2026/01/14

菅原道真(6)

左遷

左遷の日、藤原時平、源光、藤原定国、藤原菅根らは、勅宣と称し陰陽寮の官人をあつめ、道真とその子孫が永く繁栄できぬよう絶えるよう、皇城の八方の山野に雑宝を埋めおき、神祭(陰陽道祭)を行うという大がかりな呪詛・厭術をさせた。しかし、道真はこれを絶つ術を知っていたため呪いを免れたが、子孫たちはなす術がなかったため、死後、神となった道真が守護し呪詛・厭術を防いでいるという。

 

左遷のおり、道真は嫡子を哀れみ「日月は天地の父母なり、梅は寒苦を経て清香を発し、松は千年を経て尚、志節道義を失わず」と諭したという。

道真が都を出発する前日、都七条坊門の文(あや)という娘が、夢中で見送るようにとお告げをうけ、三条大橋の袂で綾竹を持ち別れの舞を舞い見送ったのが綾子舞の由来とされる。

 

大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説にちなんだ地名である。

出水市壮の菅原神社に関する伝承として、ジョウス(城須)という老夫婦が道真に三杯の茶を振舞い、そのため道真が追手から逃れることができたという。

道真が、失意の中で尼崎に立ち寄ると、悲しみで人だけでなく草木もしおれた。しかし、ネギだけがしゃんとしており、村人はそのネギを憎み、食べなくなったという言い伝えがある。

 

山陽道を通って太宰府へ向かう道中で、かつて讃岐に赴任する際に懇意になった明石駅の駅長・橘季祐(たちばなのゆえすけ)に再会したが、落魄した道真を見た駅長は道真にかける言葉もなかった。道真は、このときの思いを

「駅長驚くなかれ 時の変改することを 一栄一楽 是れ春秋」

の詩を与えて慰め返したという。

この逸話は『大鏡』に載せられているものであるが、後年の『源氏物語』でも「駅長に口詩を与えた人もいた」と記されている。

 

901年、道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が彼を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、という伝承が福岡県の北野天満宮に、河童の手の亡骸とともに残されている。

 

また、大宰府左遷のおり道真は兵主部という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束をかわした、という伝説も伝わっている。

 

道真は左遷の際、忠臣高田正期へ桜の木を与えた。この桜の花が咲かなかった年に道真に何かあったのでは、と正期は不安になり大宰府へ赴いたという。このことに感動した道真は、天拝山の土で自身の像をつくりそれを持ち帰らせた。正期は、独鈷抛山の麓に祠をつくりそれを祀った。正期の死後、桜は枯れてしまう。それから300年後、積善寺の住職の枕元に天神となった道真が夜毎に立ったので、独鈷抛山の麓の祠を寺の境内に移動した。すると桜の形をした石が桜の木が植わっていたまわりの石から浮かび上がってきたという。

 

道真が忌宮神社の大宮司家に立寄り泊まった際、庭にある井戸に自分の姿を映した。すると、ひどく淋しい気持ちになり、水にうつった自分の顔に向かい

「都を離れて、すでに百日以上になる、ずいぶんやつれた顔になったな、しかし、もう二度とこの土地にくることはなし、この井戸で私の顔をみることもあるまい」

と筆と紙をとり出し、自画像を描いたという。その後、その井戸は「御影の井戸」と呼ばれ、この井戸をのぞいたものは、目がつぶれるという言い伝えが伝わっている。

 

岡山県にある天満宮(称:子安天満宮)には、道真が当地に宿泊したさい、海女が難産で苦しんでいるのを不憫に思い一首の歌を与えた。すると、たちまち海女は安産したという言い伝えがあり、その時に道真が座った石を腰懸石として瓦祠で祀っている。

 

