2021/06/18

唯識派 ~ 大乗仏教(4)

出典 https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

 

9. 唯識派

 大乗仏教を代表するもう一つの学派は、唯識派である。『華厳経』十地品にみられる「あらゆる現象世界(三界)は、ただ心のみ」という唯心思想を継承、発展させた。45世紀のアサンガ(無着)、ヴァスバンドゥ(世親)の兄弟が、その代表的な思想家である。

 

 唯識という学派名は「一切は心から現れるもの(識)のみである」という主張による。このような考えは、すでに最古の経典にその萌芽を見いだすことができる。『ダンマパダ』は「ものごとみな 心を先とし 心を主とし 心より成る」(藤田宏達訳)という句で始まる。

 

 唯識派の特徴は、心とは何かを問い、その構造を追究した点にある。この派は、瞑想(瑜伽すなわちヨーガ)を重んじ、その中で心の本質を追究した。そのため瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいわれる。

 

 アビダルマ哲学によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続(心相続)である。唯識派は、心相続の背後に働くアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。

 

 アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響を与える過去の業の潜在的な形成力を「蓄える場所(貯蔵庫)」(ālaya)である。

 

 これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、教理の整合性を保つ上で重要な役割を果たした。すなわち、無我説と業の因果応報説の調和という難問が、これによって解決された。

 

 無我説は、自己に恒常不変の主体を認めない。自己は、刻々と縁起して移り変わっていく存在であるという。すると、過去と現在の自己が同一であるということは、なぜいえるのであろうか。無我説では、縁起する心以外に何か常に存在する実体は認められない。果たして自業自得ということが成り立つのか。あるいは、過去の行為の責任を現在、問うことができるのか。これは難問であった。

 

 解答がなかったわけではない。後に生ずる心が先の心によって条件づけられているということが、自己同一性の根拠とされた。言い換えれば因果の連鎖のうちに、自己同一性の根拠が求められた。

 

 しかし、業の果報はただちに現れるとは限らず、時間をおいて現れることがある。業が果報を結ぶ力は、どのようにして伝えられるのか。先の解答は、この点について十分に答えていない。

 

 深層の意識としてのアラヤ識は、この難問を解消した。心はすべて何らかの印象を残す。ちょうど香りが衣に染みこむように、それらの印象は、アラヤ識の中で潜在余力となって保たれ、後の心の形成に関わる。アラヤ識が個々人の過去の業を種子として保ち、果報が熟すとき表面に現れる心の流れを形成する。

 

 これによって、アートマン(自我)がなくて、なぜ業の因果応報や輪廻が成立つのかという問題に対する最終的な解答が与えられた。

 

 ところで、アラヤ識自身も刻々と更新され変化する。アートマン(自我)のような恒常不変の実体ではない。しかし、人はこれを自我と誤認し執着する。この誤認も心の働きである。これは通常の心の対象ではなく、アラヤ識を対象とする。また、無我説に反する心の働きである。そこで、この自我意識(manas末那識、まなしき)は特別視され、独立のものとみなされた。

 

 こうして「十八界」において立てられていた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識に加えて、第七の自我意識、第八のアラヤ識が立てられた。心は、これらの層からなる統体とみなされた。そして、このような層構造を持つ心の働きから生まれ出る表象(vijñapti)として、一切の現象は説明された。

 

 一切は、表象としてのみある(vijñaptimātratā)。しかし、人は表象を心とは別の実在とみなす。こうして、見るものと見られるものに分解される。このようにみざるをえない認識構造を持つ心は誤っている(虚妄分別、こもうふんべつ)。

 

 虚妄分別によって見られる世界は、仮に実体があるかのように構想されたものでしかない(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)。

 

 そして誤った表象を生み出す虚妄分別は、根源的な無知あるいは過去の業の力によって形成されたものである。すなわち他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)。

 

 こうして依他起なる心、アラヤ識の上に迷いの世界が現出する。しかし、経典に説かれる法を知り、修行を積み、アラヤ識が虚妄分別として働かなくなる時、見るものとみられるものの対立は現れなくなり、アラヤ識は別の状態に移り、「完全な真実の性質」を現す(円成実性)。

 

 「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」は、合わせて「三性(さんしょう)」といわれる。迷いの世界がいかにして成り立ち、そこからどのようにすれば解脱しうるかを説く唯識の根本教義である。日本において、唯識思想は倶舎論とともに仏教の基礎学として尊重されてきた。

 

10. 如来蔵思想

 如来蔵とは、生きとし生きるもの(衆生 しゅじょう)が皆、如来を胎内に宿しているということである。如来すなわち仏になる可能性は仏性(ぶっしょう)ともいわれるが、それがすべての生きものにそなわっているという教えである(一切衆生、悉有仏性

 この如来蔵あるいは仏性を所有することが、あらゆる生きものがいつかは仏になり、救済されうる根拠であるとする。『勝鬘経』大乗の『大般涅槃経』『楞伽経』『大乗起信論』などに説かれる。

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