2021/12/18

イザナギとイザナミ ~ 古事記と日本書紀の神々(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

別天つ神(ことあまつかみ)

 これらの三柱の神々は「独り身」で「姿を隠した」と言われてきますが、これは「人間的姿」としては現れないということで「これ以下登場しない」という意味ではないことは「たかみむすび」の神や「かみむすび」の神の活躍をみれば明らかです。ところで、以下神々の名前は、すでに一般に漢字で知られる神々は別として、できるだけ「ひらがな」で表記することにします。

 

 さらにこれらの神々に続いて「うましあしかびひこじ」の神と「あめのとこたち」の神が生じたとされます。前者は、この大地が「水に浮かんだ油」のように「形態」を持たないところに現れた神で、「芦の芽」のように「形」を出した神ということでしょう。

 

 後者は「天の常立ち」と漢字で表わされるように「天を確立」したわけで「」のようなイメージでしよう。相当に理屈っぽいです。また、これらの神々も「独り身」で姿を隠したとされ、以上の五柱の神々を『古事記』では「別天つ神(ことあまつかみ)」と呼んでいます。

 

神世(かみよ)七代

 さらに神々の生成は続き、次に「国の常立ち(くにのとこたち)」と「豊雲野」の神が現れます。前者は当然「天の常立ち」に続いているわけで「国の柱」ということになり「国土形成の基」を建てているわけでしよう。

 

 豊雲野はいろいろ解釈されているのですが、どうもピンとくる解釈がありません。雲の下なる野原というイメージなのでしようか。「国常立ち」が「縦軸的柱」なら、こちらは「横的広がり」のようです。この神々も「独り身」でやはり「姿を隠して」います。

 

 この神々に続いては「ういじに」「すいじに」のペアーの神が現れます。そしてさらにペアーの神々が数代生じて、いよいよ「伊耶那岐(いざなぎ)」「伊耶那美(いざなみ)」の神々が生じてくることになるのでした。

 

ペアーの神々は五組で十柱になりますが、これらはやはりペアーで数えるとされ、そして先の独り身の二柱を併せて「神世七代」呼ぶ、と言われてきます。こんな風に「三柱の神々」、「別天つ神五代」、「神世七代」などと呼ばれて「三・五・七」とされるところなどは中国の影響をもろに表している、と言われています。

 

国生みの物語

 さて、「いざなぎ、いざなみ」のペアーは「天つ神」たちに「この漂っている国を直して固めなさい」と命じられます。そこで二人は、天の浮き橋に降り立って、両刃の刀のようなもので海をかき回して引き上げますと、その刀の先からぽたりと落ちた「塩」が固まって「島」になります。二人の神はここに降りて来まして、いよいよ結婚です。

 

そして非常に有名な語り合いをするわけで、それが

 

「あなたの体はどのように成っていますか」

 

「私の体は出来上がってはいるのですが、一カ所合わさっていません」

 

「私の方は出来過ぎて余ってしまっているところが一カ所ある。そこでですが、その余ったところをあなたの合わさっていないところに刺し入れて、そうして国を生んだらと思うのですがいかがでしょう」

 

というものでした。

 

 この場面で、この『古事記』の神というのがまったく「人間並」であるという印象がもたれてしまうのですが、その印象はまさに当たっているのであって、以下の物語も全く生々しい人間の物語となっていきます。この『古事記』の神というのは、全然「超人間的」とならないのです。

 

 ともあれ話を続けますと、この「国生み」の物語は以下、「女が先にものを言うとよくない」という話になり「男性上位」の思想を表明し、さらに日本国土の形成順序の話となって、淡路島から四国、隠岐島、そして九州、さらに長崎の壱岐の島と対馬、そして佐渡に飛んでやっと本州を生み出します。当時の朝廷の日本国土観が伺えて興味深いですが「西日本」が中心であることがよくみえます。この後も島を生んで行くのですが、現在の県名で言えば、岡山県にある半島、香川県の島、山口県の島、大分県の島、長崎県の島々となってしまいます。

 

