2020/07/20

カリグラ帝 ~ ローマ帝国(6)



名君続く
そんなわけで2代目の皇帝にはティベリウスが即位するが、その途端にライン川(オランダからスイスに流れる川)沿いの軍と、ドナウ川(ドイツからルーマニアに流れる川)の軍団がストライキを起こした。当時、ローマ帝国では退役金の不足により除隊できない兵が多く、これが直接の原因になったのである。反乱はティベリウスの養子ゲルマニクスと実子を送ることで、なんとか鎮圧された。また、公平さに拘り法に熱心なティベリウス帝のおかげで、兵は満期であれば除隊できるようになった。

後の暴君時代とは正反対に、ティベリウス帝の治世期には皇帝の人気取りが行われず、修正と節制に重きが置かれた。当時のローマ帝国の財政は徐々に圧迫していったが、ティベリウス帝は増税という手段は採らず、代わりに戦車競走を減らすことで修正したのである。当然ながら時のローマ市民らは退屈し、ティベリウス帝を評価しなかったが、皇帝はローマの元老院と市民からの人気など気にせずに、施設のメンテナンスなどを滞りなく行った。

一方、抑えておくべき点はしっかりと抑えられており、ドナウ川防衛の要所であるパンノニア(現オーストリアやハンガリー)では、インフラ整備が徹底されている。

ティベリウス帝の治世期は領域の面でも安定し、後16年にはライン川とドナウ川が平定されたうえ、後18年には彼の養子ゲルマニクスにより、対パルティア王国(現イラン)方面の東方が制定された。

凶兆
ティベリウス帝により東方に派遣された養子ゲルマニクスだったが、独断専行が祟ったのか、後20年に急遽、謎の死を遂げる(毒殺説あり)。ティベリウス帝は後継者を実子のドルススにしようと考えたが、近衛隊長と妻の裏切りにより、23年に実子のドルススを失った。

以来、ティベリウス帝は猜疑心にとらわれた老帝となり、その死(37年)まで元老院と不仲となる。また先述のとおり、ティベリウス帝は元老院にも民衆にも人気がなく、カエサルやアウグストゥスとは違い、死後に神格化されることはなかった。一説によると、その最期はゲルマニクスの子ガイウス(カリグラ帝)に謀殺されたとのこと。

偉大なるカエサル、卓越したアウグストゥス、堅実なティベリウス、と名君が続いたローマ帝国だったが、そんな帝国にも到頭暗い時代が訪れつつあった。

ちなみにイエス・キリストが処刑されたのが、この時期(30年)にあたる。聖書に見られるヘロデ王やユダヤ教徒のファリサイ派、イエス・キリストとその弟子たちの伝承は、何を隠そうすべてティベリウス帝の治世期だったのだ。

狂帝の時代
ゲルマニクスの子ガイウスは、父ゲルマニクスが英雄であったことから、元老院にも民衆にも将来を嘱望されていた。ガイウスは兵士たちにも愛され、子供用の軍靴に由来する「カリグラ」の渾名で呼ばれるようになる。この時、ローマ帝国の臣民の誰もが、栄光あるローマの時代を強く意識したであろう。

しかしアウグストゥスに始まる「ローマの平和」、その例外となる時代が、これより始まるのであった。

37年、ゲルマニクスの子ガイウスは「カリグラ」の名とともに即位した。カリグラ帝である。即位当初善政をしくものの、同年、大きな病を患うようになる。

それが決定的だった。カリグラは大病を患って以降、狂気という他はない奇行を繰り返した。有名なものは以下の通り。

・神を自称
・月光とともに寝ることを強く意識し、ユピテル神の像と会話
・真珠を溶かして酢に入れ飲む
・黄金のパンを食卓に列挙
・実の妹たち全員とアレな関係をもつ
・宮殿内に売春宿を設ける
・戦車競走で活躍した馬を執政官(コンスル)に就任させようと(本気で)考える
・歴史に残りたいからと、「でっかい不幸がこないかなー、それで英雄になりたいなー」と語る
・兵士たちに貝殻を拾わせ、それを戦利品と称して民衆に見せつける
・「戦争が苦手と思われたくない!」
・ガリア人の髪を赤くし「ゲルマン人に勝ったぞー!」と民衆に見せつける
・戦争が苦手と思われ、元老院と近衛隊は見かねたのか、41年にカリグラ帝を暗殺した。

