2026/03/05

日蓮(9)

逸話

佐渡流罪2年目の文永9年(1272年)、日蓮の配所が塚原三昧堂から一谷に移されてまもなく、鎌倉の女性信徒が幼子の乙御前を連れて、はるばる佐渡の日蓮を訪ねてきた。日蓮はその女性を「日本第一の法華経の行者の女人」と称賛し、「日妙聖人」と日号・聖人号まで授与している。その上で、日蓮は乙御前母子の帰りの旅費が十分でないことを心配し、日蓮の世話をしている一谷入道から、後で法華経十巻を書写して与える約束をして、その代償に母子の旅費を用立ててもらった。一谷入道は地頭などに遠慮して念仏の信仰を捨てることができなかったが、入道の妻は日蓮の門下となった。建治元年(1275年)、日蓮は自ら書写した法華経十巻を入道の妻にわたしている。

 

建治2年(1276年)3月、最古参の門下の一人で下総方面の中心的信徒だった富木常忍が、身延の日蓮のもとに母親の遺骨を納めに来た。しかし常忍は下総に帰る時、常に所持している経典を置き忘れてしまった。日蓮は、すぐに常忍が忘れた持経を弟子にもたせて、常忍のもとに届けさせた。日蓮は、引っ越しの際に妻を旧宅に置き忘れた人がいた等の中国の故事を引いた後、常忍に対して「日本第一の好く忘るるの仁(ひと)か」とユーモアを含めて教示した。その上で、下総から身延までの困難な道のりを母の遺骨を運んできた常忍の行動に触れ、母を思う常忍の心情を深く汲み取っている。

 

建治3年(1277年)6月、四条金吾は、極楽寺良観らの讒言を真に受けた主君・江馬氏から、法華経の信心を続けるならば所領を没収し、江馬家から追放する旨の命令を受けた。金吾から、決して法華経の信心を捨てることはないとの誓いの言葉を聞いた日蓮は、金吾が主君に提出する陳状(答弁書)を金吾に代わって自ら執筆し(「頼基陳状」)、併せて主君の代理の奉行人に対して、金吾が言うべき言葉まで具体的に教示している。

 

それは次のような言葉だった。

「自分から江馬家を出て、所領を差し上げることはいたしません。しかし主君が私の所領を没収するのであれば、それは法華経への布施となりますから、むしろ幸いであると思います。私の領地は主君からいただいたものではなく、主君の病気を法華経の薬によって助けてあげた褒美としていただいた所領ですから、それを取り上げるならば主君の病気もまた戻ってくるでしょう。その時になって、『四条金吾、助けてくれ』などと言ってこられたとしても、そのような要請には一切応じられません」。

 

奉行人に対し、このように憎々し気に言い切って、席を蹴って帰ってきなさいと日蓮は四条金吾に教示した。実際に、主君はまもなく鎌倉で流行していた病にかかり、金吾の治療を受けなければならない事態になってしまった。金吾の助けを得て病を癒すことができた主君は、金吾に対する態度を改め、弘安元年(1278年)には金吾に新たな領地を与えている。

 

身延の日蓮のもとには多くの門下が訪れたが、下部温泉の湯治のついでに訪問したという者には真剣な信心が認められないとして面会せず、全て追い返した。老齢の内房(うつぶさ)の尼御前が訪ねてきた時も、尼御前が氏神に参詣したついでに来たと言ったので、日蓮は仏が主で神は従であるとの道理を尼に分からせるためにあえて面会しなかった。

 

早い時期に日蓮の弟子となった三位房は、その後、比叡山延暦寺に遊学した学僧だったが、遊学先から日蓮に宛てた手紙で、貴族に招かれて説法したことを面目をほどこしたなどと書いてきたので、日蓮はその態度について「日蓮を卑しんで書いたのか」と厳しく戒めた。さらに三位房の言葉遣いもさぞかし京都なまりになっただろうとして、それでは田舎法師でも京法師でもない中途半端な存在になってしまうから、言葉はあくまでも田舎言葉でなければならないと訓戒している。

 

文永の役の翌年、建治元年(1275年)4月、杜世忠ら蒙古の使者が日本にやってきたが、幕府は使者の言葉に耳を貸さず、同年9月、竜の口の刑場で斬首した。日蓮はその事実を知って、罪もない使者が処刑されたのは「不便(ふびん)」であるとし、彼らに深い同情を寄せた。さらに平頼綱や北条時宗らが日蓮を用いていたならば、決して使者を斬首させることはなかっただろうと述べている。

 

文永11年(1274年)5月、鎌倉を去って身延に入った日蓮は、その途中、富士の賀島にある日興の叔母が嫁いだ高橋六郎入道宅を訪問したいと思ったが、富士方面には日蓮を敵視する北条時頼・北条重時の未亡人やその関係者が多くいたので、高橋入道宅の訪問は入道に対するの迫害を招く恐れがあると判断し、あえて立ち寄らなかった。弟子たちにも入道宅の周辺に行かないよう注意している。日蓮は信徒を迫害にさらしてはかわいそうだとして、そのような事態を極力回避しようとした。

0 件のコメント:

コメントを投稿