なお、この場合「いざなぎ」たちに代表されている一番若い神が、天なる神に命じられて地上に降臨するというパターンは「天孫降臨」の物語にもあらわれてくる重要な形式であって、「祭り」というのはこうした「神招来」の儀式かもしれないとも考えられています。

 

いざなみ、火の神を生み、大やけどをする

 一方、「いざなぎ、いざなみ」の神は国土を生んだ後、「自然物」となる子供作りに励まなければなりませんでした。それは、海やら川やら風や木や山、野原から霧やら谷やら思いつく限りといえるほどで、とてもここに列挙できるような数ではありません。

 

 そして、その最後に「火の神(ひのかぐつち)」を生むのですが、火なんか生んだものですからたまったものではないわけで、「いざなみ」は女性の陰部に大やけどをしてしまい、床につき、苦しみの中にもどしたり大小便を流してしまいます。しかし、もどしたものから「鉱山・鉄の神」たる「かなやまひこ」など、大便からは「粘土の神様」、そして小便からは「水の神」、つぎに「わくむすひ」という神様を生みますが、その子供が食物の神「とようけひめ」といい、大事な神様となります。つまり、「とようけひめ」は食物の神となって、後「天孫降臨」の際「ににぎのみこと」に従い、そして現在「伊勢神宮」の外宮に祭られています。                       

 

殺された「ひのかぐつち」

 ところで、「いざなみ」の神は、それがもとでついに死んでしまいます。「いざなぎ」の神は嘆き悲しんで涙を流し、そこからも「泣きの神様」なんかを生んでいますが、一方、怒りにまかせてなのでしよう、火の神たる「ひのかぐつち」を刀で斬り殺してしまいます。そして殺された「かぐつち」の体や血から、またたくさんの神々が生まれ出ました。

 

いざなぎの黄泉の国訪問

 そしてまた「いざなぎ」は「いざなみ」を恋しと「死者の国」たる「黄泉つ国(よみつくに)」へと追いかけていきます。そして「いざなみ」に、まだ国土造りは終わっていないから一緒に戻ろうと誘うわけですが、「いざなみ」はすでに「黄泉の国」の食物を食べてしまったのですんなり戻るわけにいかず、「黄泉つ国」の神々と相談しなければならない、と言ってきます。

 

 そして「決して中を見ないこと」という約束で、扉の中に入ってしまいます。しかし、あんまり長いので「いざなぎ」は待ちきれなくなり、火をともして中へ入ってしまいました。そこには「うじ」にたかられ、恐ろしげな雷の神がその体にとりついている「いざなみ」がおりまして、「いざなぎ」はびっくり仰天して恐ろしく、あわてて逃げ出していきます。

 

 「いざなみ」にしてみれば「恥をかかされた」格好になったわけで、「追いかけさせる」わけですが、「いざなぎ」は「山ぶどう」の実やタケノコを生やしたりして時間をかせいだり、剣をぬいて振りかざして逃げたり、やっと「境界」近くの「黄泉つひら坂」のふもとまで逃げ、そこに生えていた「桃」の実を三個投げつけると追ってきた「雷の神」たちはひきあげます。そこで「いざなぎ」は桃を祝福し、人々が苦しんでいる時には助けてやってほしい、と告げたりしていますが、そこについに「いざなみ」自身が追いかけてくることになります。 

 

 そこで「いざなぎ」は「千引きの岩」を引っ張ってきて「黄泉つひら坂」をふさいでしまいました。こうして「岩」をはさんで「向かい合う」形になり、「いざなぎ」は「縁切り、つまり離婚」をいいわたします。

 

こうして「いざなみ」は

 

「そんなことを言うのなら、私はあなたの国の人々を一日に千人殺してしまいますよ」

 

と言ってきますが、それに答えて「いざなぎ」の方は

 

「それじゃ、私の方は千五百の産屋をたてることにしょう」

 

言いまして、ここに一日に千人死んで千五百人生まれることになったと告げてきます。一方、この「黄泉つひら坂」は「出雲」にあると語られており、この『古事記』の世界は「出雲」を中心とすることが早くも示され、そして実際そうなっていくのでした。

