2023/05/22

隋(3)

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 文帝楊堅を継いで隋の二代目の皇帝になったのが煬帝(ようだい)です。この人の名前ですが、日本では読み癖として「ようてい」とせずに「ようだい」と読んでいます。本によっては「ようてい」とふりがなをつけているものもありますから、どちらが正しいというものではなくて、伝統なんですけどね。

 

 煬帝は暴虐な皇帝であるという評価が一般的で、帝という字を「てい」と呼んであげずに、おとしめる意味で「だい」と読むようになっているのです。煬という文字も、非常に縁起の良くない悪い意味の字です。隋に代わった唐にとって、煬帝を非難して自らの王朝を正当化する必要もあったのでしょう。

 

 実際の煬帝はそれほど悪い皇帝だったかというと、贅沢三昧をするのが悪いとすれば普通に悪い。南朝では、とんでもない皇帝はいくらもいましたから悪さ加減もそこそこ。

 

 ただ煬帝が人民を徹底的に徴発したのは恨みを買いました。大運河の開削工事で農民を人夫として徴発した。普通土木工事に駆り出されるのは男と決まっているのですが、大運河開削には女性も動員された。これは前代未聞だという。

 

 それから、対外戦争です。高句麗遠征を三回おこない、全て失敗しました。この戦争と、その準備で多くの人民が死んでいった。

 

 高句麗は隋の東北方面、現在の朝鮮半島北部から中国東北部にかけて領土を持っていました。煬帝は遠征のための物資をタク郡(現在の北京付近)に集めるのですが、南方から物資を輸送するために黄河からタク郡までの運河を掘らせた。やることが徹底している。土木工事と対外戦争はセットになっているんですね。

 

 このような民衆の負担の激増で、各地で農民反乱や有力者の反乱が起きて隋は滅びることになるのです。

 

高句麗遠征

 高句麗遠征の話をしておきます。

 南北朝時代、中国の北方で大きな勢力を持っていた遊牧民族が突厥(とっけつ)です。トルコ系の民族で突厥という名はトルコを音訳したものです。この突厥は隋が成立するのと同じ時期に東西に分裂して、東突厥は隋に臣従しました。ところが、高句麗は隋に臣従しない。

 それどころか、隋に隠れて突厥に密使を送ったのがバレたりする。そこで、煬帝は高句麗遠征を企てたわけです。

 

第一回高句麗遠征が612年。110万をこえる隋軍が出動した。攻め込まれる高句麗は必死です。国家の存亡がかかっているからね。この時は、隋軍は無理な作戦がたたって敗北、撤退しました。これは「薩水の戦い」の絵です。領内に深入りした隋軍を高句麗軍が破った戦いを描いたもので、韓国の歴史教科書に載っているものです。現代画ですが兵士たちの装束は古墳の絵などを参考にしています。

 

 韓国や朝鮮民主主義人民共和国いわゆる北朝鮮では、隋の侵略を三度も撃退したことは民族の栄光の戦いなんですね。私の高校時代ですが、ラジオを真夜中に聞いていると外国放送が入る。日本向け平壌放送というのがあって、その中の歴史番組で大々的にやっていました。

 

 現在の韓国や北朝鮮の人たちが、高句麗人の直系の子孫かどうかは簡単には言えないんですがね。

 

 第二回目の高句麗遠征は613年。この時は後方で物資輸送に当たっていた担当大臣が反乱をおこして撤兵。隋の政権内部の乱れが目立ってきます。また、各地で民衆反乱が起きはじめていました。

 

 第三回は614年。この時には、民衆反乱が大規模になっていて、高句麗遠征どころではなくなっていた。高句麗側はそれを見越して形だけの降伏をして、煬帝はそれを機会に撤兵しました。

 各地の反乱はますます激しくなって、煬帝は大混乱の中で親衛隊長に殺されて618年に隋は滅びました。

 

 隋の煬帝は、倭国との関係で有名なエピソードがありますね。607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡った。かれは、国書を煬帝に渡すんですが、その冒頭の文句が

「日出(い)づるところの天子、書を日没するところの天子に致(いた)す。つつがなきや・・・」。

 

 これを読んで煬帝は激怒した。もう二度と倭国の使いを俺の前に連れてくるな、と。なぜ怒ったかというと、この文面は中国の皇帝と倭国の王が同格であつかわれているからです。中華的発想では、周辺民族は中国よりもランクが下、中華文明を慕ってやってくるものでなければならない。倭国の手紙はそのような外交的常識から外れた、はなはだ無礼なものなんですね。

 

 ところが、怒ったはずの煬帝なんですが、翌年には裴世清(はいせいせい)という使者を倭国に派遣して友好関係を続けているのです。

 

 なぜか。ちょうどこの時期は、高句麗遠征の準備を進めているときです。高句麗、新羅、百済そして、倭国と東アジア諸国の緊張感が高まっているんですね。隋としては高句麗を孤立させたい。もし倭国との外交関係を切ってしまったら、高句麗が倭国と同盟を結ぶかもしれない。そうなったら、外交上も軍事上もややこしいですね。

 だから、個人的な怒りとは別に、外交上はキッチリと倭国を押さえているわけだ。

 

 問題の国書を出したのは、聖徳太子といわれています。聖徳太子は、この文面が隋に対して失礼なものだと知らなかったのでしょうか。知っていたけど、ちょっと突っ張ってみたんでしょうか。

 

 聖徳太子の時代、多くの仏僧が朝鮮半島から倭国にわたってきていました。大和朝廷からみれば、朝鮮半島は先進地帯です。積極的に仏僧を受け入れていたのでしょう。

 

 そのなかに聖徳太子が師と仰いだ慧慈(えじ)という仏僧がいます。実はこの人、高句麗僧。高句麗から渡ってきている。この慧慈が例の国書を書いたのではないかという説があります。

 

 国書は「日の出づるところ」と倭国のことを書いている。だけど、冷静に考えてみると日本列島に住んでいるわたしたちにとって、ここは「日の出づるところ」ではないね。倭国を「日の出づるところ」と考えるのは、西方から見る視点です。中国を「日没するところ」とするのは、同じように中国よりも東方からの視点です。

 

 そう考えていくと、国書を書いた人物の視点は倭国と隋のあいだにある。そこは高句麗です。

 

 高句麗僧慧慈にとって、倭国と高句麗とが軍事同盟を結ぶことが望ましい。そのためには、倭国と隋のあいだにトラブルが起きると都合がよいです。聖徳太子の信任を受けた慧慈は、そういう下心を持って国書を書いたのではないか。

 

 また、煬帝も倭国の無礼に対して怒りつつも、倭国を高句麗側に追い込まないように注意している。

 

 わずか数行の国書の文面から、倭国をも巻き込んだ国際関係が読みとれるなんて面白いですね。

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