2026/05/07

契丹(1)

契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qìdān、英:Khitan)は、現在のモンゴル、中国東北部、極東ロシアに相当する地域に4世紀頃から居住していた北東アジアの歴史上の民族である。遊牧民であったとされている。

 

契丹人は、モンゴル祖族の鮮卑を経由した子孫であり、側モンゴル語であり現在は消滅している契丹語を話した。契丹人は、シベリア、モンゴル、中国北部の広大な地域を支配した遼王朝(9161125)を建国し、その指導者となった。遼朝の契丹族は、契丹小字と契丹大字の2種類の独立した文字を使っていた。

 

1125年、金の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が耶律大石の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ(西遼王朝)を建国した。このほか、中国の北遼、東遼、後遼、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。現在、中国東北部の少数民族として認められているダウール族は、契丹人の遺伝的子孫である。

 

中国の歴史的名称である「キタイ」は、契丹という言葉に由来している。

 

歴史

契丹の起源と黎明期

『遼史』に記される伝承によれば、土河(老哈河)の東にある馬孟山(馬鞍山)から白馬に乗った神人が、潢河(西拉木倫河)西岸の平地松林から青い牛の牛車に乗った天女と、両河の合流地点にある木吐山で出会い結婚して8人の子を儲け、契丹古八部の祖先になったとされ、中国の歴史教科書にも紹介されている。また、永州木吐山に始祖・奇首可汗の祖廟があり、可敦(皇后)と先の八子の像が在るとする。

 

契丹の起源は、拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、庫莫奚もしくは室韋と同系になると考えられている。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。『魏書』、『北史』、『隋書』によると、宇文部であった奚(庫莫奚)ともつながりがあり、ともに4世紀半ばに前燕の慕容皝に敗北し、松漠の間(今の赤峰地区)に逃れて居住し、388年に北魏に敗れ、奚と分離し、その東方に暮らすようになったとされる。

 

5世紀に至って人口が増え、北魏の北方を侵すようになった。5世紀半ばから、北魏に朝貢し、交市を行うようになった。479年、柔然と組んだ高句麗の侵略を怖れ、北魏に来降し、白狼水(今の大凌河)の東岸一帯に移り住んだ。この時の人口は、1万余人であったと伝えられる。6世紀に入っても、北魏への朝貢は絶えなかった。

 

553年には、北斉の国境を侵して文宣帝に敗北し、部族の大部分が捕らえられて、諸州に分置される。残った部族もまた、突厥に攻められ、高句麗を頼っていった。

 

この時代の契丹は、悉万丹・阿大何(大賀)・具伏弗・郁羽陵・日連(遙輦)・匹黎爾・吐六干・羽真侯の古八部から構成され、常には連盟していなかったとされる。

 

大賀氏の時代

6世紀末〜8世紀には、西は老哈河から東は遼河・南は朝陽までの地域に住み、北斉に従属していた9つの州に居住する大賀氏八部(構成部族)が連盟を結び、紇使部から出た大賀氏を君長に戴いていた。戦争を行う時は八部が合議して行い、独断で行うことはできない合議体制であった。狩猟は部別に行われたが、戦争は合同で行ったと伝えられる。

 

7世紀後半の東夷諸国と唐の羈縻(きび)支配。

当初は突厥に臣事し、八部の族長は俟斤(イルキン)の官に任じられる。584年から585年にかけて、隋に来降する。

 

586年、部族同士の争いが行われ、隋の文帝(楊堅)は使者を使わしてこれを責める。そのため、契丹は隋に罪を謝した。この後、高句麗に従属していた曲拠部-玄州、突厥に従属していた内稽部-威州の合わせて10部族が隋へ帰順する。隋は突厥との友好のため、彼らを故地に帰そうとしたが、これを拒否し北に移って遊牧する。突厥は沙鉢略可汗の時に人を遣わして統治したが、契丹はこれを殺して逃れ、611年に改めて隋に朝貢する。

 

618年、隋末唐初の戦乱の際に、中国を侵略し、619年には平州を攻める。621年、契丹別部の酋帥である孫敖曹が唐に使いを遣わし、附く。623年、唐の李淵に使者を送り、貢納を行う。628年には、君長の摩会が部族を率いて、唐に来降する。突厥の頡利可汗は引き渡しを求めたが、唐の李世民はこれを拒絶した。