2021/12/16

トリムールティ(三神一体) ~ インド神話(4)

創造、維持、破壊/再生という3つの役割

トリムールティの役割分担が、どのようにして決まったのかについては議論が残る。原始的なトリムールティでは3柱が完全に同格であり、それぞれの役割は交換可能だったとする考え方もある。

 

ホンダの見方では、ヴィシュヌとシヴァのキャラクターは古代のインド人が自然に感じた神性を象徴しているとする。ヴィシュヌには、全ての生物がそこに依存せざるをえない宇宙を遍く満たす、力強く、慈悲深いエネルギーが表現されており、一方のルドラ・シヴァには粗野で御しがたく、気まぐれで、危険な自然が表現されている。そこから、それぞれのキャラクター、英雄譚は発展し、西暦前までに出来上がっているとする。

 

ベイリーは、ブラフマー神はブラフマンを神格化したものだとしている。また彼によれば、マハーバーラタではブラフマーが創造の役割を担い、ヴィシュヌが維持の役割を担うとする言及が随所にみられるが、シヴァの破壊という役割に関しては、はっきりと描写されていない。破壊的な属性を感じさせるエピソードはあるものの、仄めかしに留まっている。そのためベイリーは、シヴァの役割はマハーバーラタの後に徐々に固まっていったのではないか、としている。

 

アンゲロ・デ・グベルナティスは、プラーナ文献に見られる3柱のキャラクターについて、ブラフマーは自分の神秘的な力を、ヴィシュヌは自分の英雄的資質を、シヴァは精力と富を享受していると表現している。加えて順に賢者、強者、金持ちといった社会的立場に対応するとも記している。ベイリーによれば、デ・グベルナティスの示す神秘的な力、英雄的資質、繁殖力というそれぞれのキャラクターは、それぞれのカルパ(宇宙の寿命)においてトリムールティが担う創造、維持、破壊という3柱の役割と矛盾しない。しかしそれでもなお、シヴァの役割には曖昧さが残るとも語っている。シヴァの役割は破壊であり再生であるとされ、プラーナの神話に描かれるシヴァは繁殖力を象徴することが多い。シンボルとされるリンガも、やはり繁殖力を象徴している。一方で、シヴァは色欲とは無縁のヨーガ修行者としての顔も持つ。このことに関して、ベイリーはシヴァの受け持つ第3フェイズの役割は、一言で説明しきれないからではないかとしている。

 

評価

「ブラフマーとヴィシュヌとシヴァは同一であり、これらの神は力関係の上では同等であり、単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする3つの様相に過ぎない」というトリムールティの理論が、ヒンドゥー教の文献の中に現れることは稀であり、このコンセプトが宗教美術のテーマとされることも珍しく、生きた信仰としてはヒンドゥー教に受け入れられてこなかった。

 

トリムールティ理論が登場した背景には、ヴェーダ後の時代に顕在化してきた宗派間の争いを調停しようという意図があったのではないか、という見方が存在する。

 

ダヴァモニーによれば、マハーバーラタの中でも古い時代に書かれた部分ではブラフマーが最高神とされているが、時代が下るにつれてヴィシュヌとシヴァが目立つようになってくる。そして12巻のシャンティ・パルヴァンには、この3柱の本質がひとつであると宣言することによって、それを調停しようする意図が読み取れる記述があるとする。マハーバーラタが記されたのは、古い部分ではBC8-9世紀、完成したのは4世紀頃と考えられている。

 

歴史学者ラメシュ・チャンドラ・マジュンダルは、ヴィシュヌ派とシヴァ派にとどまらず、このプラーナ文献の時代(300-1200年)に表れる様々な宗派の間に見ることのできる協調と調和の精神に注目している。

 

マジュンダルによれば、この時代は宗教的な均質性を欠き、ヴェーダ時代の信仰の名残としての正統派バラモン教を含めて、様々な宗派が混在した。中でもシヴァ派、ヴィシュヌ派、シャクティ派が代表的で、これらは正統派に分類されるものの、それぞれ独自の信仰を形づくっていた。この信仰間の協調に関して、マジュンダルは以下のように述べている。

