2018/05/19

ネブカドネザル2世

ネブカドネザル2
即位した後、ネブカドネザルはシリア・パレスティナ諸国に遠征を繰り返し、次々と掌握していく。このような状況下で、ユダ王国が反乱を起こした。バビロニアはユダを攻め、前597年エルサレム陥落。バビロニアは、ユダの王エホヤキンをはじめ多くの住民をバビロニアに連行した(バビロン捕囚)。このときバビロニアによってユダの王位についたゼデキヤも、後に反乱を起こし、前586年、ネブカドネザルはエルサレムと神殿を破壊し,再び住民を強制連行した。

新バビロニアの王は王碑文において、もっぱら自ら行った建築事業について述べており、軍事遠征などの政治的な内容にはほとんど言及していないが、いくつかの間接的な言及等から、かつての新アッシリア同様、全メソポタミア・シリアを含む広大な領土を支配していたことが分かる。

また、バビロンのイシュタル門やそこから続く大通り、神殿等、数々の建築を行った。有名な空中庭園は、その存在ははっきり証明されておらず、ニネヴェの庭園が誤ってバビロンとされた、という説もある。いずれにせよ、この王の時代が新バビロニアの最盛期といえる。

アメル・マルドゥク、ネリグリッサル、ラバシ・マルドゥク
ネブカドネザル2世の死後、バビロニアは再び政治的に不安定な状態に陥った。ネブカドネザルの息子のアメル・マルドゥクが即位するが、治世2年にして暗殺される。アメル・マルドゥクを暗殺して即位したのは、ネブカドネザルの娘婿といわれる高官ネリグリッサル(ネルガル・シャラ・ウツル)だった。しかし彼は、即位した時点ですでに高齢だったと思われ、その在位は長く続かなかった。

その後、ネリグリッサルの息子ラバシ・マルドゥクが即位するが、ナボニドゥス(ナブー・ナーイド)と、その息子ベルシャザル(ベール・シャラ・ウツル)によるクーデターで倒された。

ナボニドゥス
ナボニドゥスは、ラバシ・マルドゥクを倒して紀元前555年に即位したが、彼自身は王家の人間ではなかった。その素性ははっきりしないが、彼の母アダド・グッピは、名前から推し量るにアラム系であり、ハランという都市出身で、月神シンを信仰していたことが、彼女自身の自伝ともいえる碑文から分かっている。

即位後まもなく、遠征に出発したままアラビア半島のテイマというオアシス都市に10年間も滞在。その理由に関しては諸説あるが、はっきりしていない。ナボニドゥスがバビロンを留守にしている間、皇太子のベルシャザルがバビロニアを治めたが、新年の祭儀は王不在で行われることはなかった。

541年頃バビロンに帰還した後、神殿の改革などを行うが、とくに月神シンをマルドゥクの代わりに最高神としたことが、バビロニア住民(とくに神官)の反感を買った。アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、この住民たちの反感を利用し、前539年バビロンに無血入城することに成功した。

統治体勢
新バビロニアの領内統治システムは、実はあまりよく分かっていない。行政区に分けられ、長官が任命された。地中海沿岸地域やカルデア人・アラム人の住む地域では、地元の有力者が王によって任命された。

バビロニアの都市行政は、各都市の市長もしくは神殿の長官を頂点とし、都市の有力者からなる集会によって決定されていた。社会構造は大まかに自由民、奴隷、小作人からなった。

自由民
都市の市民階級(マール・バーニ)。免税など様々な特権を享受していた。神殿の高級官僚や王室の官僚、職人や商人などによって構成される。自らの名前とともに、父親の名前および先祖の名前(ファミリーネーム)で呼称される。伝統的な一族は、神殿の「聖職禄」を保有していた。

奴隷
奴隷は、王室奴隷・神殿奴隷・個人所有の奴隷に分類できる。

私有奴隷
個人所有の奴隷は、主人の家族とともに暮らし、家事等に従事する。売買や譲渡、主人の借金の担保の対象となり、自らの身柄に関して決定権がない。財産としての価値は高く、アメリカの黒人奴隷のように、鞭で打たれたり迫害されることはない。結婚して家族を作ることができる。解放されて主人と養子縁組をし、主人の老後の世話をする場合などもあった。例は少ないが、自分の財産を持つこともできた。

