2021/04/02

天照大神説 ~ 卑弥呼(4)

人物比定

卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。

 

卑弥呼の死去年は、中国史料から西暦247年頃と推定されているので、卑弥呼の倭国統治時期は3世紀前半であった。この時期は、近畿のヤマト王権では崇神天皇の12代前の王者が統治していた。

 

天照大神説

中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。しかし『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している(実際は誤り)。

 

また百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分は、ほぼ日本書紀の記述どおりである。また卑弥呼が魏の国に対して軍の派遣を要請した行為は国家反逆罪に問われるものであり、そのために日本書紀では詳細が記述されなかったと考える説も存在する。

 

アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

 

卑弥呼の没したとされる近辺に、247324日と24895日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが、北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては、近年異論も提出されている。

 

安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方、スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。

 

ただし、安本の計算する平均在位年数は生物学的に無理があるほど短く、計算にあたって引用した数値の選択にも疑問があり、また多くの古代氏族に伝わる系図の世代数を無視したものとの指摘がある。

 

魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)は、アマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後、男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは、後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみに、ヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

 

安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている。

 

また、卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある。卑弥呼は倭国大乱という激しい争いの後、共立されて女王となったが、一方で、天照大御神も国産みをしたイザナギ・イザナミの激しい争いの後、イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。

 

日本書記の一説では、イザナギ・イザナミの協力によって日の神「大日孁貴」が誕生している。 魏志では、邪馬台国の支配地域は、『女王國以北』・『周旋可五千餘里』と記述されており、短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる。そのため、「熊襲・出雲国」は支配地域外と考えられ、卑弥呼の時代背景としては天岩戸以前の時代背景となり、卑弥呼は天照大御神と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。新唐書や宋史においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている。

 

問題点

現代の神話学によると、天岩戸神話は中国西南部の少数民族や東南アジアの日食神話(太陽と月と悪い弟が3兄弟だとする)と同系のバリエーションである。この説には、以下のような難点がある。

 

第一に、天照大神の神話を歴史とみる以上、天照大神と大和朝廷をつなぐ神話をも歴史とみざるをえなくなるため、神武東征伝承を邪馬台国の九州から大和への東遷を伝えたものだとする論者が必然的に多くなる。しかし九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、また国家規模での東遷が果たして可能であったのか、何故東遷する必要があったのかという疑問もある。加えて『記紀』の系譜を信じる限り、一世代を2530年として計算すると神武天皇は卑弥呼よりも遥かに古代の人物となり、系譜として繋がらない。

 

第二に「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものが、さして古いとはいえない説があり、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王が天を(倭王の)兄、日を(倭王)の弟としており(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)、倭王は日の出前に政治をして日の出になると「弟に委ねる」として退出していたとあり、もしこれが事実なら、太陽神を天皇の祖先とする記紀の伝承とまったく噛み合わないことになる。天照大神という神格は、天武天皇の時代に始まるとする説もある。

 

第三に、天照大神は本来は男性の神とする説が鎌倉時代からあり、近代になっても複数の神話学者や歴史学者らが男神説を唱えた。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「〜ノメ」を巫女とする用例がなく、根拠に乏しい(津田左右吉によれば、ヒルメのメはツキヨミの「ミ」やワタツミの「ミ」と同じく神霊をあらわす言葉であって、女性の意味ではない。ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例もない)。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は、説文解字に「女字也」とのみあることから、これも誤りである。

 出典 Wikipedia

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