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日中の徐福伝説
さて、徐福は東の果てにある「蓬莱」を目指したとされているが、中国大陸の東には東シナ海が横たわり、その先にあるのは日本である。このため徐福は日本に辿り着き、そこで王国を築く、つまり日本人の祖となったという伝説がある。これは日本でも中国でも知られる伝説である。
もちろん、日本に到達する前に遭難してしまったかもしれないし、到達した先が朝鮮半島や台湾だったかもしれないし、単に始皇帝を騙してどこかに雲隠れしただけかもしれない。しかし、もしこの日本到達が事実であれば、『魏志倭人伝』(3世紀成立)よりも古い、最古の日本に関する記述になるかもしれないのだ。
中国の近現代の歴史学界では、正史とされている『史記』の記述でありながら、その記述が簡潔すぎるということから実在を疑われていたという。しかし1982年、研究者が江蘇省にある「徐阜村」という集落が、かつて「徐福村」であったことを発見、調べてみるとそこは徐氏の末裔が住む村であったことがわかり、徐福の存在が実在のものであった可能性が高くなった。
この「徐氏の末裔」とかも自称してるだけかもしれないし、村おこしの話題作りに捏造したものかもしれないが、いずれにせよこの発見で徐福に関する研究や論争が闊達になったことは事実のようである。
一方の到達地とされる日本では、紀元前3世紀の史料などまったくないため、徐福が実際に来たかどうかすらわかっていない。しかし日本各地に徐福が来たという伝説の残る地が多数あり、北は青森、南は鹿児島、さらには八丈島にも徐福伝説が残っている。浦島太郎伝説といい勝負である。
また、日本には「秦(はた)」という苗字があるが、これの由来のひとつに徐福末裔説がある(ほかにも始皇帝末裔・朝鮮王家末裔など諸説ある)。
盧生
徐福と同じように、始皇帝に仕えて不老不死の薬を探した方士として盧生という人物がいる。
紀元前215年、始皇帝が四度目の巡幸の時に、かつての燕の国があった渤海(ボッカイ)に面した碣石(ケツセキ)の地を訪れた時、盧生は始皇帝に謁見して、渤海の彼方にいる羨門高(セイモンコウ)という名の仙人がいると説いた。その仙人に、不老不死の薬を譲り渡してもらおうということである。
始皇帝からの支援を受けて、盧生は渤海に行くことになった。始皇帝はまた、韓終(カンシュウ)、侯公、石生という方士にも仙人を探させ、不老不死の薬を求めるようにさせた。
盧生は、始皇帝が巡幸からもどり都である咸陽(カンヨウ)に着いた時に、海に住む鬼神から手にいれたと称する書物を献上する。
『禄図書(ろくとしょ)』という名のその書物は、いわゆる預言書であった。どこまで信じたか分からないが、始皇帝が『禄図書』を読むと、「亡秦者胡也」(秦を亡ぼすものは胡である)と記されていた。
そこで、始皇帝は「胡」すなわち、北の匈奴への侵攻を決め、将軍の蒙恬(モウテン)に匈奴への攻撃を命じたと伝えられる。
もっとも、始皇帝は翌年には「胡」とは呼ばれない南方の「百越」の国を攻めていることから、きっかけの一つにはなったかもしれないが、元々から匈奴への侵攻は構想にいれていたという説が有力であることはおさえておきたい。
結局、盧生は始皇帝に召し抱えられることになり、秦の学者であり、始皇帝の顧問ともいえる学者である「博士」の一人に命じられることになった。それから、盧生は始皇帝に仕える方士の代表的な存在となったようである。
紀元前212年、盧生は、相変わらず不老不死を求める始皇帝に、このような話を語った。
「私たちは不老不死の薬を探していますが、見つけることができないままです。どうやら、鬼神がさまたげているようです。方術では
『王は時おり、こっそり外出してみつからないようして悪鬼をしりぞけろ。悪鬼がしりぞければ、真人(しんじん)が来る。王の居場所を臣下が知れば、神霊にさしさわりがある』といいます。
真人は、水に入ってもぬれず、火に入っても焼けず、天地とともに永遠に生きるものです。主上(始皇帝)は天下を統一されたものの、無欲平穏の境地には達せられておりません。
どうか、主上がおいでになる宮殿を臣下に知られないようにしてください。そうすれば、不老不死の薬は手に入るでしょう」
海を探しても仙人に会うことができないことが分かった盧生は、いにしえから伝わる真人の降臨を願って、そこから不老不死の薬を手にいれようとしたらしい。あるいは、元々から伝わっている真人の話にすりかえて、不老不死の薬が見つからないことで、罰せられないように時間稼ぎをしようとしたのかもしれない。
不老不死の薬を手にいれることに焦る始皇帝は、この盧生の言葉にまどわされた。
「真人がしたわしい。これからは、わしは自分のことを(皇帝の自称である)『朕』と呼ばずに、『真人』と自称するようにしよう」
と言い、悪鬼をさけるため、宮殿を改築し、咸陽城の周囲200里にある宮殿や楼閣あわせて270棟を、壁で目隠しした通路でつなぎ、休憩所や始皇帝を楽しませる音楽や美女を各所に配置して、持ち場から移動しないようにさせて、始皇帝の居場所が分からないようにさせた。
さらに、法令まで変えて、皇帝の外出の時に居場所を教えたものは死刑と定めた。
始皇帝の言葉を、丞相(じょうしょう、宰相のこと)である李斯(リシ)に漏らした側近がいた。訊問したが誰も自白しなかったため、その時、近くにいた側近全てが処刑された。
あまりの始皇帝の傾倒ぶりに、盧生は真人が訪れなかった時のことを恐れるようになった。方術にききめがなければ、秦の法律では死刑である。
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