神殿奴隷
神殿に従属し、祭儀などの宗教関係以外の雑用に従事する。

王室奴隷
王宮に従属して雑務に従事したと思われるが、王室奴隷に関してはあまり分かっていない。

小作人
王室や神殿、大土地を所有する個人に雇われる。都市周辺の農村地帯に住んで土地を耕作し、収穫物(大麦、ナツメヤシ等)を小作料として納めた。これは神殿・王室にとっての主要な財源であった。実際には細かい制度上の差異によって、更に細分化されていた。

2018/05/18

神武東征(古事記)

神武東征(じんむとうせい)とは、磐余彦尊が日向を発ち、奈良盆地とその周辺を統治していた長髄彦を滅ぼした後に、初代天皇(神武天皇)の位についたという、一連の説話をさす用語。

 

経過

『古事記』

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向(現・宮崎神宮)で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。彼らは、美々津を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現・宇佐市)に着く。菟狭津彦命(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、筑紫国の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。速吸門で亀に乗った国津神に会い、水先案内として槁根津日子という名を与えた。

 

浪速国の白肩津に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。

 

五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。

 

それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。

 

神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると神倭伊波礼毘古命を始め、彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。

 

神倭伊波礼毘古命は、高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神を呼んで

「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」

と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。

 

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて、あるいは天上や石が落ちてきて押し潰すことで圧死する罠)を仕掛けた。

 

弟の弟宇迦斯は、神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連)らの祖の道臣命(ミチノオミ)と、久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出しバラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。

 

忍坂の地では、土雲の八十建が待ち構えていた。そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。

 

その後、登美毘古(ナガスネビコ)と戦った。最後に兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

 

こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。

 

その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。

ソクラテス(8) 魂の優れ

出典 http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 こうして一度立ち止まって、自分の人生を世間のしがらみから離れて見つめ直して見ると「人間とは何なのか、人生の目的とは何なのか、人生の意味とは何なのか、本当のところ誰も良く分かっていない」という事実が浮かび上がってきてしまいます。しかし、それでは「不安」ですので、人々は「分かっているつもり」になって多くの人々の走っている方に自分も走っているのが実情といえます。あるいは「気づきたくない」という「本能」が働いてくるのかもしれません。何故なら、気がついてしまうと「不安」になるからです。

こうして多くの人々は、その「不安」から逃れるために「言い訳」をしたり「分かった振り」をしたり「虚勢を張ったり」してくるのです。しかし人生に対して誠実であろうとすると、一度はその「不安」の淵を覗いて、そこから自分の人生を見つめ直すことが要求されます。「他人によって左右されない自分の人生」「自分が真に納得できる人生」を形成するために、です。

 そうはいっても、こんなことを追求するのは自分一人では難しいです。誰か導き手が欲しいです。その導き手は、その「不安」を真実に自覚し、問題とし、一生かけてその問題と格闘して、そして指針を示してくれた人となります。私達が歴史を振り返ってそうした人を求めるのは、こうした事情があるからです。その指針を与えてくれそうな人の歴史が、哲学史となるわけです。哲学者としては、ソクラテスこそが史上初めて、その現場に立った人となります。

人間とは何なのか、人生とは何なのか、生きることの意味は、目的は・・・誰も知らない」という絶望的な現場に、です。そしてソクラテスは、文字通り生涯と死をかけてそれに立ち向かい、そして「自分なりに真に納得できる生き方」の指針を示してくれたのです。

私達が人生に問題を感じた時、いつも立ち返るのがソクラテスとなるのは、ソクラテスこそが最も優れて指針を示してくれるからなのです。ソクラテスが人類にとって最高度に重要なのは、こうした意味合いにおいてなのでした。

人間の優れと魂
 私たちの現代社会でも「地位・財産」などなく「無名」の人であっても「立派な人」と評価できる人がいることは、多くの人が認めると思います。それは特に誰ということはなく「誠実で人に優しく、まじめに人生を送っている」人であれば、みんなそう評価しています。敢えて言ってしまえば、ソクラテスが思う「優れた人生」というのは、そうしたレベルの人生を意味しており、そうした人をソクラテスは「」において優れた人と呼んで、これこそが「真実に人間らしい優れた人」と考えたのでした。

 ここでの「魂」というのは、ちょうど車を運転している「運転手」にたとえれば分かり易いかもしれません。外見は「車が走っている」わけですけれど、それは実は「外から見えない運転手」が動かしているわけです。私たちの場合「肉体が車」みたいなもので「魂が運転手」というわけです。「運転手」が優れた人であるなら車も「上品」に動き、「運転手」が乱暴であったら車も乱暴に動きます。人間も同様で「魂」が優れているならその肉体の示す行動も「上品」であり、魂が粗野であったら肉体の示す行動も「粗野」になります。

