2021/04/30

韓非子(3)

出典https://www.taikutsu-breaking.com/

 

人は損得によってのみ動く

韓非はまず、人間を利己的で打算的であり、損得によってのみ動く生き物だと断言します。韓非がそう考えるに至ったのは、当時の現実をつぶさに観察したからであり、韓非子には人間の狡猾さや欺瞞についての生々しいエピソードが収録されています。

 

楚王の妾に鄭袖という女性がいました。ある時、楚王が新しい美人の妾を得ます。鄭袖は、その新しい妾に対し、

 

「王様は女性が手で口を覆う仕草が好きだから、王様に近づく時は手で口を覆うようにしなさい」

 

と教えました。

 

美人の妾は、その話を信じ始めて王とのお目見えする際に、早速その仕草を実行します。事情を知らない王が、その理由を周囲に尋ねると、鄭袖は王にこう告げました。

 

「あの女は王の匂いを嫌って、手で鼻を覆っているのです。」

 

これに無礼だぞと激怒した王は、従者に命令して美人の妾の鼻を削いでしまったのでした。(内儲説下篇)

 

背筋がゾッとするような嫉妬のお話です。ですが、ここまで過激でなくとも、

強力なライバルを蹴落とすため、権力者に嘘を吹き込んで陥れるようなやり口は、現代でもザラにあるのではないでしょうか。

 

また親子の情についても、次のようにバッサリと切り捨てます。

 

人というものは、幼児に父母におろそかにされると成長して親を怨むこととなる。成人となった子供が老いた両親をぞんざいに養うと、親は怒って子供を責める。

 

本来、子と父の仲は、利益を度外視した極めて親密な関係であるはずなのに、相手を非難したり怨んだりするのは、自分に相手が報いてくれるという打算があるからにほかならない。得をすると思えば仲よくなり、損をすると思えば、親子の間にも恨みの気持ちが生じる。(外儲説左上)

 

一般感覚としては、血の繋がり、親子の情というのは絶対的なものだと信じたくなりますが、利益によって繋がっているとする韓非子の理屈も否定しきれないのが恐い所ではあります。

 

人間を損得で動くものだと割り切る韓非。韓非子では、この理論に従って人を治める方法について説いています。

 

他人に期待しない

人が思いやりをもって、こちらのために何かしてくれるということを期待するのは危険だ。確実な事は、こちらのためにせざるをえないようにもっていくことだ。

 

君臣関係は、肉親の関係ほど緊密ではない。まっとうなやり方で身の安全が保障されるならば、臣下はそれなりに力を尽くして主人に仕えるだろうが、そうでなければ私利私欲に走り、上に取り入ろうとする。だから聡明な君主は、何が得で何が損なのかを、はっきり天下に示すのだ。(姦劫弑臣)

 

韓非子で語られるこの考えかたは、現代の経営やリーダーシップの面でも十分に通用する原理だと思います。上に立つ者が損得をはっきりさせる事は、大規模な集団、チームを纏める上では効果的な手段であると言えるでしょう。

 

君主は官爵を売り、臣下はそれに対して己の知力を売る。頼りにできるのは、自分しかない。(外儲説右下)

 

雇用主と被雇用者は、あくまでもギブ&テイクの関係であり、そこに人間的な情など介在しないという、韓非子らしい合理的でドライな考え方です。中小企業に多く見られる助け合い、家族経営の企業理念とは真っ向から対立する思考法ですね。

 

法の目的と役割について

韓非子では国を治める法律についても、興味深い洞察を提示しています。

 

法は威嚇、予防のためにある

 

韓非子では、利己的な人間をコントロールするには、法律で厳しく取り締まらねばならないと強く力説されています。

 

出来の悪い、どうしようもない子がいたとしよう。親や近所の者や先生が、いかに怒って責めて、また教え諭しても変わらず、その脛の毛ほども改めようとしない。ところが巡査が何人かを引き連れて、法律を以て悪人を摘発するという事になると、恐くなって変節し良い子になる。

 

つまり、父母の愛情など十分な教育効果はなく、お上の厳しい刑罰に待たねばならないのだ。それは、民衆は愛情に対しては図に乗ってつけあがり、威嚇にはおとなしく従うからにほかならない。(五蠹)

 

上記の論説に対しては、特に教育と父母の愛情に関して異論が多く出そうではありますが、刑罰による恐怖こそ大衆をコントロールするのに最も効果的だという考えは、無視できない説得力があるように思えます。

 

刑罰とは悪人を裁く為でなく、一般人を教化する為にある韓非子は、刑罰は重ければ重いほど良いとし、それは悪人を罰する為ではなく、犯罪者ではない一般人への見せしめとすることで、未然に犯罪を防止する為なのだと説きます。

 

政治を知らないものは、皆こう言うだろう。

 

「刑罰を重くすると、人民を傷つける。刑罰を軽くしても悪事を予防できるのに、

どうして重くする必要があるのか。」

 

これは、政治をよく分かっていない者の言葉であって、そもそも刑が軽い場合にも悪事から遠ざかるとは限らない。しかし軽い刑で悪事をやめる者は、重い場合には当然悪事には、手を出さない。したがって、お上が重い刑罰を設ければ、それによって悪事は一掃され、それがどうして民衆を傷つけることになろうか。

 

重刑は、悪人にはプラスになるところが小さく、お上が下す罰は大、民はわずかの利益のために大きな罪を犯すことはしない。悪事は必ず抑制することができるということになる。軽い刑は悪人が得る利益は大きく、お上の下す罰は小、民は利益を目当てにその罪を見くびるから、悪事は防ぎようがない。(六反)

 

これは一種の極論にも思えますが、刑罰の恐ろしさが犯罪を防ぐというのは

筋の通った理屈であります。もし、この世から刑罰がなくなって、全てを個人の善意に委ねることになれば、世の中はどうなってしまうのでしょうか。そうなれば、恐くておちおち外も出歩けない世の中になるのではないかと思います。

 

韓非子の七術

最後に、韓非子の内儲説 上に記述されている君主の用いるべき七術をご紹介します。

 

() 臣下の行動と言葉を検証して、言行の不一致がないかを判断する

() 罪には必ず罰を与えて、威厳を示す

() 功績を挙げた臣下には、然るべき褒賞を与える

() 情報は自分の耳で判断し、臣下の伝聞に頼らない

() 不可解な命令をあえて出して、臣下を動揺させそれを試す

() 知らないふりをして質問し、相手の知識や考えを観察する

() 思っていることの逆のことを言って、相手の反応を見る

 

()()までは、ここまで見てきた韓非子の考え方から自然に導き出される考えですが、()()については、より実践的なテクニックの趣が強くなっています。

 

これらのテクニックは、現代の人間関係でも有用であり、ここにも韓非子の持つ普遍性の高さが見受けられます。

 

人の上に立つ者の知恵としては、帝王学にも通じるところがありますね。

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