2022/08/10

魏晋南北朝(1)

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魏晋南北朝の流れ

 後漢が滅んで三国時代。魏、呉、蜀の三国に分裂。

 魏に代わるのが。「しん」という音の王朝は、これで三つ目だね。秦、新、がありました。

 

 この晋が蜀と呉を滅ぼして、いったん中国を統一します(265)。しかし、混乱がおこって短期間で晋は滅びます。

 

 華北には北方、西方の異民族が侵入してきて、かれらの部族単位の小さな政権がたくさん生まれます。これが五胡十六国時代(316~439)。五つの異民族によって十六の政権ができた時代、という意味です。華北は大混乱の時代です。

 

 やがて、その中のひとつ北魏という国が華北を統一する(439)。

 北魏は東西に分裂(534)して東魏、西魏が成立。

 さらに東魏は北斉(ほくせい)(550~577)、西魏は北周(556~581)に代わります。

 北魏から北斉、北周までの五つの王朝はすべて同じ系統の政権なので、これをひっくるめて北朝と呼ぶ。

 

 異民族の政権ができたのは華北だけで、華南にまでかれらの侵入はありませんでした。崩壊した晋の王族の一人が南に逃げて、ここに晋を再興します。これを東晋(317~420)という。東晋と区別して、その前の晋を西晋と呼ぶこともありますから注意しておいてください。

 

 東晋を滅ぼしたのが宋、このあと、斉、梁、陳という王朝がつづきます。この宋から陳までの四つの王朝をひっくるめて南朝と呼ぶ。華北の北朝と対峙する恰好になる。

 

 北周が北斉を滅ぼして華北を統一したあと、581年に北周が隋に代わり、この隋が南朝最期の王朝陳も滅ぼして、再び中国全体を統一するのが589年。

 

 後漢滅亡後、隋の統一までの370年間が大分裂時代、というわけです。

 

 この時代全体の呼び方ですが、魏晋南北朝時代、というのがいちばん一般的です。また、南方の政権に着目して、六朝(りくちょう)時代という言い方もあります。三国の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳、全部で六つの王朝があるでしょ。だから六朝。この六つはすべて都が現在の南京にあったので、ひとつづきのものと考えているのです。

 六という数字を伝統的な読み癖で「りく」と読みますから、注意してください。

 

 しかし、王朝の変遷というのは、権力の最高位にある皇帝の家柄が代わっていくのを追っているだけの話で、大きな歴史の流れとしては権力が不安定で長い分裂が続いた時代として、ざっくり捉えてもらったらいい。

 

 では、なぜ皇帝権力が不安定で政権交代を繰り返したかというと、三国時代のところでも話したように豪族の勢力が強かったから、ということになる。豪族層に対抗できるような皇帝権力の基盤を作れなかったのです。

 

 もうひとつは、異民族の流入がある。前漢、後漢の時代に積極的に対外政策をおこなった結果、北方の遊牧民族の間に徐々にではありますが、中国文明が浸透していく。匈奴の中にも、中国国内に移住して生活するような部族が出てくる。華北の場合は、彼らの活動がさらに混乱に輪をかけたということです。

 

西晋から東晋へ

 王朝の変遷でポイントになるところだけ、細かく見ておきましょう。

 

 西晋(265~316)。建国者は司馬炎。この人のお祖父さんが「三国志演義」で有名な司馬懿(しばい)です。曹操に信頼されて、大将軍をやっていた。

 

 ちなみに司馬懿は、蜀の諸葛亮が魏の国に侵攻してくるのを防衛して名を挙げて、諸葛亮の死後は東方の遼東半島にあった公孫氏の独立政権を滅ぼします。この結果、朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入る。そこにやってくるのが、倭の邪馬台国の使者です。

 

有名な「魏志倭人伝」は、この魏の国の歴史書の一部分です。歴史に「もし」は禁物といわれますが、もし諸葛亮が早死にせず司馬懿が蜀との国境戦線に張り付けになったままだったら、朝鮮半島は魏の勢力範囲には入らず、魏の歴史書に邪馬台国の記録は残されなかったもしれない、というわけ。

 

 話が逸れましたが、司馬懿は魏の国で押しも押されぬ実力者になっていく。彼の子も、孫である司馬炎も魏の大将軍の地位を握りつづけます。魏は曹操、曹丕は力がありましたが、それ以後はだらしのない皇帝が続き、いつの間にか司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋を建てたというわけです。

 

 だから、司馬炎はお祖父さんの遺産で皇帝になったようなもので、人物としては大したことはない。即位するとすぐに贅沢三昧に耽ってしまう。それでも280年には呉を滅ぼしなんとか天下が統一されたのですが、彼が死ぬと帝位をめぐって王族どうしの内紛が起きる。八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱を始めてしまったのです。これを八王の乱(291~306)といいます。

 

 この王たち、ライバルを倒すためには自分の軍事力を強化すればよいわけです。で、そのための手段として、周辺の異民族の力を導入したんですね。遊牧系の民族は、中国兵よりも強い。各部族の酋長たちと話をつけて呼び寄せ、配下として戦わせた。遊牧部族の者たちは、初めは晋の王族のもとで戦うのですが、中国人は弱い。なにも彼らの命令を聞いていなくても、自分たちの部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てることができる、と考えはじめても当然だね。やがては、晋の王族に呼ばれていない部族までどんどん移住してきて、晋国内は大混乱におちいります。結局、晋は滅んでしまった。

 

  この時に中国内に入ってきた異民族が五胡と呼ばれるのです。匈奴、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、テイ、羌(きょう)です。テイ、と羌はチベット系の民族。鮮卑はモンゴル系。匈奴は不明ですね、羯は匈奴の別種といわれています。 

 

 遊牧系民族が国を建てるので、当然ながら華北では農村荒廃が進みます。五胡同士の戦争も続きますしね。華北の豪族たちは、配下の農民たちを引き連れてどんどん南に逃れました。

 

 華南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)という人が逃れて、東晋を建てます。都は建康。華南にはまだ開発されていない土地が結構あった。東晋政府は、そういう土地を逃れてきた豪族たちに割り当てていきます。そして、彼らはアッという間にそこに地盤を築いていくのです。華南には、華南土着の豪族もいます。かつては呉政権を支えた人びとです。土着豪族と新来の豪族は、あまり仲が良くない。東晋の皇帝は、こういう豪族たちの微妙なバランスの上に立って政権を維持していったのです。しかも、北には五胡の圧迫があるしね。大変だったね。

 

 また、五胡の政権は、しばしば南方に侵略してきます。一方、東晋政権はこれを防がなければならないし、チャンスがあれば華北を奪還したい。だから、どうしても軍事力を強化しなければならない。この軍人たちが政治的な発言権を持つようになるから、さらに権力は不安定になる。

 

 東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を奪って建国したものです。

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