2025/06/29

朱熹(朱子)(1)

朱熹

朱 熹(しゅ き、建炎4915日〈11301018日〉- 慶元639日〈1200423日〉は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など。諡は文公。朱子(しゅし)と尊称される。

 

本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。

 

「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。

 

その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。

 

生涯

父の朱松

朱熹の祖先は、唐末から五代十国時代の呉にかけての朱瓌(またの名は古僚、字は舜臣)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという。その8世の子孫が朱熹の父の朱松(1097 - 1143年)である。

 

朱松は、字は喬年、歙州婺源県の生まれ。政和8年(1118年)、22歳の時に科挙に合格し、建州政和県の県尉に赴任した。その後、宣和5年(1123年)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、建炎元年(1127年)に靖康の変が勃発し、金軍の侵攻が始まった。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともに転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた。建炎4915日(11301018日)のことである。朱熹の母は歙州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ。

 

その後、しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た。紹興7年(1137年)に臨安府に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは秦檜が政権を握ると決定的になった。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、紹興10年(1140年)に中央政界から追われて饒州知州に左遷された。朱松はこれを拒否し、建州崇安県の道教寺院の管理職となった[10]

 

地方に戻った朱松は、息子の朱熹に二程子の学を教えた。朱松は、もともと羅従彦を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である楊時)、これを朱熹に伝えたのであった。朱松は3年後の紹興13年(1143年)に47歳で死去した。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲(胡安国の従子)・劉勉之・劉子翬(崇安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した。

 

なお、母の祝氏は乾道5年(1169年)に70歳で死去した。

 

科挙合格まで

朱熹は、字は元晦または仲晦。幼い頃から勉学に励み、5歳前後の頃に「宇宙の外側はどうなっているのか」という疑問を覚え、考え詰めた経験があった。父の死後は胡憲・劉勉之・劉子翬のもとで学んだ。朱熹はこの三先生に数年間師事し、直接指導を受けるという恵まれた環境で成長した。ここで朱熹は「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)という方向性が決定づけられ、また一時期禅宗に傾斜した時期もあった。同時に儒教の古典の勉学に励み、18歳の秋に建州で行われた解試(科挙の第一段階の地方予備試験)に合格すると、紹興18年(1148年)、19歳の春に臨安で行われた科挙の本試験の合格し、進士の資格を与えられた。同年の合格者には、『遂初堂書目』の著者として知られる尤袤もいる。

 

朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『楚辞』や禅録、兵法書、韓愈や曾鞏の文章などを読み、学問に没入した。朱熹はこの頃からすでに、従来の経書解釈に疑念を持つことがあった。

 

同安時代

朱熹は24歳の頃、泉州同安県(現在の福建省廈門市同安区)に主簿として赴任し、持ち前の几帳面さで県庁内の帳簿の処理に当たった。また、県の学校行政を任せられ、教官の充実や書籍の所蔵管理に当たった。朱熹の文集には、彼が出題した試験問題が30余り記録されている。主簿の務めは、赴任して4年目の紹興26年(1156年)7月に任期が来たが、後任が来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞した。

 

この間、朱熹は李侗(李延平)と出会い、師事した。李侗は父と同じく羅従彦に教えを受け、「体認」(身をもって体得すること)の思想、道理が自分の身体に血肉化された深い自得の状態を重視した。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたが、彼の禅宗批判を聞いて同調し、禅宗を捨てることとなった。朱熹は24歳から34歳に至るまで彼の教えを受け、大きな影響を受けた。

 

張栻との出会い

紹興27年(1157年)、朱熹は同安を去ると、翌年には母への奉養を理由に祠禄の官を求め、12月に監潭州南学廟に任命された。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的には官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ。朱熹の官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年、朝廷に立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた。

 

隆興元年(1163年)、朱熹34歳の時、師であった李侗が逝去するが、この頃張栻と知り合い、以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響を与え合った。両者が実際に対面したのは数回だが、手紙のやり取りは50通以上に及んでいる。張栻は、湖南学の流れを汲み、察識端倪説(心が外物と接触して発動する已発の瞬間に現れる天理を認識し、涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点を置いた修養法を説いた。乾道3年(1167年)には、朱熹が長沙の張栻の家を訪問し、ともに衡山に登り、詩の応酬をした。朱熹は張栻の「動」の哲学に大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた。

 

