2018/12/27

アレクサンドロスの東方遠征(1)


出典 http://timeway.vivian.jp/index.html

ギリシアの北方にマケドニアという国があった。

バルカン半島の南端、アテネなどのポリスがたくさんあるこの地域が先進地域とすると、このマケドニアは後進地域です。

マケドニア人はギリシア人の一派なのですが、アテネなどギリシアの中心部の人々と比べて大分なまりがあったみたいで、彼らからはバルバロイ(汚い言葉を話す者達)と呼ばれて軽蔑されていた。野蛮人とされていたんだね。平安時代の近畿圏の人たちが東北地方の人々を「蝦夷」として、自分たちとは別の人々と考えていたようなものですね。
さらにマケドニア人はポリスを形成していなくて、王のもとに貴族層が支配者層になっていました。そういう意味でも遅れた地方と見なされていた。

ところがこのマケドニア、南方の先進地域が指導権争いで衰退していく間にどんどん力をつけてきたんです。マケドニアを一大強国に発展させたのが、フィリッポス2世(位前359~前336)。彼は、若いときにテーベに人質になっていたことがある。ちょうどエパミノンダスが斜線陣でスパルタを破り覇権を握った頃です。

重装歩兵の戦術をじっくりと身につけて、マケドニアで王位に就いた。マケドニアの軍制は貴族の騎兵が中心だったのですが農民を重装歩兵にして、フィリッポスは軍制改革を成功させ、王権も強化します。そして、相変わらずポリス間の対立抗争が続くギリシア本土に進出しました。

  アテネ・テーベ連合軍がマケドニア軍を迎え撃ったのが前338年、カイロネイアの戦い。結局マケドニアが勝って、ギリシアのポリス世界はその支配下に入りました。

独立を失った諸ポリスの人々はどう考えたかというと、親マケドニア派と反マケドニア派があったんです。あくまでも独立と民主政の伝統を守ろうという人々は反マケドニア。ポリス間の長い抗争にうんざりしていた人々は親マケドニアですね。親マケドニア派は、さらにマケドニアを押し立ててペルシアに対する報復戦争を考えていたようです。

こういう情勢の中で、前336年フィリッポス2世は暗殺されます。40代半ばでまだまだこれからの年齢ですね。背後関係はよく分かっていません。

反マケドニア派にとっては、こんなチャンスはありません。独立を回復するには、フィリッポスの死ほどありがたいものはない。なにしろ、マケドニアはフィリッポス一代で強国に成り上がったんだから、彼さえいなければマケドニアの支配はすぐに崩れるだろうと考えたんだね。フィリッポスには息子がいたけれど、まだ20歳です。こんな若者にフィリッポスの跡を継げるわけがないというのが、まあ常識的な考えだろう。

  ところが、この20歳の跡継ぎがアレクサンドロスだったんです。英語ではアレキサンダーと呼ばれます。聞いたことあるでしょ。

アレクサンドロスは王位を継ぐと、すぐさまマケドニア軍を掌握し、独立を企てたポリスを制圧しました。その上で、アレクサンドロスは全ギリシアの盟主にして、対ペルシア戦最高司令官になります。ギリシアを固めてから彼がおこなったのが有名な東方遠征です。

アレクサンドロスは英雄だからね、いろいろな伝説がある。どこまで本当か分からない逸話もたくさんあるんですが、こんな話がある。

いろいろ準備を整えて東方遠征に出かけるときに、宴会をするんだ。出陣式だな。アレクサンドロスは22歳です。まだまだ若い。今なら大学4年生。若い仲間の貴族もたくさんいる。マケドニアは王と貴族の間が、そんなに遠くない。貴族の第一人者が王という感じです。ギリシア人の人間関係は上下関係より横関係の方が強い。だから、王も若い貴族達も仲間同士的な感じで、わいわいやって盛り上がったんだろう。

このときアレクサンドロスは、自分の財産をほいほい仲間達に分けてしまうんです。森林や領地をね。あんまり、気前よく財産を分けて、アレクサンドロス自身の持ち物がなくなってしまったので、ペルディッカスという貴族が王にたずねた。

「王よ、あなたには何も残らないのではないですか?」

それに対してアレクサンドロスが言ったという台詞(せりふ)。

「私には希望がある。」

かっこよすぎる。

父王フィリッポスがマケドニアの勢力を伸ばして、ギリシア全土を制圧していくときにアレクサンドロスが仲間に言ったという言葉。

「困ったものだ。父上が何もかもなされてしまっては、我々のやることがなくなってしまう。」

東方遠征というのは具体的にはペルシア遠征なんですが、これは彼の父フィリッポスがすでに計画をしていたものです。これは、息子に残されたというわけだ。

  前334年、アレクサンドロスは東方遠征に出発。率いるギリシア軍は騎兵、歩兵あわせて約4万。このとき兵糧は30日分しかなかったというから、絶対勝って軍資金や食糧は現地調達するつもりだったんです。

ヨーロッパとアジアを分けるダーダネルス海峡を渡って、まず最初の会戦。グラニコス河畔の戦いといいます。このときのペルシア軍も、だいたい4万くらいです。ここでアレクサンドロスは軽く敵を蹴散らして、途中の都市を制圧しながらメソポタミア地方に向かいます。

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