2023/12/13

唐(4)

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武韋の禍

683年に高宗が亡くなると武太后の子供4代目皇帝、中宗が即位した。しかし武太后は野心を露にし、わずか54日で中宗を廃位させ、自らの傀儡である5代皇帝睿宗(えいそう)を即位させて自ら政治を執るようになった。武太后は皇帝候補である自らの子供達を次々と殺害していき、690年ついに武太后は自ら皇帝になり唐の国号を周と改めた。武周革命による武則天(則天武后)の誕生である。

 

武則天は漢の劉邦の妻、呂后、清末期の西太后と並び中国三大悪女とか呼ばれる程で、自らの反対者を次々と粛正していった。しかし、武則天には人を見る目があったのか腐敗した役人を排除し優秀な官吏を次々登用し、更に農業を進めるように水利工事を行い農業を発展させたため、宮殿の混乱とは裏腹に社会や経済は発展した。

 

この特徴は呂后政権にも見られることである。(西太后は贅沢ばっかしてたので反乱が多発し、清朝にとどめをさした)。粛正や政治権力の乗っ取りは男なら数多くの皇帝や政治家が行っているが、呂后や武則天だけ悪として伝わるのは、直接的女性権力者の数が少ないこと、儒教文化の影響があるなどが理由とされている。また武則天は新しい則天文字というものを作り、日本にも渡ってきたがいまいち広まらなかった。唯一、日本にも残る則天文字は、水戸黄門で有名な水戸光圀の「圀」の字である。これが実は則天文字なのだ。

 

女性皇帝として権勢を誇った武則天であるが、しかし705年に病に伏した武則天に対して、宰相の張柬之(ちょうかんし)が軍事的脅しを背景に退位を迫り、中宗が二度目の即位をして唐王朝は復活した。同年11月、武則天は崩御し、周王朝の皇帝として夫であった高宗の隣に葬られた。

 

皇帝に返り咲いた中宗であるが、その執政は妻の韋后のいいなりであった。中宗に政治能力はなく、政治は乱れるばかり。韋后に反対するものは大臣でもすぐに殺されてしまった。農村では、家も田畑も捨てて逃げ出す者が続出した。韋后はとうとう中宗を毒殺し、武則天を見習って自ら皇帝につこうとするも、中宗の甥の李隆基に710年に反乱を起されて殺されてしまった。武則天と韋后の二人の女性が政治権力を握ったこの時期を二人の名前からとって武韋の禍と呼ぶ。

 

開元の治

韋后の死後、李隆基の父の睿宗が二度目の皇帝位につき、その2年後712年、李隆基は玄宗として即位した。玄宗は元号を開元とした上で政治改革を次々と行った。玄宗の政治を支えたのは、武則天に見いだされた姚崇 (ようすう)や宋璟(そうえい)などの政治家や、科挙出身の張説(ちょうえつ)や張九齢などの役人達であった。

 

717年には吉備真備や阿倍仲麻呂、僧侶の玄昉(げんぼう)を含めた557人もの遣唐使が日本からやってきた。この頃から、大和から日本に国号を改めたとされている。その3年後、阿倍仲麻呂は唐の役人として玄宗皇帝に仕えることになり、朝衡と名乗るようになった。また詩仙、李白とも交友を持った。玄宗皇帝の治世は開元の治と讃えられ、千里の旅をするのに短剣一ついらないと言われるほどの平和を見せた。

 

しかし742年に年号を天宝と改めた頃から、様々な問題が表出するようにった。安西の辺境では突厥の攻撃が激しくなり、それに対抗して現地で兵を募集するために節度使に徴税権を認めた。こうして中央政府の府兵制は崩れて行き、かわって兵を募集する募兵制が行われるようになった。

 

徴税権は国家の非常に重要な主権である。それを節度使に認めてしまったことにより、節度使は独立勢力としての基盤を固めてしまった。この中でも、特に権勢を誇ったのは安禄山であった。安禄山は父はソグド人、母は突厥人という国際人であり、最も重要な役目を担う北京周辺の3つ(平廬、へいろ・范陽・河東)の節度使となり、玄宗に取り入っていた。この時に安禄山は胡人の踊りと、赤ん坊がオムツを替えられる時のモノマネが大受けしたという逸話もある。

