2020/08/12
アムピアラオスの神域(ギリシャ神話84)
2020/08/07
五賢帝時代 ~ ローマ帝国(8)
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フラウィウス朝 (A.D. 70 - A.D. 96)
この王朝は、カエサルあるいはアウグストゥスに始まるユリウス・クラウディウス朝との血縁関係がなく、要するに「ユリウス・カエサル家」の縁者によるものではなかった。しかし、初代皇帝のフラウィウス・ウェスパシアヌスが善政をしいたことから、民衆の支持は厚かったようである。
諸改革
いわゆるコロッセオ。初代皇帝ウェスパシアヌスは簡素な生活をしつつも、新税を導入して財政再建に尽力した。都市再建にも腐心し、内戦で焼失したカピトリウムの神殿や民衆のための巨大闘技場を再建、新築していった。75年から工事され始めたこの巨大円形闘技場こそが、かの有名な「コロッセウム(コロッセオ)」である。正式名称は「フラウィウス闘技場」とあり、このことからもフラウィウス朝の都市再建がうかがえよう。
ウェスパシアヌスの改革は、属州ヒスパニアにも見られた。彼はヒスパニアの住民にラテン権を与え、さらにイタリア式の自治制度を導入した。このウェスパシアヌスの英断は、後に有能な元老院議員たちを生むという形で実を結ぶ。
ウェスパシアヌスは、後に元老院決議により神格化された。彼の最後の言葉は
「皇帝は立って死なねばならぬ」
鎮圧と災厄
79年、初代皇帝ウェスパシアヌスが死去すると、その長氏ティトゥスが後を継ぎ、第2代皇帝として即位した。70年の頃から、ユダヤ反乱の再鎮圧に加わっていたティトゥスは、すでにエルサレムを陥落させるという武勲を有していた。
彼が即位して間もない79年8月、ウェスウィウス山が大噴火を起こし、ポンペイやヘルクラネウムの町が焼失した。特に、ポンペイのそれは有名である。すかさずティトゥスは、被災地の救援にあたった。
しかし81年、ティトゥスは皇帝となってから、これといった功績を残すことなくこの世を去った。民衆は、有能な彼の死を嘆いたという。ティトゥスの威光は、今もなお輝く「ローマの凱旋門」として後世に形を残した。
ちなみに父から子へと帝位を継承させたのは、ウェスパシアヌスと彼が初めてである。
対ゲルマニア
3代目の皇帝には、ティトゥスの弟であるドミティアヌスが就いた。
この辺りのローマ帝国は、対外的に見て攻勢に転じていた。83年にはカレドニア人とカッティ人に勝利し、とくに後者は皇帝自らが軍を指揮していた。85年にはダキア人が猛攻し苦戦、しかし88年のタパエの戦いの戦勝により講和に持ち込んだ。89年には、またもカッティ人に対し勝利し、この際もドミティアヌス自身が軍を率いていた。
しかしローマ帝国といえど、何事もうまくいくわけではない。89年は、またゲルマニア総督アントニウス・サトゥルニヌスが皇帝として担がれ、反乱が勃発した。ゲルマニアといえば現在のドイツ、すなわちローマの北であったから、ドミティアヌスはこれを鎮圧すべく、北上する必要があった。サトゥルニヌスは、お膝元のゲルマニアを活用し、ゲルマン諸部族を従えドミティアヌスと連戦した。反乱の代表者サトゥルニヌスは元老院貴族であったが、それ故にドミティアヌスは元老院と溝を深めるようになったのだった。
96年、その元老院との対立が災いし、ドミティアヌスは暗殺された。これにより、ローマ帝国に再び安定期をもたらしたフラウィウス朝が断絶するが、奇しくも、その直後に空前の最盛期が帝国に訪れる。
ネルウァ・アントニヌス朝 (A.D. 96 - A.D. 192)
元老院が政敵であるドミティアヌス帝を打倒すると、マルクス・コッケイウス・ネルウァが彼らによって次期皇帝に指名され、即位した。ネルウァは元老院貴族の一人であり、軍務経歴のない老いた法学者であったが、それ故に元老院を第一に尊重する姿勢であった。
最盛期 - 偉大なる五賢帝の時代
96年から180年を一般に五賢帝時代と呼ぶ。これはローマ帝国が最も輝いた時代であり、地中海を完璧に、欧州をほぼ完全に支配(ないし勢力圏下)した時期である。
五人の皇帝は、以下の通り。
ネルウァ
(マルクス・コッケイウス・ネルウァ・カエサル・アウグストゥス、在位:96年 - 98年)
トラヤヌス
(マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス、在位:98年 - 117年)
ハドリアヌス
(プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス、在位:117年 - 138年)
アントニヌス=ピウス
(ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス、在位:138年 - 161年)
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
(カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス、在位:161年 - 180年)
最初のネルウァ帝は、帝国の全盛期を開始させた重要人物。しかし、それ以外はあんまり取り上げられない。先のネロ帝と友人関係にあったという。また、先代の皇帝とはゲイ友。
トラヤヌス帝は「至高の皇帝」と称され、帝国領の最大を実現した。その領域は地中海、北アフリカはもちろん、西欧・中欧・シリアにも達し、現イギリスであるブリタニアにも及んだ。ローマ風の都市が各地に建設され、文化もまた各地に波及した。現在のロンドン・パリ・ウィーンなどは、彼の業績を無視できない。
ハドリアヌスの長城ハドリアヌス帝は、ブリタニアに「ハドリアヌスの長城」を立てた。彼もまた異彩を放つ存在で、具体的には男色で詩に長けており、ギリシャ文化への傾斜も強かった。ローマ全体の統合を果たし、防衛面についても尽力した。娘さんが大好き。
アントニヌス=ピウスは軍事上の功績はこれといって無かったものの、政治上においては辣腕を誇り、主に財政での活躍が見られた。実は、一番名前が長い人。
最後のマルクス・アウレ(ryは「哲人皇帝」と称され、『自省録』を著した。彼の時代には帝国にも陰りが生じていたためか、その著書もどこか暗く重いものがある。名前の長さからか、高校生などに悪い意味でよくネタにされる。
斜陽の前兆
180年、マルクス・アウレリウスが亡くなると、その実子コンモドゥスが帝位を継ぐ。ウェスパシアヌス帝がティトゥス帝を後継者して以来、実に約1世紀ぶりの「父から子」の継承であった。
コンモドゥスはアントニヌス=ピウスを祖父にもち、哲人皇帝マルクス・アウレリウスを父にもつ上、トラヤヌスやハドリアヌスとの血縁上の繋がりをも有していた。ゆえにコンモドゥスは、軍隊からの厚い忠誠を受けることとなる。
亡き父マルクス・アウレリウスの意思を継ぐコンモドゥスのもと、ローマ帝国はマルコマンニ族との闘争に力を注ぐ。帝国は、制していった異民族を講和条約のもと統合していき、比較的寛容な方法で防衛と拡大が促された。
一方、内政では、腐敗する寸前の軍を縮小させ、後のセウェルス朝で起こる改革の土台を作られていた。
2020/08/05
天命 ~ 孟子(5)
天命
孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の革命説の原型をなしている。
孟子によれば、舜は天下を天から与えられて天子となったのであり、堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下をやりとりすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって、天命は判断されるのである。
また、殷(商)の湯王が夏の桀王(けつおう)を追放し、周の武王が殷の紂王(ちゅうおう)を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜならば、いくら桀紂が天子の位にあったとはいえ、仁義のない「残賊」にすでに天命はなく、ただの民と同じだからである。
このように、孟子の天命説は武力による君主の放伐さえも容認するものであった。しかしながら、孟子は革命の首唱者であっても革命家ではなかった。その天命説も放伐を煽動するのではなく、むしろ規制するためのものであったといえるだろう。
天子の位は、かつては代々賢者から賢者へと禅譲されていたが、禹(う)が崩ずると賢者の益でなくその子啓が位を継ぎ、以後今日まで世襲が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の萬章の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐・虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。
孟子が湯武の放伐を正当化したのは、あくまでそれが天命によってなされたからであり、もし天命によっていなければ、つまり君主が不仁不義でなければただの簒奪となる。周王室の力が衰え、各地で君主が臣下に国を乗っ取られる乱世にあって、孟子はその下剋上に道徳性を求めたと見るべきだろう。
このことは、ルソーの社会契約論と酷似している。
後世の評価
孟子は、儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、孟子の地位は宋代以前には、あまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一、孔子の「道統」を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降、孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗の熙寧4年(1071年)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。
