2022/08/18

魏晋南北朝(2)

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北魏


 華北で五胡の短命地方政権が興亡を繰り返しているなかで、徐々に力をつけてきたのが北魏という国です。鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が建国者。拓跋氏という部族のリーダーです。

 

 この北魏が、五胡十六国の分裂状態を終わらせて華北を統一したのが439年。太武帝(たいぶてい)という皇帝の時です。この間に北魏は華北経営の基礎を固めていくわけです。当然、漢人の豪族の協力も得ていく。鮮卑人の数はしれていますから、漢民族の豪族の協力がなければ、中国の支配はできないのです。華南に逃げずに北部に留まっていた豪族勢力も当然いたのです。北魏の皇帝家も漢人との結びつきを強めるために、漢人豪族と婚姻関係を結んでいきます。

 

 そういう中で登場するのが、北魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(位471~499)です。孝文帝は当然、鮮卑族なんですが母親は漢民族。お祖母さんも漢民族。だから、人種的に何民族かということは、実質的にはあまり意味がなくなってくるね。北魏の国家を鮮卑族の国家から民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ、中国全土を支配することなどできないのです。そこで、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました。

 

 具体的には、首都を平城(へいじょう)(山西省大同)という辺境から、洛陽に移します。それから、宮廷で鮮卑語を禁じます。鮮卑族の軍人や役人は、すべて中国語を話さなければならない。名前も中国風に改名させます。皇帝自身も、拓跋という姓を元という一字姓に変更しています。鮮卑族有力者たちの反対もあったのですが、孝文帝はこれをやりきりました。

 

これは直接関係あるかどうかわかりませんが、こんな話がある。鮮卑族の拓跋氏には、ちょっと変わった風習がありました。皇帝の生母を殺すという風習です。これは外戚が権力を持つのを避けるために、ずっと前からおこなわれていたらしい。孝文帝は幼い時に即位するのですが、その結果彼のお母さんは殺されているわけです。

 

 中国の儒学の発想からすると、考えられない野蛮な行為なのはわかりますね。親には「」というのが中国的な道徳です。孝文帝は、血統からいうと鮮卑族の血よりも漢族の血の方が濃い。鮮卑族の風習と同じように、中国の儒学的な発想も身につけていたに違いないのですよ。価値観のバイリンガルですね。ごくごく常識的に考えて、自分の母親が殺されて悲しくないわけがない。孝文帝の場合は、母の死は自分の即位が原因なわけで、彼は鮮卑族の風習を忌み嫌ったに違いないと私は想像します。そういうことを考えると、彼の漢化政策はよくわかります。

 

魏晋南北朝時代の政治

 魏晋南北朝時代を通じて色々な事件があるのですが、みんなカット。何がこの時代の政治のテーマになっていたのかだけを見ておきましょう。

 

 どの王朝にしろ、どんな経緯で皇帝になったにしろ、皇帝は国家権力を強化したいと考えます。そのための邪魔者は豪族勢力です。豪族の勢力を押さえて、皇帝権力を強化するには、どうすればよいか。

 

ひとつは土地です。豪族よりも広い農地を直接、皇帝の支配下におくこと。そうすれば、単純に豪族よりも強くなれる。なぜならば、そこで自作農民を育成して租税を徴収する。さらに自作農民を徴発して兵士にする。そういうことが、皇帝にとって可能になるからです。そうすれば豪族に頼らない軍事力と、経済基盤を持つことができる。そのための政策が、三国の魏の屯田制、西晋の占田・課田法。占田・課田法は豪族の土地所有を制限して、自作農を作り出すための政策といわれていますが、詳しいことはわかりません。

 

 さらに、この政策の決定版が北魏の均田制です。孝文帝の時代に始まりました。これも自作農民を育成する仕組みだ。これは国家が人民に土地を支給するのです。人民は土地を支給されて、自作農になることができる。そのかわり、彼らは国家に対して租庸調(そようちょう)という租税を納め、兵役の義務も果たすことになります。これによって、北魏は強力になったともいえます。

 

この均田制は、北魏に続く王朝にも引き継がれました。北周を継いで中国を再統一した隋、隋に代わった唐でも均田制はおこなわれました。唐の時代に日本から遣唐使がいく。遣唐使が、この均田制を日本に伝えました。これが班田収授法という名前で、日本でも実施されたわけです。

 

 皇帝権力強化のもうひとつの課題が、官僚の登用です。皇帝の手足となって働く官僚は、中央集権を目指す王朝にとっては絶対必要なのですが、これをどうやって採用するのか。豪族として私利私欲を追求するのではなくて、王朝に忠誠を尽くす人物を採用したい。

 

 魏がおこなった九品中正法が、そのための方法です。しかし、この方法によっても採用されたのは豪族の子弟でした。しかも、九品中正法は豪族の家柄をランク付けしましたから、有力な豪族は代々高級官僚を出すようになりました。このような豪族は事実上、貴族といってよいものになっていきます。西晋の時代には、そういう貴族の家柄がだいたい決まってきたようです。これでは、皇帝に忠実な官僚の採用には、ほど遠いような感じですね。

 

 ただし、豪族=貴族たちが九品官人法によって、国家の序列の中に位置づけられたという意味はあったのです。国家の存在と無関係に貴族が存在できたのではなく、国家や皇帝権力によって高い家格にランクされることを彼らは望みました。そういう点では、九品中正法は豪族を国家権力に取り込んだといえるでしょう。

 

 九品中正法は、魏晋南北朝時代の各王朝で採用されました。どの王朝も、なんとか豪族=貴族勢力を国家権力に取り込もうとしたのです。国家権力が豪族とは無縁の官僚を登用できるようになるのは、さらに後の隋、唐の時代になってからです。

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