 この「魂の優れ」をソクラテスは内容的に普通の言葉で「正しく、公平で、勇気あり、誠実で、心優しく、節制し・・・」などと語ります。ソクラテスは、とにかく「日常の場面で、一般の人々、特に若い青年たちと、日常の言葉で話しをしながら」問題を追及していましたので、こんな日常の言い方となってきます。ともあれ、こうしたものが「人間としての優れ」としたのでした。

 ところが、これを日本語に訳した時、内容的に「」と訳されることが多くなりました。ソクラテスの問題とは「徳にあった」などと一般に紹介されるようになったのは、こうした事情からです。しかし、これは言葉の上で中国の「儒教」あるいは「徳目」と同じようにイメージされ、あまりいい紹介の仕方ではありません。

ソクラテスの問題とは「徳にあった」という紹介の仕方よりも「人間として優れているとは、どういうことなのか」を問題にしていたと言うべきでしょう。現在、多くの日本訳がそうした方向の訳語をとっているのは、そうした意味合いからです。

 ソクラテスは、こうした「人間の優れ」を問題として追及し、追求しながら生きていくのを「人間のあるべき生き方」としたのです。つまり、本当に「こうであったら人間として完成された優れ」などというものは、神様でなければ知ることなどできません。人間は生物として欲望を持ち「衣・食・住の満足」についても「飽くことなく贅沢を求め」ます。そのため、人を騙し、恥じることもなく、優しさを失い、また感情も強いため「怒り、憎しみ、ねたみ」ます。

ここにおいて「人間らしく」と思った人間が出来ることと言えば「何が真実の善であり、正であり、うるわしいことなのか良く分からない」ということを正直に認めて、認めたところからそれを追求し、とりあえず納得したところで行動し、さらに追求し、ということだけです。このあり方を、ソクラテスは「フィロソフィア・愛知の道」と呼んだのでした。

 人は、「分かっているけどつい悪いことをしてしまう」といいます。でも本当に、そう思っているのでしょうか。「大したことはない」と思っているのではないでしょうか。もし、それが「本当に地獄行き」だと分かっていれば、人は悪事など働かないでしょう。

そんなことはないと思って、それが今「得」になる「利益」になる、「快楽」であるということで、そう行為してしまうのでしょう。ですから「本当に」その行為の意味が分かれば、人は正しく行為できる筈です。勿論、そんな「知」は得られないかもしれませんが、しかし少しでも多くその知をもてれば、その分「より正しく」行為できるでしょう。

ソクラテスは、そんな風に考えて「正しい認識」へと追及の道を突き進んでいったのでした。ですから、この「」というのは学校で習ったり、本に書いてある「知識」などとは全然違います。むしろ「人間そのものについての洞察、人生についての洞察」といえるでしょう。

2018/05/17

デーメーテール(ギリシャ神話36)

ペルセポネーの略奪
デーメーテールの娘コレー(ペルセポネー)は、行方が分からなくなる。何か悪いことに巻き込まれたのではないかと考えたデーメーテールは、犯罪に詳しい神と言われるヘカテーに問い掛ける。ヘカテーは「ペルセポネーはハーデースに冥界に連れ去られた」と答えた。女神は、ハーデースがペルセポネーを誘拐した事を知る。しかし、ゼウス達他の兄弟と違い純真で心優しい性格であるハーデースがそんなことをするはずがないと考えたデーメーテールは、地上の事は何でも知っているとされるヘーリオスに確認を求めた。


ヘーリオスは「ゼウスが、ペルセポネーを后に迎えたいと言ったハーデースを唆し拉致させた」と女神に教える。デーメーテールはゼウスがこの誘拐に加担したことを知る。デーメーテールはゼウスに抗議するが、ゼウスは「冥界の王であるハーデースならば、夫として不釣合いではないだろう」と言い訳する。デーメーテールはこれに激怒し、天界を捨て老女に変身しアッティカのエレウシースに下った。この放浪の間のデーメーテールの行動についての伝説が各所に残されている。

ペルセポネーの帰還
デーメーテールが地を放浪する間、大地は荒廃した。ゼウスは虹の女神イーリスを遣わしデーメーテールを説得したが、女神は怒りを解かず、コレー(ペルセポネー)の帰還を求め、それを条件として大地の豊穣神としての管掌を果たすことを答える。