道真の側室は臨月であったが、道真との別れを惜しみ後を追ったという。しかし、途中で産気を催したため、人家に立ち寄ろうとしたものの、間に合わず輿中で大量に出血しながら産んだという。その時、道が真赤に染まった為、「赤大路」の地名由来となった。その後、近くの民家で介抱したものの、産後の経過が悪く亡くなってしまう。夫人は死期に臨むさい、里人の介抱を深く感謝し死後は安産の神になると遺言されたので、子安天満宮が建立されたという。

 

他に、斎世親王の妃となっていた道真の息女が身重で信濃に落ち延びる途中で産気づき、街道の平石で臥せって苦しんでいた。その後、里人の手厚い看護もむなしく無念な最期となったが、その臨終の際、里人の厚い情けに報いるためにと女人の安産を平石に強く祈願したといわれている。

 

また道真の息子の福部童子は、父の後を追って大宰府へ向かったが、山口で病気になり亡くなったという。

娘の苅屋姫も父のあとを追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。のちに、大宰府でその話を聴いた道真は、三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。

道真の六女で愛娘のみよこ姫は、宮城県丸森町にある宗吽院に輿入れしたという。

道真の正室島田宣来子(または側室)が、岩手県一関市東山町に落ち延びたという落人伝説がある。

左遷の折、北九州市戸畑区天籟寺に立ち寄ったという伝説がある。立ち寄りにあたり、手足を洗ったとされる菅公御手洗の池が存在する。ただ住民は不審に思い早々に追い出してしまったとなっており、後に道真と知った住民は菅原神社を建立した。

2026/01/13

日蓮(2)

立教開宗

遊学を終えた日蓮は建長4年(1252年)秋、あるいは翌年春、清澄寺に戻った。

建長5428日、師匠・道善房の持仏堂で遊学の成果を清澄寺の僧侶たちに示す場が設けられた。その席上、日蓮は念仏と禅宗が妙法蓮華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いた。南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、南無妙法蓮華経と唱えることは天台宗の修行としても行われていた。その場合、南無妙法蓮華経の唱題は南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われた。しかし、日蓮は念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。

 

日蓮が念仏と禅宗を破折したことは大きな波紋を広げた。念仏の信徒であった東条郷の地頭・東条景信が日蓮の言動に激しく反発して危害を及ぼす恐れが生じたため、日蓮は清澄寺にいることができなくなり、兄弟子である浄顕房・義浄房に導かれて清澄寺を退出した。

 

伝承によれば、立宗に当たって日蓮は、それまでの「是聖房蓮長」の戒名を改め、「日蓮」と名乗った。また立宗の後、両親を訪れ、妙法蓮華経の信仰に帰依せしめたと伝えられる。

 

鎌倉での活動

「立正安国論」

日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動を開始した。この年の11月、後の六老僧の一人である弁阿闍梨日昭が日蓮の門下となったとされる。鎌倉進出の時期については、建長6年または同8年とする説もある。

 

鎌倉進出当時、日蓮が辻説法によって布教したと伝承されるが、日蓮遺文には辻説法を行った事実の記述はない。この時期に、僧侶としては日昭・日朗・三位房・大進阿闍梨、在家信徒としては富木常忍・四条頼基(金吾)・池上宗仲・工藤吉隆らが日蓮の門下になったと伝えられる。

 

正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た(正嘉地震)。日蓮は多くの死者を出した自然災害を重視し、災害の原因を仏法に照らして究明し、災難を止める方途を探ろうとした。伝承によれば、正嘉2年(1258年)、日蓮は駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に登り、同寺に所蔵されていた一切経を閲覧した。この時期、日蓮が仏教の大綱を再確認した成果は、「一代聖教大意」「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「唱法華題目抄」「守護国家論」「災難対治抄」などの著作にまとめられた。

 

その上で、日蓮は文応元年(1260年)716日、「立正安国論」を時の最高権力者にして鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出して国主諫暁を行った。この時の諌暁は、時頼の信頼厚い近臣である宿屋入道を介して行われた。

 

