2025/08/03

カール大帝(シャルルマーニュ)(3)

カロリング・ルネサンス

アーヘン大聖堂(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州)。「皇帝の大聖堂」(Kaiserdom)とも呼称される。786年にカールが宮殿教会として建設を始めた。現在の大聖堂は805年完成の八角形の宮廷礼拝堂に、1414年のゴシック様式の聖堂を併設したもの。1978年、世界遺産登録。

 

カロリング小文字体

内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインのテオドゥルフ、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。

 

カールは教育を重視し、特に僧侶教育に力を入れ修道院学校や聖堂学校を建設するとともに、古典古代の学芸に属する書物の収集および書写を大規模に行った。カロリング小文字体が基準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになった。

 

8世紀末から9世紀始めにかけて見られた古典の復興は、ローマの遺産の継承にとっても重大で決定的な段階をなしたものであるが、この背景には再興したローマ帝国があった。エルベ川エブロ川まで、そしてカレーからローマまで及んだこの帝国は、軍事的経済的才略に加えてローマ教会からの祝福をも獲得したひとりの皇帝の威厳ある人格のおかげで、一時的にだが政治的かつ宗教的な統一体へとまとめあげられた。

 

カール大帝(768-814)の政治的手腕は、彼の後継者たちにまで引き継がれなかったが、彼のおかげで促進された文化運動は9世紀においてもその勢いを保ち、10世紀まで続いた」(レイノルズ/ウィルソン)。

 

カールの戴冠

797年、東ローマ帝国でエイレーネーが皇帝コンスタンティノス6世を追放し、史上初めての女帝を名乗った。この女帝即位は帝国の西部では僭称として認められず、東ローマ皇帝位は空位の状態であるとみなされた。

 

80011月、カールはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール(少年王)、高位の聖職者、伯、兵士達からなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところで、カールはローマ教皇レオ3世より直々の出迎えをうけた。そして、サン・ピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、レオ3世はカールを大聖堂の中へ導いた。

 

8001225日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールにレオ3世は「ローマ皇帝」としての帝冠を授けた。この時、周囲の者は皆

「気高きカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」

と叫んだという。

 

これ以後、カールは自らの公文書において、それまで用いていた「ローマ人のパトリキウス」の称号を改め、「ローマ帝国を統べる皇帝」と署名するようになった。ドイツでは、この出来事を神聖ローマ帝国の誕生として扱い、カールは初代神聖ローマ皇帝カール1世と呼ばれる。

 

この戴冠については、当時カールに仕えていたアインハルトが、レオ3世とカールとの間には認識の差があったとして

「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サン・ピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」

というカールの言葉を伝えているが、現在の歴史学においてこれは事実とは考えられていない。少なくともカールは自身の戴冠については事前に知っており、また皇帝への就任にも意欲的であったろうことが、いくつもの研究によって示されている。レオ3世は前年の799年に反対派に襲われ、カールの下に逃げ込んだことがあった。カールの戴冠はレオ3世を助けたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。

 

カールがローマ皇帝に戴冠されると、コンスタンティノポリスの皇帝はカールの戴冠を皇帝称号の僭称であると見なし、西方の帝位を主張するには東ローマ皇帝の承認が必要であると強硬に反発した。それは西欧世界においても伝統的な認識であったが、そもそも当時の東ローマ皇帝は女帝であるが故に、帝国の西部では正当な皇帝であるとみなされていなかった。

 

カールは、自らの皇帝称号を帝国東方でも承認させるために東ローマ帝国の宮廷へ使者を送った。東ローマ帝国の女帝エイレーネーからは、エイレーネーとカールによる東西ローマ帝国を統一するための結婚が提案され、この申し出にカールも乗り気であったが、まもなくエイレーネーがクーデターによって失脚したため、この縁談は実現することがなかった。

 

東ローマ帝国は、当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマ皇帝ミカエル1世はカールの帝位を認め、代わりにカールは南イタリアの一部と商業の盛んなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも、東ローマ側としては「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみであるとしており、カールには「ローマ人の皇帝」ではなく「フランクの皇帝」としての地位しか認めていない。これは、後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。

 

西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っており、ローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立を象徴することでもあり、また世俗権力と教権の二つの中心が並立する独自の世界の成立でもあった。

 

最期・列聖

アーヘンの宮廷礼拝堂

カールは「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い、806年に「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)を定め、嫡男のカール若王・次男のランゴバルド分国王ピピン・末子のアクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌811年にはカール若王が父に先立って没したため、813年に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし、翌814128日、アーヘンにおいて71歳で崩御した。遺体は、その日のうちにアーヘン大聖堂に埋葬された。

 

カールの列聖については、以下のような事情がある。

「フリードリヒ(フリードリヒ1世・バルバロッサ)はアーヘンに赴き、11651229日、心酔する偉大なる皇帝カール大帝を、パスカリス(対立教皇)がとりしきる荘重な儀式により聖者の列に加えた。アレクサンダー(教皇)はこれに反対した。その理由の一つは、聖別が敵によって行われたこと、他の理由は、新たに聖者に列したカールが行ったキリスト教の布教が、キリスト教的でないということだった。しかし、カールは数世紀後においてなお尊敬に値する人物であるという点が、すべての抗議を押し退けた。教皇たちでさえ、そのおかげを被っている人物に反対の立場を取り続けることができなかったのである」。

 

後に、カール大帝への崇敬はアーヘン司教区とオスナブリュック司教区では ≫beatus≪として許された(≫gestattet, nicht anerkannt≪)。フリードリヒ2世は、中世金細工工芸の傑作(Meisterwerk der mittelalterlichen Goldschmiedekunst)として有名な聖遺物容器「カールのシュライン」(Karlsschrein)を造らせ、1215年アーヘン宮廷礼拝堂(Aachener Pfalzkapelle)におけるドイツ王戴冠式に際して、自らそのシュラインの中にカール大帝の遺骨を納めたと言われている。

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