 

その(協調の)最も重要な成果は、トリムールティという神学的コンセプトに見られる。すなわちブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという3柱の形での最高神の顕現である。(中略)しかし、この試みは大成功を収めたとはみなされていない。ブラフマーはシヴァやヴィシュヌと比較して、支配的な立場を確立することに失敗している。さらには各宗派は、しばしばトリムールティを自分たちの宗派が信仰する絶対的な神、あるいはブラフマンであるとする神が、3柱の神の姿に顕現したものであるという立場をとろうとする。

 

ニコラス・サットンは、以下のように語る。

ヒンドゥー教の伝統のなかで、ブラフマーがヴィシュヌやシヴァのような信仰を集めたことがあったのか、ブラフマーが最高神であると見なされたことが、一度でもあったのだろうかという疑問を抱くのは当然である。

 

歴史家のアーサー・ルエリン・バシャムは、トリムールティというコンセプトの背景を以下のように語っている。

 

西洋の初期の研究者たちは、ヒンドゥー教とキリスト教の双方に存在するトリニティ(すなわち三神一体と三位一体)という共通点に心惹かれた。しかし、この共通点は実際にはそれほど近いものではない。ヒンドゥー教のトリニティは、キリスト教のトリニティとは違い、広く受け入れられることが無かった。ヒンドゥー教のすべてのトリニティ主義は、いずれか一つの神に肩入れしたがる傾向がある。この文脈からすると、カーリダーサによるトリムールティに捧げられた賛歌は、その実最高神ブラフマーに向けられたものである。トリムールティというコンセプトは、実際のところ意図的に仕掛けられたものであり、ほとんど影響をもたらさなかった。

 

一方で、ヤン・ホンダは、「トリムールティは、シヴァ派とヴィシュヌ派の対立関係を調停するために意図的に作られたものである」という印象を抱くべきではないと強調する。彼はトリムールティとは、この時代のヒンドゥー教において一元論的な、あるいはほぼ一元論的な傾向が強くなる中で、元々あった3人組的なコンセプト、加えてブラフマンは1つであり、始まりも終わりもないという由緒ある思想をリフォームしようとした結果であり、徐々に広まるヴィシュヌ信仰と、それとは相いれないシヴァ信仰という両者の関係の中に、ブラフマンの象徴であるブラフマーを加えた3柱の補完関係を見出し、これらを統合しようとした結果であるとする。

 

ホンダによれば、トリムールティは確かに宗派ごとに信仰する神を上位に立たせようとする傾向はあるものの、少なくとも「単一の至高の存在の3つの顕現」というアイデアからは逸脱してない。この理論は、3つの神の地位を還元して、ひとつの神の様相とすることによって宗教的包括主義を促進した。すなわち他人の宗教や人生観、世界、信条、教義をネクスト・ベストと考えて、拒絶するのではなく適応させるというヒンドゥー教の特色の形成に貢献している。

 

また、フリーダ・マチェット(Freda Matchett)は、トリムールティを様々な神格を異なる基準で取り込むことができるという、ヒンドゥー教がいくつか備えている枠組みの内のひとつであると表現している。

出典 Wikipedia

2021/12/11

ヴァイキング ~ 民族移動時代(4)

ヴァイキング(英: Viking、典: viking、独: Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age800 - 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装集団を指す言葉。

 

ヴァイキングが角のある兜をかぶり、海賊や略奪を働く戦士であるという通俗イメージは、後世の想像の影響が強い。実際には略奪を専業としていたのではなく交易民でもあり、故地においては農民であり漁民であった。

 

各地に進出し、北ヨーロッパの歴史に大きな影響を残したが、次第に海上の民としての性格を失い、13世紀までには、殆どのヴァイキングは消滅した。

 

名称

ヴァイキングという呼称の語源は、古ノルド語: víkingr(氷語: víkingur、フィヨルドから来たもの)。古ノルド語: vík(氷語: vík)は湾、入り江、フィヨルドを意味する。スカンジナビア半島一帯に点在するフィヨルドのことをヴィークと呼んだため、その「ヴィークの人々」を指して「ヴァイキング」と呼ぶようになったと考えられている。後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からはノルマン人とも呼ばれる。