 

645年、唐の高句麗攻撃に参加し、その帰路に君長である大賀氏の窟哥が左武衛将軍に任じられる。648年には唐に内属し、松漠都督および使持節10州諸軍事に任じられ、国姓の李氏をもらう。この頃には、突厥から来降した松漠部-昌州・沃州の両州と、紇使部から別れた乙失革部-帯州を加え12部となり、勝兵4万余を擁して羈縻政策の管理下へ置かれた。

 

窟哥の死後、松漠都督の阿卜固が奚と結んで反乱を起こすが、660年、唐の行軍総管である阿史徳枢賓に敗れて鎮圧された。窟哥の孫である李尽忠が松漠都督となる。

 

6965月、武則天の統治下のもと、営州都督・趙文翽の横暴略奪に不満が高じて、李尽忠と孫敖曹の孫・孫万栄が趙文翽を殺害し営州を奪うと、10日の内に数万の兵が蜂起、再度反乱を起こした。契丹軍は兵を率いて河北一帯を寇掠し、828日には西硤石谷・黄獐谷で唐軍を大破するが、その後平州の攻略に失敗、1022日に李尽忠は病死した。

 

6973月、孫万栄は再び唐軍と東硤石谷で交戦し壊滅させる。5月に入り、唐は20万の兵を組織。6月下旬に契丹軍は趙州を攻略するが、数日後に唐軍が奚を率いて孫万栄の新築した城を落城させると、将兵の心が離れ契丹軍は潰散、630日に孫万栄は部下の手で謀殺された。これにより、契丹は突厥の傘下に入ることとなった。700年、李楷固ら、かつての孫万栄から唐に降伏した将によって、契丹は敗北する。

 

714年(715年?)、契丹首領の李失活(李尽忠の従父弟)が部族を率いて、玄宗期の唐に降伏する。李失活は改めて松漠都督となり、松漠郡王に任じられる。李失活は長安に出向き、717年、宗室外の女子である永楽公主の降嫁を受ける。

 

718年、李失活が死去し、その従父弟の娑固が後を継いだ。娑固は大臣であり、驍勇で衆心を得ていた可突干と不仲となり、可突干に攻められ営州まで逃亡する。唐の営州都督は、娑固と奚王・李大輔および唐軍の精鋭500名に可突干を攻撃させるが、娑固・李大輔は殺され唐軍の将は捕らえられる。営州都督は西に逃亡した。可突干は娑固の従父弟にあたる鬱干を立て、唐に罪を乞うたので鬱干が松漠都督に任じられた。

 

722年、鬱干は長安に出向き、降嫁を乞うたので松漠郡王に封じられ、燕郡公主が降嫁する。可突干も来朝し、左羽林将軍に任じられる。723年、鬱干が死去し弟の吐干が後を継ぎ、燕郡公主を妻とする。吐干は可突干と反目し、725年、燕郡公主とともに唐に来奔し、契丹にもどらなかった。そのため、可突干は李尽忠の弟である邵固を主とした。冬に、玄宗の泰山への封禅の際に、邵固は行在所に出向き、広化郡王に封じられ、東華公主が降嫁させられる。可突干は唐に冷遇され、不平を抱いていたと伝えられる。

 

730年、可突干は邵固を殺し、奚とともに突厥に降る。可突干は屈列(洼可汗?)を主とする。732年、唐の信安王・李禕率いる唐軍に敗れ、多くのものが捕らえられて、可突干は逃亡し、奚も唐に降伏する。733年、唐を侵略する。可突干は突厥と連合し、唐軍を大破する。唐の討伐軍に張守珪が任じられ、可突干は偽って降伏し突厥に就こうとするが、張守珪の離反策により、可突干を兵を分掌していた松漠府衙官・李過折が夜襲を行い、可突干と屈列を殺した。

 

735年、李過折は唐により北平郡王に封じられ、松漠都督となる。同年、可突干の余党であった涅里(泥里とも表記される。「遼史」によると耶律阿保機の始祖にあたる)が、李過折を殺し、その子・剌干は唐に逃げていった。737年、張守珪によって、再度破られる。

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