四十歳の定論確立

しかし、乾道5年(1169年)春、友人の蔡元定と議論をしている時、自身が誤った解釈をしてきたことに気が付き、大きく考えを改めた。従来、朱熹は察識端倪説を信じ、「心を已発」「性を未発」と考え、心の発動の仕方が正か邪かを省察する、という修養の方法にとらわれていた。しかし、ここに至って朱熹は、心は未発・已発の二つの局面を持っており、心の中に情や思慮が芽生えない状態が「未発」、事物と接触し情や思慮が動いた状態が「已発」であると認識を改めた。

 

これにより、未発の状態でも心を平衡に保つための修養が必要であることになり、朱熹はかつて李侗に教わった「静」の哲学がこれに当たると気が付いた。朱熹は、李侗の「静」の哲学を根底に据えた上で、已発の場での修養として張栻の「動」の哲学を修正しながら組み合わせた。後世、これをもって朱熹思想の「定論」が成立したとされる。これを承けて、張栻の側も認識を改め、朱熹の説に接近した。

2025/06/25

平安京(2)

平安宮北辺拡大説

平安京北端の南側2町分については「北辺(北辺坊)」と呼ばれているが、平安京北端の街路は当初設計では現在の土御門大路の位置にあたり、後に北へ2町拡張し、現在の一条大路の位置に造られたという説がある。

 

この北辺の拡張については、瀧浪貞子の説がもとになっている。

中山忠親の日記『山槐記』に、昔は土御門大路が宮城(大内裏)の北側に接して一条大路と呼ばれ、後に北辺の二町分(約200メートル)を取り込んで宮城を拡張した結果、この大路が一条大路と呼ばれるようになった、という記載がある。このことに基づき、平安京は藤原京と同じく当初は大内裏の北側に空地(北辺)をもつ構造であって、元々12門であった大内裏が平安京造営後に2町分北に広げられ14門となり、平安京北端とされる「北京極大路」が一条大路に、元の一条大路(拡張前の大内裏北端)が土御門大路となったとするのが瀧浪説である。さらには冒頭のように、平安京全体が北に拡張されたとする説も唱えられている。

 

これらの説に基づけば、指図に残る平安京は変更後の姿ということになり、北辺まで大内裏が拡張された時期はおよそ9世紀後半と推定されるが、論拠のもとになった『山槐記』の記載について、この「昔」とは初期の平安京を指すものとは限らず、平安京以前の都城のことを指すのではないかという疑義が示され、さらに「昔」とは後期造営により宮城が北に拡張することになった初期の長岡京のことを指すのが適切であるとの批判があり、いまだ仮説の域を脱していない。

 

歴史

平安京は、延暦131022日(西暦7941118日(ユリウス暦))から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であったとされ、明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失っている。

 

その始めは、桓武天皇の長岡京遷都まで遡る。桓武天皇は、延暦3年(784年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかし、それからわずか9年後の延暦12年(793年)1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10 km2つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地であった。事前に、桓武天皇は現在の京都市東山区にある将軍塚から見渡し、都に相応しいか否か確かめたと云われている。

 

『日本紀略』には「葛野の地は山や川が麗しく、四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。

 

大極殿遺阯碑

(千本丸太町北西)

平安京の造営は、まず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には大極殿が作られた。その後方の東側には、天皇の住まいである内裏が設けられた。

 

都の東西を流れる鴨川や桂川沿いには、淀津や大井津などの港を整備、これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は、都の中にある大きな2つの市(東市・西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ「堀川」(現在の堀川と西堀川)を始めとする河川をいくつも整備し、水運の便に供するとともに生活廃水路とした。

 

そして長岡京で認めなかったように、ここでも官寺である東寺と西寺を除き、新たな仏教寺院の建立を認めなかった(この他、平安遷都以前からの寺院として京域内には六角堂があったとされるが、平安遷都後の創建説もある。また、広隆寺はこの時に太秦に移転されたとされ、京域外の北野上白梅町からは移転以前の同寺跡とみられる「北野廃寺跡」が見つかっている)。なお、建都に当っては、それまで上賀茂付近から真南に流れていた賀茂川(鴨川の出町以北の通称)を現在の南東流に、また出町付近から南西方向に左京域を斜行していた高野川を現在の南流に変え鴨川としたとの説が塚本常雄によって唱えられ、多くの歴史学者に支持された(「鴨川つけかえ説」)。

 

これに対して後に横山卓雄によって否定説が提出され、歴史学者も一転してこの説に従うようになり、現在は「鴨川・賀茂川つけかえはなかった」とするのが有力となっている。ところが、最近になって横山説に疑問を呈する研究者が現れ、塚本の鴨川つけかえ説に対する再評価の動きが活発になりつつあり、現在では「つけかえ説」「非つけかえ説」とも定説とは言えない状況となっている。

