2023/05/14

隋(2)

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 長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋です。

隋という国が、どうやって登場してきたのか見ておきましょう。

 

 話は北魏にさかのぼります。北魏の孝文帝が漢化政策をおこなった話を前回しました。実はこの漢化政策に不満を持った辺境地域の軍人たちがいて、かれらの反乱によって北魏は東西に分裂しました。この軍人たちは、辺境防衛で苦労をともにして強い団結力を持っていた。人種的には鮮卑系などの北方民族と、北方民族化した漢族が渾然一体となっています。

 

 この軍人たちが北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団になるのです。かれらは質実剛健な雰囲気を持ち続けます。東魏、北斉政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱化していきますが、北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化にあまり影響されなかったのです。

 

 隋の建国者は楊堅(ようけん)です。隋の文帝ともいいます。

 この人は北周の皇帝の外戚で、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てます。もともと楊堅も北周の皇帝家も、北魏時代の軍人仲間のグループなんですね。だから、王朝が隋に代わっても、基本的な政策の変更はありません。支配者層の顔ぶれもかわらない。

 その後、楊堅の隋は北斉、陳を滅ぼして統一を成し遂げるのです。

 

 楊堅は漢民族といわれていますが、生活文化はかなり北方民族化していたようです。奥さんは独孤(どっこ)氏という鮮卑族の有力貴族出身の人ですしね。

 隋という統一王朝は、中国が北方民族のエネルギーを吸収消化して生まれたものと考えたらよいと思う。

 

いままで、中国文化とか漢民族とかいう言葉をあまり説明もせずに使ってきましたが、中国文化というのは常に周辺の民族の文化を取り入れて発展してきたものだし、漢民族というものも、周辺民族を取り込んでその範囲がどんどん広がってきているモノなんですね。

 

 漢帝国が崩壊してから隋の統一までの長い分裂時代に、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら一回り大きくなったというイメージがあります。

 

 先走りますが、隋がすぐに滅んだあとを継ぐのが唐です。唐はものすごく広い範囲を包み込んで、大唐文化圏とでもいうものをつくりあげます。日本からも遣唐使がどんどんいくでしょう。阿倍仲麻呂、聞いたことがありますか。遣唐使で唐にいって、すっかり唐の皇帝に気に入られて、向こうで官僚として出世するの。唐というのは、その人間が何民族かなんていうことは全然気にしない国なんですね。

 

 北魏、西魏、北周という流れの中で、いわゆる中国人と北方民族が融合していった、その流れが隋、唐という国の基本的な姿勢にもあらわれていると思います。

 

隋の政策

 隋の政策です。

 都は大興城。長安と覚えてもらっても結構です。

 土地制度は、北魏より引き続いて均田制を採用。

 

 税制は租庸調制。均田制によって国家から土地を支給されている農民を均田農民といいます。均田農民が土地を支給されるかわりに、国家に対して納めるのが租庸調(そようちょう)です。

 租は穀物で納める税。庸は労働力で納める税。一年のうち一定期間、政府に労働奉仕します。調は各地の特産物などで支払う税。

 

 さらに均田農民には兵役があります。均田農民によって編成される兵制を府兵制といいます。

 

 というわけで、均田制と租庸調制、府兵制はセットで実施されて効果が上がる制度です。これによって、王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れることができたわけです。北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が、隋の時代に実が結んだのですね。

 

  官僚登用制度として、絶対に覚えておかなければならないのが「選挙」。今の選挙とは全然意味が違うからね。これは試験による官僚登用制度です。やがて、この制度が発展して、のちの宋の時代に科挙(かきょ)と呼ばれるようになります。隋の時代は選挙で採用される官僚の数はまだまだ少ないようですが、家柄によらず人物を選ぶ試験を始めたということはすごいことですよ。6世紀のことですからね。20世紀の日本だって、試験で国家公務員を採用しているんだからね。同じですよ。

 

 貴族も官僚として活躍していますが、隋の時代からは貴族出身官僚を地方官に任命しなくなっている。地方に地盤を持たせないようにしたのです。貴族は豪族的な面をどんどんなくして、王朝に寄生する存在に近づいていきます。

 後漢滅亡後の課題であった皇帝権力の強化は、こういう形で実現していくのです。

 

  4世紀におよぶ分裂の間に江南地方、長江南方の地域ですね、ここは南朝によって開発されて農業生産が伸びていました。隋は、ここを中国北部に結びつけるために大運河を建設します。南は長江南方の杭州から現在の北京近くまで、全長1500キロメートル。

 大運河は南北中国の経済の大動脈として、以後の社会に欠かせないものとなっていきます。のちの唐の繁栄は、この運河のおかげといっても言っても良いくらいです。

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