2018/12/11

原始仏教の教理(釈迦の思想11)

出典 http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch1

4. 涅槃
業・輪廻の思想によって、涅槃観も変化した。当初、涅槃は現世において到達されるものと考えられていた。しかし、業・輪廻の思想からいえば、涅槃は輪廻からの解脱を意味し、たとえこの世において涅槃に達したとしても、なお前世の業の果報としての身体は消滅していないから、真の意味の「消滅」とはみなされず、死において初めて実現されると考えられるにいたる。涅槃は死と強く結びつけられるようになった。そして、原始仏教の末期には現世において得られる「心身の残余のある涅槃」(有余依涅槃)と煩悩も身体もまったく消滅した死後の「心身の残余のない涅槃」(無余依涅槃)の二種に分けられるようになった。

5. 教理(1)ーー縁起(十二支縁起)
仏教の根本教義は、縁起説である。原始仏典の古い層には、一定の形式をもった縁起説は現れない。苦しみを生み出す因果の系列について、さまざまな項目を立てた説が現れる。しかし、漠然とした縁起説は徐々に整備されていき形式化された。そして、完成されたのが十二の項目からなる十二支縁起(十二因縁)の説で、古来仏教の根本教義として尊重されてきたものである。

 十二の項目とは
①根源的な無知(無明)、②生活行為(行)、③認識作用(識)、 ④心と物(名色)、⑤六つの感覚機能(六処)、⑥対象との接触(触)、⑦感受(受)、⑧本能的な欲望(渇愛)、⑨執着(取)、⑩生存(有)、⑪誕生(生)、 ⑫老いと死(老死)である。

十二番目の項目「老いと死」には「愁い(愁)、悲しみ(悲)、苦しみ(苦)、憂い(憂)、悩み(悩)」が加えられることがある。「老いと死」が苦しみの代表とされているのである。
これによって「老いと死」に象徴されるこの世の苦しみが、いかにして生ずるかが明らかにされる。それと同時に、その根源を「根源的な無知」からはじめて順に滅すれば、苦しみが消滅できることを説き示している。

ところで、十二縁起を説く、初めの部分に「これあればかれあり。これ生ずればかれ生ず。これなければかれなし。これ滅すればかれ滅す。」という定型表現が加えられることがある。 これは、遅れて成立したものであることが定説となっているが、ここには明らかに縁起が一般化され、現象世界の法則性と見なされる傾向が認められる。現象するものは、すべてもろもろの原因・条件が集まって現れてくるという見方である。現象するものが他のものへの依存関係において成立するという見方は無我説に影響を及ぼし、さらに後の空の思想の論理的な根拠となった。

6. 教理(2)ーー四諦・八正道
伝統的な解釈によれば、縁起はブッダが菩提樹の下で悟りを得たとき、禅定の中で観察したものである。いわば、ブッダみずからが苦しみについて理解するためになされた考察である。これに対し、縁起説を他人のためにわかりやすく説き示したのが、四諦・八正道であるとされる。

四諦(cattāri saccāni)とは「四つの真理」のことで、しばしば神聖なものとして四聖諦(cattāri āriya-saccāni)、すなわち「四つの聖なる真理」といわれる。

縁起説と同じく、これも初めから定型的に説かれていたわけではないが、ごく早い時期に形式化された。すでに『ダンマパダ』百九十、百九十一偈に出る。

「四つの真理」とは、
(一)現実が苦しみであること、(二)それには原因があること、(三)苦しみの止滅、(四)その止滅へいたる道のことである。定型的な表現によれば、次の四つである。

      1. 苦についての聖なる真理(苦聖諦)
      2. 苦の起因についての聖なる真理(苦集諦)
      3. 苦の止滅についての聖なる真理(苦滅諦) 
      4. 苦の止滅にいたる道についての聖なる真理(苦滅道諦)

これらはしばしば略して、「苦・集・滅・道」といわれる。

八正道」あるいは「八聖道」は、苦しみの止滅にいたる道を具体的に説いたもので、八つの正しい生活法・実践法である。八つとは正しい見解(正見)・正しい意志(正思)・正しいことば(正語)・正しい行い(正業)・正しい生活(正命)・正しい努力(正精進)・正しい意識(正念)・正しい精神統一(正定)である。

7. 教理(3)ーー無常・苦・無我
ブッダの教えを簡略にまとめたものとして、無常・苦・無我が説かれることもある。これは「現象世界の三つの特徴」(tilakkhaNa)と呼ばれる。この我々の生きている世界を、どのようなものとしてみるかという問いに対するブッダの解答である。

『ダンマパダ』 277-279偈は、これを次のように説く。

「すべての形成されたるものは無常なり」と智慧によりて見るとき、人は苦しみを厭い離る。これ清浄に至る道なり
 
「すべての形成されたるものは苦しみなり」と智慧によりて見るとき、人は苦しみを厭い離る。これ清浄に至る道なり

「すべての事物は我ならざるものなり」と智慧によりて見るとき、人は苦しみを厭い離る。これ清浄に至る道なり (藤田宏達訳)

8. 四法印・三法印
漢訳仏典では、三特相を諸行無常・一切皆苦・諸法無我と訳す。これに涅槃寂静を加えて、四法印とする。また、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三句を「三法印」と呼ぶ。「法印」とは法すなわち教えの要約の意味である。

諸行無常」は、『平家物語』の冒頭に現れることから、よく知られている。「諸行」とは現象するすべてのもののことである。現象するものは、すべて生成消滅し、永遠不変ではありえないことを説く。

一切皆苦」とは、すべてのものが苦しみであるというのであるが、それは次の理由による。

「楽も、苦も、楽でも苦でもないものも、内面的なものであれ、外面的なものであれ、感受されるものは何でも、すべて消滅し、虚ろなものとなる。それ故、あらゆるものが苦しみ以外の何ものでもない」(Sn.738,739.)

すなわち、あらゆるものは楽・苦・不苦不楽の三種に分けられるが、楽も壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れないので苦となるから、苦ではないものは何もない。したがって「一切皆苦」であるというのである。

諸法無我」は、仏教の人間観、世界観とかかわるので、解説が必要である。

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