一時の名君時代
カリグラ帝の没後、元老院らは共和制ローマの復活を望んだ。あんな狂った皇帝を見れば、納得もいくだろう。

しかし近衛隊は、病弱で体に障害のあるクラウディウスを「最高司令官」と称し、担ぎあげた。当時の元老院はこれに逆らえず、結果、4代目の皇帝はクラウディウスとなった(41年)。ちなみにクラウディウスは、ゲルマニクスの弟、カリグラの叔父にあたる、ユリウス・カエサル家の一員である。

当時のローマ皇帝とは、すなわち軍の最高司令官であったから、屈強で軍事に優れる男性こそが皇帝に相応しいという風潮が帝国にはあった。この点において、哲学や歴史が大好きで病弱なクラウディウス帝(50代)は蔑まれ、事実民衆からの評判はあまり芳しくなかった。

しかし学識に優れるが故に、その頭脳は極めて明晰であった。言語や歴史に精通し、ギリシア語で『エトルリア史』や『カルタゴ史』を著した。行政の長としても申し分なく、ローマ帝国は彼のもと官僚機構の整備の他、水道橋や湖などの治水・公共事業など、内政が安定化された。

クラウディウス帝の治世期はまた、ローマ帝国に軍事面の栄光をももたらした。43年、ブリタニア遠征が敢行されたのである。実際は将軍の活躍によるところが大きいが、何にせよ、このドーバー海峡を渡った進軍はローマ帝国に一定の成果をもたらし、属州ブリタニアの拡大に成功した。

ところが彼にも、ひいてはローマ帝国にも転落の時が訪れる。48年、クラウディウス帝は、姪のアグリッピナと再婚する。そして彼はアグリッピナの連れ子、ネロを養子とした。

しかし、これがいけなかった。54年、再婚相手のアグリッピナは、息子のネロを帝位に就けるべく、夫のクラウディウス帝を毒殺した。カリグラ帝治世期の混乱を拡大させなかったばかりか、ローマ帝国を整頓し内政で活躍した名君クラウディウスは、あまりに報われぬ最期を遂げたのである。

2020/07/19

孟子の思想 ~ 孟子(3)

性善
その名の通り、人間は生まれながらにして善であるという思想(性善説)である。

当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため文王や武王のような明君が現れると民は善を好むようになり、幽王や厲王のような暗君が現れると民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば不善である人もいると説いていた。

これに対して孟子は

「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)

と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人も、その性は一様であると主張した。また、性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は

「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)

とも述べている。

その後、荀子は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって、多くの儒者に受け継がれた。

孟子と荀子
孟子の対立思想として、荀子の性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「#四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。けだものの意)同然の存在だと言う。決して、人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは言っておらず、そのため学問をして努力する君子は禽獸同然の人民を指導する資格があるという主張となる。

一方、荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえもの、人為の意)を後天的に身に付けることによって、公共善に向うことができると主張する。すなわち、両者とも努力して学問することを通じて、人間が良き徳を身に付けると説く点では、実は同じなのである。

すなわち「人間の持つ可能性への信頼」が根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって、社会全体まで統治できるという楽観的な人間中心主義に終始したのに対して、荀子は君主がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという、社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによってそのまま法家思想となっていった。

孟子が生きた時代は、人の本性についての関心が高まり「性には善も悪もない」とする告子の性無記説(または性白紙説)や「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、「人の中で善悪が入り交じっている」とする諸説が流布していた。これらに対し、孟子は「性善説」を唱えた。これは孔子の忠信説を発展させたものとされる。

四端の心
孟子の「性善説」とは、あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする説である。善の兆しとは、以下に挙げる四端の心を指す。なお「」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。

惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
羞悪…不正を羞恥する心
辞譲…謙譲の心
是非…善悪を分別する心

修養することによって、これらを拡充し、「仁・義・礼・智」という4つの徳を顕現させ、聖人・君子へと至ることができるとする。端的に言えば、善の兆しとは善となるための可能性である。

人には善の兆しが先天的に具備していると孟子が断定し得たのは、人の運命や事の成否、天下の治乱などをあるべくしてあらしめる理法としての性格を有する天にこそ、人の道徳性が由来すると考えたためである。しかし、この考えは実際と照らし合わせた時、大きな矛盾を突きつける。現実においては、社会に悪が横行している状態を説明できないからである。

