2021/11/14

民族移動時代(1)

民族移動時代(英語: Great Barbarian Invasion)は、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移住の時代のことである。この移住が古代を終わらせ、中世が始まったと考えてもよい。

 

この移住はゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族の侵略を主体としている。これは中央アジアでのテュルク系民族の移動や、人口爆発、気候変動、疫病の蔓延、高齢化人口の増大などが要因とされる。

 

ゲルマン系民族の移動

本節では古代後期から中世初頭にかけて西ローマ帝国の領域内に居住するようになっていったゲルマン系の移動について記す。(参考:ゴート族、ブルグント族、ランゴバルド人、アングロ・サクソン人、ジュート人)。

 

最初にローマ帝国の領域に侵入したのは西ゴート族であり、続いて侵入したのが東ゴート族である。彼らはいずれも東方民族であるフン族からの略奪・虐殺を受け、逃げ延びる形で東ローマ帝国の領内に殺到し、傭兵として東ローマ帝国内で一定の地位を築いた。それに続く形でブルグント族がフランス北部に、ランゴバルドがイタリアに、アングロ・サクソン人とジュート人がブリタニアに、アレマン人(ケルト系と深く混血していた)が南西ドイツに侵入していった。

 

そして最終的にフランク人というケルト系やスラブ系・ラテン系の民族とゲルマン諸族が連合したグループが西ヨーロッパを担うようになっていく。ゴート人など初期に移動を開始した東側のゲルマン人は圧倒的多数派であったローマ人に同化したが、後発のフランク人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。

 

またゲルマン系の故郷とされる北欧の人々はヴァイキングとして盛んに活動して各地に血統を残している。

 

ゲルマン民族の大移動

375年、フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたことが大移動の始まりとされる。その後、多数のゲルマニア出身の民族が南下をくり返し、ローマ帝国領に侵入した。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしたが、原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられている。

 

この後、すぐに西ローマ帝国において西ローマ皇帝による支配体制が崩壊したため、西方正帝廃止と民族大移動との関連性が考えられる。フン族の侵攻を食い止めたのが、ローマの支配を受け入れて傭兵となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるために、ゲルマン人の力を借りて西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立における意義は大きいと思われる。

 

また、最近の研究では、正帝廃止後の西欧における西ローマ帝国の連続性が注目されている。西ローマ帝国に発生したゲルマン王国の住人や王宮高官は、そのほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままであり、例外的にゲルマン化が進んだとされるフランク王国においてすら、住民の8割はローマ人であった。フランク王国において、宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末のカール大帝の時代になってからのことである。

 

ゴート人などの東側のゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西側のゲルマン人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。なお北方系ゲルマン人(ノルマン人ないしヴァイキング)は大移動時代には、デーン人がユトランド半島まで進出した程度である。

 

この後も、ヨーロッパにはスラヴ人やマジャール人(ハンガリー人)といった民族が押し寄せ、現在のヨーロッパの諸民族が形成されていくことになる。

 

西ゴート王国

元々、西ゴート族はドニエプル川両岸に居住していたが、アッティラによる圧迫によりバルカン半島北部への移住が始まり、傭兵として東ローマ帝国内に居住するようになっていた。しかし5世紀初頭、東ローマ帝国で軍司令官に任じられていた西ゴート族の指導者アラリック1世は、給金の支払いについて帝国と対立して東ローマ帝国から離反、西ローマ皇帝ホノリウスの暴政に苦しむ非イタリア系住民からの要請を受けて、イタリア半島へと侵入を開始した。

 

時の西ローマ皇帝ホノリウスは、西ゴート族によるローマ略奪の報を受けてもラヴェンナへこもりきりであった。418年にはローマ帝国との契約により西ローマ帝国への定住が認められ、トゥールーズを中心として西ゴート族の王国(西ゴート王国)が発生した。

 

5世紀中ごろには、西ローマ帝国の実権を西ゴート族の指導者が握り、ローマ帝国の名の下でガリアとヒスパニアでの勢力を伸ばした。しかしガリアはフランク族との抗争で6世紀初頭には王国の領域から外れ、王国の重心はイベリア半島に移らざるを得なくなった。その後も、イベリア半島を中心に支配が続いたが、711年に、ウマイヤ朝の攻撃を受け、滅亡。イベリア半島は、その後、レコンキスタの舞台となる。

 

西ゴート族

西ゴート族(Visigoth)は、ゲルマン人の一派である。ゴート族が歴史上は、270年頃から、この西ゴート族と東ゴート族に分かれる。

 