ゼウスはハーデースに女神の意向を伝え、ペルセポネーを地上に帰還させた。ペルセポネーの帰還はデーメーテールに喜びをもたらし、それによって大地は再び豊穣と実りを取り戻した。これは穀物が地下に播かれ、再び芽吹いて現れることを象徴する神話とされる。

季節の起源
ペルセポネーは地上に帰還したが、冥府においてザクロの実を幾つか口にしてしまった。冥府の食物を食べたものは、冥府の住民となる定めがあったが、デーメーテールはこれにも抗議した。ペルセポネーが、どのような経緯で冥府の食物を食べたのか、自発的にか、ハーデースなどの策略によってか諸説ある。ザクロを食べた説でも、何粒食べたかについて複数の説がある。

オリュンポスの秩序は守らねばならないが、デーメーテールの抗議も考慮せねばならないとして、ゼウスあるいは神々は、1年(12ヶ月)を食べてしまったザクロの実の数(4粒又は6粒)で割り、1/3(又は1/2)を冥府で、残りをデーメーテールの元で暮らすことで決着を付けた。デーメーテールはペルセポネーがハーデースの元で暮らしている間は、実りを齎すのをやめるようになった。これは季節・四季の起源譚である。

オウィディウスやアポロドーロスの主張によると、ペルセポネーがザクロを食べたことが明らかになったのは、冥府の庭園の庭師アスカラポスの告げ口が原因であるという。これを恨んだデーメーテールは、冥府の入り口付近でアスカラポスの上に巨岩を置いたという。アスカラポスはヘーラクレースによって助けられたが、デーメーテールは彼をフクロウに変えた。

秘儀の二柱女神
デーメーテールの祭儀の中心はアッティカのエレウシースにあり、その秘儀は有名であった。他に「二柱の女神」の名で、ギリシア各地でコレー(ペルセポネー)と共に祀られた。アテーナイには、テスモポリア祭というデーメーテールのための祭があり、豊穣を祈るために、秋(ピュアネプシオン月11日から13日)に女達が祝った。アリストパネースの『女だけの祭』は、このテスモポリア祭を題材とする。

デーメーテールとポセイドーン
アルカディアに伝わる神話では、デーメーテールは娘を捜して地上を放浪していた際、ポセイドーンに迫られた。デーメーテールは、彼を避けて牝馬の姿となり、オンコス王の馬群の中に紛れ込んだ。しかし、ポセイドーンは彼女を発見し、自分も牡馬の姿となって女神と交わった。

この結果、デーメーテールは一人の娘と名馬アレイオーンを生んだ。娘の名はデスポイナと呼ばれるが、これは単に「女主人」の意に過ぎず、実際の名は密儀の参加者以外には明らかにされていない。この時のポセイドーンに対するデーメーテールの怒りはすさまじく、怒りの女神エリーニュスと呼ばれたほどであった。風光明媚で名高いラードーン川の流れで沐浴するまで女神の怒りは続いたとされる。

馬の誕生の神話
別の話では、自らに求愛してくるポセイドーンに、最も美しい陸上の生物を贈るように女神は伝えた。今まで、海のニュンペーを驚かせるためのタコやイソギンチャクのような奇怪な姿の海の生物しか作らなかったポセイドーンにとっては難しい話であったが、苦労を重ね一体の動物を完成させた。これによってできあがったのが馬だとされる。馬が完成するまでにラクダ、キリン、カバ、シマウマのような数多くの失敗作が生まれることとなった。この後、馬の仕上がりに満足したポセイドーンはデーメーテールのことを忘れたとも、馬のできばえに感心したデーメーテールはポセイドーンと打ち解け、不仲だった二人の関係が改善したともされる。

その他
アルカディアのピガリアには、デーメーテールとポセイドーンの婚姻が伝わる洞窟があり、そこには黒衣を纏い、馬の頭を持つデーメーテール像があったと伝えられている。これに依れば神話確立以前のデーメーテールは、馬の頭をした女神だったとされる。暗緑色の衣を纏った姿で描かれ、その象徴は小麦、芥子、水仙、豊穣の角で、聖獣は豚である。ローマ神話ではケレースと同一視された。比較神話学的には、地母神として東方由来の神ではないかとも考えられている。
出典 Wikipedia

2018/05/14

新バビロニア

新バビロニア(紀元前625 - 紀元前539年)は、ナボポラッサルによりメソポタミア南部のバビロニアを中心に建国され、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって征服されるまで、地中海沿岸地域に至る広大な領土を支配した帝国。首都はバビロン。以前はカルデア王国とも呼ばれたが、現在の研究によればナボポラッサルはカルデア人ではなく、この呼称は正しいとはいえない。