「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は、法然(日本浄土宗の宗祖)の教えが流行し、為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあるとし、その故に国土を守る諸天善神が国を去って、その代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる(これを「神天上の法門」という)とする。そこで日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法への帰依を停止して、正法に帰依することが必要であると主張する。さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により、日本が滅びると予言し、警告した。

 

「立正安国論」で、日蓮はとりわけ法然の専修念仏を批判の対象に取り上げる。それは、貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった専修念仏を抑止することが、自身の仏法弘通にとって不可欠と判断されたためである。この時期に作成された「守護国家論」「念仏者追放宣旨事」などでも、徹底した念仏批判が展開されている。

 

松葉ヶ谷の法難

しかし「立正安国論」による国家諫暁は、鎌倉幕府から完全に無視された。その一方で、日蓮の念仏破折は念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)827日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された(松葉ヶ谷の法難)。この法難の背後には執権・北条長時と、その父・北条重時(北条時頼の岳父)の意思があったと推定される。

 

日蓮は草庵襲撃の危難を免れたが、もはや鎌倉にいられる状況ではなくなった。そこで、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、布教活動を展開したとされる。この時期に、下総国在住の大田乗明・曾谷教信・秋元太郎らが日蓮に帰依したと伝えられる。

 

伊豆流罪

弘長元年(1261年)512日、鎌倉に戻った日蓮は鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪となった。その際、俎岩まないたいわという岩礁に置き去りにされた、あるいは川奈の漁師・船守弥三郎の保護を受けたという伝説があるが、いずれも根拠のない伝承に過ぎない。「船守弥三郎許御書」は真筆が現存せず、偽書説が強く出されているので、根拠にはならない。

 

伊豆配流中、日蓮の監視に当たったのは伊東の地頭・伊東祐光であった。祐光は念仏者だったが病を得た折、日蓮の祈念によって平癒したので日蓮に帰依した。また、伊豆配流中、日蓮が岩本実相寺に滞在していた時に門下となった日興が、伊豆に赴いて日蓮に供奉したとされる。

 

日蓮は伊豆配流中に「四恩抄」を著し、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪などの法難が妙法蓮華経の行者であることの証明であると位置づけ、また『教機時国抄』を著して、いわゆる「宗教の五綱」の教判を明確にしている。

 

弘長3年(1263年)222日、日蓮は伊豆流罪を赦免された。その赦免は『聖人御難事』に「故最明寺殿の日蓮をゆるしし」とあることから、北条時頼の判断によるものと判断される。

 

小松原の法難

文永元年(1264年)の秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った。それを知った東条郷の地頭・東条景信は、日蓮を襲撃する機会を狙った。同年1111日の夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃した。日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った。この法難で、鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した。

 

1114日、日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した。日蓮は道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、妙法蓮華経に帰依するよう説いた。その後、日蓮は文永4年(1267年)まで房総地域で布教し、母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定される。

 

蒙古国書の到来

文永5年(1268年)116日、蒙古と高麗の国書が九州の大宰府に到着した。両国の国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送した。蒙古の国書は日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった。

 

日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺の良観(忍性)、建長寺の蘭渓道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した(十一通御書)。十一通御書においては念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇格言」を見ることができる。「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行った。

 

幕府は当初は他宗へ依頼したように蒙古調伏の祈祷を日蓮へ依頼したが、未曽有の国難に見舞われた日本の状況下で、過激な発言を繰り返す日蓮教団を危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した(「種種御振舞御書」)。

2026/01/07

菅原道真(5)

人物像

梅ヶ枝餅とカレイと醤油ご飯が好物だったという伝承がある。他に、柿を庶民に普及したという言い伝えも残っている。

茶に関する故実を調査・研究し、世間に喫茶の習慣を広めたため、茶聖菅公と称されたという。

乗馬を好み、通勤は馬でおこない、讃岐での遠出や右近の馬場での桜狩りなど、趣味でも馬を走らせていたという。のちに、天神乗りという騎乗法が伝わり、馬術の師として祀られることになる。