スカンディナヴィア半島から南下したゴート族は、ドネブル川の両岸に分かれて居住した。その西側、カルパチア山麓に居を構えた人々は「森の住人」を意味するテルヴィンゲン (Terwingen)と呼ばれたが、やがて「善良な」を意味するゴート語の接頭語「wesu」をつけて呼ばれるようになり、後に西ゴート族と呼ばれるようになった。彼らは他のゴート族から離れて西の方角に移動していたものの、彼らの名称は本来は方角とは無関係である。

 

西ゴート族が住んだその地域は、土地が痩せていて定住に適さなかったため、比較的早い時期からローマ帝国領内に、主に傭兵として移り住んだ。ローマ東部の皇帝ヴァレンス帝やテオドシウス1世はゴート族に寛容で、帝国領内への彼らの移住を認めた。

 

西ゴート族の移動

375年にフン族の圧迫により、大規模な移住が始まる。アリウス派キリスト教を受け入れたのも、このころと見られている。5世紀初頭に新たな指導者となったアラリック1世(アラリコ1世)は、一族を引き連れてイタリア半島に侵入したが、説得に応じガリアへと撤退した。418年にはローマ帝国との契約のもとに、プロヴァンス地方を経由して、南アキタニアのトロサ(トゥールーズ)を中心に西ゴート王国を建て、フン族やイベリア半島に侵入していた他のゲルマン諸族と戦った。5世紀半ばには一時的に西ゴート王が実質的に西ローマ帝国を統治したこともあった。また時としてローマ帝国との同盟を破り争うこともあった。

 

その後の西ゴート族は、イベリア半島にいたイベリア人とケルト人とラテン人およびムーア人と混血して、今日のスペイン人およびポルトガル人の先祖の一派として同化していった。

出典Wikipedia

2021/11/12

日本の伝統的な民衆の神々(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/


日本の神々

 日本の伝統的な民衆レベルの神々は殆ど意識されない、ということを前章で触れておきましたが、しかし、それでもちゃんと存在しているのです。ただ、この神々は「自分の名前と姿をきちんと覚えておけ」とは言わない神々なのです。自然の中に隠れて私達を見ている神々です。何かあると「何かに宿り」現われてくる神であり、「神社」などに鎮座している神々とは違います。神社にいるのは『古事記』に登場する「朝廷の神々」となります(ただし、両者が融合している場合もあります)

 

そこでこの章では、そうした日本の民衆の神様たちを整理することにします。この神様たちの多くは「固有名」を持っておらず、持っている場合は「地域の呼び名」となります。一般的な名前を持っており、そして「神社」に祭られている神々は『古事記(及び日本書紀)』に登場してくる神々として、次ぎの章で扱います。

 

1.地域、土地に関わる神

 ここには「氏神」、「産土神」、「鎮守神」、「境の神」、「土地神」、「道祖神」を入れておきたいとおもいます。それぞれを簡単に紹介しておきましょう。なお、この表記は「一般名称」であって、実際には各地方で様々な呼ばれ方がしています。そのとき「固有名」を持っている場合もありますが、ここでは特殊命名としてとりあげません。

 

 また、この民衆の神も「朝廷の神」と融合したり、仏教と習合したり、また自身でも歴史的流れに変化していったりで、決して一律な姿を示してきません。さらには地方的な違いというのも非常に大きく、またさらにどの「神格」もギリシャの神々のように「こんな形姿」として示すことは非常に難しいと言えます。実際、こんな「曖昧で不明確な神」など世界的にも珍しいといえます。

 

氏神

 元々は、その名前が示しているように「氏族」の祖先神、ないし守護神ということでしょう。しかし、武士階級が「荘園」を所持拡大していく過程で、その土地の「土地神」を「氏神」としていったようで、したがってもとは「血縁関係」の神であったものが「地縁関係」に拡大されたようです。こうして、さらに「土地の神」である「産土神」と氏神が融合してしまいました。

 

一方、元々はある特定の領域を守護するものであったらしい「鎮守神」が、この荘園の守護神とされていくことで、氏神は「鎮守神」とも融合してしまいました。こんなわけで、この三者は区別がなされなくなっていきました。しかし時には、この氏神は「家、屋敷に限定」される場合もあり、また文字通り「同族氏族の神」と限定されたり、あるいは氏族を離れ「村全体」の神とされ、村人全員が「氏子」とされて「祭り」の担い手とされたりしています。

 

現在、一般には文字通り「氏族の神」というタイプか、「氏子」と合わせて「村・地域の神」として理解されていることが多いようです。

 