 

辛酉。車駕遷于新京。

同十三年十月廿三日。天皇自南京、遷北京。

(略)

丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

『日本後紀』卷第三逸文、延暦1310月及び11月の条。

「此の国は山河襟帯(さんがきんたい)し、自然(おのづから)に城をなす。此の勝(形勝 けいしょう)によりて、新号を制(さだ)むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし。また子来(しらい)の民、謳歌(おうか)の輩(ともがら)、異口同辞(いくどうじ)に、号して平安京と曰(い)ふ」(此の国は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この景勝に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と書き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)。ここに言う「謳歌」とは、遷都の翌延暦14年(795年)正月16日に宮中で催された宴でも歌われた踏歌の囃し言葉「新京楽、平安楽土、万年春(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」を言うのであろう。

2025/06/23

その後のイスラーム哲学

イブン・ルシュドの死とともに「アラブ逍遥学派」と呼ばれるイスラーム哲学の一学派が終わりを迎え、西方イスラム世界、すなわちアンダルスや北アフリカにおける哲学的活動は著しく減退した。一方で東方の国々、特にイランやインドでは哲学的活動がずっと長く存続した。伝統的な考え方に反して、ディミトリ・グータスとスタンフォード哲学百科事典の考えでは、11世紀から14世紀にかけての時代はアラブ哲学・イスラーム哲学の真の「黄金時代」である。この時代はガザーリーが論理学を、マドラサの研究計画や続いて起こったイブン・スィーナー哲学の興隆に統合したことに始まる。

 

西ヨーロッパ(スペインとポルトガル)において、政治的力がムスリムからクリスチャンのコントロール下に移ったため、当然西ヨーロッパではムスリムは哲学を行わなくなった。このことによって、イスラム世界における「西方」と「東方」の交流が幾分か減少することにもなった。オスマン帝国の学者と、特に今日のイランやインドの領域にあったムスリム王国に生きていた学者、例えばシャー・ワリー・ウッラーやアフマド・シルヒンディーといった人々の研究からわかることなのだが、「東方」のムスリムは哲学を続けた。この事実は、イスラーム(あるいはアラブ)哲学を研究していた前近代の歴史家の注意から外れていた。また、論理学は近現代までマドラサで教え続けられた。

 

イブン・ルシュド以降、イスラム哲学後期の多くの学派が興隆した。ここではイブン・アラビー及びモッラー・サドラーが起こした学派などの、ごく少数の学派に言及するにとどめる。しかしこれらの新しい学派は、現在もイスラム世界に生きているのでとくに重要である。その内でも最も重要なのは:

 

    照明学派(Hikmat al-Ishraq

    超越論的神智学(Hikmat Muta'aliah

    スーフィー哲学

    伝統主義派

 

照明学派

照明学派は、12世紀にシャハブッディーン・スフラワルディーが創始したイスラーム哲学の学派。この学派はイブン・スィーナーの哲学と古代のペルシア哲学を、スフラワルディーの多くの新しい革命的な思想と組み合わせたものである。この学派は、ネオプラトニズムの影響を受けてきたとされる。

 

イスラーム哲学の論理学では、論理哲学の思索の歴史の中で重要な革新である「確実的必要性」という概念を発展させた、シャハブッディーン・スフラワルディーが始めた照明学派がギリシア論理学に対する包括的な論駁を行った。

 

超越論的神智学

超越論的神智学は、17世紀にモッラー・サドラーが起こしたイスラーム哲学の学派。彼の哲学と存在論のイスラーム哲学における重要性は、後のマルティン・ハイデッガーの哲学の20世紀西洋哲学における重要性と、ちょうど同じだとされる。モッラー・サドラーはイスラーム哲学において、「真実の本性を扱ううえでの新しい哲学的識見」を獲得し、「本質主義から実存主義への大転換」を成し遂げた。これは西洋哲学で同じことが起こる数世紀前のことである。

 

「本質は実存に先立つ」という考えは、シャハブッディーン・スフラワルディーと彼の学派照明学派どころではなく、イブン・スィーナーと彼の学派アヴィケニズムにまで遡る。対する「実存は本質に先立つ」という考えは、イブン・ルシュドやモッラー・サドラーの著書中でこの考えに対する応答として発展させられており、実存主義の鍵となる根本的な概念である。

