2018/12/03

アレクサンドロス3世(3)


マケドニア軍の強さ
純朴で質素な生活を営んでいたマケドニア人は苦難に耐える良い兵士であり、ギリシア南部の諸ポリスで伝統的であったファランクスの軽装化と盾の廃止による長槍の長大化、それに対応した編成に改良を加えたマケドニア軍は、当時の地中海世界において精強な軍隊であり、各々の将兵は軍務に誇りを持つ練達の兵士であった。

また、アレクサンドロスは、状況に応じて異なった兵種を組み合わせて即座に混成部隊を編成し、敵がどのような軍隊であっても柔軟に対応することができた。例えば、遊牧民スキタイとの戦いでは、敵のヒット・アンド・アウェイ戦法に対し、投槍騎兵と軽装歩兵の混成部隊を用いてこれを敗走させた。有能な戦術家でもあるアレクサンドロスに指揮されたマケドニア軍は、当時世界最強の軍隊であった。

戦術家としてだけではなく、アレクサンドロスは戦士としても有能であった。アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵と共に戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった(古代ギリシアにおいて司令官は後ろの安全な場所にいるのではなく、自ら剣戟に身をさらして戦う習慣があったため、これは取り立てて特別なこととは言えない)。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。

このようなマケドニア遠征軍に対しペルシア軍は大軍を動員したが、当時は利害が絡み合う各国傭兵による混成軍であったことから士気が低く、相互に連携した行動を取る修練も欠いていた。このため、継戦能力が乏しく、敗走を開始すると建て直しが困難であった。

アレクサンドロス暗殺計画
東方遠征中、酒に毒が盛られているのにアレクサンドロスが気付いたことにより、若手将校らによるアレクサンドロス暗殺計画が発覚したとされるが、記録によって事態経過の記述が全くバラバラかつ曖昧である。首謀者の1人として、司令官の1人フィロタスの名前が挙がった。フィロタスは無実(パルメニオンを筆頭とする旧臣とアレクサンドロスの亀裂により、近衛兵を率いるフィロタスの粛清劇を招いたという説が有力)を主張するが、彼の義兄弟らが拷問の末に自白したため、有罪の判決が下りフィロタスは処刑された。

死後の伝承
アラビア語やペルシア語では、アレクサンドロスはイスカンダルの名前で知られる。アレクサンドロス3世の勇猛は、イスラーム世界に一種の英雄伝説となって語り伝えられた。中東における伝承ではアレクサンドロスには2つの角があるとされ、イスカンダル双角王(イスカンダル・ズルカルナイン)の名で知られた。また、東南アジアにイスカンダルという男性名があるのは、イスラーム教の東進によってこの英雄伝説が広まった結果である。アレクサンドロス・ロマンスの広まった範囲は、ギリシア文化を受け継いだヨーロッパやイスラーム世界のみならず、断片的に中国やエチオピアにまで広がっている。

イスカンダル (: اسكندر, Iskandar) は、古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王を指すアラビア語・ペルシア語の人名である。もともとは Aliskandar であったが、語頭のal-が定冠詞と勘違いされ( الإسكندر al-iskandar)、اسكندر Iskandar と呼ばれるようになった(言語学では「異分析」という)。ただし、現在でもアラビア語では定冠詞をつけて al-Iskandar と言うのが普通である。ksが入れ替わった(「音位転換」という)理由は不明である。

これらイスラーム世界でのイスカンダル像は、主に『偽カリステネスのアレクサンドロス物語』といったアレクサンドリア発祥の空想譚を起源とし、それにアッバース朝時代の翻訳運動などで流入したシリア、エジプトなどでのアレクサンドロス伝承などから、イラン世界におけるアレクサンドロス3世の支配を歴史的に整合性をつけようとしたものであった。

文学では、フェルドウスィーやニザーミーといった著名な作家たちが、韻文や散文による『イスカンダル・ナーマ』(アレクサンドロスの書)を著している。これらの作品では、イスカンダルとアリストテレスが理想的な「君主と宰相」像として描かれている。

また、アレクサンドロスに由来する中東の都市名は、それぞれアレクサンドリアはアル・イスカンダリーヤ、アレクサンドレッタはイスカンダルーン(トルコ語ではイスケンデルン)と呼ばれる。

 イスラム教の東進に伴い、東南アジアでも一般的な男性名となっており、歴史上でもマラッカ国王イスカンダル・シャー(在位1414-1424年)、 アチェ国王イスカンダル・ムダ(在位:1607-1636年)らがいる。シンガポール近くのジョホールバル南部開発地区の名前であるイスカンダル・マレーシアは、開発開始当時のジョホールのスルタン、イスカンダル・イブニ・スルタン・イスマイルの名前に因んでいる。

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ブケパロス
王子時代に、ブケパロスという馬がペラの王宮に連れてこられた。気性が荒々しく誰も乗りこなすことができなかったが、アレクサンドロスはブケパロスが自分の影に怯えているのに気付き、馬の向きを変えて見事に乗りこなした。それを見た父のピリッポス2世は、満足と恐れを同時に抱き「そなたは自分の王国を探すがよい」と言ったという。

決して負けない人
アレクサンドロスは、アジアへの遠征に先立って神託を求めて神託所に行った。そのとき神託所は休業日だったが、アレクサンドロスは強引に神託を求め続けた。うんざりした巫女が「あなたは決して負けない人だ」とこぼすと、彼は満足して立ち去った。

ディオゲネス
コリントスにシノペのディオゲネスという賢者がおり、いつも裸で樽に暮らしていたが、本人は人生に至極満足していた。ある日、ひなたぼっこを楽しんでいたディオゲネスを訪ねたアレクサンドロスは、彼に「望むものがあるならば全て叶える」と問うたが、答えは「日陰になるからそこをどいてくれ」というものだった。アレクサンドロスは「もし私がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と語ったという。
出典 Wikipedia

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