産土神

 「うぶすなかみ」といいますが「うぶ」に「」という字があてられているように、本来「生む」あるいは「生産」の神として「土地の生産神」という性格をもっていたようですが、同時に「出産」の神でもあったようです。しかし、上に示したいきさつから「氏神」や「鎮守神」と融合していきました。

 

鎮守神

 由来的には比較的新しく、中国の「寺院の守護神」が由来か、とも考えられているものですが、働きとしてはそのように「一定の寺院、あるいはここから一定の領域、さらには王城、荘園」などの守護神としての働きをもっていました。奈良の「興福寺」の「春日明神」などが、これにあたります。しかし、「氏神」のところで示した理由によって三者が合体し、ようするに「その地域に住む村人および村の守護」ということになっていきます。村々にある「鎮守様」というのがこれです。

 

境の神

 これは朝鮮由来かと考えられていますが、稲作と同時と考えられ古い由来を持っています。今でも朝鮮の村に観察されるといいますが、日本のものも形態はこれと同類とされています。働きとしては「村」に仇為すものが進入しないように立てるバリアーのような働きをします。

 

一方、『日本書紀』に「いざなぎ」が黄泉の国から逃げ帰った時「ここから先にはくるな」と言って投げつけた「杖」から「ふなと(くなと)」の神が生じたとされ、この神が「ふなと神」として村の境や岐路、坂、峠などに祀られたとされ、この二者が融合しているようです。

 

さらに、仏教の一般人への浸透に伴い「地蔵信仰」が盛んとなって、この地蔵が境の神と重なってきまして、これも少々複雑です。他方で、これは本来「道」に関わるものであったと考えられる、次の「道祖神」との区別も曖昧になってしまいました。

 

道祖神

 働きとしては「境の神」と殆ど同じで区別するのが困難ですが、一般には「道祖神」の名前の方が有名で、働きとしても「道」に関わること全体が司られると考えられているようです。そのため『古事記』での「天孫降臨」の際「道」を照らしていた「猿田彦」が祀られたり、後には仏教での輪廻転生の論における「六道」の守りとしての地蔵が祀られたりしました。

 

また、この道祖神の祭りでは、小正月に村境や四つ辻で門松や正月飾りを燃やして、その火で餅や団子を焼いて食うと病気にならないなどといった祭りがみられ、これは「左義長」と合体などしていきます。こんな具合に、この神も明確さを持っていません。

 

土地神

 その土地を守護する神のことで「地主神」、「地の神」ということです。その土地に何かを創設したり開墾するさい「許可」をもらったりするわけで、今日でも家を建てたりする際に儀式をとりおこなっているのを目にします。

2021/11/10

乳海攪拌 ~ インド神話(2)

 乳海攪拌は、ヒンドゥー教における天地創造神話。  

乳海攪拌の物語は『マハーバーラタ』115-17(乳海攪拌)、『バーガヴァタ・プラーナ』、『ヴィシュヌ・プラーナ』、『ラーマーヤナ』などで語られている。

 

偉大なリシ(賢者)ドゥルヴァーサスは、非常に短気で怒りっぽく、礼を失した者にしばしば呪いをかけたが、丁寧に接する者には親切であった。

 

ある時、人間の王たちが彼から助言を受けるべく地上に招き、美しい花で造った首輪をかけて手厚くもてなしたところ、ドゥルヴァーサスはとても喜び、王と王国を祝福した。

 

その後、彼はこの美しい花輪を与えるべくインドラを訪ね、その首にかけて祝福した。インドラたちは彼を丁寧にもてなし、滞りなく送り出した。

 

その直後、インドラが乗る象が花輪に興味を示したため、何気なく与えた。象が花輪を放り出すところをドゥルヴァーサスが見て激怒し、インドラたち神々に呪いをかけ、神々や三界が享受してきた幸運を奪ってしまった。

 

三界の繁栄は陰り、植物は枯れ、人間の世界は堕落し、神々は力を失った。この機をとらえてアスラ(阿修羅)が天へ侵攻してきたが、超常の力を失った神々はなすすべがなかった。

 

インドラはシヴァ、ブラフマーに助けを求めたが、ドゥルヴァーサの呪いは彼らにも解けず、彼らはヴィシュヌを訪ねた。ヴィシュヌは、不老不死の霊薬「アムリタ」を飲めば良いと言う。そこでアムリタを作り出すため、乳海攪拌を実行することにした。これは神々だけでは不可能な作業であり、アスラの協力も必要だったため、神々はアスラと和睦した。アムリタを分け合うことを条件に、アスラは協力に応じた。