 

モッラー・サドラーによれば、「実存は本質に先立ち、そして本質があるためには実存が先立って存在しなければならないので、実存は原理である。」 このことは、第一にモッラー・サドラーの超越論的神智学の中核に据えられた主張である。サイード・ジャラル・アシュティヤーニーは、後にモッラー・サドラーの思想を要約して以下のように述べた。

 

「実存は本質を有するなら、引き起こされて純粋な実存でなければならない。それゆえ実存は必要な存在である。」

存在論(あるいは存在神学)の、つまりハイデッガーの思想や形而上学史批判による比較を経由した研究の現象学的方法の術語において、イスラーム哲学者(および神学者)に関する思想の術語でより繊細なアプローチが必要とされた。

 

論理学

ガザーリーの論理学と、11世紀のマドラサの学習計画との首尾よくいった統合によって、論理学、主にイブン・スィーナーの論理学を重視した活動が盛んになった。

 

イブン・ハズム(994 - 1064年)は、著書『論理学の射程』で知識の源泉としての知覚の重要性を強調した。ガザーリー(アルガゼル・1058–1111年)は、カラームにおいてイブン・スィーナー論理学を用い、神学における論理学の使用に対して重要な影響を及ぼした。

 

ファフルッディーン・アル=ラーズィー・アモーリー(b. 1149)は、アリストテレスの「三段論法第一格」を批判して、ある種の帰納論理を構築した。これは、後にジョン・スチュアート・ミル(1806 - 1873年)が発展させた帰納論理を予示するものである。イスラーム哲学の論理学では、論理哲学の思索の歴史の中で重要な革新である「確実的必要性」という概念を発展させたシャハブッディーン・スフラワルディーが始めた照明学派が、ギリシア論理学に対する包括的な論駁を行った。イブン・タイミーヤ(1263 - 1328年)が、ギリシア論理学に対するもう一つの包括的な論駁を行っている。『ギリシア論理学者に対する論駁』(Ar-Radd 'ala al-Mantiqiyyin)において、三段論法に関して妥当性には異論はないが有用性がないと主張して、帰納的推論の方を好んでいる。

 

歴史哲学

歴史学を主題とする最初の研究と、歴史学研究法に対する最初の批判的考察はアラブ人でアシュアリー派の博学者イブン・ハルドゥーン(1332 - 1406年)の作品に現れる。彼は、特に『歴史序説』(「プロレゴメナ Prolegomena」とラテン語訳される)と『助言の書』(Kitab al-Ibar)を書いたことで、歴史学、文化史、歴史哲学の父とされる。また、彼の『歴史序説』によって歴史上の主権国家、コミュニケーション、プロパガンダ、組織的バイアスの研究の基礎が築かれていて、彼は文明の盛衰を論じている。

 

フランツ・ローゼンタールは著書『ムスリム歴史学の歴史』で、以下のように述べている:

 

「ムスリム歴史学は、歴史的にイスラーム圏の学問一般の発展と密接に結び付いてきた。イスラーム圏の教育における歴史的知識の地位は、歴史に関する文献の知的レベルに決定的な影響を及ぼしてきた。

ムスリムは歴史の社会学的理解と歴史学の体系化において、歴史の文献の中で一定の成果を上げてきた。近代歴史学的文献の発展は、それによって17世紀以降の西洋の歴史家が異文化の目を通して、世界の広い領域を見ることができるようになったところのムスリムの著作の利用を通じて、速度と内容において相当に進んできた。間接的にムスリム歴史学によってある程度今日の歴史思想が形作られた。」

 

社会哲学

最も有名な社会哲学者は、アシュアリー派の博学者イブン・ハルドゥーン(1332 - 1406年)で、彼は北アフリカでは最後の有名なイスラーム哲学者である。彼の『歴史序説』では、構造的結束性や社会的軋轢の理論を定式化する上で、先駆的な社会哲学の理論が発展させられている。

 

また、『歴史序説』は、7巻からなら普遍史の分析の序論でもある。彼は社会学、歴史学、歴史哲学の話題を初めて詳細に論じたため、「社会学の父」、「歴史学の父」、そして「歴史哲学の父」である。

2025/06/19

平安京(1)

平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、日本における古代最後の宮都。794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都。

 

桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の長安城を模して793年(延暦12年)から建設された。翌794年(延暦13年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。

 

遷都以来、平清盛により断行された福原遷都(1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って都として機能し、1869年(明治2年)まで続いた。今日の京都市街が形成されるに至る。