元豊6年(1083年)、孟子は初めて政府から「鄒国公」の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後、『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の至順元年(1330年)、孟子は加えて「亜聖公」に封じられ、以後「亜聖」と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。
書物としての『孟子』
書としての『孟子』(もうじ、もうし)は、上述のとおり儒教正典の四書の一つである。孟子が一生行った遊説や論争、弟子たちとの問答、および語録の集成である。
書名は『毛詩』と区別するため「もうじ」と発音し、人名は「もうし」と発音するのが日本での習慣であったが、近年は書名の場合でも「もうし」と発音することが多い。
『孟子』の注を書いた後漢の趙岐は、『孟子』は孟子の引退後に、彼が弟子の公孫丑・萬章らと共に問答を集め、また規則の言葉を選んで編集したと記載している。武内義雄は孟子自撰説に反対し、孟子の門弟または再伝の弟子くらいの手記を集めて編纂されたものとする。
「梁恵王章句上・下」
「公孫丑章句上・下」
「滕文公章句上・下」
「離婁章句上・下」
「萬章章句上・下」
「告子章句上・下」
「盡心章句上・下」
の七篇よりなる。
儒教倫理説の根本教義のひとつとされ、社会秩序の維持のため守るべき5つの徳として有名な「五倫の道」は滕文公上篇に記載されており、性善説の根拠たるべき道徳学説として知られる四端説は、公孫丑上篇に記されている。
なお、『論語』は孔子が登場しない章も含まれていて、孔子本人と弟子たちの言行録となっているが、『孟子』は全章に孟子本人が登場する。
易姓革命は、古代中国において起こった孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を正当化する理論。
周の武王が殷の紂王を滅ぼした頃から唱えられ、天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。無論、堯舜などの神話の時代を除けば、禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎない。
後漢から禅譲を受けた魏の曹丕は「堯舜の行ったことがわかった(堯舜の禅譲もまた、この様なものであったのであろう)」と言っている。後漢(劉氏)から魏(曹氏)のように、前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てた(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠としている。儒家孟子は易姓革命において、禅譲と武力による王位簒奪の放伐も認めた。
ほとんどの新王朝の場合は、史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆が強調されるが(有名な桀・紂以外にも、煬帝のように悪い諡号を送られたり、そもそも諡号や廟号を送られない場合もある)、形式上は明に対する反逆者である李自成を討って天下を継承した清のような場合は、明の末代皇帝崇禎帝を一応は顕彰し、諡号や廟号も与えられている。
このように易姓革命論は、実体としては王朝交代を正当化する理論と言える。またこのような理論があったからこそ、劉邦や朱元璋のような平民からの成り上がり者の支配を正当化することが出来たとも言える。これは、西洋において長年に渡る君主の血統が最も重視され、ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興す場合すらあるのとは対照的である。
また、日本では山鹿素行など江戸時代の学者が
「易姓革命は結局、臣が君を倒すことで、そのようなことがしょっちゅう起こっている中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中華である」
と唱えた。素行の著「中朝事実」は、そのような思想によって記された日本史の本である。
五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされた。たとえば、漢の末期を揺るがした184年の黄巾の乱は、
「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉(蒼天已に死す、黄天当に立つべし、歳は甲子に在りて、天下大いに吉とならん、『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩伝」
のスローガンが掲げられた。漢朝は火の徳を持っているとされ、漢朝に代わる王朝は土の徳を持っているはずだとの意味である。
出典 Wikipedia