2023/11/08

唐(1)

唐(とう、拼音: Táng618 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。

 

歴史

建国

西晋の滅亡以来、中国は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝隋の文帝により、589年に再統一が為された。文帝は内政面でも律令の制定・三省六部を頂点とする官制改革・郡を廃止して州県制を導入・科挙制度の創設など多数の改革を行った。

 

604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広(煬帝)が後を継ぐ。煬帝は大運河・洛陽新城などの大規模土木工事を完成させた。さらに612年から3年連続で高句麗に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる(隋の高句麗遠征)。その最中の613年に起きた楊玄感の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発、大小200の勢力が相争う内乱状態となった(隋末唐初)。

 

国内の混乱が激しくなる中、北の東突厥に面する太原の留守とされていた唐国公李淵は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、すぐに大興城(長安)を陥落させることに成功。煬帝を太上皇帝に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である楊侑を傀儡の皇帝に立てた、この時、煬帝は江都(揚州)で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に宇文化及を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された。

 

同年、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位。武徳と元号を改め、唐を建国した。この時点で王世充・李密・竇建徳・劉武周など各地に群雄が割拠していた。李淵(以下高祖とする)は長男の李建成を皇太子とし、次男の李世民を尚書令として、各地の群雄討伐に向かわせた。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた。

 

抜群の功績を挙げた李世民は、皇太子である李建成および四男の李元吉と後継の座を巡って対立するようになるが、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった。626年、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し(玄武門の変)、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗)。

 

貞観の治

帝位を継いだ太宗は、626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた朔方郡の梁師都を平定し、統一を果たした。更に630年には突厥の内紛に乗じて李靖・李勣を派遣して、これを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった鉄勒諸部から天可汗(テングリ=カガン)の称号を奉じられた。647年には、この地に燕然都護府をおいて鉄勒を羈縻支配においた。635年には吐谷渾を破り、更にチベットの吐蕃も支配下に入れた。ただし吐蕃には度々、公主を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった。

 

内政面においては、房玄齢・杜如晦の皇子時代からの腹心に加え、李建成に仕えていた魏徴・李密の配下であった李勣など多数の人材を集めて政治に当たった。この結果、627年の時に米一斗が絹一匹と交換されていたのが、630年には米一斗が45銭まで下がり、一年間の死刑者数は29人しかおらず、(盗賊がいなくなったので)みな外扉を閉めないようになり、道中で支給があったので数千里を旅する者でも食料をもたないようになったといい、貞観の治と呼ばれる太平の時代とされた。この時代のことを記した『貞観政要』は、後世に政治の手本として扱われた。しかし統一から間もないこの時点で、そこまで国力を回復できたか疑問が多く、貞観の治の実態に対して史書や『貞観政要』の記述はかなりの潤色が疑われる。

 

太宗の政治も徐々に弛緩が見えるようになり、643年に魏徴が死ぬとその傾向に拍車がかかった。

 

642年、高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こし、唐から遼東郡王に冊封されていた栄留王を殺し、その弟の宝蔵王を王位につけた。太宗はすぐに出兵を考えたが、一旦は取りやめる。しかし新羅からの要請を受けて、645年から三度(645年、647年、648年)にわたって高句麗遠征を行うが、いずれも失敗した(唐の高句麗遠征)。

 

三回目の高句麗遠征が終わった後の649年に太宗は崩御。太宗の九男の晋王李治が三代皇帝高宗となった。

 

武周革命

太宗と長孫皇后の間には、李承乾(長男)・李泰(四男)・李治(九男)の三人の男子がいた。最初に李承乾が皇太子に立てられたが、李承乾は成長するにつれ奇行が目立つようになり、最後には謀反の疑いにより廃された。次いで太宗は学問に通じた李泰を皇太子にしようとしたが、長孫皇后の兄の長孫無忌が凡庸な治を次代皇帝に推薦し、太宗もこれを入れて李治が後継に決まった。長孫無忌には、凡庸な皇帝の後見役になることで権勢を振るうという意図があった。

 

高宗の治世初期は、長孫無忌・褚遂良・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた。ここに登場するのが武照、後の武則天である。

 

武照は太宗の後宮で才人だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って昭儀となった。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った。皇后となった武則天により、長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、垂簾の政を行い、武則天は高宗と並んで「二聖」と呼ばれた。

 

この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる。

 

武則天

683年に高宗が死去すると、武則天は高宗との間の子の李顕を帝位につけた(中宗)が、わずか54日でこれを廃し、弟の李旦をこれに替えた(睿宗)。当然、実権は武則天にあり、彼らは武則天が皇位に登るまでのつなぎに過ぎなかった。武則天に対する反乱も684年に起きた。李勣の孫の李敬業が起こしたもので、反乱軍の中に初唐を代表する詩人の一人駱賓王がおり、駱賓王が書いた檄文を読んだ武則天はその文才に感心し、「このような才能のある者を流落させているのは宰相の責任だ」といったという。

 

この反乱も程なく鎮圧され、690年に遂に武則天は帝位に登り、国号を周とした。中国史上唯一の女帝である。睿宗は皇嗣に格下げされて武の性を賜った。

 

武則天の政治は女性が皇帝になったこと、武承嗣・武三思ら武氏一族、薛懐義や張易之・張昌宗兄弟など武則天の寵愛を受けた者たちなどが権力を握って専横したということ、酷吏を使って密告政治を行ったことなどで評判が悪い。一方で武則天は、当時はまだ有効に機能していたなかった科挙から人材を組み上げており、武則天により抜擢された姚崇は後の玄宗時代に活躍し、開元の治を導いたと評される。また武周の15年はほぼ平穏な時代であり、この時代に唐は最大版図を実現している。

 

老いた武則天の後継者として、武承嗣たちは自らが後継になることを画策したが、武則天が最も信頼をおいていた重臣の狄仁傑はこれに強く反対。最終的に武則天の決断により廃されていた中宗が戻り、698年に皇太子に復された。更に705年、狄仁傑に推薦されて宰相となっていた張柬之は張易之・張昌宗兄弟を斬殺し、ついには病床の武則天に迫って彼女を退位に追い込み、中宗を即位させ、唐が復活した。同年に武則天は死去。

 

武則天死後、中宗の皇后韋氏が第二の武則天にならんと政治に容喙するようになった。710年に韋后とその娘安楽公主は中宗を毒殺、殤帝を傀儡とした後、自らが帝位に登らんと画策したが、睿宗の三男の李隆基と武則天の娘の太平公主によるクーデターにより韋后と安楽公主は誅殺され、睿宗が再び即位した。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。

 

2人の皇后の姓を取って、7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ。

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