 

また、『サーガ』や『エッダ』などに「ヴァイキングに行く」という表現がみられるところから「探検」、「航海」、「略奪」などを意味するのではないかという解釈がある。

 

背景

彼らは北方系ゲルマン人で、9世紀に入って侵略などを活発化させた。どうして彼等が域外へと進出したのかについては、下記のような学説がある。

 

現在の説

ヴァイキングによる拡大と侵攻は中世温暖期(10世紀 - 14世紀)に始まり、小氷河期(14世紀半ば - 19世紀半ば)に収束しているが、その直接的なきっかけは不明であり、いくつかの説が存在する。

 

キリスト教と宗教的対立

ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekBruno Dumézilは、ヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている[要出典]Rudolf Simek教授は

「初期のヴァイキングの活動が、カール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない」

と分析する。

 

カール大帝はキリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返しており、スカンディナビアにおけるその脅威は想像できる。また、キリスト教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していて、ノルウェーではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が生じていた。

 

通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいたことが判明している。名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記のような原因で外国を襲撃することは考えられる[要出典]

 

技術的優位性からの富を求めた侵略

ヴァイキングは、通商・貿易を業としていた民族である。そのため、ヴァイキングは中世ヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東とも交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していったとされるものである。

 

その他の説

人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなく、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になったという仮説である。しかし、生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。

 

人口過剰説として、中世の温暖期も原因とされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出生率がそれを上回って上昇したため、域外へ進出することを招いたという説である。

 

大陸ヨーロッパでは、ゲルマン民族移動など民族大移動の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに南下して付け入ったという説もある。

能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかったというものである。

 

風俗

ヴァイキング戦士の格好は、同時代の西欧の騎士と同様の、頭部を覆う兜とチェーンメイルが一般的であった。丸盾と大型の戦斧が、ヴァイキングの装備の特徴となる。

 

ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらない。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。

 

族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。ヴァイキングとノルマン人の定義には曖昧なものがあり厳密な区分ができないが、ヴァイキングのチェーンメイルは黒鉄色、ノルマン人のチェーンメイルは銀白色、といった区分をする場合があり、アイルランド語ではヴァイキング・ノルマン人を「ロッホランナッホ (Lochlannach)」、つまり「白と黒」と呼んでいた。

 

ノルマン人と呼ばれる時代には、水滴状で鼻を防御する突起のついた兜が普及した。一体形成で意匠はさらに単純なものとなり、ノルマン・ヘルムと呼ばれた。これはノルマン人以外の西欧の騎士の間にも普及し、初期十字軍の騎士の一般的な装備ともなっている。

 

ステレオタイプ

一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装のステレオタイプとして知られている。しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からは、このような兜は出土していない。角のついた兜は、古代ローマ時代にローマと敵対したケルト人の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として訛伝されたものである。なおかつケルト人は数多くの部族に分かれていた集団であり、兜の意匠は様々であり、角のついた兜はその中の一種類に過ぎず、さらに兜を被る事ができたのは一部の部族長クラスに限られる。

 

ヴァイキングは、広く金髪であると言うイメージを持たれている。実際には多くのヴァイキングは茶色い髪を持ち、スカンディナヴィア出身者以外の遺伝子の影響も大きく、血統内にはアジアや南欧由来の遺伝子も存在した。

出典 Wikipedia

2021/12/09

造化三神 ~ 古事記と日本書紀の神々(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

 日本の神々について語る時、前章で見た一般民衆の神々のほかに、やはり『古事記・日本書紀』の神々についても語っておく必要があります。というのも、これは多くが「神社での祭神」となっていて、さらにいわゆる「日本神話」というときに必ず紹介されるものだからです。

 

 ここに見られる神々は、「大和朝廷の創作した神々」です。それでも、「日本神話」といった時には、この『古事記』の神々の話が紹介されてしまいます。その理由は、民衆レベルでの「神」は「自然的力」の象徴であって「人間化」されることが少なく、そのために「人間的な物語」にならず、いわゆる「神話」としてまとまらなかったことが第一の理由でしょう。

