2018/07/27

白檮原の宮の巻【中巻】(3)

【速見の邑は、豊後の国速見郡である。その国の風土記に「速見郡。昔、纏向の日代の宮で天下を治めた天皇(景行天皇)の御代に、・・・この村に速津媛という女性がいた。・・・語っていわく、『ここに大きな岩窟があり、名を鼠磐窟(ねずみのいわや)といいます、土蜘蛛が二人住んでいて』云々」、また「『直入郡の禰疑野にも土蜘蛛が三人います』と言った。云々」、また「禰疑野は、昔、纏向の日代の宮で天下を治めた天皇がこの地にやって来た時、この野に土蜘蛛がいた。云々」と見え、同書に「石井郷は、昔この村に土蜘蛛の堡があった。石を用いず、土で作ってあった。・・・五馬(いつま)山は、昔この山に土蜘蛛がいた。名を五馬媛という。・・・細磯野(網磯野:あみしの?)は、同じ天皇がやって来た時、ここに土蜘蛛がいた。名を小片鹿奥(小竹鹿奥?)、小片鹿臣(小竹鹿臣?)といった。云々」などともある。】

 

また同巻に「高來縣(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)に渡った時、そこの土蜘蛛、津頬(つつら)を殺した。」【肥前の国に高来郡、肥後の国に玉名郡がある。】

 

神功の巻にも山門(やまと)の縣に移り、土蜘蛛の田脂津媛(たぶらつひめ)を殺した。」【山門の縣は、筑後国の山門郡である。】などとあるたぐいで、岩窟や土室などに住み、人を害し乱暴を働く鳧帥(たける)どもを蜘蛛になぞらえて、こう名付けたのだろう。【上に引いた摂津国風土記などにその由来が見える。書紀に出た尾張邑にいたのは、短身で手足が長かったというから、その姿に因んでそう名付けたのが初めで、他の土蜘蛛もそれにならって名付けた可能性もある。

 

ところが新井氏のいわく、「太古のとき、『つちぐも』と言ったのは、『国つ神』と言うようなものである。古語で『くま』と言ったのは『神』が転じたので、『くも』というのも『くま』の転訛である。だから虫の蜘蛛によって言ったのではない。土蜘蛛と書いたのは、後の借字である。蜘蛛を『くま』と言うのは韓地の方言で、今も朝鮮の人は『くも』と言う。ただしこれはもとわが国の言葉が、彼の地に伝わったのかも知れない」と言った。

 

この説はよくない。「くも」という名は、もとより皇国の言葉だ。だから「もとわが国の言葉が彼の地に伝わったのかも知れない」としたのは正しい。韓語にはそういう例も多いことだろう。またある人は「『くも』は『こも』で、『土隠り』という意味の名だ」と言った。これは、語についてはありそうなことだが、やはりそういう意味の名ではないだろう。

 

ところで今の世にも吉備の国などに、大きな石を積んで作った窟が所々にあって、伝えに、「昔火の雨が降った時、人々が隠れた跡だ」と言うと、その国の人が語った。今考えると、これらも上代に土蜘蛛たちが作ったものだろう。「火の雨云々」は、後の伝えの虚構と思う。日向国風土記に、「天孫が天降った時、大ジ(金+耳)、小ジ(金+耳)の二人の土蜘蛛が・・・と奏した」という記事が見える。これは人を害した者ではないが、土中に住んでいたことから、後にその名を付けたのだろう。】この土雲は、つまり八十建のことである。

 

○「訓云2具毛1(『ぐも』と読む)とある注は納得できない。「雲」を「ぐも」と読むのに、注はいらない。【「く」を「ぐ」と濁るための注とも言えそうだが、これまた「土雲」と連言になる場合、濁ることは注を要しない。】それに記中の例は、みな「訓2云々1、云2云々1(シカジカを読んでシカジカと言う)」とあるのに、これは唐突に「訓云(読んで~と言う)」とあり、「訓レ雲」と書いていないのも例がないことだ。

 

○八十建(やそたける)は、書紀に「天皇がその菟田の高倉山の峯に登って国見をしたところ、国見丘のあたりに、八十梟帥(やそたける)がいた。梟帥、これを『多稽屡(たける)』と読む」とあり、また「弟猾が言うには、『磯城の邑に磯城の八十梟帥がいます。また高尾張の邑に赤銅(あかがね)の八十梟帥がいます。この連中はみな天皇を待ち受けて戦おうとしています』」、また「弟磯城(おとしき)は・・・やって来て言うには、『私の兄、兄磯城(えしき)は、天皇がやってくると聞いて、八十梟帥を集め、武器を準備して、待ち受けて戦おうとしています』・・・この時、磯城の八十梟帥はそこに集結していて、本当に待ち受けて大いに戦ったが、ついに皇軍に滅ぼされた」。

 

景行の巻にも「襲(そ)の国に厚鹿文(あつかや)・サ(乍にしんにょう)鹿文(さかや)という者がいた。この二人は熊襲の渠帥(いさお)であり、その徒党は数多くいた。これを熊襲の八十梟帥という。その勢いは非常に強かった」などとあって、一人の名前ではない。「八十梟帥を集めて」ともあるから、八十とは数多の建(たける)どもを言う。後の文に「宛2八十建1設2八十膳夫1」とあるのを見れば分かる。

 

この書紀の記事では、八十梟帥という者があちこちにいた中でも、この忍坂の大室にいたのは、国見丘のあたりにいた八十梟帥である。それは「まず八十梟帥を国見の丘で斬った・・・その後、残った党類はたいへん数多くて、その実情も分からなかったので、道臣命に『お前は大來目部を率いて、忍坂邑に大室を作り、云々』と命じた」とあって。伝えの趣旨がこの記と違う。なお「建(たける)」とは固有名詞でなく、威勢があって勇猛な者を言う言葉だ。【書紀に梟帥と書いてあるが、この字の意味に基づいて解釈してはいけない。】日代の宮の段に熊曾建(くまそたける)、【書紀には川上梟帥ともある。】出雲建などもある。

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