 

概要

建造地の選定、範囲、都市計画

新都建設地の選定にひそかに入った桓武天皇は、792年(延暦11年)1月そして5月、狩猟をよそおって、候補地の一つであった山背国葛野郡宇太村を訪れた。さらに翌793年(延暦12年)には、大納言の藤原小黒麻呂や左大弁の紀古佐美らも派遣し、同地を確認・検討させた。その結果ここが建設地と決まり、新都市建設計画、遷都計画が動き出し、と同時に長岡京の取り壊しが始まった。

 

当時の山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地(結果として、現在の京都市街となった地)に東西4.5 km、南北5.2 kmの長方形の都城として計画された。

 

平安京の計画の大枠(平面計画)は、基本的に中国の隋・唐の長安城を手本としたものであり、またやはり長安を模した日本の平城京・長岡京を踏襲したものでもある。都市全体が四角形で、左右対称で、街路が「碁盤の目」状に整然と直交するように設けられ、市街の中心に朱雀大路を南北方向に配置し、政治の中心となる大内裏は朱雀大路の北、都の北辺に設けられた(「北闕型」)。

 

朱雀大路によって分けられた京域の東西を、それぞれ左京・右京と呼んだ(「左・右」はあくまで内裏側から見ての左右である)。また、後には大内裏の南を東西に走る二条大路の北を「上辺」(かみのわたり)、南を「下辺」(しものわたり)、さらには「上京」(かみぎょう)、南を「下京」(しもぎょう)と呼ぶようになり、これが地形も相俟って現代の京都で北に行くことを「上ル」、南に行くことを「下ル」と呼ぶことに繋がる。手本となった長安城は羅城(=都市を囲む城壁)で囲まれていたのに対して、平安京では京域南辺の入り口である羅城門の左右の短い部分を除き、羅城は造られなかったと考えられている。

 

この地の選定は、中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。この四神とは北・玄武、東・青龍、西・白虎、南・朱雀の霊獣をいうが、選地にあたりこれを「山」「川」「道」「沢」に当てはめ、それぞれを船岡山、鴨川、山陰道、巨椋池といった具体的な地物に擬したというものである。この考えは通説となっているものの、現在では否定する研究者も少なくない。それは、平安京が四神相応の地として造られたことが平城京とは異なり不明である上に、四神を山川道沢とするのは宅地の風水に見られる考え方で、本来都市の風水でもって占地すべき都の四神とは別のものであることなどを理由とするものである。

 

平安京の範囲は、現代の京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地は、JR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。

 

京内は東西南北に走る大路・小路によって、40丈(約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町には、それぞれ番号が付けられていた(『条坊制』。これにより、それぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため、街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。

 

道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても、造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった。また、堀川小路と西堀川小路では、中央に川(堀川、西堀川)が流れていた。

 

宮城の平安宮

平安京の北部中央には、天皇が身を置き、まつりごとが行なわれる施設群となる宮城(大内裏)の平安宮が建造された。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(「朝堂院」、朝堂院の正殿が「大極殿」)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立った。

 

なおそれらは、平安京の衰微とともに、太政官庁など大内霊場(おおうちれいじょう)と呼ばれた4つの建物を残して荒廃し、後にこれらも倒壊して遂に当時の大内裏を偲ばせるものはすべて無くなってしまった。ただし、新たな内裏である京都御所が建設されるとこれを平安宮と称するなど、その名が完全に忘れ去られることはなかった。

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(6)

ユダヤ人における影響

同時代のマイモニデスは、イブン・ルシュドの作品を熱狂的に受け入れた初期のユダヤ人学者の一人で

「イブン・ルシュドがアリストテレスの作品について書いたものをすべて受け取った」、「イブン・ルシュドは極めて正しい」

と述べた。また

「アリストテレスは難解であり、それを理解するにはアレクサンドロスかテミスティオス、あるいはイブン・ルシュドの註解によらなければならないと」

と述べた。

 

サムエル・イブン・ティッボーンは『哲学者の意見』において、ユダ・イブン・ソロモン・コーヘンは『知恵を探求』において、シェームトーヴ・イブン・ファラクェラなど13世紀のユダヤ人思想家は、イブン・ルシュドのテキストに大きく依存していた。

 

