2023/12/21

唐(5)

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隋末には各地に反乱勢力が割拠します。農民出身者や隋の高官など、反乱勢力のリーダーはいろいろです。そのなかで、混乱を収拾して唐帝国を建てたのが李淵(りえん)(位618626)。この人は隋の将軍、しかも名門軍人でした。

 

 実は隋の楊家と李淵の家は、北魏末に反乱をおこした軍人グループの仲間です。隋を建てた楊堅は北周の軍人でしたね。北周時代は楊家と李家は同僚なんです。しかも李淵の家の方が格が上だった。しかし、楊堅が隋を建て皇帝になってしまったので、李淵はその将軍をやっていたわけ。しかも、李淵と煬帝はいとこ同士です。お互いの母親が鮮卑族の名門貴族、独孤氏の姉妹という関係です。

 

 だから、隋末に李淵が旗揚げをしたときに、隋の官僚や軍人たちには違和感があまりないわけです。北周から唐にかけては、同じ仲間内で皇帝の地位をまわしているようなものです。

 

 というわけで、李淵は旗揚げ後、すぐに長安に入城することができた。隋の統治組織をそっくり手に入れ、ライバルの諸勢力を倒していきました。

 

 唐の建国に大活躍したのが李淵の次男、李世民(りせいみん)です。李淵はどちらかというとボウッとした人で、李世民が親父さんをたきつけて旗揚げしたようなものです。建国の第一の功労者なんですが、なにしろ次男だから皇太子になれない。ついには皇太子である兄を実力で倒して、二代目の皇帝になりました。

 

これが唐の太宗(位626649)です。中国史上、三本の指に入る名君です。かれの治世は「貞観の治(じょうがんのち)」といわれる。太宗の時代の年号が貞観、その貞観時代が平和でよく治まった、という意味で讃える言葉です。

 

 唐の政策は、隋をそのまま引き継いでいきます。大運河の建設が隋時代に終わっていた分、唐はその成果をそっくり手に入れることができて有利でしたね。

 

 政策を整理します。

 

ü  土地制度は均田制

ü  税制は租庸調制

ü  軍制は府兵制。

 

 律令格式(りつりょうきゃくしき)といわれる法律も整備されます。唐は、この律令制度が完成して頂点に達した時代です。

 

 中央官制は三省六部(さんしょうりくぶ)制。三省とは、中書省(ちゅうしょしょう)、門下省(もんかしょう)、尚書省(しょうしょしょう)。

 

中書省は、皇帝の意思を受けて法令を文章化する役所。門下省は、中書省から下りてきた法令を審査します。もし門下省の役人が問題ありとした場合、法案は中書省に差し戻しです。中書省はもう一度、皇帝と相談して法案を練り直さないといけない。だから、門下省は大きな力を持っているのですね。この門下省の役人になったのが、南北朝以来の名門貴族の者たちです。大きな権力を持ってはいるのですが、政府の官僚としての権力に過ぎなくなっているところに注意しておいてください。

 

 門下省の審査を経た法案は、尚書省によって実行に移される。尚書省に属しているのが六部です。吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六つの役所が実行部隊です。 

 

ü  吏部は官僚の人事を司る

ü  戸部は現在でいうなら大蔵省にあたるもの

ü  礼部は文部省

ü  兵部は軍事を担当

ü  刑部は法務省と国家公安委員会を併せたようなもの

ü  工部は建設省

 

 以上のような唐の諸制度は、遣唐使によって日本に積極的に取り入れられました。日本でも大宝律令とかつくるでしょ。唐の律令の影響ですね。役所の名前など、いまだに大蔵省、文部省など、省という呼び方をしているのは、ここからきているんですからね。

 

  対外的には突厥の内部分裂を利用して、これを服属させます。北方西方の諸部族の族長に唐の地方官の官職をあたえ、都護府という役所にかれらを監督させた。唐政府は部族内のことに口出しはしませんから、緩やかな支配といっていい。このような唐の周辺諸民族に対する政策を「羈縻(きび)政策」といいます。羈縻というのは馬や牛をつないでおく紐のことで、紐の伸びる範囲なら自由に活動が許される、そういう意味です。高句麗に対して遠征もおこないますが、これが成功するのは次の皇帝のときです。

 

唐中期の政治

太宗李世民は政治的には成功をおさめるのですが、跡取り問題で悩みます。長男が皇太子になるのですが、この人少し変わっている。突厥、トルコ人の遊牧文化にあこがれているのです。宮殿の庭にテントを張って、家来とそこに住み込む。食事のときは羊の肉を剣にさしたまま、火であぶって食べる。バーベキューですね。家来には弁髪という北方民族の髪型をさせて、かれらとトルコ語で会話をします。

 

 なぜ、皇太子がこんなに遊牧文化にあこがれたかはわかりませんが、もともと唐の皇室李家も鮮卑族など北方民族の血が色濃くはいっています。李世民の皇后も長孫氏という北魏以来の鮮卑族の名門でした。だから、風俗として遊牧民に近いものがあったのでしょう。皇太子の振る舞いは先祖返りかもしれません。

 

 ただ、皇帝としては困るわけ。言動も乱暴なところがあった。そこで、李世民は長男を皇太子からはずして、長孫皇后が産んだ子のなかで一番おとなしい三男を皇太子にしました。この人が第三代皇帝高宗(位649~683)。

 

 高宗は優柔不断なところのある頼りない皇帝でしたが、太宗李世民の基礎づくりがしっかりしていたので、かれの時代になっても唐の支配領域は拡大しつづけます。高句麗を滅ぼすのもかれのときです。

 

高宗は、かれ自身よりも皇后が有名。則天武后(そくてんぶこう)といわれる人です。もともと彼女は李世民の後宮に入っていたのですが、息子の高宗がみそめた。親父が死んだあと、彼女を自分の後宮に入れました。これは、やはり遊牧民的な行動です。息子が父親の妻を自分のものにするなんて、儒教文化ではありえませんからね。遊牧民では普通にあることなのです。女性を自分の妻とすることで扶養するのね。もちろん産みの母親を妻にはしませんよ。

 

 則天武后は高宗の愛を独占して、皇后の地位に登りつめます。彼女は頭がきれる。高宗は決断力のない人ですから、政治向きの相談を彼女にする。則天武后はそういうときに、実に的確な指示をするのですよ。やがて、高宗は彼女なしでは政務ができないほどになる。朝廷で役人に会うときに自分の後ろに簾をたらしておいて、その裏側に則天武后を座らせておく。高宗が判断に迷うと則天武后が簾の後ろからどうしたらよいか、そっと耳打ちしてくれるという寸法です。

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