2025/03/27

カロリング朝(2)

イスラム勢力との戦いと名声獲得

トゥール・ポワティエ間の戦い

アキテーヌを支配していたウードはイスラム教徒の国境司令官ウスマンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンは反乱分子として夫を殺し、嫁がせた娘(ランペジア)をカリフのハレムへ送った。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ウードの軍を破った。カール・マルテルは、アウストラシアの軍勢を率いてウードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は内外に大いに高まった。

 

このころ、イスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年には、イスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪し、トゥールーズを包囲した。ウードは、イスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。

 

735年にウードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ウードの息子ウナールに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルは、このような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。

 

教会政策

カール・マルテルは、フリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年、教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは、723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃には、この地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。また、これらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。

 

一方、カール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより、鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンは、アウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。

 

ピピン3世、カロリング朝の成立

741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年、カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃には、アキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。

 

教会政策

カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」は、カロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じて、カール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた。742年、カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長として、フランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。

 

751年、ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式を受けた。754年には、教皇ステファヌス2世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。

 

ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる。またピピン3世は、王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権は、カロリング朝君主が掌握していた。

 

カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立

東方世界・・・東ローマ帝国|ブルガリア王国

西方世界・・・カール大帝の帝国|イングランド|ベネヴェント公国|アストゥリアス王国|ボヘミア

イスラーム・・・アッバース朝|後ウマイヤ朝

周辺諸民族・・・ノルマン人|フィン人|ピクト人|ウェールズ|アイルランド|スウェーデン人|ゴート人|デーン人|プロイセン人|バシュキル人|ヴォルガブルガル人|モルドヴィン人|ポーランド人|ハザール人|アヴァール人|マジャール人|セルビア

 

カール大帝は、イタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した。

768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された。その後、771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。

 

773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した。

 

781年には、ランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。

 

イスラム教徒に対しては、778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた(ロンスヴォーの戦い)。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。

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