 

その頃、玄宗は60歳を越えており政治に倦み始めていた。そんな中、玄宗は皇太子寿王の妃、楊玉環に夢中になり、自らの後宮に入れて寵愛した。これが、かの有名な楊貴妃である。玄宗は離宮の華清宮に楊貴妃のために立派な温泉を作り、楊貴妃の一族をとりたてていった。その中でもひときわ出世したのが、またいとこの楊国忠であった。

 

所かわって、この頃西域から中央アジアでは、イスラームの勢力が勃興していた。唐の西域を守っていた安西都護の高仙芝(こうせんし)は、中央アジアでの勢力の拡大を狙っていたが、これを嫌った西域の諸都市はアッバース朝に助けを求めた。651年、アッバース朝と唐軍がタラス河畔(現在のカザフスタン)で激突した。この時、高仙芝の支配下にあった遊牧民のカルルク族が背いたために唐は大敗する。こうして唐は西域での勢力を減らしてしまうが、アッバース朝が獲得した捕虜から製紙法が伝わるなどの東西交流も発生した。

 

安史の乱

755年には、とうとう安禄山が楊国忠排除を名目に挙兵する。安禄山率いる西方イラン系や北方遊牧民族からなる強力な騎馬軍団は、あっという間に洛陽を陥落させ、756年安禄山は大燕を建国して皇帝を名乗った。その後、安禄山は長安に兵を進ませたために、玄宗は蜀の成都に移動するも、その途中で楊国忠は殺され部下の勧めにあって楊貴妃も死を賜った。これにショックを受けた玄宗は、そのまま退位して成都に向かい、皇太子の李亨(りこう)が粛宗として皇帝となった。この時代の戦乱を詠ったのが、教科書にも載っている杜甫の春望である。「国破れて山河あり」のあれである。

 

そんなこんなしているうちに、図に乗って部下をいじめていた安禄山が息子の安慶緒に殺されてしまう。粛宗は名将軍の郭子儀を派遣して757年には長安を奪還したが、反乱軍は安禄山の部下であった史思明がリーダーとなり勢力を保ち唐と戦い続けた。結局、唐軍はウィグルの騎馬軍団の力を借りて反乱軍を討伐させる。この反乱は、安禄山と史思明の名前をとって安史の乱と呼ばれた。

 

長い戦乱で疲弊した財政の回復と、ウィグルへの莫大な報酬を払うため758年、政府は塩の専売をはじめた。また、崩れてしまった均田制の代わりに、個人の土地の所有を認めて、その上で土地の生産力に応じて夏と秋の二回、銅銭で税金を支払う両税法を公布した。更に茶、塩、酒などを国の専売にして重い税をかけ、その他にも様々な名目で国民に重税を強いた。

 

滅亡

874年、塩の密売人王仙芝(おうせんし)が数千の農民を率いて山東で反乱を起こし、翌年には同じく塩の密売人であった黄巣が加わり、ここに黄巣の乱が発生した。農村地帯では、日照りやイナゴの影響で農民は飢えに苦しんでいたので、反乱軍はあっという間にその数を増やして行った。その中で一人の人物が台頭していく。名は朱温、後の朱全忠である。

 

878年には王仙芝が戦死するも880年に反乱軍は洛陽を占領し、同年長安まで攻め込み、時の皇帝僖宗を四川へと敗走させる。黄巣は長安で皇帝を名乗り、国号を大斉とするが、唐の援助要請に応じた突厥の沙陀族の族長である李克用と、唐に寝返った朱全忠の反撃にあい、884年に一族と共に自殺。ここに黄巣の乱は終わったが、この後に李克用と朱全忠が激しく争い、907年には朱全忠が唐皇帝から位を譲り受けて後粱を建てて、ここに建国以来290年続いた唐王朝は滅んだ。この後、他の節度使が各地で国を起こし、後梁も滅んで行くという五代十国時代が始まる。

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