政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていた。左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという。別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで龍女が現れ、「瑠璃壺」を承ったという。

 

学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承がある。また、大蛇に苦しめられたため、自ら矢で射て退治したという逸話もある。

宝剣「天國」、宝刀「神息」、神刀「猫丸」/脇差「小猫丸」、毛抜形太刀〈無銘/〉(伝天國)、菅公御佩用の御太刀、銀の太刀など様々な太刀を常に佩刀していたという。また、河童の大将や大鯰を斬り殺したという逸話も残っている。

 

刀工として、古代の名工の一人に数えられている。

 

子はおよそ23人、またはそれ以上に上るとされ、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという。

 

「和魂漢才」という言葉を生み出したとされる。日本固有の精神「大和魂」と、中国伝来の学問「漢才」という対なる概念のことで、また、その両者を合わせるといった思想。のちに和魂洋才という言葉が派生した。ただし、この言葉が出てくる『菅家遺誡』は、鎌倉時代から室町時代に成立したと見られており、後世に平田篤胤によって加筆改竄された偽書ではないか、という指摘がなされている。

 

心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん(人は、心さえ誠の道にそっていれば、あらためて祈りを捧げなくても、神がきっと守ってくれるだろう。)

 

勝楽寺延命院には、讃岐国が栄えるよう道真が「一」の字を奉納したという言い伝えがある。「一」には物事のはじめ、又は全体を知るという意味があり、古来よりこの「一」と縁を結べば諸願成就すると言われている。

 

菅原家は代々焼物、神聖文字、占呪法(気・密教・呪術等の秘法)、土木事業、行事、儀式、法律等を祖業とし、道真もこれを受け継いでいる。また、仙人、道士を研究し秘法の実践に余念がなかった。

 

伊勢神宮には、神代文字で書かれた道真の奉納文が残されている。また、道真を遠祖とする副島家には、道真のものとする御神印が伝わっている。直系子孫の塩小路家には、祖父清公が始め道真が完成させた神と対話する為の神聖文字として、菅家塩小路篆刻道が現代まで継承されている。

 

出来事

元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に47月まで滞在した。その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。

 

同年、畿内が大旱魃にみまわれたため、陽成天皇の勅命により道真が奉幣使として意賀美神社にて祈雨祈願したところ、たちどころに雨が降るという霊験があったという。

 

『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。

 

17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。

 

久米仙人の修行の様子が龍門寺の扉に描かれ、道真の文と共にしばらくの間残ったとする文献がある。

 

讃岐

仁和4年(888年)、讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。

そのさい、道真が舞ったとされる踊りが西祖谷の神代踊として伝わっており、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。

 

道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。

 

極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。

 

おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。

 

また、『竹取物語』の竹取の翁の名が「讃岐造」であること、自身の神秘的な出生にまつわる伝承から、道真が作者ではないかという説がある。

 

右大臣

寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が、與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。

 

寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し、伊香具神社へ納経したという。

また、道真自刻として伝わる志明院の眼力不動明王、清閑寺の十一面千手観音像、大報恩寺の千手観音立像、他に、住吉神社の神鏡、氣比神宮の為当太神御神幣有奉納鉾太刀など、さまざまなものを神社仏閣へ奉納している。

 

寛平8年(896年)210日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。

 

昌泰元年(898年)1017日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。

 

また、同時期に百人一首の舞台ともなった宇多天皇御一行遊覧のさい、「人々以為らく、今日以後の和歌の興衰を」と、いずれ漢詩にかわり和歌が台頭することを予見している。

 

醍醐天皇の時世に、道真が谷汲山華厳寺の岩屋に参籠し、毎日、お経を書いていると、白石山の淵に住む乙姫が毎朝早く、ご飯の炊事・洗濯に使用している「姫ヶ井の泉」の清水を「閼迦の水」として道真に与えていた伝承がある。乙姫の歌として