 

 さらにまた、その民衆の神は「地域性」が強かったために、物語となっていても「地域伝承・民話」になってしまい、「日本人全体の神話」とはならなかったことなどが挙げられます。したがって、「神話」としてまとまっているのは、朝廷の神々の物語としての『古事記』のそれくらいしか存在しなかったわけでした。

 

天皇家の話としての『古事記』

 前置きはこれくらいにして『古事記』の本文を追ってみましょう。まず序文がありますが、それによると稗田阿礼という人が読み上げたものを太安万侶が書き留めたということになります。この目的は「天皇家の歴史、いわれを正しく伝えるため」であるとされています。ですから初めから「天皇支配の正当性」を物語るものだとはっきりと断っていたのでした。

 

 稗田阿礼が物語った内容は「帝紀」と言われる「天皇家の系譜」と、「旧辞」と言われる「その天皇にまつわる物語」とを整理したものでした。整理されたものですから当然、ギリシャ神話などに見られる矛盾・不整合といったものはみられず、体系だっていて「自然神」から「人格神」そして「天皇」へときれいに繋がります。

 

世界の形成

 物語のはじめは「世界の形成神話」からです。ここに語られてくる神々が、やがて天皇家に繋がってくるのであり、言葉を返せば、「天皇家は世界形成の主体」に由来する、という含みが込められているのでしょう。これはしかし「支配者の神話」であるなら、当然の態度であるとも言えます。

 

 その初めは、「高天原」に生成してきた神は「天の御中主(あめのみなかぬし)の神、次に高御産巣日(たかみむすひ)の神、次に神産巣日(かみむすひ)の神」と言われてきます。序文の方で「宇宙の初めができてきたけれど、万物を形成すべき形も気もなく、名前もなく何の動きもなく、だれもその形を知らない、そうしたところに天と地が分かれ、そこに三柱の神々が生じた」とあり、このあたりの記述は中国の「宇宙創世説」によっていると言われています。実際、この当時すでに中国・朝鮮からの渡来人は相当の数になっており、朝廷内部に深く関与していたことはよく知られています。中国の思想が根底にあっても、少しも不思議ではありません。

 

世界の三区分

 ここに見られるいくつかの名前のうち、まず「高天原(たかまがはら)」というのが注目されますが、この『古事記』では世界を「天」と「地」と「地下」の世界とに分け、「天」は「天つ国(あまつくに)」とし、また別名「高天原」となります。「地」は「芦原の中つ国(あしわらのなかつくに)」と呼ばれ、要するに私たちが住んでいるこの地です。「地下」については実はあまりはっきりせず、要するに「はるかなる遠い地」なのですけど、地を中心に立体的に考えれば、天に対して「地下」ということになってきます。これは「根の国(ねのくに)」と呼ばれます。

 

 こうした宇宙観は、一見したところ普遍的とも見えるのですが、果たしてこれが日本人一般の考え方であったかどうかは疑問です。古代日本人の観念は、こんな風に明確に世界を三分割して論理的に考えることはなく、この「自然世界を一つなるもの」として見ており、死者にしても「地下」へ行くというより、たとえば「海の彼方」を想定したり「山」に想定したりで、こんなところから「祖霊信仰」が成立しえたのであって、異なった空間へ行くとは、とうてい考えられていないようです。

 

 しかし、「天皇」の立場に立てば、自分たちの祖先はこの地上を超えた遙かなる高みから「降臨した」としなければならないわけで、そうすることで「権威」を主張できるわけです。中国の「天」の思想が背景にあるのでしょう。中国では「支配者」は「天子」というわけで、天からの権威を持っている者と主張されたのでした。その構造が、ここに主張されたのでしょう。

 

天の御中主(あめのみなかぬし)の神

 一方、「天の御中主」の神というのは全く観念的な神であり、宇宙の中心といったような意味合いをもたされているのでしょうが、この後何らかの働きを示してくることはありません。

 

