神武天皇が亡くなると、神武天皇の妾腹の子であるタギシミミノミコトが、皇后である「イスケヨリヒメ」を娶りました。
そのとき、タギシミミ命は異母兄弟である三柱(日子八井命【ヒコヤイノミコト】、神八井耳命【カムヤイミミノミコト】、神沼河耳命【カムヌナカハミミノミコト】)を殺そうと計画しました。
その三柱の親であるイスケヨリヒメは思い悩み苦しみ、歌で子供たちに計画を教えました。
その歌が
「狭井河から雲が立ち上がり、畝火山の木の葉はざわめいています。嵐が来ようとしています」
また歌った歌が
「畝火山では昼間は雲が流れ、夕方には嵐の前触れとして木の葉が騒いでいる」
そのことを聞いた皇子たちは、驚いてすぐにタギシミミを殺そうとしました。
カムヌナカハミミ命は兄であるカムヤイミミ命に言いました。
「兄よ
あなたが武器を持って入って、タギシミミを殺してください」
そこで兄であるカムヤイミミ命は武器を持って入って殺そうとしましたが、手足が震えて殺すことが出来ませんでした。
そこで弟であるカムヌナカワミミ命は、兄の持っていた武器をもらい受けて、入ってタギシミミを殺しました。
それで、その名を称えて
「タケヌナカワミミ命」といいます。
●日本書紀
神渟名川耳天皇(=綏靖天皇)は、神日本磐余彥天皇(=神武天皇)の第三子です。母は媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメカミ)といいます。事代主神(コトシロヌシカミ)の大女(エムスメ=長女)です。天皇は姿がかわいらしく、幼少の頃から雄々しい性格でした。壮(オトコザカリ)になり容貌(カタチ)が魁(スグ=柄杓の大きいところ=大きくて立派)れて偉(タタハ=充実してはちきれそうに)しくなりました。武芸も優れて、志は高い天皇でした。
48歳になり、神日本磐余彥天皇(カムヤマトイワレヒコスメラミコト)は崩(カムアガリ=神になり天に上がる=死ぬ)しました。そこで神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノミコト)は孝性(オヤニシタガウヒトトナリ)は素直で深く、(親の死を)悲しみ偲(シノ)び、喪葬(ミハブリ)の儀式に取り組みました。
兄の手硏耳命(タギシノミミノミコト)は、大人になってから長く朝機(ミカドマツリゴト)に携わっていました。その王はシッカリものでしたが、仁義(ウツクシビコトワリ)に背いていました。ついに諒闇(ミモノオモイ=天子が喪に服す期間のこと)のときに調子に乗り、禍心(マガノココロ)を隠して二人の弟を殺そうと計画しました。
その時、太歳庚辰です。
冬11月。
神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と密かにその殺害計画を知り、どうにか防ぐことにしました。山陵(ミササギ)の儀式(=神武天皇の葬儀)のときになり、弓部稚彥(ユゲノワカヒコ)に弓を作らせました。倭鍛部天津眞浦(ヤマトノカヌチアマツマラ)に、眞麛鏃(マカゴノヤサキ=鹿の矢じり)を作らせました。矢部(ヤハギベ)に矢を作らせました。弓矢が出来て神渟名川耳尊(カミヌナカワミミノミコト)は、手硏耳命(タギシミミノミコト)を射殺そうと思いました。たまたま手硏耳命(タギシミミノミコト)が片丘(カタオカ=奈良県北葛城郡王寺町・志都美村・上牧村の辺り)の小屋の中で、一人で大きな寝床にいました。
その時、渟名川耳尊(ヌナカワミミノミコト)は、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に語りました。
「今がチャンスだ。
言葉は控えて。
行動は静かに。
わたしの陰謀(シノビハカリゴト)には、誰も助けてくれる人はいません。今日の事はただ、私とあなたが自発的に行動するだけです。わたしが小屋の扉を開けるので、あなたが射って殺してください」
二人は協力して小屋に入りました。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、扉を突いて開きました。神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は手足が戦慄(フルイオノノキ)して矢を射ることが出来ませんでした。神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)は、その兄の持っていた弓矢を引き抜いて取り、手硏耳命(タギシノミミノミコト)を射ました。一発で胸に当たりました。もう一発、射つと背中に当たり、ついに殺しました。
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