こうした疑問に対し、孟子は以下のように説明する。悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。

「性善説」の必要性
これを簡単に、理想主義的なオプティミズムとして片づけることはできない。孟子は、何も戦国時代において頻発する戦争や収奪に眼を向けずに、ただ楽天的だったのではない。覇道がはびこる現実を踏まえつつも、孟子は王道思想を掲げたのであるが、「性善説」は、いかなる君主であっても徳治に基づく王道政治を行うことが可能であることを言明するために、道徳的要請から提示された主張であった。

諸国遊説において、孟子が君主に王道政治を説いても、そのような政治は聖人しか行えないのではないか、という冷ややかな対応に出くわすことが多かった。孟子としては、王道政治実現の可能性の根拠を提示する必要があったのである。よりいえば「性は善であるべき」という説が、王道思想のための必要性から「性は善である」という風に変化させられたと言える。

荀子「性悪説」との比較
孟子より数十年遅く活躍した荀子は、孟子の「性善説」を批判した。この根本には「性」に関する孟子とは異なった定義がある。荀子は「性」を、自然そのままの本質と考える。これは荀子が「天」を理法的な存在、あるいは宗教的なものとして捉えず、nature的な自然として理解するからである。荀子が「」という時、欲望も含んだものとして捉えられている。そして、自然そのままの本性を「」とした。というのも、人の「性」とその作用である「」を放任すると、争いなどがおこり社会的混乱を招くからだという。したがって外在する「礼」によって人を矯正・感化する必要があるのだと説いた。

しかし孟子「性善説」が悪の起源について矛盾を抱えていたのと同様、荀子の「性悪説」もまた善なる「礼」が何に由来するのかという点において、矛盾を内包する学説であった。

ただ孟子・荀子ともに人を道徳的に統冶しようとする姿勢は共通のものであって、それは思想的に道徳論にとどまるものであった。

孟子学派が強調して説く「仁義」に、道徳的根拠を与えた。つまり各人のもつ道徳的欲求が覚醒する契機となった。

「礼」や法により、外からたがをはめ道徳的に矯正しようとする「性悪説」に比べ、人の内面を信じその覚醒を引き出そうとする「性善説」は、支持を広げて儒家の主流派となっていった。

性善説」は、先天的な道徳可能性を認めるため、その中にある種平等主義的なものを内包することになった。
出典 Wikipedia

2020/07/12

共和政ローマ略年表 ~ ローマ帝国(5)



エトルリア王追放、共和政スタート(前509年)
元老院に拒否できる護民官と、やや立場の弱い平民会が設けられる(前5世紀前半)ともに平民による。法律を文として書き記した「十二表法」公開(前5世紀半ば)。平民の地位向上。

リキニウス・セクスティウス法(前367年)制定
「執政官の一人は、平民でなければならない!」

ホルテンシウス法(前287年)施行
「元老院なんて知るか!
平民会の決定が国の決定なんだい!」

全イタリア半島を支配(前3世紀前半)
植民市カルタゴと衝突、ポエニ戦争勃発(前264 - 146年)。
カルタゴ将軍ハンニバルがイタリア侵入、スキピオが戦局挽回、勝利

242年、シチリア島を支配下に置く。シキリア属州(初の属州)
ギリシャ、マケドニア諸都市を支配(前2世紀半ば)。地中海をほぼ制覇。すでに帝国。前2世紀後半から、共和政が大きく揺らぐ。

元老院側の「閥族派」 VS 市民・騎士の「平民派」
グラックス兄弟の改革。大地主から貧乏市民へ土地を分け与えようとした。が、頓挫。二人とも死去。

「内乱の1世紀」スタート
平民派のマリウス VS 閥族派のスッラ
同盟市戦争(ローマvsイタリア半島の同盟国)
剣闘士奴隷スパルタクスの大反乱(前73 - 71年)

第一回三頭政治(前60年)。
46年にはユリウス・カエサルの独裁がスタート
その二年後、カエサルが暗殺される。
「ブルートゥス、お前もか」

第二回三頭政治(前43年)
カエサルの部下二人(アントニウスやレピドゥス)と、彼の養子オクタウィアヌスによる。

31年、クレオパトラ&アントニウス VS オクタウィアヌスのアクティウムの海戦。後者が勝利
オクタウィアヌスが国家元首に、以後帝政(前27年~)。改名、アウグストゥス。初代ローマ皇帝