「このころは汲みては知らん山の井の 浅さ深さを 人の心に」

が残されているが、不思議なことに、道真以外にこの乙姫の姿を見られた者はいなかったという。

 

醍醐天皇の命により、災いを起こす人魚を道真が小野の地で退治した伝承が、四角柱の人魚塚とともに残されている。

2026/01/05

日蓮(1)

日蓮(にちれん、承久4年(1222年)216日 - 弘安5年(1282年)1013日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。

 

概要

文応元年(1260年)716日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。

 

立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。(日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。

 

『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも)いだきぬべし』(開目抄)、『日蓮が慈悲広大ならば(中略)、万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し

「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」

等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。

その直前に、幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。

 

文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」と、その際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエピソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)

 

文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。

 

だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。

 

文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)1013日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)。大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。

 

日蓮上人、日蓮聖人、日蓮大聖人等と敬称されるが、本項では敬称なしで表記する。

 

生涯

誕生

日蓮は、承久4年(1222年)216日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した。片海の場所については諸説あるが、内浦湾東岸の地とされている。

 

両親について、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。日蓮は自身の出自について「日蓮は、安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり」、「海辺の旋陀羅が子なり」、「東条郷・片海の海人が子なり」と述べているので、漁業を生業とする家庭の出身と考えられる。ただし、両親は荘園を所有する領家の夫人から保護を受けており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は最下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場にあったと見られる。

 

修学

日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った。天台宗は智顗以来、妙法蓮華経を最も優れた経典とする五時八教の教相判釈を受け継いでいた。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた。幼名は善日麿、あるいは薬王麿と伝えられる。

 

清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった。清澄寺には、これらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。

 

伝承によれば、日蓮は16歳の時、道善房を師匠として得度・出家し、是聖房蓮長と名乗った(日蓮が17歳の時に書写した「授決円多羅義集唐決上」に是聖房の直筆署名がある)。

 

宗教体験と遊学

得度した後、虚空蔵菩薩に真剣に祈り、主体的な思索を重ねた結果、日蓮はある日、各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た。

 

次に日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになった。

 

遊学の中心は延暦寺で、比叡山の横川定光院に滞在したと伝えられる。比叡山での研鑽の結果、日蓮は「阿闍梨」の称号を得ている。比叡山で日蓮は、妙法蓮華経を中心とする文献的な学問と、いわゆる天台本覚思想を学んでいる。恵心流の碩学・俊範を比叡山における日蓮の師とする説もあるが、日蓮は俊範から学んだとは述べておらず、実際には俊範の講義に参加していた程度と考えられている。

 

遊学中に日蓮が書写した文献には「授決円多羅義集唐決上」と「五輪九字明秘密釈」がある。著作としては「戒体即身成仏義」など数編が伝えられるが、いずれも真筆はなく、偽書の疑いがある。十数年に及んだ遊学の結果、日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経が最勝の経典であること、天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、時代が既に末法に入っていることを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。

2025/12/31

菅原道真(4)

讃岐

道真は、詩臣として中央で天皇のそばにお仕えし詩を作ることこそ菅原家の祖業であるという強い信念を持っていた。その為、自分が地方官として讃岐に赴任することに葛藤していた。赴任後、詩人として周りとの感性の違いに戸惑い、また、道真は家族愛が人一倍強かったので、家族のそばにいれない寂しさも綴っている。

 

しかし、元来の生真面目で清廉な性格から、白居易の兼済(広く人民を救済)という志を信条とし、自ら酒を醸して酒宴を催し村人と親交を深めたり、『寒早十首』『冬夜九詠』などで民の悲惨な実情を見分するなど、善政を執り行うよう努めた。

 

のちに、清廉と謹慎を心がけた政治をしたが、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できなかったことを悔いている。

 

左遷

『政事要略』巻二十二によれば、大宰府へ左遷の道中には、監視として左衛門少尉善友と朝臣益友、左右の兵衛の兵各一名がつけられた。また、官符に道真は“藤原吉野の例に倣い「員外帥」待遇にせよ”と明記され、道中の諸国では馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかった。