新バビロニア帝国成立まで
紀元前一千年紀初頭のバビロニアは、強力な中央権力が存在せず、多くの短命の王朝が興亡する、不安定な状況にあった。バビロニアの政治的・神学的中心都市はバビロンであり、「バビロンの王」がバビロニア王とみなされたが、実際には、諸都市は独立した状態にあった。さらに、元々遊牧民であったアラム人やカルデア人の諸部族がバビロニアに定住し、とくにカルデア人は政治的に重要な役割を果たすことになる。

アッシリアによる征服
バビロニアの北部には、強大な新アッシリア帝国があり、あれこれ口実をつけてバビロニアに軍事介入を行っていた。カルデア人のメロダク・バルアダン2世がエラムの支持を得て即位すると、アッシリアのサルゴン2世は大規模なバビロニア遠征を行い、メロダク・バルアダン2世は逃亡。その後エラムの助けで再びバビロニアに戻り、反乱を起こすが、アッシリア王センナケリブによって鎮圧される。

センナケリブは、長男アッシュル・ナーディン・シュミをバビロニアの王位につけるが、アッシュル・ナーディン・シュミは、侵入してきたエラム軍に連行されてしまった。これに激怒したセンナケリブは、報復のためエラムに侵攻、多くの都市を略奪し破壊した。さらにアッシリア軍はバビロンを包囲し、バビロンは15ヶ月後に陥落した。

センナケリブの次のアッシリア王エサルハドンは、バビロンの再建を行った。彼は、下の息子アッシュルバニパルをアッシリア王、上の息子シャマシュ・シュマ・ウキンをバビロンの王の後継者に任命した。しかし実際のところ、バビロニア王はアッシリア王に従属する立場であり、バビロニアでの最終決定権を持っていたのはアッシュルバニパルであった。シャマシュ・シュマ・ウキンは、前652年、アッシリアからの独立を宣言して反乱を起こした。バビロニアの諸都市アラム人、カルデア人の諸部族(すべてではない)が反アッシリア軍に加わった。とくにカルデア人のナブー・ベール・シュマーティは、シャマシュ・シュマ・ウキンと並ぶ、もうひとりの反乱の首謀者としてアッシリアに認識されていた。

650年のアッシリア軍のバビロン包囲により、餓死や疫病で多数の死者が出た。そしてその2年後、シャマシュ・シュマ・ウキンが王宮の火事で死んだことにより、反乱は終わりを告げた。アッシュルバニパルはエラム制圧に乗り出し、略奪し破壊した。エラムにかくまわれていたナブー・ベール・シュマーティも自殺した。

反乱の後、カンダラヌという人物がバビロニア王になるが、この人物が誰かはよく分かっていない。アッシュルバニパルが死ぬと、アッシリアでは王位を巡る争いが起こり、バビロニアも混乱に巻き込まれた。

ナボポラッサル
このような状況の中、アッシリアへの反乱の主導者として登場したのがナボポラッサルである。彼は、自らを「誰でもない者の息子」と碑文に書いており、その素性は謎に包まれている。カルデア人であるとか、アッシリアの将軍であったという説もあるが、現在の研究では、バビロニア南部にあるウルク市の有力な一族出身であったと考えられている。ウルクは親アッシリアであり、元々アッシリア派であったという過去を隠すため、自らの出自を隠したとみられる。

バビロンの王として前626年に即位した後も、すべてのバビロニアの都市を支配下においたわけではなく、アッシリアとの抗争は続いたが、アッシリアに対して優位に立つようになった。

紀元前612年、メディア王国と同盟を結んでアッシリアの王都ニネヴェを攻撃して陥落させ(ニネヴェの戦い)、その後もバビロニアによるアッシリア征服は続いた。こうしてアッシリアは滅亡し、その後、かつての栄光を取り戻すことはなかった。

新アッシリア滅亡後、バビロニアはシリア・パレスティナの制圧に向かう。シリア・パレスティナ諸国の後ろ盾はエジプトだった。紀元前605年、ナボポラッサルは長男ネブカドネザル(ナブー・クドゥリ・ウツル)を差し向け、バビロニア軍はカルケミシュの戦いでエジプトに勝利をおさめる。しかし、同年ナボポラッサルは急死。息子のネブカドネザル2が即位した。
出典 Wikipedia