帝政期について
ローマの帝国化はカエサルの代で始まりつつあり、これを元老院が恐れ、彼を暗殺するという形で一時収束したかに見えた。ところが、カエサルの養子オクタウィアヌスが彼の意思を継ぐと、ローマの帝国化はいよいよ実現したというわけである。皮肉にもオクタウィアヌスを「アウグストゥス」とし権力者にしたのは、ローマの帝国化に反対し彼の義父のカエサルを殺害した、元老院自身であった。奇しくもこの時代、カエサルはアウグストゥスにより神格化され、奉られるようになる。

紀元前1世紀の当時、元老院が政治を独占するローマの政局は、広い領土に対応できなかった。そんな強いリーダーを欲したローマの決断こそが、アウグストゥスの台頭だったのである。

一般にローマ帝国というと、この時代からを連想される。そして日本では、その終焉は紀元後476年に起きた、西ローマ帝国の滅亡をもってして語られることが多い。

ところがローマ帝国そのものは、西ローマ帝国が滅亡した476年にも、まだまだ存続していたのである。それが395年の帝国の東西分割から生じた、東ローマ帝国(395 - 1453年)であった。

7世紀を境に東ローマ帝国は著しくギリシア化し、また常に都市ローマを領有していなかったことから、後世とくに西欧からはビザンツ帝国と称され、まるでローマ帝国とは別の国家のように語られるが(実質そうではあるが)、「ローマ帝国の生き残り」として存在していたのも、また事実であった。

すなわちローマ帝国、もっといえばローマの帝政期は東ローマ帝国の滅亡(1453年)まで続いたことになる。もちろん先述した「西ローマ帝国の滅亡(476年)をもってローマ帝国は滅亡した」とする意見も根強く、この辺りは人それぞれの見解となるだろう。

元首政期
ユリウス・クラウディウス朝 (B.C. 27 - A.D. 68)
さて、アクティウムの海戦を経てローマは帝政へと移行するが、その最初の王朝となるのがユリウス・クラウディウス朝であった。

もっとも、王朝とはいえ「親から子」といったように帝位を継承していったわけではなく、「大甥・大叔父」といった関係が多く、甥や伯父といった関係も多かった。つまり、どの皇帝も直系の嫡男を後継者としなかったのである。ここにカエサルの養子であり初代皇帝となった、アウグストゥスの思惑が見て取れよう。

アウグストゥスと初期の帝国
「我こそは尊厳者(アウグストゥス)!」

というのは半分嘘で、彼アウグストゥスはカエサルとは違い、元老院などの共和政の制度を尊重した。そして自身は「朕は市民の中の第一人者(プリンケプス)に過ぎませんよ」などと述べた。つまり、あまり独裁的な政治の舵取りはしなかったのである。

というのは全くの嘘で、実際にはほぼすべての要職を兼任し、全権力を手中におさめていた。またアウグストゥス(オクタウィアヌス)は、カエサルを神格化したと既に記載したが、彼もまた自らを「神の子」と称したのだった。カエサルを称え、また自らをその正統な家族とすることで、権力を盤石なものとしたかったのだろう。

これは実質的には(というか、どう考えても)皇帝独裁であり、元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれる。広大すぎる帝国領を統治するには、もはや元来の共和制では限界であったから、このように政体が変化したのだ。

アウグストゥスの治世期には、ローマは人口が100万人を超える大都市へと発展、多くの公共事業が興された。また戦争ではアウグストゥスの友アグリッパが大活躍し、内外問わず帝国は安定化していった。後世の我々は、このアウグストゥスからの約200年間の時代を「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と呼ぶ。

後継者問題
後は帝国の将来であった。しかし、アウグストゥスには実子がいない。これをアウグストゥスは、友アグリッパに娘を嫁がせ、彼を実質的な共同統治者とすることで筋を通した。さらにアウグストゥスは、アグリッパ夫妻が生んだ2人の子らを孫とし、後継者問題をも解決する。

ところが前12年、アウグストゥスよりも先にアグリッパがこの世を去る。ここでアウグストゥスは、娘を妻の連れ子ティベリウスと強引に再婚させ、2人の孫(=亡きアグリッパの息子)の後見人とし、ことなきを得ようとしたが、孫の1人は後2年に、もう一方の子も後4年に亡くなってしまう。

後継者という後継者すべてが他界した今、アウグストゥスを継ぐものはいなかった。そこで、アウグストゥスは叔父のカエサルが彼をそうしたように、娘の再婚相手であるティベリウスを養子とし、新たなる後継者とすることで、この問題を解決。後14年にアウグストゥスは亡くなるが、元老院は初代皇帝の思惑通り、2代目の皇帝をそのティベリウスとするのだった。