1232年、ヨセフ・ベン・アッバ・マリがイブン・ルシュドのオルガノン註解を翻訳した。これがユダヤ人による最初の翻訳である。1260年、モーセ・イブン・ティッボーンが、イブン・ルシュドのほとんどの註解といくつかの医学書を翻訳した。ユダヤにおけるアヴェロエズムは、14世紀にピークを迎えた。これらの翻訳に影響を受けたユダヤ人には、アルルのカロニュモス・ベン・カロニュモス、マルセイユのサムエル・ベン・ユダ、アルドのトドロス・トドロスィ、ラングドックのゲルソニデスがいる。

 

西欧における影響

キリスト教圏西欧での主な影響は、アリストテレスの広範な彼の解説によるものであった。西ローマ帝国崩壊後、西ヨーロッパは文化の衰退に陥り、アリストテレスを含む古典的なギリシャ人の知的遺産のほとんどが失われた。13世紀に翻訳されたイブン・ルシュドの註解は、アリストテレスの専門的な説明を提供し、再びアリストテレスの利用を可能とした。イブン・ルシュドは、その影響の大きさから名前ではなく、単に「注釈者」(Commentator)と呼ばれた。

 

1217年にパリとトレドで始まったラテン語訳の最初の語訳者ミカエル・スコトゥスは、自然学、形而上学、霊魂論、天体論の各大註解を翻訳した。これに続いてヘルマンヌス・アレマンヌス、ルナのウィリアム、モンテペリエのアルマンゴーなどが、時にはユダヤ人の助けを借りて他の作品を翻訳した。その後、まもなくキリスト教徒の学者の間に広まった。それらは、ラテン・アヴェロイストとして知られる強固なサークルを引き付けた。パリとパドヴァはアヴェロイズムの主要な中心地であり、13世紀の主要な人物としてブラバンのシゲルスやダキアのボエティウスがいた。

 

ローマ・カトリック教会は、アヴェロイズムの蔓延に反対した。1270年、パリ司教エティエンヌ・タンピエは、15の教説に対して教会の教義と反していると非難した。1277年、教皇ヨハネス21世の依頼によってタンピエは別に非難を発し、アリストテレスとアヴェロエスの教説から219の論説を対象とした。

 

13世紀の主要なカトリック教会の思想家トマス・アクィナスは、アヴェロエスのアリストテレス解釈に大いに頼っていたが、多くの点で彼に反対した。例えば知性単一論に対して詳細な反論を書いた(『知性単一論(フランス語版)』)。また、宇宙の永遠性と神の摂理についても反対した。

 

1270年と1277年のカトリック教会の非難とトマス・アクィナスの反駁は、ラテン・キリスト教世界においてアヴェロイズムの広がりを弱めたが、影響はヨーロッパがアリストテレス主義から脱却し始める16世紀まで続いた。14世紀にはジャンダンのヨハネス、パドゥアのマルシリウス、15世紀ティエネのガエターノ、ポンポナッツィのピエトロ、16世紀マルカントニオ・ツィマラなどのアヴェロイストが存在した。

 

イスラム圏における影響

イブン・ルシュドは、現代に至るまでイスラームの哲学的思想に大きな影響を与えなかった。理由の一つとして地理があり、イブン・ルシュドはイスラーム文明の最西端であるイベリアに住んでいた。また彼の作品は、東方のイスラーム教学者には知られていなかったのかもしれない。しかし、イブン・ハルドゥーンと彼の師アービリーはそれを知っており、一部その注釈を書いた。19世紀になり、イスラーム思想家は再びイブン・ルシュドと関わり始めた。アン・ナフダ(an-Nahda覚醒)と呼ばれる文化的ルネッサンスがあり、イブン・ルシュドの作品はイスラーム教徒の知的伝統を近代化するためのインスピレーションと見なされた。

 

一般文化における影響

1320年に完成したダンテ・アリギエリの『神曲』において、辺獄に古代ギリシア人およびイスラーム思想家の中にイブン・ルシュドを描写している。チョーサーの『カンタベリー物語』のプロローグでは、当時知られていた医家のリストのなかにイブン・スィーナーやアッラーズィーとともに彼の名がある。また、ヴァチカン宮殿を飾るラファエロのフレスコ画「アテナイの学堂」には、その姿が描かれている。ユーセフ・シャヒーンによる1997年のエジプト・フランス映画『Destiny』(邦題炎のアンダルシア)は、イブン・ルシュド死後800年を記念して作られた。

 

スターフルーツやビリムビを含む植物類名である″アヴェロア”(Averrhoa)、月面クレーター"ibn Rushd"、小惑星"8318Averroes"は、彼の名にちなんで名づけられた。