2025/03/30

「第二の師」ファーラービー(1)

アリストテレスが「第一の師」とイスラム世界で仰がれてアリストテレスの哲学解釈が興隆していく中、それに続く「第二の師」と呼ばれたファーラービー(870年頃 - 950年)は、キンディーが開いた道に基礎を固めた人物として知られている。キンディーのように彼も著作が多く、殊にアリストテレスの注釈書は多く、アヴェロエスを凌ぐものであった。キンディーと比べ、ファーラービーはアリストテレスの理解も正確であった。彼も、キンディー同様に真理を追究する情熱は確かなものであり、彼ももちろんムスリムであったが真理に反対するものであれば服従すべきはずのクルアーンでさえも、許されるものではないと考えていた。

 

ファーラービーは、哲学は真理を求める学問であって、人はこれに専念さえすれば最高の精神の境地へと到達することができると考えた。ファーラービーはイスラム的であるよりも、哲学的であるべきだと考えていた。しかし、イスラームを始めとする宗教に対して敵意を抱いていたわけではない。彼はイスラームに哲学の概念を導入することによって、イスラームの国家、政治、社会が安定するように考えていた。また、ファーラービーによると、イスラームにとって重要な概念である啓示は、本来哲学者が直接的に形而上学的認識として把握すべきものとし、預言者ムハンマドはこれを形象的、詩的に表現した天才ではあるが、哲学者よりは一段下と考えざるをえないとまで考えていた。

 

また論理学にも長けており、後のヨーロッパのスコラ哲学で大論争となったいわゆる普遍論争は、ファラービーに端を発しているともいわれている。他にも、世界の存在をネオプラトニズム的な流出論からの説明を行ったり、形而上学やキンディーも論じていた知性論を踏まえ、10の知性流出説など深い論及をし、イスラーム哲学においては偉大な存在の人物であったことはもちろんであるが、ファーラービーの論及した問題は後のヨーロッパの中世哲学の要になるようなものばかりであった。

 

アル=ファーラービー(アラビア語 ابو نصر محمد ابن محمد الفارابي ペルシア語 محمد فارابی Abū Nar Muhammad ibn Muhammad al-Fārābī870? - 950年)は、中世イスラームの哲学者・数学者・科学者・音楽家。トルコ系のアラブ人。イスラーム哲学の確立に多大な功績を上げ、イスラム哲学者たちの間で尊敬されていた哲学者アリストテレスに次ぐ、二番目の偉大な師という意味で「第二の師」という敬称を持つ。ヨーロッパ語圏では、ラテン語化されたアルファラビウス(Alpharabius)の名でも知られている。特に、ネオプラトニズムの影響を受けたアリストテレス研究で名高かった。

カザフスタンで発行されている複数のテンゲ紙幣に肖像が使用されている。

 

著作も多岐にわたり、現在でもファーラービーの著作はイスラム圏のみならず、ヨーロッパやアメリカ、日本などでも読む事が出来る。著作『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』と『知性に関する書簡』が<中世思想原典集成.11 イスラーム哲学>(平凡社、2000年)に日本語訳されている。

 

生涯

出生については異説もあるが、中央アジアのファーラーブ(現在のカザフスタン共和国オトラル)といわれている。若くして中央アジアの都市ブハラで学ぶ。901年にバグダードへ。当地でファーラービーの秀逸ぶりは広く知られ、当代きっての大学者となっていった。950年にダマスクスで80歳で死去。

 

彼は特にアリストテレスの研究に力を注ぎ、その研究書は後の世にも多くの影響を与えた。彼は、イスラームに哲学の概念を導入させる事により、イスラム理解をより深められると考えていた。そのためには、イスラームでは真理を獲得することこそが真の目的で、人はこれにより真の幸福を得られると説いた。彼は論理学にも優れており、彼の哲学は後のヨーロッパで大いに論じられた諸問題(普遍論争など)提起の下地を作った。また、スーフィズムの信奉者でもあった。

 

アル・ファーラービーの様々な出自の由来の記述は、それが彼自身が生きている間には、具体的な情報を持つ誰かによって記録されなかったことを示し、伝聞や推測に基づいている。彼の生涯はほとんど知られておらず、初期の情報源として彼自身の論理学と哲学の歴史をたどる中での自伝的な文章と、アル・マスウーディー、イブン・アン・ナディーム、イブン・ハウカルなどによって簡潔に述べられているだけである。サイード・アル・アンダルスィーは、彼の伝記を書いた。12-13世紀のアラビアの伝記作家は、このような手近に事実を持たず、彼の生涯について既存の叙述を利用した。

 

ある付帯的な記録から、彼は人生の大半をバグダードでキリスト教徒の教師であったユハンナー・イブン・ハイラーン、ヤフヤー・イブン・アディー・、アブー・イスハーク・イブラヒーム・アル・バグダーディーなどと過ごしたとが知られている。その後、ダマスカスやエジプトで過ごし、再びダマスカスへ戻り950-951年頃に死去した。

 

彼の名前であるアブー・ナスル・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ファーラービーに、時々家族姓であるアル・タルカーニーというニスバが付く。

彼の生地は中央アジア~大ホラーサーンのいずれかの地である可能性がある。

 

より古いペルシャ語の"Pārāb"or"Fāryāb"は「川の流水で灌漑された土地」を意味する一般的な地名である。従って、この地名に当たる場所には多くの候補がある。例えば、現在カザフスタンのヤクサルテスにあるファーラーブ、現在トルクメニスタンのオクサス・アムー・ダルヤーにあるファーラーブ、さらにアフガニスタンの大ホラーサーンにファールヤーブなど。13世紀にはヤクサルテスのファーラーブは、オトラールとして知られた。

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