 

『菅家後集』「叙意一百韻」には、左遷道中の様子として反道真派の奸計により絶えず危険にみまわれ、落し穴などの罠や誅伐として行く手に潜伏していた刺客に襲われたこと、傷ついた駄馬や損壊した船を与えられたことなど、執拗な嫌がらせをうけていたことが綴られている。

 

大宰府

讃岐時代と同様に、北九州の庶民の暮らしぶりについても詩を綴っている。延喜元年(901年)十月頃の作『菅家後集』「叙意一百韻」で、人を騙して銭をまきあげる布商人、何の苦もなく簡単に殺人を犯す悪党、のどかな顔をして肩を並べている群盗、汚職で私腹を肥やす役人などが慣習として蔓延っており「粛清することはもはや不可能」と評する程の治安の悪さを綴っている。

 

また、自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。

 

『菅家後集』「讀家書」では、久しぶりに妻から手紙がきたことを書いている。道真は、妻が薬(生姜と昆布)を送るなど自分を労わる気持ちは嬉しいが、家族の生活が苦しいことをひた隠しにしていることが、かえって自分を悲しめ心配させているのだと綴っている。

 

また、「詠樂天北窓三友詩」によれば、詩友として≪死≫という真の友だけが残ったとし、謫居の北の窓の部屋に時たま現れる雀と燕の親子を良友とし、彼ら雌雄が相互支えあい雛を養育し飢えさせることのない慈しみある行動は、家族を離散させてしまった私では遠く及ばないとし、その口惜しさを言葉にすることもできず、血の涙を流しながらただ天神地祇に祈るのみ。そして、昔の友は喜び今の友は悲しみとし、それぞれ異なる友だが、それはそれで同一のものなのかもしれない、と結ぶ。

 

伝説

出生

喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生天満宮(堺市美原区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。

 

道真の生誕地については諸説ある。各地に伝わる『天神縁起』によれば、承和12年(845年)春頃、十一面観音菩薩を安置する高松山天門寺にある菅生池の菅の中より、忽然と容顔美麗(振り分け髪をした薄桃色の着物を着る少女の姿)なる56歳の幼児が化現し、光を放ちながら飛び去り、是善邸南庭に現れ「私には父母がいないので、そなたを父にしたい」と語った子供が、道真だという。

 

長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ伊勢神宮外宮神官の度会春彦を通じて豊受大御神に祈願して貰った。そうして生まれたのが道真だという。その縁で、春彦は白太夫として道真の守役となり生涯にわたり仕える事になったという。

 

菅原天満宮によれば、是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘をたいそう寵愛した。そして生まれたのが道真だという。

 

滋賀県余呉町には、道真が天女から産まれたという天女の羽衣伝説が残されている。あらすじは、あるとき漁師の桐畑太夫のところへ美しい天女が舞い降りる。太夫は羽衣を隠し、無理矢理その天女と夫婦になる。そして、玉のような男の子が産まれ陰陽丸と名づけられる。しかし、天女が羽衣を見つけ天に帰ってしまい、桐畑太夫もそのあとをおい天にのぼっていってしまう。男の子は石の上に捨て置かれ、母恋しさに法華経のような声で泣きじゃくる。そこに、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が通りかかり、憐れに思い引き取り養育することにした。その後、菅原是善が菅山寺に参拝にきたさい、その子供を養子にする。この子供こそ、のちの菅原道真だという。

 

また、別説では、桐畑太夫と天女のあいだに産まれた陰陽丸、菊石姫の兄妹としている。

江戸時代に書かれた『古朽木』によれば、道真は梅の種より生まれたという。

『野馬台詩(歌行詩)』の主釈によれば、菅原道真と吉備真備は兄弟で、兄が道真、弟が真備だという。

道真は丑年丑の日丑の刻生まれだったという伝承がある。