 

ヴィシュヌは、多種多様の植物や種を乳海 (Kīra Sāgara) に入れた。続いて、化身巨大亀クールマとなって海に入り、その背に大マンダラ山を乗せた。山に竜王ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を、アスラはヴァースキの頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。

 

海に棲む生物はことごとく磨り潰され、大マンダラ山の木々は燃え上がって山に住む動物たちが死んだ。火を消すべくインドラが山に水をかけたことで、樹木や薬草のエキスが海に流れ込んだ。ヴァースキが苦しんで、口からハラーハラという毒を吐いたが、シヴァがその毒を飲み干したため事なきを得、シヴァの喉は毒によって青く変色した。

 

1000年間攪拌が続き、乳海からは様々なものが生じた。太陽、月、白い象アイラーヴァタ、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ (Pârijâta)、アプサラスたち、酒の女神ヴァルニー、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれた。

 

最後に、ようやく天界の医神ダヌヴァンタリが、アムリタの入った壺を持って現れた。アスラはアムリタを要求し、神々との争いになった。アスラは一度はアムリタを手にしたが、機転を利かせたヴィシュヌ神が美女に変身して誘惑し、心を奪われたアスラたちはアムリタを美女に手渡した。その結果、アムリタは神々のものとなった。

 

神々がアムリタを飲む際、ラーフというアスラがこっそり口にした。それを太陽神スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤(チャクラム)でラーフの首を切断した。ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようと飲み込むが体がないため、すぐに外に出てしまう(日食・月食の起源)

 

ラーフは、その体ケートゥとともに、凶兆を告げる星となった。その後、アスラは神々を激しく攻撃してきた。神々の側で戦うヴィシュヌ神が心に日輪のごとき武器を思い描くと、天からスダルシャナというチャクラムが現れた。ヴィシュヌ神や神々はアスラに勝利し、アムリタを無事持ち帰った。
出典 Wikipedia

2021/11/05

ヤマト王権(8)

巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)

4世紀末から5世紀全体を通じて、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具も現れて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じて齎されたものと考えられる。かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」が盛んに唱えられた時期があった。

 

確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が、5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来、変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている。

 

中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。

 

また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など、4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。

 

井上光貞も、河内の王は入り婿の形で、それ以前のヤマトの王家と繋がっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。

 

一方、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。

 

しかし、この王朝交替説に対しても、いくつかの立場から批判が出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて、大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため、王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。

 

造山古墳

5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は、墳丘長で日本第4位の大古墳であり、後の吉備氏へ繋がるような吉備の大豪族が大きな力を持ち、鉄製の道具も駆使してヤマト政権の連合において重要な位置を占めていたことがうかがわれる。このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力を伸ばしていたと考えられる。

 

先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合の中から統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には、佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては、国家として想定される政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。

 

5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用が始まるのもこのころのことであり、渡来人が齎した技術と考えられている。

 

5世紀に入って、再び倭国が中国の史書に現れた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王が相次いで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。

 

倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。この中で注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことは、ヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。

出典 Wikipedia

2021/11/03

日本の伝統宗教・神道(7)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

黒不浄と赤不浄

 一方、生命に関わる「不浄」の最大のものとして「」を意味する「黒不浄」と「女性の月経、出産の血」を意味する「赤不浄」というものがいわれています。

 

「黒不浄」は分かるとして、何故「赤不浄」が不浄とされたのか、よく分かりません。女性に月経や出産はつきものですから、結局女性そのものが不浄なるものとされてしまいますが、これは日本だけの現象ではないので、何か理由があるのでしょうがはっきりしません。とりあえず「血」は生命に関わりますから、これが「体外に出る」ということに恐れを抱いたというのは分かりますが、それだけではないような気がします。恐らくは「女性が子供を産む」という神秘的な力に、むしろ恐れを抱いたのかも知れません。

 

ですから当初、女性は「神的」なものと思われたようです。その痕跡は、たくさん見出だせます。しかし、それが逆転してしまうのです。つまり、社会が進展して、戦争などが集団の存続に関わり、男社会になった時、男達は女性を「恐れ」、それを疎外する方向に行ってしまったのではないか、と考えられるのです。男性がどうも無意識的に心の底で女性を恐れているのではないかというのは、ヨーロッパ中世での「魔女狩り」などにもみることができます。

 