『日本書紀』などでは、ほとんど無視に近く「付随的に」名前が挙げられてくる程度です。ですから後に平安時代にまとめられた「神々名鑑」ともいうべき『延喜式』にも名前が見あたらないことになってしまいます。要するに、「論理上」要請された神にすぎないのですが、このように「論理」を持っているところが「作為」があるということなのです。ただし、この『古事記』の神に宗教を読みとろうとした平田篤胤などは、この神に宇宙の最高神をみてきますが、それは彼の「神学上」の要請からでした。

 

高御産巣日(たかみむすび)の神

 「高御産巣日」の神は、この後も大活躍で、最大級に大事なことの命令はこの神から発されてくることになります。後の「天孫降臨」の時もそうであり、つまり「天皇」をこの地上に送り出してきたのは、この神だったのです。そんなわけで、天皇家の本来の「祖先神」はこちらの方で、のちにその「巫女」が、この神と同体と見られて「天照大神」とされ「祖先神」とされたのではなかろうかという見解まで提出されております。

 

 この神は「むすび」と言う名前を持っているように「生産」にかかわる神であり、日本人の神観念が基本的に「自然の生産力」にあることを考えれば、この神が初めに生じた神の一人とされていることは納得が行くと同時に、「朝廷も」一般日本人と同じ神観念を根底にもっていたことが推察できるわけです。

 

神産巣日(かみむすび)の神

 もう一柱が「神産巣日」の神でしたが、こちらも活躍していきます。この神も「むすび」と言う名前を持っているように「生産」に関わる神であり、文字通り穀物から種をとり「五穀の祖」となっています。またこの神は、もちろん「天つ国」の神ですが「国つ神」系の「出雲」と深い関係を持ち、出雲の国土造成神である「おおあなむち(大国主と同じとされますが、本来は出雲の国土造成神で、この神ばかりでなくかなりの神が集合同化されて形成された「大国主」の神に吸収同化したと考えられています)」が殺されてしまった時、その命を再生したのもこの神です。

 

 以上の「三柱の神」を『古事記』では特別の名前で呼んでいませんが、通常特に「造化三神」と呼んでいます。

2021/12/02

アングロ・サクソン七王国 ~ 民族移動時代(3)

アングロサクソン七王国(英語: Heptarchy、ヘプターキー)とは、中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が、同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のこと。この時代をまた「七王国時代」とも呼ぶ。

 

ヘプターキー」という言葉は、古代ギリシア語の数詞で「7」を指す「ヘプタ(πτά)」と「国」の「アーキー(ρχή)」を足した造語である。最初にこの語を記したのは、12世紀の史家ヘンリー・オブ・ハンティングドンであり、16世紀には用語として定着した。

 

これらの王国が覇を競った時代は、ホノリウス帝がブリタンニアを放棄してから(409年、End of Roman rule in Britain)、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一するまで(825年、エランダンの戦い)であると考えられている。実際にアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、多数の群小のアングロ・サクソン人および先住のブリトン人の小国家群とともに林立したが、次第にその中で有力な国家が周囲の小国を併呑して覇権を広げていった。

 

7つという王国の数は、これらの覇権を広げた有力な国を、後世7つの大国に代表させたものである。この王国群の中から後のイングランドが形成され、その領土は「アングル人の土地」という意味で「イングランド」と呼ばれることとなる。

 

七王国

主なアングロサクソン王国

上記の7つの大国として、以下の7つの国が挙げられる。

 

      ノーサンブリア王国: イングランド北東部を支配したアングル人の王国

 

      マーシア王国: イングランド中央部を支配した。7世紀ごろ勢力を誇ったアングル人の王国

 

      イースト・アングリア王国: イングランド南東部イースト・アングリア地方、現在のノーフォーク、サフォーク周辺を支配したアングル人の王国

 

      エセックス王国: イングランド南東部を支配したサクソン人の王国、現在のエセックス、ハートフォードシャー、ミドルセックス周辺を支配した

 

      ウェセックス王国: イングランド南西部を支配したサクソン人の王国、最終的にドーセット、ハンプシャー周辺を中心に王国として形成されたが、前期の支配区域は最も北部であった

