2016/07/01

オオカムヅミ『古事記傳』

口語訳:これを見て伊邪那岐命は恐怖に駆られ、逃げ帰ろうとすると、妻の伊邪那美命は「私に恥をかかせたな」と言って、すぐに豫母都志許賣(黄泉の醜女:しこめ)たちに後を追わせた。そこで伊邪那岐命は頭の鬘を取って投げ捨てたところ、ぶどうになった。黄泉の醜女たちがこれを取って食べる間に逃げたが、またも追ってきた。そこで右のみずらに刺してあった湯津津間櫛の櫛の歯を引き欠いて投げ散らしたところ、すべて筍になった。黄泉の醜女たちがこれを抜いて食べる間に逃げた。
そのあと、伊邪那美命はその八種の雷神と千五百の黄泉の軍兵たちに後を追わせた。そこで伊邪那岐命は帯びていた十拳剣を抜いて、背後を切り払いながら逃げてきた。なおも追って、黄泉比良坂のふもとまでやって来たときに、その坂本にあった桃の実を取って、待ち受けて投げつけたところ、追っ手はことごとく逃げ帰って行った。
そこで伊邪那岐命は、その桃に向かって「汝は私を助けたように、葦原の中つ国に生きる人々が苦難に陥ったときには助けよ」と命じ「おおかむづみの命」という名を与えた。

見畏(みかしこみ)は見て畏れることである。記中、ところどころにこの言葉がある。見驚(みおどろ)く、見喜(みよろこ)ぶ、見感(みめ)ずなどの言葉もあって、みな古語である。「かしこむ」はおそれるのである。書紀の推古の巻の歌に、「かしこみて」とある。新撰字鏡には「悸」を「惶」とし「かしこむ」とも「おそる」ともしている。【また同書では忙怕を「おびゆ(おびえる)」とも「おず(おじける)」ともする。ここも「みおじて」と読むことができる。】

逃還(にげかえります)。「逃」という語は、朝倉の宮(雄略天皇)の段に「にげのぼりし」とある。

令見辱(はじみせつ)。恥を与えたのを「恥見す」というのは古語である。書紀【五の八丁】(倭迹迹日百襲姫命の神婚説話のくだり)に「令羞吾(アレにハジみセつ)」とあり、同【十二の六丁】(履中五年)にも「慚レ汝(イマシにハジみせん)」などとある。これを鎭火祭の祝詞では「吾名セ(女+夫)乃命能、吾乎見給布奈止申乎、吾乎見阿波多志給比津止申給弖(アがナセのミコトの、アをミたまうなとモウスを、アをミあわたしつとモウシたまいて)」とある。

豫母都志許賣は、書紀に「泉津醜女(よもつしこめ)」と書いてあり、「醜女、これをシコメと読む、あるいは泉津日狭女(よもつひさめ)とも言う」とある。

○弘仁私記では「一説に黄泉の鬼である」と言う。【ただし「鬼」というのは、儒仏の書で言う鬼(幽霊)ではない。ただこの世の通常の人でなく、恐ろしいものを「鬼」と呼んだ。】書紀の欽明の巻に「魃鬼(しこめ)」とあるのもこの意味である。和名抄では、この「醜女」を「鬼魅」の項に載せている。名の意味は姿形が恐ろしく、醜いことである。後の段に「いなしこめ云々」と言うのと同じである。そのところでもう少し言う。

○遣は「つかわして」と読む。【これを「まだし」と読むのは間違いだ。それは尊ぶべき所へ人をやって物を奉る意味のところに書く「遣」の字を「まだす」と読むことから転じた誤りである。「まだす」というのは伝十六、木花佐久夜比賣の段で詳しく言う。】

 オオカムヅミ(オオカムズミ)は、日本神話に登場する桃である。『古事記』では「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」と表記する。「大いなる神のミ(霊威)」の意味であるが、大いなる神の実と解釈し「大神実命」と表記する場合もある。『日本書紀』にも登場するが、名前は記されていない。

古事記
『古事記』では黄泉の国の条に登場する。イザナギ命が、亡き妻のイザナミ命を連れ戻そうと、死者の国である黄泉の国に赴くが、失敗して8柱の雷神と黄泉軍に追われる。地上との境にある黄泉比良坂の麓まで逃げてきた時に、そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけると、雷神と黄泉軍は撤退していった。  この功績により、桃の実はイザナギ命から「オオカムヅミ命」の神名を授けられる。そして
「お前が私を助けたように、葦原の中国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみに落ち、悲しみ悩む時に助けてやってくれ。」
と命じられた。

日本書紀
『日本書紀』では、神産みの第九の一書に登場する。『古事記』と同様に、イザナギ命は黄泉の国で8柱の雷公に追われる。その時、道端に桃の樹があり、その樹の下に隠れて桃の実を採って投げつけると、雷公は退走していった。これが、桃を用いて鬼を避ける由縁であると記されている。

信仰
桃はC国では仙木とも呼ばれ、邪気を払う呪力があると考えられていた。元旦に飲む桃湯は邪気を退け、桃膠(桃の木のヤニ)から作られる仙薬は、万病に効くとされていた。また、桃弓と棘矢が除災の儀礼に用いられていた。

平成22年、奈良県の纒向(まきむく)遺跡で3世紀前半と推測される土坑から、2千個以上の桃の種が出土した。祭祀に使われたものとされ、この頃には日本にも桃に対する信仰が伝来していたと考えられる。

平安時代になると、追儺(ついな、節分の起源)で鬼を追うための桃弓や桃杖が使われ、正月には桃の木片で、卯槌(うづち)というお守りが作られた。室町中期には「桃太郎」の説話が成立するが、これは桃が不老長寿の仙果で、邪鬼を払う呪力があったことに関係するといわれる。

雛祭りも「桃の節句」と呼ばれるように、桃の花を飾り桃酒を飲む風習が見られ、桃の厄災を払う力に係わる祭りとなっている。これらの説話や行事は、現在にも伝えられている。
出典Wikipedia

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