2021/06/29

五胡十六国時代(5)

https://dic.nicovideo.jp/?from=header

 

五胡十六国とは、中国の時代区分である。三国時代を終わらせた西晋が匈奴と羯の連合軍によって滅亡された後、匈奴族、羯族、鮮卑族、氐族、羌族の五胡(5の非漢族)による16の王朝によって中国が支配された時代である。

 

西晋滅亡後、戦乱で荒れ果てた華北の地には匈奴、羯、鮮卑、氐、羌族らモンゴル、チベット、トルコ系の五胡と呼ばれる民族が勢力を伸ばした。後漢時代から既に中原に居を構えていた、というか強制移住させられていた五胡の民は漢人と混じり合い、一部は遊牧生活を捨てて農耕生活を営むようになっていたが、そのうちに匈奴による漢(前趙)、氐による成漢、漢人による前涼など小さな国々が生まれ、それぞれが覇を競うようになっていった。

 

四世紀初め、五胡の中でも特に勢力のあった漢(前趙)の石勒(せきろく)は319年、後趙を建国し、さらに洛陽の戦いで劉曜の前趙を破って、330年皇帝の位についた。後趙は都を長安において、家族関係や祭祀、行事や生活習慣などを漢の文化を取り入れた。石勒は城内に学問のできる漢族を集めた君子営を設けて、漢の文化を学ばせた。また西から伝わった仏教を篤く信仰し、僧侶の仏図澄を重用した。

 

その後、後趙は石弘、石虎と跡を継いだが、351年、乱暴な政治と度重なる戦争により次第に力を失って行き、代わりに勢力をのばしたのは氐族の符健が建てた前秦であった。符健の跡は子の符生が継いだが、これが粗暴であったため符健の甥の符堅が符生を殺して三代皇帝となった。符堅は370年に前燕、376年には前涼と、拓跋氏による代国を滅ぼして華北を統一した。前秦の軍隊は氐、羌、鮮卑、匈奴、漢人による混成軍団であり、これらの民族をまとめるために、符堅は仏教を信仰し、漢人の祭りをするなどして融和政策をとったが、この効果はいまいちであった。

 

華北を統一した前秦は383年、中国統一を果たす為に南へ侵攻。東晋の都、建康に90万の大軍を派遣した。東晋の宰相、謝安は謝石、謝玄に8万の兵を与えて淝水でこれを迎え撃った。しかし、前秦の軍は様々な民族の混成軍であったためまとまりが悪く、先陣が敗北すると残りの軍勢も潰走してしまい、東晋は大勝利をおさめる。これが淝水の戦いである。

 

この後、前秦の各部族は独立し、再び華北は分裂状態に陥った。その後、398年北魏が誕生し、平城(大同)を都に定めて華北を統一し、一方の東晋は宋が誕生して、ここに五胡十六国時代は終わり、以後は南北朝時代になる。

 

有能なリーダーに有力者・有力部族が集って一大勢力をなすのが特徴で、リーダーの資質によって国が成り立っていたので初代皇帝が死んで無能が後を継ぐ、あるいは符堅のように権威を失ってしまうと崩壊してしまうのがパターンであった。有力者を所属部族から引き離し、その部族を官僚達に支配させるというスタイルを確立させた北魏が、五胡十六国の勝利者になる。

0 件のコメント:

コメントを投稿