 

      ケント王国: イングランド南東部、現在のケント周辺に形成されたジュート人の王国。最も早い時期にローマ系キリスト教を受け入れた地域である

 

      サセックス王国: イングランド南部を支配したサクソン人の王国、現在のサリー、イースト・サセックス、ウェスト・サセックス周辺を支配した

 

歴史

アングロサクソン人の登場は5世紀くらいだと伝えられているが、実際のところは分かってはいない。伝承では南サクソンのエール、西サクソンのチェルディッチ、キュンリッチ父子、または史書『ブリトン人の歴史』に登場するヴォーティガンの宿敵ジュート人(ケント王国)の長ヘンギストなどが挙げられるが、どれも伝説的な人物像であり、ブリテン島に上陸した年月も考古学から出た年代の整合性が合わないでいる。しかし、それぞれが5世紀中頃から覇権を争ったものとは考えられている。

 

彼等サクソン人は西進を続けるものの、ブリトン人の反撃を受け「バドン山の戦い」と呼ばれる激戦で大敗北、数世代に渡って膠着状態となった。この戦いはどこでなされたかは分かってはいないが、劣勢のブリトン人を指導したと伝えられる者がアーサー王のモデルとなったと考えられている。とくにサクソン人は壊滅的な打撃を受け、再び進攻が始まったのは西サクソンのチェウリンが王になった頃からだと言われている。

 

王国が形成されつつある当初は、アングル人の建てたノーサンブリアとマーシアが隆盛を誇り、ノーサンブリア王のエドウィン、オスワルド、オスウィ、そしてマーシア王ペンダなど非常に強力な王が存在した。彼らはしばしばブレトワルダと呼ばれ、イングランドの覇を競ったと伝えられるが、この覇王の称号が実際使われたものなのか、それとも後世の年代記者の創作の賜物かは分かってはいない。また、この時代ローマ系キリスト教が再上陸し、ケント王エゼルベルトを最初にイングランド各地に広まった。同時にウェールズ、コーンウォールのブリトン人が保持してきたケルト系キリスト教は劣勢となった。

 

ウェセックスが台頭し始めたのは、キャドワラ王となってからである。数世代前に父祖の地をマーシアに獲られたウェセックスは東に進撃、サセックス、ケントを侵略した。同時に、この時代から大陸よりノルマン人の一派であるデーン人がブリテン島に定住し始め、東沿岸部のノーサンブリア、イースト・アングリアは、この侵略の前に守勢になる。その中で、ウェセックスはデーン人に対抗するアングロサクソン人の求心力を得て、825年のエランダンの戦いでエグバートの率いるウェセックスがマーシアに勝利してイングランドを統一した。

 

同じころ、デーン人の侵入が活発化しておりイングランドを侵略、ノーサンブリア、イースト・アングリアが滅亡する中で、ウェセックスは唯一生き残ったアングロサクソン王国となる。8785月、劣勢の中でアルフレッド大王がエサンドゥーンの戦い(古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン付近)でデーン人に勝利、同年末にウェドモーアの和議が締結され、デーン人の支配地域をデーンロウとして認め一種の均衡状態による和平を築いた。

 

この時代、彼の元で古英語文献の集大成が行われ、ウェセックス王国はアングロサクソン文化の伝統を築き上げる。このことがデーン人の侵略という困難の中でかえってアングロサクソン人の求心力を呼び、後に全てのアングロサクソン諸国を統一し、スコットランド王国の恭順を受けたウェセックスは、後のイングランド王国の母体となった。

 

その後デーン人、ノルマン人とイングランドの支配階級が変わることになっていくが、デーン人は支配階級として政治に参加する者はアングロサクソンの出自であっても「デーン人」と呼ぶのを慣わしとしており、また後世11世紀に数多くのノルマンディー公国出身のノルマン人貴族が支配者として入ってきた際に、イングランドにある数多くの階級制度に驚いていることから、七王国時代の社会制度はこの時まで温存されていたものと思われる。

出典 Wikipedia