この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の法然が、7世紀の新羅の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。(なお、近年では『遊心安楽道』が、元暁仮託の偽撰書である可能性が指摘されている。)
四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。
— 元暁『遊心安楽道』
また浄土真宗本願寺第三世覚如も、元は法然の教えであるとしている。
本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。(中略)しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。
— 覚如『口伝鈔』
このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていた。
法然も『選択集』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は、悪を慎み善を努めることを勧めたのである。
源智が記したと伝えられる法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』(『昭和新修法然上人全集』所収)のなかに「善人尚以往生況悪人乎
口伝有之」と、『口伝鈔』『歎異抄』と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、末木文美士は「源空門下の人達によって、スローガン的に伝持されたものではないか」としている。
『法然上人伝記』・醍醐寺本は、大正6年に醍醐寺三宝院(真言宗)から発見され、法然の弟子・源智が残したとされる文書の写本である。このうち「三心料簡および御法語」には、「歎異抄」と酷似した表現、悪人正機思想の意味と誤解の注意が記されている。文献の内容が法然自身の語った思想であるか否かについては議論がある。
一、善人尚以往生況悪人乎事 <口伝有之> 私云、彌陀本願 以自力可離生死有方便 善人為をこし給はす。哀極重悪人無他方便輩をこし給へり。
然るを菩薩賢聖付之求往生、凡夫善人帰此願得往生、況罪悪凡夫尤可憑此他力云也。 悪領解不可住邪見、譬如云本為凡夫兼為聖人、能能可得心可得心。
— 『法然上人伝記』 三心料簡および御法語
本願ぼこり
悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。
ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。