 ともあれ、こうして身内のものが「死んだ」時には、その汚れは一族に及んでいるものとして皆「家」に引きこもり、人々との付き合いを絶って、汚れが薄くなくなるまでじっとしていることになりました。今日の「忌中」という奴です。女性の方も「月経時」は「汚れて」いるものとして引きこもっていなければならず、出産時には「家」に汚れが及ばないよう「別に出産小屋」を建てて、そこで出産するのが習わしとなりました。    

 

日常的な汚れとしての災いと人間的我欲、我執、怨念

 以上のような明確な不浄の他にも、病気や怪我などさまざまの不浄があり、それは日々人間の身に降り懸かってきます。また、自然的災害もあります。そしてもう一つ「罪」とされたのが「反集団性」であったわけですが、これも多くははっきりした形ででることはなく、日々の生活の中で蓄積されてくるものです。

 

 こうして、人はさまざまに「汚れて行く」わけですが、その内面の身の汚れは「我欲とか我執、怨念」などによるものとされます。人間ですから、誰だってこういうものを持つわけです。これが、もちろん「目に見える」形で表れたら「罰せられて」しまいますが、そうでなくても日々心の中に持つのが普通です。このままでは、やはり人はドンドン汚れていってしまいます。そこで人々は、これを「払い除けて」きれいになろうとしました。その時、行われたのが「禊・祓い」なのです。

 

 「」というのは、古事記にあるように「具体的な穢れを洗い流す」ものでしたが、特別取り立てた汚れがあるわけではない場合でも「日常的に身についた」汚れを落とすために行われることがあり「水をかぶったり」、「火の粉をかぶったり」するものです。

 

祓い」の方はむしろ具体的汚れや、あるいは予期されるものに対して、それを「祓い落とす」ためのもので、現代でも「車」を買った時、神社で「お祓い」をやってもらうというのがれになります。ただし、今日その区別は殆ど意識されないどころか、悪い事をして辞めた代議士が「選挙」で再び選ばれて「禊は済んだ」などという始末で、いいように利用されています。

 

しかし、日本人に「人間に本来的な罪」というのはなく、汚れは外からくるもので、それを祓い落とせばきれいになるという思想があるのは、現代でも生きているような気がします。そして「祭り」には、こうした「禊」タイプのものもたくさんあり、さまざまの地方でみられる「火祭り」とか「海、川などに入るような祭り」などが、こうしたものと言えます。神社にいった時「手や口をそそぐ」のも同じ思想からです。                

 

祖霊

 「祖霊」というのは、柳田国男が言い出したものとして有名になっているものですが、これは字の通り「祖先の霊」ということで、日本における「」の実体とはこれだ、という主張でした。一般には、日本の神とは世界中の民族特有の宗教に共通する「自然力」、「生産力」として説明されますが、日本の場合には「先祖」信仰が元だと言うわけです。確かに日本における「神」の位置付けを観察する時、この「祖先信仰」でうまく説明できるものがたくさんあります。

 

 つまり「氏神=祖霊」というわけです。先祖は死んで、どこか遠いところに行ってしまったわけではなく、その霊はしかるべき年数を経て、子孫の法要によって汚れた霊(死霊)から浄化されて「祖霊」になると言われます。そして最終的に「氏族の神=氏神」となるというわけです。

 

この祖霊は、しょっちゅう「この世」に出てきては家を守り「子孫を保護する」とされます。お盆というのは本来、この「祖霊」の祭りなのであって「仏教」の行事ではありません。何故なら、仏教では死者の霊は仏の世界に行っている筈で、この世に舞い戻ってきたりする訳はありませんから。

 

 「祖先崇拝」とは、本来的に「日本の伝統信仰」なのです。こんなわけで、柳田はさらに田の神、山の神まで祖霊であったと主張してくるわけですが、これは世界中に分布している「民族宗教」の「生産力」という性格を少々、見落している感じがします。

 

一方、それともう一つ大事なことですが、私たちは「祖霊」というと、何となく「私たちのご先祖」と思ってしまう傾向がありますが、これも違います。古代にあっては、日本人は「個々人」として捕らえられることはなく「家・集団のメンバー」としか認識されません。この「家・集団」は大きくなり、当然「首長」を持ちます。ところが、この首長が死んだ時、そのメンバーは核を失った思いで、その首長の「力」が存続してメンバーを見守っていることを期待します。

 

こうして、その「力」は「首長」にあったところから、それは「首長の霊」とされ「その霊」が「祖霊」として、若き新首長である子孫の中に現れ、メンバーを以前のように指導し守ってくれることを期待したのです。これが「氏神」と同じであることは、いうまでもありません。