な時節を活用して、成功率の高い航海がなされている。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする。

 

遣唐使の行程

羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置を確認した上で、近くの州県に赴いて現地の官憲の査察を受ける必要があった。査察によって正規の使者であることが確認された後に、州県は駅伝制を用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から、長安に入れる人数に制約が設けられた事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群が宿舎として用いられた(日本の鴻臚館に相当する)。

 

長安に到着した遣唐使は皇帝と会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と、内々の会見の儀式の「対見」、帰国の途に就く際に行われた対面儀式の「辞見」が行われた。前者は通常は宣政殿にて行われ、信物の受納と遣唐使への慰労の言葉が下されるが、皇帝が不出御の場合もあった。後者は皇帝の日常生活の場である内朝(日本の内裏に相当する)の施設で行われ、皇帝からは日本の国情に関する質問や、唐から日本に対する具体的な指示・意向が示され、遣唐使からは留学生への便宜や書物の下賜・物品の購入の許可などの要請がなされたと考えられている。また、遣唐使の滞在中に元日の朝賀や朔旦冬至が重なった場合には、関連行事への参列が求められ、その後の饗宴では大使以下に唐の官品(位階)が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば、大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。

 

また、対見によって許可された書物の下賜や物品の購入も行われたが、実際には唐側によって公然・非公然に海外への持ち出しを禁じられた書物(正史や法令・叢書など)や貴重品も存在した(ただし、これについては反論もある)。また、原則的に遣唐使を含めた外国使節は「外宅」に滞在し、現地の住民との自由な接触を禁じられていたが、実際には到着の段階で位置確認のために現地の住民と接触をせざるを得ず、希望する文物を獲得するための交渉などの必要から、その原則が破られることは珍しくはなかった。

 

最後に遣唐使は、皇帝に対して帰国許可を求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期を除いて遣唐使の長期滞在を望んだが、日本側では使命終了後の早急の帰国(留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使が出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺の官人が送使として付けられ、出航直前に皇帝から託された唐側の国書が遣唐使に渡された。

 

なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回の高表仁・宝亀年間の趙宝英(ただし、日本に向かう途中に水死したため、判官孫興進が大使の代行を務めた)が、これに該当する。また、安史の乱最中の天平宝字年間には、遣唐使の護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳が付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ず、そのまま日本に帰化している)。

 

遣唐使の選考基準

『伊吉博徳書』『懐風藻』『続日本後紀』『文徳実録』などの諸文献から、唐に集まる各国使臣の中で国際的地位を高める使命を背負う遣唐使は、容貌・身長・風采等の身なりを選考基準で重視したのではないかという指摘がある。

 

遣唐使の衰退

遣唐使は次第に派遣回数が減少し、承和5年(838年)を最後に50年以上中断状態にあった。さらに唐では、874年頃から黄巣の乱が起きた。黄巣は洛陽・長安を陥落させ、斉(880–884年)を成立させた。斉は短期間で倒れたが、唐は弱体化して首都・長安周辺のみを治める地方政権へと凋落した。

 

既に民間交易も活発化し、朝使が薬香を民間商船で日唐間を往来し手に入れた事例もあるため、遣唐使派遣が検討されること自体が減少していった。

 

当時の日本の対唐観の変化として「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられるとされている。